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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1994 > 鳥海青児年譜 東俊郎編 鳥海青児展図録

鳥海青児年譜

編:東俊郎(三重県立美術館学芸員)

  1. 年譜作成にあたっては、主として練馬区立美術館「鳥海青児展」所収の土方明司編年譜を参照し、編者が適宜増改訂した。
  2. 個別事項のほかに、鳥海青児の画業にかかわる動向を、(*)鳥海青児自身と、(**)それ以外の関係者による記事によって補った。
  3. 引用記事のうち(*)は、題名のみ記し、(**)はその当該年の事頃の場合にかぎって年の表記を省略した。
  4. 展覧会出品当時の作品の題名は現行とちがっている場合がある。
1902年(明治35)
 3月4日 神奈川県大住郡須賀村1226番地(現在平塚市幸町31番地)にうまれる。父力蔵、母アグリ。力蔵の前妻ヤスの子をあわせると九人兄妹の三男となる。本名正夫。

1908年(明治41)6歳
 4月、須賀村立須賀小学校に入学。同28日、父力蔵歿(62歳)。

 *父は「この子は画描きにするのだ」と云つて居たと後年近親から耳にしたが、自分では画が好きだつたり、上手かつた記憶は全然無い。(「小自叙伝」)
 *死んだ父が言つてゐたそうです-こいつは美術学校に入れるんだ-と。画道に心ざす物の誰でもがそうであるやうに、私も物心づく頃から、鉛筆と紙とは一番仲よしの太郎さんであり花子さんだつたのです。(「私の画生活」)

関西大学マンドリンクラブ

1913年(大正2)11歳
 この頃、兄姉の蔵書のなかから田山花袋『一兵卒』、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』『夜行巡査』などをひっぱりだして読む。

 **私が帰郷して、須賀の友達であり、先輩である鳥海謙氏の宅へよく遊びに行ったものだが、其の弟に小学生が居てよく私はせがまれて絵を書いてやったものだが、此の少年が何んと今洋画界の重鎮鳥海青児氏である。(田中竹坪「平塚市須賀の今昔」、『絵』1992年10月号)

1914年(大正3)12歳
 3月、須賀尋常高等小学校尋常科卒業。
 4月、同高等科入学。

1916年(大正5)14歳
 4月、遊行寺の境内にこの年私立藤嶺中学校が開校(2年後に藤沢中学校と改名する)、その第2学年に編入。

1917年(大正6)15歳
 東京美術学校を卒業したばかりの金子保があたらしい美術教師として赴任、その指導で油絵を描きはじめる。「母がよく「お小使ひをやるとすぐ絵具を買つてしまつて、かさぶたみたいな絵を描いて喜んで居る」とこぽして居た。僕の画は図画の教師に「空はプルッシャンに土はライトレットか」と一面受けが悪かつた。中学を出る頃には当時の一流展覧会に入る程度にはなつて居たらしい。卒業の年に一級下の四年生の数名が放校処分になつた。学校当局では鳥海も四年生だつたら放校組だつたと言つたと聞いてぞつとした。よつぽど困つた生徒と見えたらしい。往々にして芸術少年の行動は不良と混同されやすいものらしい。」(「小自叙伝」)
 逗子開成中学生、所宏を知り、その所とともにこの頃、鵠沼に住んでいた岸田劉生をたずねる。
 この頃二科会でマティスの《裸婦》をみる。西洋の絵画をみた最初であった。
 又この頃、遊行寺いろは坂の真徳寺住職の息子吉川清を絵の弟子と称し、その弟子の吉川が又真徳寺のはす向いの真浄院の長男原精一を弟子と称して、お互いの交友がはじまる。

1920年(大正9)18歳
 3月、藤沢中学校を卒業する。三高受験のため芦屋の義兄(姉トキの夫)平林正二郎宅に逗留するが、受験には失敗。
 4月、関西大学経済学部予科に入学。「中学を卒業して僕は画の学校に入りたかつたが、親族会議で大学でも出て会社員になるのが無難と云ふことになつた。僕はその席で飲めぬビールを一杯あふつて「兄姉は俺の踏台だ」と啖呵を吐いて兄姉のしんしやうを痛く害した。母だけはあんなになりたいなら画描きにしては、ともらして居たが、母の頭にある画描きとは旅廻りで襖絵をつまみ銭で描く乞食に等しいものと思つて居たらしく、わが子を捨てる覚悟を母はしたらしい。こんな事態で摂津芦屋に謹厳な義兄がゐたので、三高入学の予定でここへあづけられた。受験準備勉強の目的で関西大学の予科へ入学したのがズルズルと六年卒業迄ゐる結果になつた。」(「小自叙伝」)
 芦屋の平林家に居候しながら、しばしば帰省、故郷ですごす時が多かった。原精一の紹介で茅ヶ崎南湖の萬鉄五郎に会ったのはこの頃か。

1922年(大正11)20歳
 この頃流行していた姓名判断によって正夫を改め、青児となのる。
 関西大学予科修了。大学では授業はほとんど出席せず、絵をかき、道頓堀の寄席にもかよい、又大学の音楽部にはいってマンドリン、ギターを弾いて各地に旅行したりした。

 **鳥海氏の音楽は、マンドリンからギターに移って行った。初歩で甘い音楽から、渋くて深い音楽へと移ったのであるが、氏の画風にもその変化があった。もっとも、マンドリン的画風は、わたくしのみが知っているのかも知れない。学生時代、別に画師もなく、先輩もなく、黙って、苦しんで、努力して、好きだというだけで勉強していったのだから、初めから独自の芸術境を開拓していったといっていい。学生服の上に黒っぽい上っ張りを着、パレット、カンヴァスをもったまま時々訪ねて来る。パレットの上は絵の具を無闇に塗りたくってきたなくしており、上っ張りには、カンヴァスと間違えたかと思うほど絵の具をこてこて塗って猛烈によごしている。「先生!」といってはいって来るが、ドアや、カーテンや、卓上のものなどを汚しはせぬかと思う時もあった。そのころの絵が、色感の甘い、マンドリン的写生画であったのだ。(服部嘉香「音楽と鳥海氏」、『魔法の会』1964年6月号)

