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ノートル・ダムと雑艸

東 俊郎

鳥海青児は1930年から日本を離れてヨーロッパで日々を送った。外遊という名にふさわしく暮して、ほぽ3年後に帰国した。ミュンヘンでみたセザンヌには体の震えがとまらなかったと、機会あるたびにセザンヌヘの親炙をかたっているし、ゴヤをみるためにプラド美術館には1ヵ月以上かよったあげく、自然にオランダへの道行となり、ゴヤに匹敵する感激を面授面受したレンプラントにうけ、



三鈷鐶付釜をみる鳥海(壁に稚児大師像)

漆塗り作業中の鳥海

鳥海自装の青木木米書簡

秘蔵の高野山上院玄証本薬師十二神将のまえで

日本画をかく鳥海と正倉院鳥毛立女屏風下絵模写

乾漆の弘仁仏をみる鳥海、小野忠弘、鳥海夫人美川きよ

稚児大師像

稚児大師像(部分)

光琳乾山合作の香合

天啓赤絵網目徳利
 
天啓染付湯呑

天啓赤絵梵字くずし湯呑

池大雅作赤壁前遊図

アトリエの貞観仏

准胝観音像

法華経観世音菩薩普門品見返し絵

法華経観世音菩薩普門品見返し絵(部分)

法華経観世音菩薩普門品経文

光悦継色紙

宗達竜肝扇面画稿
 
鍍金女神像   僧形八幡神像

 
べしみ面     藤原行道面

瓜形龕像

薩摩白磁瓶(三好達次が鹿児島で買ったのを絵と交換した)

黄瀬戸旅枕花入

古備前経筒花入

かくて私はレンプラント、ゴヤのはるかなる亜流となって帰国した。(*1)


*1 鳥海青児「はるかなる亜流」

ということになった。このことばは鳥海の絵のゆくさきをかんがえるとき、かんたんにはとけない難問となってたちはだかる。鳥海青児が鳥海青児になればなるほど謎がふかまる、といったぐあいに。いったいゴヤとレンプラントはどこへいったのか。気がかわってしまったのか。もっとも「気」というとき、そのことばの本来の姿でかんがえているのだけれど、ともかく、ぽくはそれに対してひとつのこたえを予感していても、それはもっとさきのことだ。


鳥海は無理にヨーロッパにいかなくてもよかった画家だからこそ、ヨーロッパにいってよかった画家である。これは矛盾のようでそうではない、とかくとたちまち、ヨーロッパでかえって日本の影をみいだした坂本繁二郎や小出楢垂や小杉放庵の姿がそこにかさなってくる。ヨーロッパそのものより、それをみるかれらの眼のほうが大事だった。それぞれが類のない、繊細でてごわい生得の感光紙のごときであって、ヨーロッパというつよい光にいったん馴れた眼でみれば、もっとくらいとみえた闇の色とりどりがみえてきた、というところだろうか。たしかにかれらは発見する。たとえば鳥海のばあいは、こんな風に、だ。


僕は三年前、なぐさみに初めて日本画に手を染めて見た。手初めに草花類の写生を初めたある一日庭に出てふと枯草の美しさに愕然とした事がある。この片々たる雑草の美しさは紙と硯なくして到底表現出来ぬ可憐な美しさだつた。たくましい油絵の生活にはまつたく一顧もあたひしないものだつた。いはゆる風景明眉な日本の自然が、繊細な可憐な美しさ以外のなにものでもない事を思つた時、今さらながら苦汁をのまされた感があつた。(*2)


*2 鳥海青児「日本の自然と油絵風景画」

日本の自然は紙と筆でかく。感想にみせかけて、これが鳥海の問いになってい・驕B
ほんとうは命がけの問いである。そして、繊細で可憐なうつくしさでもいいじゃないかと、後年の鳥海ならたぶんいってのけただろう。そうかもしれない。しかしそんな達観のごときは、この問いかけの最後にやってくればいい輝きなので、ここではもちろん、そこまでの余裕はなく、せっぱつまって、むしろ不安と危機をつよく感じていたと、うけとったほうがいい。ところで、だいじなことほどかれはくりかえす。だからまた別のところでほとんどおなじ問いを問いかけているのを知っても、それはとても自然で、怠けもののひきうつしだが、そのこころははっきりしている。


