ドガの作品に見られる日本的造形
───扇面画を中心にして───
中谷伸生
1879年にドガが制作した扇面画≪踊り子たち≫(ルモワーヌ566番;fig.1)は,数多くのドガの作品群の中にあっても,空間の扱いが斬新で,19世紀後半のフランス美術史上において,とりわけ独創的な絵画という印象を強く与えるであろう。この画面では,「中心をずらした構図」,あるいは人物を画面の隅に押しやって中央に大きな空間を据える,ドガ得意の空間描写が見られ,その構図は油彩画≪バーで練習する二人の踊り子≫(1876-77年,メトロポリタン美術館蔵,ルモワーヌ408番)など,彼の他の多くの作品と共通している。しかし,ここで私がとりわけ独創的な絵画であるとあえて主張するのは,この扇面画の全体的な印象並びに細部描写が,扇面形式以外の彼の油彩画やパステル画とは相違する独自の性格を示しているからである。三人の踊り子たちは,舞台の上にいるのか,それとも舞台の隅で休息しているのか,いささか不明瞭に思われるが,それというのも,この画面では,背後の空間が,西洋の伝統的な科学的遠近法に見られる,奥行きのある三次元的な空間構成に基づいて表現されてはいないからである。こうした空間描写は,東洋の水墨画などにしばしば見られる,いわば曖昧で融通がきくとともに,限定されない自由な空間を想い起こさせるに違いない。弧を描く上辺部には,舞台の書割が描かれているのであろうか。いずれにしても,この画面では,オペラの舞台あるいは踊り子の説明的な描写に力点は置かれておらず,ドガの主たる関心は,いわば際限のないゆったりとした空間の「拡がり」の表現に向けられている。つまりこの扇面画では,ルネサンス以降に展開した西洋の伝統的な絵画空間を見出し難いのである。ここでは空間や筆触,それに画面上辺部に銀泥によって描かれた,舞台の書割を暗示するモティーフの配置などが,ドガの作品中にあっても,例外的といえる特異性を覗かせている。こうした空間は,日本や中国の水墨画などに指摘できる平面的な「地」と酷似する。要するに,同時代のピサロやゴーギャンの扇面画が,浮世絵などの思い切った構図を採用しているにもかかわらず,やはり西洋の伝統的な遠近法的空間を基礎にして描かれていることを考えれば,ドガのこうした性格は,独自の領域を開拓していると断言できるのである。 |
fig.1 ドガ 《踊り子たち》 |
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さて,ドガと日本美術の関係については,かつて日本の美術史家,小林太市郎が,1946年に100枚を越える挿図を入れた『北斎とドガ』註1)を出版して,以後の論争の口火を切った。小林は,ドガのパステル画≪盥≫(1886年,オルセ美術館蔵,ルモワーヌ872番)や≪浴槽に入る女≫(1898年,ルモワーヌ1309番)などの入浴をテーマにした作品が,國貞や春信の浮世絵の影響下に制作されたという仮設を立てた。彼は,文献的な裏付けなしに,テーマや構図の類似する多くの作例を挙げて,ドガと浮世絵との比較をいささか強引に行なったため,後に日本の美術史家たちから批判を受けることになる。しかし,こうした批判がなされたにもかかわらず,小林の主張は,説得力のある比較に限ってではあるが,その後,多くの研究者たちによって,より綿密に展開させられることになったのである。たとえばクラウス・ベルガーは,その著『1860年から1920年にかけての西洋絵画における日本趣味』の中で,当時パリで画商を営んでいた林忠正がドガに贈った清長の≪女湯≫とドガの≪盥≫との類似,あるいは歌麿の入浴図とドガの≪入浴≫(1890年頃,メトロポリタン美術館蔵,ルモワーヌ1031番bis)を指摘し,註2)またジークフリート・ヴィッヒマンは,『日本趣味』において,既述の≪盥≫と北斎漫画の入浴図とを比較している。註3)これらの比較検討も,大きくみれば,小林説の継承と展開と考えてよかろう。この観点からいえば,批判された方法上の問題にしても,決定的な文献資料が発見されない現状からいって,そしてまた1946年発表の先駆的な研究という点を考え合わせても,さまざまな箇所で古くなったとはいえ,テーマと構図によって,ドガと浮世絵とを比較検討するという構想を練った小林の業績は,特筆に値するものである。