1923年(大正12)21歳
 第1回春陽会展の入選者に所宏の名をみつけて刺激をうけ、春陽会に応募することを決意。
 9月、関東大震災

 *画壇にデビューする頃は、フランスからフォーヴィズムが紹介され、日本でも梅原、萬等の諸先輩の作品が私達青年にマチス、ピカソに劣らぬ身近な刺激と方向を与えて呉れて、幸いと黒田清輝以後の日本アカデミックの洗礼を受けないで、どうやら日本フォーヴィズムの流の中に押し出される事が出来た。(「はるかなる亜流」)

1924年(大正13)22歳
 3月、第2回春陽会展に《洋女を配する図》《平塚風景》が初入選。
 6月、関東大震災で破損した校舎の新築がなり、記念美術展がひらかれた。鳥海の他、在校生の原精一、森田勝も出品した。
 8月、金子保ら湘南美術会を設立し、鳥海も会員となる。平塚町小学校講堂で第1回展。賛助出品に岸田劉生、岡本太郎、萬鉄五郎、有島生馬などがいた。
 8月、春陽会若手の川端信一、倉田三郎、斎藤清次郎、土屋義郎、横堀角次郎、三岸好太郎で麓人社を結成、第1回展を村田画廊で開催。

 **「洋女を配する図」、色の趣味が随分変つて居る。きたない様で居て仲々しぶいものだ。品も悪くない。「平塚風景」一寸暗すぎた感じがする。然し人を落ち着かせるところはある。(萬鐵五郎「春陽会入選作一口評」、『中央美術』5月号)
 **鳥海青児君の仕事は之も今年初めて見るが、まだ何処か味感の朦朧としたところはある。然しその朦朧の影に-風景の方の特に素描味を見よ-何か生きたものがあつて、必らず此の作者は特色ある形ちを自然の材から切り出す人であらう、と云ふ事を示す。小生は特に彼を楽しみに考へてゐる。(木村荘八「春陽会入選画に就て」、
『アトリヱ』4月号)
1925年(大正14) 23歳
 3月、第3回春陽会展に《酒場》《山陽下松小景》《赤い橋》が入選。
 4月、第2回麓人社展に《街頭所見》《郊外小景》出品。すでに旧知の横堀角次郎をとおして三岸好太郎や物心両面で麗人社を後援していた木村荘八を知る。
 7月、第2回湘南美術展に《箕面風景》《風景》《静物》《尾張覚王山》《畠》を出品。今回も萬鉄五郎の他、岡田三郎助、満谷國四郎、牧野虎雄、有島生馬らが賛助出品する。

 **社友出品の中では鳥海青児氏の絵がすぐれて立派だと思ふ。かういふ静かな会場でしみじみ味わふといよいよ深い滋味が感ぜられます。(石井鶴三「麗人社展覧会を評す」、読売新聞4月4日)

《酒場》1925年

1926年(大正15、昭和1)24歳
 2月、第4回春陽会展に《果実図》《郊外の道》《楽隊屋》《カイン断想》を出品。岸田劉生より冬莱の号を贈られる。
 3月、関西大学経済学部商業学科を卒業。ただちに上京し、本郷森川町121東大正門前の下宿太平館におちつく。すでに止宿していた横堀角次郎の斡旋による。
 5月、第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に《静物》《箕面之景色》を出品。

 **鳥海青児君は却つてヱッチングに一寸面白い只でないところが偲ばれると思ふが油彩は色味に溺れすぎてゐていけません。君の色味は君の観賞と一緒になる時大いに有力な武器とならうものを、計算を早くして、色味の方にのみ溺れては大損です。(木村荘八「春陽会入選画評」、『中央美術』4月号)

《郊外の道》1926年

1927年(昭和2)25歳
 4月、第5回春陽会展に《志摩的矢湾遠望》《ざくろ》を出品。
 5月1日、深く私淑していた萬鉄五郎死去。

1928年(昭和3)26歳
 4月、萬鉄五郎の遺作がならんだ第6回春陽会展に《芦屋風景》《水無き川》が入選、春陽会賞を受賞する。
 7-9月、北海道旅行をこころみ、三岸好太郎、節子夫妻、森田勝と札幌北海道大学ちかくに宿を借りて滞在。
 10月、三岸夫妻との三人展を札幌丸井呉服店でひらき、《北大構内》《ポプラ》など、札幌風景5点を出品。これは11月、東京三越でもひらかれた。
 11月、第4回麗人社展に《ポプラと洋館》《花》《北大構内》など出品。
 11月、第22回北大黒百合会展(札幌丸井呉服店)に《風景》など3点を賛助出品。
 浅草小島町73に住む。

 **鳥海青児君は灰つぽい茶と緑に独特な滋味をもつた色調の人で、特に今春あたりから画面に重厚さを添へて来た新進である。(足立源一郎「麓人社を観て」、『アトリヱ山2月号)
 **鳥海青児氏、確かさを持ち落付いて居る。人物の色に丈は同感出来ぬが、他は美しい。「水無き川」の中央に橋のあるのはある硬直さを画面に与へて居る。(宮坂勝「春陽会を観る」、『中央美術』6月号)

1929年(昭和4)27歳
 麓人社素描展に浅草スケッチ、裸婦などを出品。
 4月、第7回春陽会展に《裸婦立像》《裸婦》《北海道風景》《ポプラ》《札幌郊外》を出品。ふたたび春陽会賞を受賞。
 またこの頃、欧州旅行を計画し、「鳥海青児渡欧後援面会」をつくって旅費の調達をはかる。
 12月20日、萬鉄五郎とともに鳥海の敬愛深い画家だった岸周劉生死去。

