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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > 彫刻カタログ 凡例 石崎勝基 ドガ展 図録 1988

彫刻:凡例

現存する74点のドガの彫刻を照合するために、現在3種類の作品リストが用いられている。

1・ブロンズ番号:Br.として英文データの部分に記す。

ドガの死後、アトリエに残されていた蝋ないし粘土による彫刻は、アトリエの目録を作成した画商デュラン=リュエルからドガの友人であった彫刻家バルトロメに託され、それらはアドリアン・A・エブラールとその鋳造工房の監督であったアルビーノ・パラッツォーロによってブロンズに鋳造された。1921年にロワイヤル通りのエブラールの画廊でドガのブロンズが展示されたが、その際のエブラールの説明によると、72点の蝋ないし粘土の原型から22組のセットが、シール・ペルデュ法(ロスト・ワックス法、蝋型鋳造法)によって鋳造された。各作品には1から72までの通し番号が当てられ、全セット中20組にはアルファベットのAからTまでの文字がつけられている。この20組は市場での売買を目的としたもので、このほかに鋳造者用に1組,ドガの遺族用にもう1組が鋳造されたという。それゆえ市場に出たドガのブロンズは、それぞれアルファベットと原型の番号からなる固有番号,そしてドガのサイン、鋳造者印(cire perdu,A.-A.Hébrard)を記銘されていることになる。

73点目の《14歳の小さな踊り子》(cat.no.S-9)は、以上のセットの後に鋳造され、元来アルファベットのセット番号もアラビア数字の作品番号も記されていない。1921年の彫刻展の際には蝋のオリジナルが出品された。鋳造された点数は一般に他の作品と同じ22点とされてきたが,メアリー・カサットは1918年および1920年の手紙で25点と記している(Paris 1988,no.227解説参照〉。74番目の《女学生》(cat.no.S-10)は、さらに後にまず5点、1956年に蝋の原型がネドラー画廊にわたってから20点鋳造されたもので、やはりエブラールのブロンズ番号は記されていない。

ただし,鋳造者用および遺族のためのセットに記されたHER(‘héritier’)あるいはHERD(‘héritier Degas’)という記号は混乱しており、さらに、工程の上で蝋ないし粘土の原型と市場に出たブロンズとの間を仲介する〈モデル〉がその後姿を現わしたため、1921年以来のブロンズ番号の利用には補足が必要になっている。〈モデル〉にはパラッツォーロのイニシャルが記されている。なお,ブロンズのうちでは、〈モデル〉がもっとも原型に近いとされている。

2.エブラールの展示番号:Ex.として英文データの部分に記す。

1921年のエブラールの画廊におけるドガの彫刻の最初の展覧会のカタログ(ポール・ヴィトリーの序文)では、73点の作品は主題別に配列された。これは以後の分類の基本となる。

no.1-37 舞踏あるいは踊り子

no.38-54 馬

no.55-68 女性

no.69-72 その他の主題

no.73 《14歳の小さな踊り子》

《女学生》はここには含まれていない。

3・ジョン・リウォルドのカタログ番号:R.として英文データの部分に記す。

ドガの彫刻に関する最初のまとまったモノグラフイーであるリウォルドの著作(1944年初版、1956年再版)に付されたカタログでは、エブラール/ヴィトリーの分類を尊重しつつ、制作年代順による配列が試みられた。ただしドガの生前に発表された唯一の彫刻作品である《14歳の小さな踊り子》をのぞけば、制作年の確かな作品は皆無であるため、年代の推定はおおまかに三つの時期に分けられている。

no.1-20 1865-1881年

no.21-48 1889-1895年

no.49-73 1896-1911年

《女学生》には番号も制作年も記されていない。

リウォルドの年代推定は、書簡・証言それに絵画作品等の2次資料によって定めることができるものを基準にしつつ、おおむね以下のように想定された様式の変遷に基づいている。すなわちドガの彫刻は、その姿勢においては単純で安定したものからより複雑な空間を展開するものへ、表面の処理に関しては平滑で再現性の高いものから指のタッチを残したものへと移り変わっていくというのである。