その指摘が今日でも有効であると思われる一例として,≪観覧席の前の騎手≫(1866-68年,オルセ美術館蔵,ルモワーヌ262番)を挙げることができよう。その画面中央の奥には,左方向へ駆けていく暴れ馬と騎手が小さく配置されているが,小林説によると,この人馬の形態は『北斎漫畫』六編に収録された≪調馬圖≫から採られているという。この指摘は両図を比較してみれば,きわめて説得力のあるもので,日本美術の影響を隠蔽し通したドガの作品にあって,いわば馬脚を現したとでもいうべき,数少ない作例のひとつである。この点については,馬渕明子氏なども小林の見解に注意を促している。註4) ところで,こうしたドガと浮世絵との比較研究は,それなりに興味深い成果を挙げているにしても,影響を受けた作品の痕跡を巧妙に隠すドガにあっては,どこまで検討しても,曖昧さをぬぐい去ることができないのも事実である。たとえば,ドガの油彩画≪カフェにて(アプサント)≫(1875-76年,オルセ美術館蔵,ルモワーヌ393番)は,手前に配置されたテーブルがジグザグの線を強調していることなどから,構図の上で浮世絵の影響があると,多くの研究者によって指摘されており,おそらくその可能性は高いと思われるが,きわめて潔癖に考えれば,そうした見方もやはり推測の域を出ないはずである。 本稿では,こうした構図の類似という観点をひとまず脇に置いて,ドガの作品に直接見てとれる「日本的造形」という問題に論点を絞り込むことで,ドガと日本美術との関係を,新たな角度から整理してみることにしたい。 さて,19世紀後半におけるヨーロッパの日本趣味は,マネの≪エミール・ゾラの肖像≫(1868年,オルセ美術館蔵),モネの≪ラ・ジャポネーズ≫(1876年,ボストン美術館蔵),あるいはゴッホの≪タンギー爺さん≫(1887年,ロダン美術館蔵)や,ホイッスラーの≪紫と薔薇色≫(1864年,フィラデルフィア・ジョンソン・コレクション蔵)などの絵画に典型的に表されており,そこでは日本の着物,団扇,浮世絵,屏風に描かれた役者や花魁,相撲取り,といった具合いに,日本の風俗がそっくりそのまま画面に描かれている。これと同様の表現は,ドガの場合には皆無といえるほどで,例外的に≪ティソの肖像≫(1867-68年,メトロポリタン美術館蔵,ルモワーヌ175番)の背後の壁に,日本のテーマを扱ったと推定できる絵画が掛かっているのを見出すことができよう。シオドア・レフはこの横長の絵画を採り上げて,浮世絵を下敷にした近代の模写のようなものではないかと述べている。註5)画面全体の雰囲気を見る限り,この画中画は純粋に日本的な特徴を示しているというよりも,むしろ日本の風俗を西洋人が模写した絵画のように思われる。また,レフは≪版画愛好家≫(1866年,ヘイヴマイヤー・コレクション蔵,ルモワーヌ138番)の背後に掛けられた額の中に,日本の「端切れ」が挟まれていると注意を促しているが,註6)アンリ・ロワレットはその説に疑問を抱いている。註7)蛇足ながらこのモティーフを素直に見る限り,日本の端切れと言い切ってしまうには,少々抵抗があるが,かといって完全に否定し去ることもできない,といった歯がゆい見解に留まらざるをえないであろう。 さて以上に述べたように,彼は,当代の他の画家たちとは異なって,作品の中に,日本の風俗やモティーフを直接採り入れるということを意図的に避けたようである。ところが1878年から85年頃,とりわけ1879年を相前後する時期,ドガは冒頭で述べた扇面の制作に突如としで情熱を注ぐようになる。それ以前の1868年から69年頃,彼は3点の扇面画を描いているが,≪スペインの踊り子と楽土たち≫(1868年頃,ルモワーヌ173番;cat.no.19)に見られるように,モティーフはスペイン風俗で,いわゆる日本趣味を示す作品ではない。これらの作品は,フランスにおいて1830年代より流行したスペイン趣味に基づく扇面画である。ここでは扇形の画面内に,スペインの風俗が遠近法を駆使して描出されており,その三次元の空間把握は,1879年以降にドガが制作した,平面性を前面に出す扇面画とは対照的なのである。 1879年におけるドガの扇面画に対する深い関心は,この年に開かれた第4回印象派展で,彼が扇面画だけの展示室を提唱し,自ら5点の扇面画を出品したことからも充分に窺い知ることができよう。