 **鳥海青児君は、錆と雅味とを帯びた独特の表現を持つ、よい天分の人です。これは同君の油絵に、最もよく見へますが、此会の素描にも同じ様な味だ出て居ます。(略)続いて無題と云ふエッチングも、何だか不明瞭なものですが、一種の深みがあります。(小林和作「麓人社素描展評」、『アトリヱ』7月号)
 **鳥海青児の小品「裸婦」「札幌郊外」等、物の表の色でなく裏の色、氏の場合では主観的な渋好みの色を使ふことに依つて一の把握の表現を有効に扶けんとしてゐるのであるが下手をすると一個の色調だけのヴァライエティに終り勝ちのものを氏はそのかなり鋭敏な描法と共によく之を生かしてをる。総じて、この会の若手の作者たちは、所謂手堅い道を歩いてゐる方に属するのであつて領袖連の既に出来上つた触手の鋭い趣味的作画との間には質上の大きな相違のあることを言つて置きたい。この点にまた其等の人々の将来の転向も楽しまれるのである。(志保谷達郎「春陽会展評」、『美之国』6月号)

1930年(昭和5)28歳
 4月、第8回春陽会展に《奈良風景》《橋のある風景》《うずら》《芦屋風景》が入選。無監査となる。
 5月、大阪にいる友人の建築家とヨオロッパに出発。朝鮮半島から満洲を経由、シベリア鉄道でモロゾフ・シチューキン・コレクションをみるためにモスクワヘ。そのあと、中学の同級生でのち法学博士、日大教授となった百々巳之助をベルリンにたずね、2ヵ月滞在する。7月、パリからベルリンに森田勝がでむかえに来た。途中ストラスブルク・ミュンヘンによって義兄平林正二郎(貿易商)をマルセイユにでむかえる。「ミュンヘンでセザンヌの「切り通し」の前に立った時の体のふるえが止まらぬ興奮は、近代画がセザンヌから始まって居る事をはっきり身内に感じさせてくれた。」(「はるかなる亜流」)
 それから、スイスのジュネーヴ、トノン、エビアンと、レマン湖周辺をみて、9月、パリにはいる。「私は日本を発つ前に、自分の仕事をプーサンあたりからフランス絵画の伝統を自分にたたき込んで、仕事をたて直す計画をたてていた。しかし、ルーヴル美術館に通い出して、そんな必要を感じなくなってしまった。と言うのは、セザンヌ以後をのぞいたフランス絵画に興味が持てなかったからだ。そして日本でやっていた自分の仕事がそんなに方面違いでもなかった事に安心感もあって、(中略)漫然と巴里に暮し漫然とルーヴルに通っていた。(「はるかなる亜流」)
 たまたま、アルジェリア占領百年記念行事の一つとして、ドラクロワの回顧展がひらかれていて、これをみた数日後、アルジェリア旅行に出発。「ドラクロアには感心しなかったが、ドラクロアにこれだけ画く気をおこさせたアルジェリアを見に行く気になった」と、は鳥海夫人の談。義兄平林正二郎がアルジェリアで経営する店を頼りにマルセイユからアルジェリアヘ。その後一年半ばかり同地に滞在し、奥地のブリダ、モロッコヘ足をのばす。森田勝がパリからアルジェヘたずねてくる。

 *スケッチブックを持つて、八幡の藪不知のようなカスバ(アラブ地区)をうろつき廻り、つかれるとアラブのカフェーで、アラビア音楽と踊に数時間を過すのが、アルゼリー滞在中の日課であり、唯一のたのしみでもあつた。(「アラブの踊り」)

1931年(昭和6)29歳
 この年パリにもどり、ロートレックの回顧展をみる。
 もう一度アルジェリアにもどる。

1932年(昭和7)30歳
 モロッコを経由してスペインにいたる。サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会のゴヤのフレスコ画、おなじゴヤのプラド美術館にある作品、またキンタ・デル・ソルドの壁画、いわゆる「黒い絵」をみてはげしい衝撃をうけた。「日本を立つ時フランスヘ行ったらプーサンあたりからやり直すつもりがたまたまスペイン旅行で、ゴヤの白黒の怪奇なモノクロームの作品にひどく打たれて、僕はゴヤの勉強のためにプラド美術館に一ヵ月以上通った。ゴヤの勉強が自然にレンプラトを一生懸命見る事になりました。」(「何から何を学んだか」)。「体質が受け入れられる名画こそ、作家の血肉になる作品である。ゴヤは私の生涯に決定的な影響を与えてくれた。ゴヤを発見した後、私はオランダで、レンプラントにゴヤに劣らぬ影響を受けた。ただゴヤよりは幾分距離は遠かった。ゴヤはレンプラントから影響を受けている。私がゴヤからレンプラントを知ることが出来たこと、これは血脈というものであろう。」(「はるかなる亜流」)
 パリを経由してアムステルダムヘレンプラント巡礼に。「夜警」などをみる。ベルギーのアントワープで貿易をいとなむ一方、海老原喜之助はじめ日本人画家のパトロン的存在であり、のち武林文子と結婚した宮田耕三の知己をえる。

1933年(昭和8)31歳
 ミラノ・フィレンツェ・ローマ・ヴェニス・ナポリをめぐり、2月、帰国する。
 4月、第11回春陽会展に滞欧作23点を出品、春陽会会員に推薦される。
 10月、鳥海青児滞欧洋画展(大阪阪急百貨店)。

 **鳥海青児氏の黒い絵が沢山あつたがペニスのスケッチを見て、明るい景色でも皆一様に暗く描く人と思つたが沢山のアルジェリーの風景を見て一種の熱気を感ずることが出来る。(木下義謙「春陽会展評」、『アトリヱ』6月号)
 **しかし今秋の展示作品色彩感覚よりすれば氏の初期にみられた快適な淡緑色は淡緑色としてその濃度を高めるとともに、黒褐の探さのある色調がくはへられ、それにたくみに赤色が点綴されて画面の色調配置がなりたつてゐる。ただ往往にして不消化な白色があらわれるが、その緑色は澄んだ重厚な渋い氏の色彩感覚をしめし、その絢爛をさけた地味な賦彩によつて、愛すべき数多くの小品がつくりあげられてゐる。(田辺信太郎「鳥海青児滞欧洋画展」、『アトリヱ』10-12)

