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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1988 > ドガと日本 陰里鐵郎  ドガ展図録 1988

ドガと日本

陰里鉄郎

「ドガと日本」と題した本稿の主題は,近年,大きな注目を集めているジャポニスム,ドガにおけるジャポニスムに関してのことではない。ドガにけるジャポニスムについては,別の二つの論文(中谷伸生「ドガの作品に見られる日本的造形──扇面画を中心に」,荒屋鋪透「ドガと林忠正──交友についての覚書」)においてそれぞれの視点から論じられているし,また本年(1988年),パリと東京において開催された大規模な展覧会「ジャポニスム」のなかでも取扱われているので,同展カタログを参照していただきたい。本稿では,ドガの芸術,ドガの作品が,過去の日本において(明治以降から昭和初期,1868-1930ころ),どのように紹介されてきたか,その展開の様相をたどること,すなわち,日本におけるドガ受容のささやかな歴史をたどることとしたい。

日本におけるドガは,日本におけるセザンヌ,日本におけるゴッホ,ルノワール,またはロダンといった場合と非常に異なるように思われることをまず指摘しておかねばならないだろう。

日本の近代絵画において,外光派,印象派の受容とその影響が重要な役割を果たしてきたことは論をまたないところであるが,それらのなかで,ドガは偉大な画家ではないと評価されていたわけでは決してないが,セザンヌやゴッホ,ルノワール,そしてロダンといった画家,彫刻家のようには,圧倒的な,または熱狂的な支持者をもつことはなかった。それはドガが,ゴッホに比較しても決して劣ることのない日本美術の愛好者であるにもかかわらず,同時代の日本の美術家,美術愛好家たちは,ごく少数の例外,たとえば林忠正のような人を除いてはドガを充分には理解しえなかったということなのであろう。このことの原因は,受容者としての日本側に多くの問題があるとしても,ドガにも多少の原因があるともいえる。たとえば,セザンヌの場合は,日本へのセザンヌ紹介の最初の人である画家の有島生馬が,1907年のパリにおけるセザンヌ回顧展においてセザンヌを発見し,セザンヌ紹介の論文をいちはやく日本へ送ったことによって日本におけるセザンヌ讃仰がはじまったといえるが,ドガはこうした出会いの機会を提供しようとはしなかったのである。

まずは不完全ながら,日本におけるドガに関する事実をたどることにしよう。

私の限られた管見の範囲でいえば,雑誌その他の文献のうえで,「ドガ」の名を見出すもっとも早い例は(最初とは断定できないが),1902年(明治35)の久米桂一郎が書いた文章においてである。久米の「佛国現代の美術」(『美術新報』誌)は,1900年のパリ万国博におけるフランス美術100年展の報告でもあるが,そのなかで「ドガス,ルノアール,モネ,ピサロ,セザンヌ」といった印象派についてただ1行だけ触れているなかに見出される。久米の場合は,19世紀フランス美術を通観する形で記述されてはいるが,印象派前後に関しては,バスティアン・ルパージュやラファエル・コランなど,いうところの外光派の記述に力点がおかれているように感じられ,印象派については委しくは触れられていない。1900年パリ万国博といえば,このときの日本の万国博事務官長は林忠正であり,荒屋鋪論文でも紹介されているように,この年,ドガは林に宛てて献本を受けた礼状をおくっている。そのなかで「数々の良き思い出……」とあるように,林はパリで美術商,日本美術の紹介者として活躍していた時期(1880-90年代)からドガと旧知の間柄であり,そして1890年代からは確実にドガ作品の所蔵者でもあった。林所蔵ドガ作品については,荒屋鋪論文でも触れている。今回のドガ展を準備する段階で,「日本におけるドガの作品の最初の所蔵者は誰であったか」ということが話題になったが,それは疑いもなく,林忠正であったといえよう。林所蔵のドガ作品がただの1点も日本に残らなかったのは極めて残念なことであった。林忠正は,林の評伝の著者,木々康子氏も指摘されているように,「ドガを尊敬し対等につき合っていた忠正」であっただけによりおしまれる。この林の事業活動の場は,ほとんどパリであり,日本におけるそれは極めて僅かであったためか,林が尊敬するドガについて祖国になにも留めない結果になってしまったのである。というのも,林の日本における僅かな活動のなかには,ヨーロッパ作品の日本への紹介があった。1890年(明治23)の第2回明治美術会展には,参考品として林はフランス絵画23点を出品しており,その後にも行なっているが,それらのリスト(明治美術会展出品目録)をみると,テオドール・ルッソー,フランソワ・ミレー,ギュスターブ・ドレ,ブーダン,シスレー,クールベ,コローといった作品を見出すが,ドガの作品は見出せない。

