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1936年頃の鳥海青児

森本孝

三重県立美術館の所蔵品群の中に鳥海青児の《紀南風景》がある。この《紀南風景≫は、《少年》、《段々畑と畦》、《信州の畠(一〉》、《信州の畠(二)》、《水田》、《道化の男》、《男の顔》、《道化の首》、《道化》とともに1936年(昭和11)、第14回春陽会展に出品された作品である。

思いきって上方に設定した水平線の上に、澄みきった青空と白い雲、そして海の向こうにある半島らしき遠景を把握するのは容易であっても、水平線の下に描かれているものを判別するのは難しい。中景や近景は台風の到来を暗示するような荒れている海のようにも思われるが、うねるような濃禄色や滑るような茶褐色とその形態は海と考えるとどうも納得できるものではない。おそらく海に向かって突き出た半島あるいは島なのであろう。とはいっても、最下部は大地にも見えれば海であるようにさえ思える。それほど何を描いているのか判別することが難しいのである。これは同年に制作された《信州の畠(一)》、《信州の畠(二)》、《水田》も同様である。二点の《信州の畠》もこんもりと盛り上がった丘のような形状に畔道なのであろうか、うねる曲線がおびただしく描かれ、《水田》も水面のように見えるけれど、実際に何なのか、識別さえ困難である。鳥海は水田、海や大地といった対象を説明的に描くことを拒否しているようである。

《紀南風景》などを制作した1936年の春陽会出品作に対する批評を列記すると次のようである。

脂色と淡墨を捏廻した一見穢い色を、ベラボーにエネルギッシュに画布の上に練り廻して居る彼の作品は実に立派なものである。乱暴な塗り方はよく薫然とする調子までに使はれて只美しいだけである。
風景画家の最も心すべき水平線を、心憎い迄に愛用し、活用して居る、黄ばんだ、人物の居ないのに人を感ずる《信州の畑》の如きは私の最も好きな作である。
小品の数点の首も微妙な彼の感触を十二分に感受出来る立派な作であるが、風景画は豪放な詩情に溢れている。
穢ならしい絵や、我武者羅な絵は芸術的な空気を持って居るらしく見へるが遙かに芸術とは離れた所のもので、つまり鳥海青児の絵から遠くにある絵の事であると彼の作品は有能に物語って居る。(*1


鳥海君の畑や水田は昨年より更に汚ないが、グングンかういふ追求をやるのがいいぢやないか。そこには幾分近代的な美しささへ浮んでゐる。(*2


自分も一個の画家として深く訓へられるものがあつた。《段々畑と畦》とか、《信州の畑》とか恐らく誰も描きそうもないやうな殺風景なモチーフだが、その仕事への態度は画家の心掛けとしては多分に買ふべきものだと思ふ。小品の人物の顔は孰れも色彩豊麗で愛すべき作品だが、大作の風景は一見皆未完成の如く思はれる。所詮同氏は悲劇作者で観る方の側も寒々としてはくるが、段々と通俗的になり、画境の浅くなるかに思はれる日本の現画壇に於いて、断ういふ存在は何処まで育つか、充分に労はつてやるべきだと思ふ。殊に、同氏のやうな絵の具のつけ方は日本では一般に生育し難いやうに思はれるので、一層の加餐を祈る次第だ。(*3


鳥海青児氏の仕事は一応、人を驚かすに足る。その分厚く盛上げた顔料が画面を縦横に走り廻る激しさは、氏の素晴らしい熱情の現れではないかと人は一応驚く。然し乍ら実際は、そんなに驚くに当たらぬもので分厚く盛つた顔料の中からは別段、何も発見することは出来ない。それは熱情の堆積でなくて、単なる絵之具の堆積であるからだ。氏は此の分厚なドス黒いマチエールを以て、田畑等の実質的な土の盛り上がつた迫力を描かふと思つたものと思はれるが、単に土の相様を描かふとするよりも、時として此の種の画に見る一見何物か判らぬ分厚な顔料の盛上げが遠く離れて見ると、其処に何物か織込まれてあり描込まれてあるやり方の方が、絵画として妥当なのでないかと思ふ。
兎に角、土の力とか大地の相と云ふものを黒ぽい顔料で盛上げて描くと云ふだけでは、(それを試みようとした氏の努力には或点、讃意を表するとしても)多少文学的であつて面白くない。何よりも此の分厚く堂々と盛上げたドス黒い顔料は絵として、マチエールとして、決して美しいものと云へない事丈は断言出来る。(*4