1930年初夏、ベルリン、ウンターリンデにて

1931年、モロッコにて

1931年、アルジェリアにて

ウィーンにて


春陽会時代の独身鳥海

結婚当時の鳥海
(きよ、原精一と共に)

1934年(昭和9)32歳

 3月、第12回春陽会展に《風景》《ノートル・ダーム・ド・パリ》《アラビア風の海と家》《水辺》≪ビリエ・シェール・モーラン》《グラン・キャナル・ヴェニス》《アルジェリアの兵卒》《アラビア風と家》を出品。
 7月1日、三岸好太郎逝去。

 **所謂「日本的」でない作家に長谷川昇、青山義雄、鳥海青児の諸子がある。(中略)鳥海氏は巴里ノートルダムと近東風景の二大作を私はとる。此人の作品には何かサンスがある様だ。褐色と白とコバルトに濃緑、その配色が織り出す没静で明徹な気持ちはいゝ。砂を画面に置いて発色の加減を作ったルアムパートマレの効果を顧慮したり中々凝った持味もある。(中山巍「春陽会展評」、『アトリヱ』6月号)

 **鳥海青児氏の絵は黒づんだ絵具の重なりが美しさに成り切つて居ない。無意味に画面をよごした様な感じで、一人で反抗して居る様な息苦しさをさへ感じる。(益田義信「春陽会を観る」、『みづゑ』6月号)
 **鳥海青児氏はそのたたきつけた黒つぽい絵の具がひどく無意味にくつつく時と、又、風景(二一六)、アルゼリーの兵卒の如く極めて有効に且つそのねばりが美しい色となることもある。この二作を私は甚だ好む。(中村研一「第十二回春陽会展覧会評」、『アトリヱ』6月号)

1935年(昭和10)33歳
 3月、第13回春陽会展に《海辺の小屋》《小屋のある風景》《海辺》《海浜》《茅ヶ崎の海》《鳥》を出品。他に大津絵も出品。

 *油絵も日本に入ってもう相当年月を重ねた。いつまでフランス画壇の延長でもあるまい。もう日本の洋画と立派にいひきれるものが出来てよい。-これが現在に生きる洋画家お互の腹のやうだ。が、はたして日本人が油絵具をマスターしきれるや。(略)これが将来にどう働くか、どう実を結ぶか、この日本主義が日本の油絵の上に絵画的な要素となるや。独立一個の問題でなく、わが洋画壇のために、期待して止まない。僕は、この間題がどうころぶとも、油絵を描く以上、セザンヌの出現を忘れる事は、無視する事はできない。ここから出発したい。(「独立美術展(三)」)

 **鳥海君の作品は今年は随分といいと思ふが、実際汚ないね。春陽会にはたしかにキタナイといふ感じの絵が多い。二科も独立も綺麗ごとだが、春陽会には汚いところに何か雅味を見出さうとするやうなものが多い。(荒木季夫「春陽会・国展批評座談会」、『アトリヱ』6月号)
 **極言すれば、油彩の真に美しい塗り方を体得してゐる画家は、春陽会に一人もない。鳥海氏の作品の技法が、一見絵の具ののび方に正道らしく見えるけれども、その思はせぶりだけが作品の余計な浅さになってゐる。「海辺」などと云ふ作品に、作者が若し幾分でも自足を感じてゐるならば、粗雑な神経のペダンテイシズムだと思ふ。(今泉篤男「春陽会展の感想」、『アトリヱ』6月号)

1936年(昭和11)34歳
 3月、第14回春陽会展に《少年》《段々畑と畦》《紀南風景》《信州の畑(一)》《信州の畑(二)》《水田》《道化の男》《男の顔》《道化の首》《道化》を出品。
 5月、石井鶴三、足立源一郎、中川一政ら春陽会同人と高知に遊んで、室戸岬をみる。
 10月、鳥海青児新大津絵展(南海高島屋)に《鬼の念仏》《槍持奴》《瓢箪鮭》《藤娘》など出品。前途ある洋画家が卑俗な大津絵などに低徊するなという批評に対し、「画家はいかなる様式をも、素材として採り上げ得る特権がある。卑近な例が、書の「いろは」は、芸術になる場合もあり、お手習いに終る場合もある。要は、エスプリの問題である。」と反論した。(「大津絵に就て」)
 この頃から、春陽会に鳥海の影響が現れはじめる。

 **鳥海君の畑や水田は昨年より更に汚ないが、グングンかういふ追求をやるのがいいぢやないか。そこには幾分近代的な美しささへ浮んでゐる。(佐波甫「第十四回春陽会展評」、『みづゑ』五月号)
 **「段々畑と畦」とか、「信州の畑」とか恐らく誰も描きそうもないやうな殺風景なモチーフだが、その仕事への態度は画家の心掛けとしては多分に買ふべきものだと思ふ。小品の人物の顔は熟れも色彩豊麗で愛すべき作品だが、大作の風景は一見皆未完成の如く思はれる。(略)斯ういふ存在は何処まで育つか、充分に労はつてやるべきだと思ふ。殊に、同氏のやうな絵の具のつけ方は日本では一般に生育し難いやうに思はれるので、一層の加餐を祈る次第だ。(松本弘二「春陽会評」、『アトリヱ』5月号)

1937年(昭和12)35歳
 4月、第15回春陽会展に《夏の風景》《裸体》《石橋のある風景》《裸女》《風景》《海の見える風景》《セリストA》≪セリストB》《南薩山川港》を出品。