ドガの紹介文献にもどると,1900年の一桁代(明治33-42)にはほとんど見出せない。時期が日露戦争をはさむ前後の時期であったためかもしれないが,1910年(明治43),画家山下新太郎の一文が認められる(『美術新報』196号)。山下は5年間ヨーロッパに留学滞在してこの年に帰国したのであるが,ドガの紹介者としてよりも,ルノワールに惹かれ,ルノワールを訪問,そして小品ながらルノワールの作品を初めて日本に持ち帰った画家として知られている。山下は,ドガの作品と活動をほぼ正当に叙述し,「今や年令76,眼を病みて失明にも等しき視力にて画を描く事能はざる芙術家のやるせなき熱情を彫像(スタチュー)の上に訴へられ,モンマルトルの画室に独り淋しく毎日舞子の姿を油土を以てつかねて居られるとの事である。彼れも亦遂に世の寵児ではなかった。」と結んでいる。

以後,大正期(1912-26)に入っても,数少ないドガ関係文献の主なるものを列挙すると次のとおりである。

 木下杢太郎訳(Richard Muther) 「外光派論(213)」 1915年2月 『美術新報』 242号/243号
 大隅為三 「エヅガー・ヅガ」 1916年6月 『美術新報』 261号
 高村真夫 「ドガの芸術」 1917年12月 『中央美術』 2-12
 大隅為三 「ドガのアトリエ」 1918年5月 『美術新報』 285号
 大隅為三訳(Paul-Andre(') Lemoisne) 「ドガの彫刻」 1920年3月 『中央美術』 5-3
 大槻憲二訳(Max Liebermann) 「リイベルマンのドガ論」 1925年10月 『アトリヱ』 2-10

上記のなかで高村莫大の文章は,ドガの訃報がつたえられて執筆されたものである。その前文(雑誌記者による)によれば,ドガ死去の報をつたえられたのは『時事新報』10月9日の記事によってであったという。高村は,ドガの死を驚いているが,それはドガが未だ存命であったことに驚いている。そして高村の滞欧時代(1914-16)に見ることの出来た作品の印象を想起しながらドガを語り,「運動の美しき線の律動と構図の目覚しき新しさ」を述べ,構図は日本の芸術に学んだといわれていること,高村自身は類型として北斎を想い出す,としている。具体的な指摘はもちろんないが,ドガと北斎との関連を,画家の直観によってか,いち早く指摘している点は興味深い。これと直接の関係はありえないと思われるが,ドガと北斎については後年(1946),小林太市郎によって詳細な研究がなされている。そして高村の滞欧中にドガの作品が非常な高価でアメリカに購入されているという噂のあったことをもつたえている。

上記のような雑誌掲載文による紹介のほかに,単行図書として 和田三造著『ドガ』1922年4月 発行・日本美術学院のあることを見逃すことはできない。この本は,過去の日本(第二次大戦以前)におけるおそらく唯一のドガについての単行図書であろう。和田三造は,文展第1回展(1907)の洋画部門における最高賞を作品《南風》によって受賞し,1909-15年のあいだヨーロッパ留学の体験をもった画家であるが,本書の内容は,必ずしも平易ではないが,ブランシュ(J.E.Blanche),アレキサンドル(A.Alexandre),ムーア(G.Moor),ユイスマンス(J.-K.Huysmans)といった人たちの論評を随所に引用し,ドガについての網羅的な解説書となっている。

他にも触れねばならぬドガ紹介は印象派関係文献にない訳ではないが,いずれにしても,セザンヌ,ルノワール,ゴッホ,ロダンといった人たちに比すればはるかに少ない。例えば,印象派,後期印象派の紹介として代表的な雑誌といわれている『白樺』にはほとんど見出せないし,ドガの死去直後でさえ,レンブラント,ドラクロワやゴッホ,セザンヌ,ロダンでうずめつくされている。それらをみていると,どこか偏頗な印象をまぬがれない。これは日本の近代美術における西洋との関係を考えるうえで見逃せない問題のひとつであろう。