国展の耽美さに比較して春陽会の、水谷・鳥海両氏のヒタムキな仕事に好意を持つ、先ず鳥海君の大作《畠》の連作は未だコナし切れないものが多分にあるが、生み出づる悩みといふやうなものがひしひしと感じられる。(*5


水谷君の長崎の天主堂の諸作は収穫だつた色感もいゝし迫力もある、今年の作品に何か内省的な落付きを感じてゐるが、鳥海君の場合は反対に発揚状態だね、かう抑圧し切れないパツシオンをぐわツとぶちまけたやうな風で一寸気候で言へば嵐だね、あの畠や水田などのマチエールは光線の向きに依つて色々の効果を挙げるだらう。(*6


稍もすれば春陽会が既成の形式に対する芸術闘争の目標と意欲を失ひつゝあるとの世評の中で、洋画らしい洋画を示し、以つて春陽会内に於ける若きゼネレーションの指導的立場に立つ一群の頭目である。氏はフォービズムの傾向に属し、マチエールに対する研究的態度は兎角消極的にして既成技術の反覆に安住の地を求め勝ちの傾向の中で尊敬していゝ作家であらう。現在氏が何等かの意味に於て後輩群に影響を投じつゝある事実を考える時氏の自重と積極的なアッピールを望みたいものである。(*7


1936年前後の批評は、「鳥海青児氏の絵は黒づんだ絵具の重なりが美しさに成り切つて居ない。無意味に画面をよごした様な感じで、一人で反抗して居る様な息苦しさをさへ感じる。」(*8)、「鳥海青児氏はそのたたきつけた黒つぽい絵の具がひどく無意味にくつつく時と、(略)極めて有効に且つそのねばりが美しい色となることもある。」(*9)、「鳥海君の作品は今年は随分といいと思ふが、実際汚ないね。」(*10)、「極言すれば、油彩の真に美しい塗り方を体得してゐる画家は、春陽会に一人もない。鳥海氏の作品の技法が、一見絵の具ののび方に正道らしく見えるけれども、その思はせぶりだけが作品の余計な浅さになってゐる。《海辺》などと云ふ作品に、作者が若し幾分でも自足を感じてゐるならば、粗雑な神経のベタンテイシズムだと思ふ。」(*11)、「単化された重厚な作品は微妙なニュアンスに充ちて輝き、一種の神秘性をさへ持つてゐる。」(*12)、「一見粗暴のやうで細心、汚いやうで輝きがあつて美しい。」(*13)などかなり厳しいが、僅か4年の間に微妙に評価のニュアンスが違ってくることがわかる。


鳥海青児が1934年頃から絵具に砂を混ぜて制作していたことが一般的によくいわれているが、《水無き川》を制作した1928年頃に鳥海が下宿していた本郷の太平館に、同じく下宿していた横掘角次郎が、《水無き川》を制作する鳥海のそばにいて、苦しさあまって砂を一生懸命混ぜている姿を見ていたことが座談会(*14)で話題になっているので、この時期には既に絵具の持つ特性を破壊することを始めていたことが想像できる。そして、1930年(昭和5)に渡欧した鳥海が実験的な制作態度を貫いていたことを、多くの滞欧作が確実に物語っている。


1933年(昭和8)2月、ヨーロッパから帰国した鳥海が求めた風景は、ヨーロッパのような乾いた風景ではなく、東洋・日本独特の湿潤豊かな風景である。四季折々の可憐な風情を示す日本の風景を油彩画でどのように表現するかを鳥海は意識している。日本画にはすぐれた作品が古くから残されているが、洋画では岸田劉生と萬鉄五郎以外には皆無であると豪語し、「はたして日本の自然が油絵の素材として生かされ得るものか、僕はひそかに案ずる者の一人だ。」、「片々たる雑草の美しさは紙と硯なくして到底表現出来ぬ可憐な美しさだった。たくましい油絵の生活にはまったく一顧もあたいしないものだった。いわゆる風景明媚な日本の自然が繊細な可憐な美しさ以外のなにものでない事を思った時、今さらながら苦汁をのまされる感があった。」といった言葉を「日本の自然と油絵風景画」(*15)に記している。こうした課題に苦闘した結果得た結論は、日々刻々と変化する自然の美しさを観照するといった受容する姿勢ではなく、日本の可憐な自然の表情を一つずつ剥して根源的なものを求めて自然と対決するという、内面化の方向を辿ることであった。《紀南風景》、《信州の畠(一)》、《信州の畠(二)》、《水田》といった作品群は、そうした自然との対決の結果を示している。