 **春陽会切つてのエネルギッシュ作家に鳥海青児がある。同氏の作品に見る単純な熱情的表現には沢山の追随者があつて、春陽会に新たな空気を齎らしてゐる。それらの亜流には直截に大膽に自然に肉薄して行く必然性が鳥海氏に見るが如く働いてゐない。(略)-然し鳥海氏の二調子に単化された重厚な作品は微妙なニュアンスに充ちて輝き、一種の神秘性をさへ持つてゐる。(略)「セリスト(A)(B)は風景よりも更に美しく佳品である。(栗原信「春陽会展評」、『アトリヱ』5月号)
 **嘗て小品に、筆の面白さや、心境的なモチイフに雅味や静寂を求めた春陽会の出品画は、昨年辺りから稍々画幅は大に、優位にフォープな形勢を執つてゐる。特に鳥海君の影響下に、その作品に範をとつたと思はれるものに多く見る。(酒井亮吉「春陽会展評」、『美之国』5月号)
 **「セリストB」「風景」が最もよい。一見粗暴のやうで細心、汚いやうで輝きがあつて美しい。作品の多いことは量的に圧迫感を受けるが印象は却つて希薄になりはしないか。同氏の影響下にある作品の彌漫する兆しが見える。(吉井淳二「春陽会評」、『みづゑ』5月号)
1938年(昭和13)36歳
 3月、第16回春陽会展に《高カラーの男》《水滴れた川》《並木と山》《夕色の並木と山》《道化》《並木の続く風景》《風景》《山》を出品。
 10月頃、陸軍報道班貞として西条八十、久米正雄、山田耕作らと上海、南京、漢口、杭州、蘇州へおもむく。
 12月末帰国。

1938年、漢口戦にて

1939年(昭和14)37歳
 1月15日、美川きよと結婚し、新居を麹町区六番町1-5にさだめる。
 3月、第17回春陽会展に《蘇州風景》《塹壕のある風景》《楊子江と漢陽の街》《支那の家》《蘇州風景》《蘇州小景》を出品。
 7月、神戸から那覇、首里、糸満と沖縄旅行。山川清同行。滞在中は春陽会の大嶺政寛の世話をうける。沖縄からかえって数カ月後、二度日の中国旅行で北京、天津、張家口、熱河などへ。
 この頃から日本の古美術の収集をはじめ、まづ初期肉筆浮世絵に興味をもつ。

 *琉球の墓の立派な事は聞いて居たが、そのすばらしさには驚嘆した。日本のどこを歩いても、こんな堂々としたリズムカルな、しかもプラスチックな強い風景には行きあたれない。画家も随分行つて居るはずだが、どうして手をつけないのだらう。(略)内地のお化臭いしめつぽいお塞から推してはまるで想像出来ない。ローマの遺跡にでも立つて居る様な景観であつた。(「琉球風物記」)
 *僕は昨年あたりから、どんな風の吹きまわしか浮世絵にこりだしました。我家の珍宝は今の所これ一つ、これからうんと集めたいと思つて居ります。(《十家十宝録》で初期肉筆寛文舞踊図について、『第十八回春陽会パンフレット』)

1940年(昭和15)38歳
 4月、第18回春陽会展に《琉球》《沖縄風景》《琉球の墳墓》《修理のある屋根(一)》《修理のある屋根〈二)》《那覇小景》を出品。
 10月、紀元2600年奉祝美術展に《琉球風景》を出品。
 11月、大阪高島屋の「鳥海青児油絵個人展」に《張衆口小景》《菊花図》《北京天壇》《北京の石舫》《アマリリスと風景》など出品。
 **鳥海氏の例の暗晦なる画面は、依然、何故にその素描的厚味をこれ程までにしなければならぬかを怪しむが、「琉球」「修理ある屋根」は、洗ひ出しのやうに些か形を見せた。「修理ある足根」の物質感と量感は、必ずしも排すべからざるものがあるが、その溷濁はまだ過度であらう。(林達郎「春陽会評」、『美之国』5月号)

1941年(昭和16)39歳
 4月、第19回春陽会展に《長城図》《北京天壇》《アカシア》《花図》《アマリリス》を出品。
 原精一、遠藤典太らと男鹿半島に旅行。

1942年(昭和17)40歳
 4月、第20回春陽会展に《天津の仏蘭西寺院》《男像》《張衆口の家》《男鹿》を出品。
 この頃から藤原鎌倉時代の仏画に興味をいだく。古美術書をあさって研究するいっぽう、糊をつくり、買った作品の表装をたのしむ。

**父が裂の取り合わせや寸法指定だけでなく、実際に自分で作った糊を使って表具作りをはじめたのは、戦争中の昭和十七年頃のことでした。手に入れた古画を表具屋に頼みましたら、一晩で仕上げてきたが、翌日にはもう反り返ってしまった。「表具で飯を食っている者が、こんなだらしのない仕事をしてどうするのだ」と大変おこり、「自分の仕事がいちばん信用できる」といって、はじめたのです。(美川英吾「父鳥海青児と表具」、『芸術新潮』1985年12月号)

1943年(昭和18)41歳
 春陽会をやめ、独立美術協会会員となる。
 3月、第13回独立美術展に《たいれん木》《男像》《瀬戸内海》《小島》を出品。

1944年(昭和19)42歳
 2月、第14回独立展に《北海道風景》を出品。
 8月3日、母アグリ歿する(83歳)。
 10月ころ、夫人とともに樺太、北海道旅行。

1945年(昭和20)43歳
 1月15日、鎌倉雪の下に親友吉川清の妻淑子の妹と弟が住んでいた成実家の別宅があり、ひとまずそこに間借りしたが、ほどなくすぐ前の家が空いたので引っ超す。近くに鏑木清方が住んでいた。
 8月、敗戦を疎開先の神奈川県伊勢原で知る。
 9月、鎌倉にもどる。
 この頃、友人の所有する長次郎の銘「あやめ」茶碗を偶然に預かってみたのがきっかけで陶磁器に親しみはじめる。