それでは,ドガの作品そのものにつしミてはどうであったろうか。先に述べたように,日本人で最初にドガの作品を入手したのは林忠正であったが,それは日本で公開されることなく(ごく一部の人たちがみることができたが),林の歿後,ニューヨークにおいて四散した。林コレクション以後のもので,すぐさまわれわれの念頭に浮んでくるのは松方コレクションである。松方幸次郎が美術作品のコレクションをはじめたのは第一次世界大戦(1914-18)の最中においてであったと考えられている。そしてそのコレクションの全貌はいまだにまだ正確には明らかにされていない。1927年(昭和2),金融恐慌のなかで松方の企業は財務整理に迫られ,私財によってなされたのであったが,散逸を余儀なくされた。その時でさえコレクションの大きな部分は,理由は不明であるがヨーロッパに残されたままであり,ロンドンにおかれていた作品群は,倉庫会社パンテクニカンの火災(1939)によって消失したといわれている。かくして,松方コレクションの当初の状態は,その全作品点数,内容ともに正確にはわれわれにつたえられないままになっているのである。われらがドガの作品は含まれていたのであろうか。あの《マネとその妻》(現・北九州市美術館蔵)は間違いなく旧松方コレクションであって,この作品をドガはその死(1917)まで自分の手元においていたこともたしかである。松方幸次郎は林忠正につぐ日本人のドガ作品所有者であったと考えてよいであろう。

コレクションとは別に,展覧会をとおして日本で紹介されたドガ作品はどうであったろうか。

1922年(大正11)5月,東京において「佛西現代美術展覧会」という展覧会が開かれている。この展覧会は,以後数回(第6回展までか?)にわたって開催されることになり,その第1回展となった訳であるが,日本におけるヨーロッパ現代美術を紹介する展覧会としては,まさに画期的な事件となった。有島生馬は後に『デ氏の業績』の中で次のように書いている。

今日から顧みても第1回展の内容の充実してゐたことは勿論であるが,白樺社へロダンの小胸像が来てさへ大騒ぎしてゐた頃の事であるから実に驚異に値しだのであった。誰れが突然かかる大展覧会を東京や大阪で観覧し得ると期待していたらう。これは一つにまたデ氏がよく日本の生活状態なり,経済事情なりを審かにしてゐず,東京と巴里とを略ぼ同等に考へた結果であつたらうが,デ氏にそういふ考へを起こさせた一つの有力な原因は松方幸次郎氏のコレクションが預かつて力があると云わねばならぬ。松方コレクションは云ふまでなく一つの例外である。然しデ氏は之をもつて日本美術界を計る一つの目安としたに相違ない。

ここで「デ氏」と記されているのは,フランス人エルマン・デルスニス(H.Da(')elsnitz)のことである。この展覧会は,あるいはもとは政府レベルでの日佛現代美術交換展の計画に端を発していたのかもしれない。その故もあってか当時のフランス大使ポール・クローデルや黒田清輝にの年,帝国美術院長に就任)がこれの実現に尽力している。それはともあれ,この第1回佛蘭西現代美術展以後,昭和の初期まで(1922-27)に,デルスニスのほかヴィルドラック(フランスの詩人,美術評論家)などによって日本でのフランス美術展に出品されたドガの作品で,これまでにカタログ類で確認することのできたものをあげると次のとおりである。

 
  1. 踊り子(水彩)第1回佛蘭西現代美術展(No.131922.5.1-5.31)(fig.1)
  2. 踊り子(デッサン)大阪・朝日新聞社主催
  3. 踊り子
  4. 浴後の化粧
  5. 浴後
    【3,4,5:佛蘭西現代水彩素描版画展(No.53,54,55 1924.5.18-6.7)】
  6. 踊りの楽屋(パステル)(fig.2)
  7. 踊りの名手(彫刻)(fig.3,cat.no.S-9)
    【6,7:第3回佛蘭西現代美術展(1924.6.1-6.29)】
  8. 横向きの踊り子(デッサン)
  9. 顔の習作(デッサン)
    【8,9:日佛芸術社第1回展(1925.2)】
  10. 踊子(パステル)(fig.4)
  11. 化粧する女(デッサン)
  12. 安楽椅子に横たわる女(パステル)(fig.5)
  13. 肖像
  14. トルソ(彫刻)(fig.6)
    10,11,12,13,14:第4回佛蘭西現代美術展(日佛芸術社主催,No.146,147,148,149,150 1925.9.2-9.23)
  15. 海景(パステル)第6回佛蘭西現代美術展(No.147 1927.3.1-3.31)
  16. 舞踊の楽屋(パステル)10周年記念フランス美術展(No.59,塩原又策蔵 1931.5.1-5.31)