「砂をまぜると、その部分の絵具が光線の乱反射で変ったこまかい明暗を見せるやうになって、黒だって単調な黒ぢゃなくなるだらう。さういふ変化にとんだ、明暗を内部的に持った色」(*16)を求めたことを、鳥海自身は述べているが、《紀南風景》の中景に暗緑色でくねるように描かれた樹々の細い面は他の面より盛り上がり、画面左下方など光線を浴びると細かくきらめくように反射する部分がある。砂だけでなく、石膏や灰に近い何かを絵具に混ぜて描いているのだろうか。そうした凸凹が光線を吸収あるいは反射して徹妙に変化する効果を見せているのである。


また、「無限に豊かになり、その単純な構成とあいまって、圧倒的に重厚な、そしてこの作家の精神的で臂力の強い、内部に悲劇的とも呼びたい浪漫主義的な心情を強くぽくに印象づけたことを忘れることができない。」(*17)と記載されているように、一人砂漠をさまようような心境、あるいは自己の情感を自由奔放に画布へぶつけたような激しさ、すなわち、どうにもならない重くのしかかるような内部からぐっと沸き上がってくるような感情といった混沌とした情感を感じ取ることができる。しかし、海を含む遠景を描いたのびやかな筆の速さを基準にすれば、中景を描く筆致は極端に遅く、近景の例えば茶褐色の部分などは狂烈なスピード感が溢れており、単なる主観的表現ではなく、絵画の構成に対しても腐心している姿も窺える。


*1 海老原喜之助「春陽会評」アトリエ1936年5月号


*2 佐波甫「第14回春陽会展評」みづゑ1936年5月号


*3 松本弘二「春陽会評」アトリエ1936年5月号


*4 「春陽会第14回展」中央美術1936年第34号


*5 酒井亮吉「春陽会・国展合評」アトリエ1936年5月号


*6 中村善策「春陽会・国展合評」アトリエ1936年5月号


*7 今井繁三郎「春陽会の人々」美之国1936年5月号


*8 益田義信「春陽会を観る」みづゑ1934年6月号


*9 中村研一「第十二回春陽会展覧会評」アトリエ1934年6月号


*10 荒木季夫「春陽会・国展批評座談会」アトリエ1935年6月号


*11 今泉篤男「春陽会展の感想」アトリエ1935年6月号


*12 栗原信「春陽会展評」アトリエ1937年5月号


*13 吉井淳二「春陽会評」みづゑ1937年5月号


*14 出席者:原精一、佐々木静一、鈴木進、藤本韶三「鳥海青児を語る」三彩1972年10月増刊号


*15 東京帝大新聞1937年4月26日


*16 鳥海青児、寺周透「厚塗りのマチエール」アトリエ1955年2月増刊号
『鳥海育児/岡鹿之助(現代日本の美術第11巻)』集英社1975年(再掲)


*17 土方定一『現代の洋画(原色現代日本の美術)』小学館1980年

帰国後の春陽会への出品作に対して日本的でないとか、ただ単に汚いだけであるといった酷評が目立つ。日本画的な繊細で清楚な描法とも無関係であり、例えば穏やかな光を浴びた風物を平明に、しかも表面的には美しく描写する画風でもなければ、草土社風の表現でもない。従来の画風とは異なる革新的な表現には違いがないので、日本的でないという判断もある意味では的確に違いない。しかも初見は暗くきたなく見えるのも、これまた認めざるを得ないであろうが、光線による明暗を平易に再現することを拒否する姿勢こそ日本の伝統的な描法であると主張することに反論は難しいだろうし、色彩さえも否定するような濃緑色、赤褐色が画面全体を占めた暗欝な色調のこれらの作品を見た印象は、なぜか心にいつまでも残像として記憶され、ただ暗くきたないだけに終わらない何かがあることも認めざるを得ないことだろう。鳥海への強烈な批判が多いことは、それだけ時代の反逆者であったことを証明することでもある。《水田》、《信州の畠》、《紀南風景》は、《水無き川》に始まる青年期の作品群の総決算を告げる作品であり、独自の様式を確立した《川沿いの家》、《段々畠》といった鳥海独特の様式が完成された時期の鳥海とは違う魅力に満ち溢れ、鳥海青児の代表作と考えるべき作品だと思う。他の作家が持ち合わせていない造型理念と高揚した精神性を極めて明確に主張しているように私には思える。

この時期、一方では熱狂的な支持者があったことも見逃してはならないであろう。例えば美川きよが《水田》あるいは《紀南風景》を見て、素晴らしい画家であると感動して押しかけ女房になったという逸話も残され、1937年頃には多くの追随者が現れるようになり、春陽会内に新たな空気を生み出すことになったといわれていることなどがそれを象徴しているのであろう。

(三重県立美術館普及課長)

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