1946年(昭和21)44歳
 3月、読売新聞社主催の第1回新興美術展(日本橋三越)に出品。
 8月、神西清、佐藤正彰、今日出海らと弘前へ講演旅行。

1947年(昭和22)45歳
 2月ころ、小山冨士夫宅で鳥海のデッサンをみた会津八一が鳥海を訪ねる。
 4月、第15回独立展に《林泉》《山肌》を出品。大阪、京都、福井に旅行。福井の三国には小野忠弘と疎開した三好達治がいて、熱心に骨董を漁った。
 11月、第2回新興美術展に出品。
 小山冨士夫、渋江二郎など鎌倉在住の古美術愛好家たちとの交友がはじまった。

1948年(昭和23)46歳
 10月、第16回独立展に《静物A》《静物B》《静物C》《風景》を出品。
1949年(昭和24)47歳
 1月26日法隆寺金堂壁画火災で焼失。鳥海の喪失感はきわめておおきかった。
 夏、福井に旅行。
 10月、第17回独立展に《無果花》《南瓜と茶碗》《南瓜》《花入》《南瓜と古鋼》など6点出品。この頃、野口弥太郎、林武、里見勝蔵らがしばしばたずねる。また、川端康成、中山義秀、小林秀雄、佐藤正彰、寺田透などの文学者たちと交友。

 ・末lはこんな大きなショックを受けた事はありません。ある意味では敗戦の報以上です。終日ただただ呆然自失。(略)法隆寺大観や便利堂の色刷を引っぱり出して、螢光灯で観た壁画がどんなにすばらしかったかを昂奮してデテールにわたって二人に説明しました。佐藤は「法隆寺の壁画は俺たちにみかぎりをつけて、日本に愛想をつかして、この世から姿を消されたんだよ」とくりかえしくりかえしつぶやきなげきました。彼の言葉を聞いているうち、僕は無常感に襲われてきました。(「日記とサイン」)

1947~48年頃、築地明石町、土門拳宅(左より鳥海、原精一、中井淳、土門拳)

飯倉の風景をスケッチする鳥海
1950年(昭和25)48歳
 10月、第18回独立展に《皿と二つの果物》《皿と三つの果物》《皿と四つの果物》を出品。

1951年(昭和26)49歳
 10月、第19回独立展に《段々畠》《春の段々畠》を出品。
 11月、東京画廊開廊第1回展として鳥海青児個展をひらき、《曇り日の段々畠》《セロ弾く男》《南瓜と柑子口》《春の段々畠》《天壇》《道化》など出品。
 また、大阪梅田画廊で鳥海青児新作展。

 *私は畑が好きで今までにも何枚か描いた。好きな理由は今までの作品の一つ一つに現れていると思う。その何枚も描いた畑のうちで表現しきれなかつたものを表現してみようと思つた。それは今迄は多少なり自然の形体そのまゝのものがあつた。しかし、今度はその自然的外形のまゝでは表現しきれなかつた、同時に整理しきれなかつたものを全部整理した。究極の画面構成上必要なもののみを残して、それを画面の上に構成したつもりである。云いかえれば、自然のものを自然のまゝに表現することに飽きたりなく、こうしたら満足出来ると思う仕事をしてみたつもりである。そのためかなり抽象的な表現になつているが、これは抽象派の描法が目的でなく、自然の実体への究明が結局ここへ来た。(「春の段々畑」)

1952年(昭和27)50歳
 鎌倉から東京麻生の飯倉片町32番地にうつる。
 1月、第3回秀作美術展(日本橋三越)に《春の段々畑》を出品。
 5月、第1回日本国際美術展に《畠》《段々畠》を出品。
 10月、第20回独立展に《静物》《飯倉風景》《畑》を出品。
 平安時代の仮名(古筆)に興味をもつ。

 **家のすぐ前には、一段と低くなった、ちょうどナベ底のようなくぽみに赤い三角屋根の家がポツンと建っていて、周囲の美しい緑とよく照応していたし、その向こうにはソビエト大使館の森が黒ぐろと視界をさえぎり、時たま空をよぎる風に豊かな緑をゆるがせていた。山ふところのようにまわりを包まれたこの小さな盆地は、大東京の混乱を忘れた別天地だった。彼はまるで夢を見るような気持ちでしばらくを過ごした。何か深い安心感が彼の中に泉のようにわいてきていた。京都の庭師に言って、龍安寺の茶室の門だった梅軒門を運んでもらい、この家の門にしてみた。寂びた感じがよく似合った。(K生「東京美術散歩」、東京新聞1962年9月27日夕刊)

1953年(昭和28)51歳
 1月、第4回秀作美術展に《春の段々畑》を出品。
 5月、第2回日本国際美術展に《飯倉の坂》《飯倉風景》出品。
 10月、第21回独立展に《狸穴風景》《狸穴》《畑》を出品。
 大阪梅田画廊で鳥海青児作品展。
 この頃から庭作りに興味をもち、自宅の庭を庭師佐野旦斎に依頼したりする。またハリー・パッカードと知り合う。自分の絵に対する見方考え方がようやく確立したのもこの頃。

 **知り合った頃の鳥海氏は貧乏ではあったが、埴輪、光琳のデッサンや、これはさほどのものではない陶磁器などの蒐集家だった。自分で蒐集品の表具まで手がけ、鎌倉時代の白描などに補筆を入れたりすることもあった。古い白描のタッチを、毛筆でなぞられるのが図抜けて上手で、自作のデッサン力も目立っている。絵に夢中になったら夜通し制作するほどの献身的な画家であったが、買手はまだほとんどつかなかった。(ハリー・パッカード『日本美術蒐集記』新潮社1993年)

1954年(昭和29)52歳
 1月、第5回秀作美術展に《狸穴風景》を出品。
 5月、第1回現代日本美術展に《サーカス(A)》《サーカス(B)》を出品。
 7月、美松書房画廊の鳥海青児水彩素描展に《川沿いの家》《・cJラーの男A》など出品。
 10月、第22回独立展に《うずくまる》《川沿いの家》を出品。