以上のほかにもあるいは出品展示されたドガ作品があったかもしれないが,現在までに稿者が認めえたものは上記のものであった。

 

これらについて附記しなければならないことがいくつかある。 まず,上記の6番と16番の作品は同一のもので,現在はブリヂストン美術館所蔵となっている作品《踊りの稽古場にて》である(fig.2,cat.no.84)。同館の所蔵となった正確な年月は記録されていないが,同館開館(1952年)以前に洋画商西川武郎(兜屋画廊)の手を通して石橋正二郎コレクションに加えられている。1924年(大正13)の第3回佛蘭西現代美術展のあと,塩原又策(三協製薬株式会社社長)によって購入されていたものと思われる。他にこのような例があったかどうかはわからない。この作品はルモワーヌ(P.A.Lemoisne)のドガ作品目録の「1201」であり,同書では「Collection X」となっている。

 

以下,ルモワーヌ著『ドガとその作品』,ブレイム,レフ編著『ルモワーヌ版ドガ全作品目録補遺』に徴しえて判明した作品は次のとおりである。(番号は,本稿の番号)

1=正確に一致する作品はないが,ルモワーヌ「1417」(Quatre danseuses,Pastel,64×42cm, Collection Kahan,Paris)にもっとも類似している(fig.1)

10=正確に一致する作品はないが,『補遺』「146」(Groupe de danseuses,Charcoaland pastel on paper,56×46cm)がもっとも近く,ほとんど同図様(fig.4)

12=ルモワーヌ「992」(Jeune fille e(')tendue et regardant un album,Pastel,99×67cm.Coll.Pellet,Paris.Coll.Thannhausen,Lucerne)(fig.5)

彫刻作品2点も見逃すことはできない。

7=これは「踊りの名手」(Grande danseuse)と題されているが,《14歳の小さな踊子》(Petite danseuse de quatorze ans)である(fig.3,cat.no.S・9)

14=リウォルド著『ドガ,彫刻作品目録』(LI,Woman rubbing her back with a sponge,Torso)で,ブロンズ番号はNo.28(fig.6,cat.no.S-50)

 

この他の作品は,展覧会目録に写真図版が掲載されていないために探索の手がかりがない。

 

このようにみてくると,過去の日本にもたらされたドガの作品15点のうち,1点が幸いにも日本の国内に残存したことになり,その最初の所蔵者,塩原又策氏は日本における3番目のドガ作品所有者であったといってよいであろう。

 

デルスニスにしても,ヴィルドラックにしても将来した作品はそのつど相当に多量であった。したがってその質的内容は必ずしも高いものであったとはいい難く,そのせいもあってかドガの作品について際立った論争も当時にはほとんどない。同じ時期に形成された大原コレクションにもドガの作品は含まれていなかった。ドガについてわれわれが改めて熱い注目をそそぐことになったのは第二次大戦後のことである。その契機が小林太市郎著『北斎とドガ』(1946年刊)あたりにあったとすれば,やはりわれわれはジャポニスムを契機としてドガの作品へアプローチしていったのだともいえよう。しかしドガの世界はそれだけではない。全彫刻作品を含み,多数のデッサン類が展示される今回の展覧会は,過去の日本が見落していたものをわれわれに改めて示してくれるに相違いない。

 

(三重県立美術館長)


fig.1 ドガ《踊り子》
第1回仏蘭西現代美術展


fig.2 ドガ《踊りの楽屋(パステル)》
第3回仏蘭西現代美術展


fig.3 ドガ《踊りの名手(彫刻)》
第3回仏蘭西現代美術展


fig.4 ドガ《踊り子(パステル)》
第4回仏蘭西現代美術展


fig.5 ドガ
《安楽椅子に横たわる女(パステル)》
第4回仏蘭西現代美術展


fig.6 ドガ《トルソ(彫刻)》
第4回仏蘭西現代美術展
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