リウォルド以後、ドガの彫刻のリストとしてたとえば、F.ミネルヴィーノ編の“Tout l’oeuvre peint de Degas”(1970年)に付されたカタログはエブラール/ヴィトリーの配列を用い、1986年にフィレンツェのパラッツォ・ストロッツィほかで開催された“Degas scultore”展のカタログではブロンズ番号にのっとっている。そしてこの両者はいずれもリウォルドのカタログ番号を掲載していない。リウォルドの年代設定を変更する議論がいくつか提出されたこととは別に、これは何よりも、制作年代の決定が総じて推測以上に出ず、何ら確実な基盤を有していないためであろう。

本カタログは基本的には、主題によるグルーピングを尊重しつつ,おおまかに様式の変化にしたがって年代順にリスト・アップするというリウォルドの方針に従うものである。ただし、彫刻と類似したモティーフを有する絵画と照合することで年代を推定する方法に対しては、ドガが同じモティーフを連作として長期間取り上げたこと、また一つの作品にくりかえし手を加え、それが時には長い間隔を置いてからであったことなどから、必ずしも決定的とはいえないことが指摘されている。さらに、書簡や証言に基づくことも、現存する彫刻が、ドガが制作した点数のうちごく一部であると考えられることから、資料に述べられている作品が現存するものに該当するかどうかに疑問を抱く論者もいる。さきに触れた彫刻の様式の変遷についても、それがある時期の様式全般にあてはまることなのか、それとも単に準備と仕上げという制作段階の差に負っているのか、たやすく決定することはできまい。以上の点から、現時点での年代配列の試みは、暫定的なものにならざるをえないことを留意しておかなければならない。

ドガが制作した蝋ないし粘土の原型はながらくその行方が知られていなかったが、1955年にエブラールの鋳造所の倉庫から発見され、アメリカに渡り、ポール・メロンのコレクションに入った。現存する蝋ほかの原型は69点で、ブロンズに鋳造されたもののうち残り5点は鋳造の際破壊されたという(cat.nos.S-41,50,65,66,72)。ドガのアトリエから発見され、鋳造するに耐えないと判断された彫刻の消息は不明である。メロンはその後、4点をルーヴルに寄贈し、16点はワシントンのナショナル・ギャラリーに寄託している。リウォルドのカタログの再版には、原型が発見され、アメリカに渡る以前になされた調査に基づく記述が挿入された。注意すべきことに、1917-18年デュラン=リュエルがアトリエの目録作成の際撮影した46点の写真からわかるように、ドガのアトリエに残されたオリジナルとメロン・コレクションでの現状とでは一致しない場合がある。本カタログではリウォルドの記述に依拠し、若干の補足を加えた。

蝋とブロンズでは当然その与える効果は大きく異なるが、ここで問題となるのは、ブロンズヘの鋳造がドガの死後なされたものであるということである。メアリー・カサットはすでに、《14歳の小さな踊り子》の蝋のオリジナルを購入することを望んでいたルイジーヌ・へイヴマイヤー夫人との関係もあって、ブロンズヘの鋳造に反対していたが、ドガが生前は1点もブロンズ化していないことなどから、鋳造がドガの意図に沿ったものかどうかは必ずしも定かではなく、今日ではむしろ、ドガがブロンズ化を望まなかったと考える傾向にあることを銘記しておく必要がある。

この点に関しては以下を参照:

Gary Tinterow,‘Note sur les bronzes de Degas’, Paris 1988,pp.609-610

Patricia Failing,‘Cast in bronze:the Degas dilemma’,Art News,vol.87 no.1,January 1988, pp.136-141

日本語タイトルと仏語タイトルはエブラール/ヴィトリーのものに基づき“Degas scultore”展カタログが記したものに、英語タイトルはリウォルドのものによる。ただし若干の変更を加えたものもある。

Cat.no.S-10以外は、今回出品されるブロンズはすべてサンパウロ・アシス・シャトーブリアン美術館の所蔵である。

上記以外の略号は、参考文献一覧を参照のこと。

作品解説は,石崎勝基(三重県立美術館学芸・jによる。

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