 *私にはいろいろな場合の発想がある。たとえば「うずくまる」に見られる人物の腰の線は、家蔵の黄瀬戸の掛け花生けを見ているうちに得たフォルムで、そのすぐれた高台の安定感を、画面に人間らしき形をとって表そうとした。だから、人体としても、解剖学的にみればおよそ人間らしくないだろうし、といって黄瀬戸そのものでもない。物や風景を見ての感動というものが、人によって具象の形をとったり、抽象で出てくるというわけである。だから私の場合も、黄瀬戸のもつ色彩的な魅力、つまり黄の一歩手前ともいうべき微妙な度合(茶碗黄瀬戸の場合、黄色かったら、たとえば菊皿の類はもはや黄瀬戸ではない)やそのフォルムから、連想のような形で、頭の中に一つの絵としてのフォルムが浮かび上がってくる。(「技法問答」)

1955年(昭和30)53歳
 1月、第6回秀作美術展に《川沿いの家》を出品。
 10月、第23回独立展に≪紅穀塗の家》《家並》《顔をかくす女》を出品。 
1956年(昭和31)54歳
 1月、求龍堂画廊、東京画廊で同時に鳥海青児個展をひらく。求龍堂画廊では《水無き川》《砂漠のオアシス》《滞戸の山》《セリスト》など、戦前の作品を、東京画廊では《いちぢく》《段々畑》《川沿いの家》《うずくまる》など戦後作品を出品。
 3月、《顔をかくす女》《家並》によって第6回芸術選奨、文部大臣賞をうける。
 5月、現代日本美術展に《粉挽き》《女人像》を出品。
 9月、第24回独立展に《彫刻(黒)をつくる》《彫刻(白)をつくる》《黄色いひと》を出品。
 大阪梅田画廊で鳥海青児個展。

1957年(昭和32)55歳
 2月、麓会展(壺中居)に《蓮》《士直輪》を出品。
 2月、第4回サンパウロ・ビェンナーレに《彫刻(黒)をつくる≫《川沿いの家》《南瓜》《琉球風景》《山》《春の段々畠》《狸穴風景》《うずくまる》《家並》《顔をかくす女》を出品。
 4-11月、パリ、ベルギー、オランダ、ドイツ、スペイン、イタなどヨーロッパ各地を旅行する。原精一が同行。「おもしろいと思ったのはイタリアを回っていて十世紀から十二、十三世紀のドウォーモの彫刻に日本の、ホラ、あの邪鬼によく似たのがあってね、一種のユーモアと力をもっていておもしろいものですよ、あれは」と、イタリアで見たロマネスク彫刻に感動、これは石を運ぶ人のモチーフになった。又ルーヴル美術館のエジプト室、トリノのエジプト博物館でエジプト美術をじっくりとみる。
 5月、第4回日本国際美術展に《伊賀瓶子とメロン》を出品。

 *三十年たって再び欧州を訪れた。三十年の年月は僕の世界美術に対する見解をすっかり変えてしまった。こんどの方針は、一応昔見たところはさっとなでるくらいにして、未知の作品を出来るだけゆっくり見学したい。イタリア旅行ではルネッサンスはざっと見るくらいにして、中世をゆっくり見ることにした。ルーブルでは、エジプト室だけに日参して、エジプト芸術のすばらしさにすっかり魅されてしまった。(「念願の彫像」)

1958年(昭和33)56歳
 2月、銀座松屋で鳥海青児滞欧素描展。
 5月、第3回現代日本美衝展に《武装した馬(ピカドール)》を出品。最優秀賞受賞。
 6月、沖縄へゆく。沖縄タイムス社で鳥海青児滞欧素描展。
 10月、第26回独立展に《石を運ぶ》《伊太利人の石運び》を出品。草人社主催の坂本繁二郎、鳥海青児二人展(大阪阪急、東京松屋)。
 この年文化財保護委員会の審議委員となる。

 **鳥海青児の「石を運ぶ」は、デッサンも確かで、石の重さに悩む姿が巧みに描かれていた。バックと主体の関係がしっくりして、この春の展覧会で好評であったハニワなどよりずっと好きである。しかし、彼のつつましやから作風は、乱雑な大展覧会向きではない。殊にじみな色彩や、ボテボテしたマチエルの模倣者が、余り多く出たので、なお一層損をしている。彼の作品は、静かなサロンで唯一つゆっっくり観賞すべきものである。(「独立美術展評」、『みづゑ』12月号)

1959年(昭和34)57歳
 1月、第10回毎日美術賞を山口薫とともに受賞する。
 5月、第5回日本国際美術展に《ブラインドをおろす男》を出品。
 8月、大阪阪神百貨店で鳥海青児作品展。
 10月、第27回独立展に《壁の修理》《家の修理》を出品。
 11月、神奈川県立近代美術館で、「鳥海青児・野口弥太郎展」。
 11月、尚美会(壺中居)に《修理の家》を出品。
 12月、エジプト・イラン・イラク・インドを旅行する。佐藤正彰同行する。

 *風景は、数年の間、頭の中で考えていたのですが、時間をおかないとナマのままがでてしまうので、沖縄風景も一年では発酵しませんが、幸い二十年前の仕事がありますのでこれを加算して取り組むことにして、デッサンをいま、やっていますが、ここまでが大変なことと言えるでしょう。あとは一カ月もあれぼ塗れる段階です。描く前のモヤモヤしたものが一番大事な期間で、時間もここで一番かかってしまいます。(「風景の発酵」)
 *世界の美術館の代表的なものは一応見ており、カイロ美術館のすばらしさは聞かされていたが、とくに有名な木彫村長立像は僕の一生のうちにどうしても見たいものの一つであった(略)かんたんに古代文明などと口にはするが、しんに古代文明という言葉を使えるのは、古代エジプトだけではないかしら。僕はエジプトで初めてわが心のふるさとにたどりついた気がした。(「わが心のふるさと」)