この時期のドガが扇面画をはじめとする日本美術に興味をもった理由のひとつとしては,まず,1878年のパリ万国博覧会の開催を挙げておくべきかも知れない。日本はこの博覧会で非常に人気を集めた国だと推定されているが,その際に東洋美術展示場には,日本美術のコーナーが設けられ,若井兼三郎,フィリップ・ビュルティらが出品した陶器や染織など種々様々な日本美術品,またビング・コレクション,ヴィアル・コレクション,ギメ・コレクション,さらに日本政府による出品作品など,古美術や工芸品を大量に含む日本の作品が紹介されている。註8)万国博覧会がドガに与えた影響を推し量ることは難しいが,ヴィッヒマンは,ドガがこの博覧会において数多くの扇面画を見たに違いないと主張している。註9)さらに周知のことと思われるが,この博覧会開催にあたって,エルネスト・シェノーが,美術雑誌『ガゼット・デ・ボザール』の1878年9月号に,「パリにおける日本」と題する論文を掲載して,日本の絵画や工芸品を仔細に紹介したことも記憶に留めておくべきことであろう。加えて,1982年に興味深い論文「ドガの扇面画」を執筆したマルク・ゲルスタインが詳細に言及しているように,日本の扇が展示された1867年の万国博覧会などをきっかけにして,1870年代および80年代には,日本の扇が大量にヨーロッパに輸入されることになり,パリの街でも数多くの工芸品としての扇が出回ったといわれる。註10)また,ドガは日本の扇を蒐集していたビュルティと知合いであって,二人はカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌの常連客でもあった。さらにゲルスタインによると,この時期にドガが扇面画を制作した理由のひとつに,生活費を稼がねばならない差し迫った経済的問題があったということである。註11) |
1 | 小林太市郎『北斎とドガ』,全国書房,大阪,1946年。 |
2 | Klaus Berger,Japonismus in der westlichen Malerei 1860-1920, Prestel-Verlag,München,1980,pp.68-70. | |
3 | Siegfried Wichmann,Japonisme, Chene/Hachette,Paris,1982,p,28. | |
4 | 馬渕明子「ドガ観覧席の前の騎手」(作品解説),吉川逸治編『ルーヴルとパリの美術』所収,小学館,東京,1986年,p.104. | |
5 | Theodore Reff,Degas:The Artist's Mind, Harvard University Press,Massachusetts,1987,pp.104-106. | |
6 | Ibid.,pp.98-99. | |
7 | Galeries du Grand Palais,Degas,Réunion des musées nationaux,Paris,1988,p.122. | |
8 | 大島清治『ジャポニスム──印象派と浮世絵の周辺──』,美術公論社,東京,1980年,pp.121-122. | |
9 | Wichmann,Japonisme, op. cit.,p.164 | |
10 | Marc Gerstein,“Degas's Fans”, Art Bulletin, LXIV:1, mars 1982,pp.106-107. | |
11 | Ibid.,pp.107,109. |
いずれにしても,日本美術,とりわけ浮世絵ではなく,屏風や掛幅あるいは工芸品などの造形をより多く採り入れたと推定されるドガの扇面画は,その表現法において,きわめて興味深い問題を提起している。たとえば扇面画の≪バレー≫(1879年,メトロポリタン美術館蔵,ルモワーヌ457番;fig.2)では,踊り子たちの姿は,いわば逆光にされたかのように,暗い背景に埋没するほど黒く描かれている。彼女たちの姿は,金泥によって輪郭線が引かれることで,ようやく識別できるのみである。周囲の書割装飾も銀泥を使って描かれているため,画面全体の印象は,琳派の屏風絵,あるいは黒漆地に金銀泥で描いた漆器を想い起こさせる。