1956年、飯倉の家の門で

アトリエにて《顔をかくす》

イタリアのピアツェンツァで
人像柱をスケッチす鳥海

1958年、《壁の修理》のスケッチ姿、沖縄にて

《壁の修理》の作画

三好達治還暦祝、京都にて
(中央が鳥海、左が三好)
1960年(昭和35)58歳
 3月末、インドから帰国。
 8月、藤沢中学の同窓生であった吉川清(遊行寺内真徳寺住職)の弟武田(吉川)賢善が住職をする京都金光寺内にアトリエが完成。庭づくりは佐野旦斎にまかせたその別業で《スフィンクス》の制作にとりくむ。またこの頃から正月はたいてい京都ですごす。
 10月、第28回独立展に《スフィンクス》《挨及人》を出品。
 11月、南天子画廊で鳥海青児素描展「エジプト・中近東・インドの旅より」をひらく。
 12月、中南米を小野忠弘とともに旅行。ペルーのリマで三木淳と落ち合い、クスコ、マチュ・ピチュの遺跡をめぐり、ハワイ、タヒチに寄って翌年4月、帰国。

 **鳥海さんの庭に対する造詣の深さは、古美術に対する造詣に劣らぬほどで、大したものである。庭は簡素で清潔で植込などもなく、しつとりした土がひろく見られ、所々に屋根瓦をタテに埋めたヂグザグがある。アトリエの前には薄の大きな一株が植えてあるが、冬はなんにもない。客間の横の庭には竹垣に「美男かづら」の蔓が、からんでゐて、その傍らに古い小さな石仏が置かれてある。(矢野文夫「鳥海さんの京の庭」、『色鳥』1962年3月)


1960年、インドにて

《スフィンクス》制作
1961年(昭和36)59歳
 帰国後旅の疲れから体調をくずす。
 10月、第29回独立展に《石の街》《インカの街》を出品。

1962年(昭和37)60歳
 1月、第13回秀作美術展に出品。
 5月、第5回現代日本美術展に《メキシコの西瓜》を出品。
 10月、第7回名作シリーズとして鳥海青児自選展(銀座松屋)が開催され、油彩77点を出品。
 10月、第30回独立展に《石だたみ》を出品。
 10月、国際形象展に《メキシコの西瓜》を出品。

1963年(昭和38)61歳
 1月、第14回秀作美術展に《石だたみ》を出品。
 6月、北京、上海で開催された「現代日本油絵展」に中川一政を団長とする画家代表団として訪中。《セロ弾き》《石だたみ》《かぽちゃ》《ブラインドをおろす男》を出品。
 10月、第31回独立展に《ベナレス》を出品。
 飯倉片町の家を改築。
1964年(昭和39)62歳
 1月、第15回秀作美術展に《石だたみ》を出品。
 5月、第6回現代日本美術展に《果汁を吸うマヤ人》を出品。
 10月、第32回独立展に《昼寝するメキシコ人》を出品。
 ブリヂストン美術館が鳥海青児の記録映画を制作。
 この頃から、墨跡に興味をもちはじめる。

1965年(昭和40)63歳
 4月、日本洋画壇春季展(日本橋白木屋)に出品。
 10月、第33回独立展に《北京》を出品。

1961年、ペルー、インカの遺跡にて


改築後の飯倉の家にて
1966年(昭和41)64歳
 7月、神奈川県立近代美術館で回顧展。
 10月、第34回独立展に《メキシコ人》を出品。

1967(昭和42)65歳
 1月、『鳥海青児画集』(三彩社)出版。
 10月、第35回独立展に《木芯の出た法隆寺塑像》を出品。

1968年(昭和43)66歳
 5月、第8回現代日本美術展に《中国風景》を出品。
 10月、第36回独立展に《素朴な静物》《土器》を出品。 
 国際形象展に≪静物≫を出品。
 この年一年、「小説新潮」表紙画を担当。

1969年(昭和44)67歳
 5月、第9回現代日本美術展に《ピカドール》を出品。
 10月、第37回独立展に《メキシコ人の家族》を出品。
 国際形象展に《とうもろこし》を出品。

 *スケッチもよくやりますよ。ぽくの絵はホトンドデッサンから仕上げていきます。そのデッサンもものをみてですが、それでも花をかくとすると花がそばにあってはだめなんですね。現物をみた記憶ですね。胸中の風物といいますか-旅行のときぽくもカメラを持って行きますが、カメラはだめですね。写真というのは作家の目ではなくて、あくまでレンズの目ですよ。(「名匠ききがき」)
1970年(昭和45)68歳
 10月、第38回独立展に《石像》を出品。
 国際形象展に《石像》を出品。
 日本の巨匠二十人展(大阪・大丸)に《石をかつぐ》《石だたみ》《果汁を吸う》《素朴な静物》を出品。

1971年(昭和46)69歳
 6月、画業五十年記念鳥海青児展(大阪梅田阪神百貨店)をひらく。これは10月に東京セントラル美術館に巡回。
 10月、第39回独立展に《瓶子A》《瓶子B》を出品。
1972年(昭和17)70歳
 6月11日、東京虎ノ門病院にて逝去、翌日飯倉片町の自宅で密葬。
 24日、青山葬儀場にて告別式。

1974年(昭和49)
 11月、大阪梅田近代美術館で「鳥海青児展」。
1977年(昭和52)
 9月、平塚市博物館で「鳥海青児と昭和の画家たち展」。

1983年(昭和58)
 11月、ギャラリー・ジェイコ(東京)で「鳥海青児遺作展」。

1986年(昭和61)
 4月、ギャラリーなかつみ(大阪)で「鳥海青児展」。
 10月、練馬区立美術館で「鳥海青児展」。

1989年(昭和64、平成1)
 9月、中野美術館(奈良)で「須田國太郎・鳥海青児展」。

1993年(平成5)
 1月、神奈川県立近代美術館で「湘南の三傑、萬鉄五郎・鳥海青児・原精一展」。
 6月、北海道立三岸好太郎美術館で「鳥海青児と三岸好太郎展」。

1994年(平成6)
 4月、平塚市美術館で「鳥海青児展」。
 5月、三重県立美術館で「鳥海青児展」。
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