この点に関する近年の研究によれば,ドガが尾形光琳あるいは琳派の作品を間違いなく知っていた,という指摘がなされている。註12)いかなる根拠に基づいてこの指摘がなされたのか,私は寡聞にしてその詳細を知らないが,確かに,ドガの扇面画は,たとえば琳派の光瑳が制作した扇面画≪檜図≫(17世紀初頭,大阪,逸翁美術館蔵;fig.3)などの作品を想起させる要素を含んでいる(fig.4参照)。また俵屋宗達が描いた扇面貼交屏風の中の金地着色による扇面画≪伊勢物語図≫(17世紀初頭)や,扇面散屏風の中の≪牛追図≫(17世紀初頭,京都,醍醐寺蔵;fig.5)などと,空間の捉え方やモティーフの形態,およびそれらの配置の仕方,さらにその装飾的性格が,実際のところよく似ているのである。1878年11月28日のエドモン・ド・ゴンクールの日記を読むと,日本画家渡辺省亭が,ビュルティの家で,水墨画風の筆遣いによって,作品制作の実演を行なったことが詳細に記されている(本カタログ荒屋鋪透論文を参照)。既述のように,ビュルティとドガとは懇意であったことから,この席にドガが居た可能性が無いともいえず,ゴンクールのこの日の記述はきわめて重要である。このときに省亭は,水分をたっぶり含んだ筆で,「ぽかし」,「滲じみ」,「たらしこみ」といった日本の水墨画の伝統的な技法を,あますところなく披露した。註13)この出来事と突き合わせて,興味深く思われるのが,たとえば本稿の冒頭七採り上げたドガの≪踊り子たち≫であろう。というのも,この扇面画では,踊り子たちの形象においても明白となっているように,ドガの本領とでもいうべき鋭く正確な線描による輪郭線が,ことごとく排除されているからである。あたかも東洋の水墨画のように,やわらかさや潤いを豊かに含んだ筆遣いは,いたるところで,滲みやぼかしの効果を示しており,濃淡によってむらのある絵具の層をつくりだし,その筆触で対象を表現しているのである。たとえば日本の美術史家,源豊宗氏が,輪郭線を否定する宗達の絵画を指して,ほのぼのとしたやわらかさを示す「縹渺性」があると説明しているが,註14)ドガのこの作品にも,宗達の代表作≪蓮池水禽図≫(17世紀初頭,京都国立博物館蔵;fig.6)などの水墨画と類似する特質が見てとれる。もちろん,こうした技法は,一面において,西洋の水彩画の技法と共通するものであって,単純な比較は慎むべきであろう。けれども,絹地に金銀泥という素材や筆触,また空間の扱いなどを含めて考察すると,この扇面画を描くに際して,ドガが日本の水墨画や屏風絵あるいは扇面画などを意識していた可能性は高いと考えるべきであろう。加えて,絹地にグワッシュで描かれた≪ファランドール≫(1879年頃,ルモワーヌ557番)においても,画面上辺部に見られる海老茶色の樹木に似た形象などは,水墨画でいう「滲じみ」の効果に酷似したものである。 1878年から85年にかけて,ドガは22点の扇面画を描いた。従来は,いささか過小評価されがちであったこれらの作品は,彼の芸術の興味深い側面を明らかにするとともに,その日本趣味を解明するためにも避けて通れない重要な作品だと思われる。素材や技法をも含めて,ドガが日本美術の造形をはっきりそれと分かるやり方で採り入れて作品制作を行なったのは,後にも先にもこれらの扇面画においてのみ,と言い切ってよいであろう。 (三重県立美術館学芸課長) |
12 | Galeries nationales du Grand Palais(Paris)et Musée national d’art occidental(Tokyo),Le Japonisme, Réunion des musées nationaux,Paris,1988,p.186. | fig.2 ドガ《バレー》 fig.3 光瑳《檜図》 fig.4 ドガ《舞台の大道具》 fig.5 宗達《牛追図》 fig.6 宗達《蓮池水禽図》 |
13 | Edomond de Goncourt,Journal, mémoires de la vie littéraire, 4 vols.,Flammarion,Paris,1956,vol.2,pp.1270-73. | ||
14 | 源豊宗『日本美術の流れ』,思索社,東京,1976年,p.178. |