手初めに草果の写生をはじめた或る一日、庭へ出て、ふと枯草の美しさに愕然としたことがある。/まつたくたくましい油絵の素材としては一顧もあたひしなかつたこの片々たる雑草も、筆と墨になじむことによって、しかも紙と硯なくしては到底表現出来ぬ可憐な美しさであることを知つた時、僕は油絵の素材、日本画の素材、この大きな因果関係について、今さらながら考へさせられた。(*3)


*3 鳥海青児「素材」

もちろん、すこしの口調のちがいはあって、その明暗にかえって鳥海の魂がゆれるその振幅があらわれている。この問いのなかに鳥海のすべてがあった。つくる人としての鳥海の成熟にいっそうのゆたかさをもたらすか、それとも毒となってだいじな根を枯らしてしまうか、まだいづれとも見分けのつかない混沌の種子がといってもいい。繊細で可憐な美しさにみちた自然を無垢のかたちでうけいれるための迂廻をたたかうこと。片々たる雑草をめぐって鳥海がとった戦略はひとすじみちではない。もちろん絵のことはまづ絵のなかでたたかう。それがなければ話ははじまらないが、いっぽう、それを手の領分とすれば眼の領分にあたるのか、鳥海青児という洋画家の、そのしごとを超えた、日本の古美術によせた愛ということがある。紙の表と裏のようにどちらもだいじで、剥がすことはできない。そのことをかたるまえに、ついでにもうひとつこんなのもあった。


私は第一次の渡欧の際、所々方々の無数の美術館で無数の名画に接して、大へんつらい思いをした経験があります。これは、何を見ても自分の身や肉にしようという、やらずぶったくりの精神で絵を見たためで、名画くらいおもしろくないものはないと慨嘆したわけです。/美術とは又、なんとたのしいものかという心境になったのは、帰国後あらためて日本の古いものに接してからです。蒐集癖はこのへんからはじまりました。(*4)


*4 鳥海青児「わが節操なき道」

ヨーロッパと可憐な雑草のうつくしさと古美術の日本。これは光から鳥海にあたえられた三題噺なのである。枯草をみつめることと骨董あつめは無縁のようで無縁ではなかった。ゴヤとレンプラントがからんだそれを鳥海がどう演じてみせたかはともかく、それをみるぽくらのほうでこの因果を窮屈にせばめて、いそいで目鼻をととのえないほうがいい、とはいえる。時間は空間である。ヨーロッパのあざやかな眼があったので、枯草のくすんだ色無き色がうつくしくみえたというのがただしいなら、すでに鳥海には日本によって育てられた微妙な眠があったからゴヤとレンプラントを発見したというのも、あたりまえすぎて誰もいわないが、おなじくらいただしい。日本を離れるときのかれの眼は無垢ではなかったかもしれないが、けっしてからっぽではなかったはずだからだ。すでにじゅうぶん鋭くて、微妙なニュアンスをみわけるちからの柔軟があったことは、《平塚風景》一点だけをみてもはっきりしている。



油絵画家で古美術、とりわけ日本のそれのコレクターだという例はほとんどない。ふたつのせかいは断絶して、かようべき通路がさまざまな観念でうまっている。べつに禁じなくていいものがなぜか禁じられている気配である。それにくらべると日本画家のばあい、良寛や琳派の目利といわれた安田靫彦とか中村岳陵をはじめ、古い日本の美術品をあつめて身辺におきたがるひとがすくなくないのは、絵にただちにあらわれる故実の研究をこえて、そのしごとじたいが切断されずに緩やかに歴史につながっているせいなのだろうか。その安心の分だけ日本画家のほうがたぶんしあわせだが、ところで鳥海はといえば、洋画家としては例外的に日本の古い器物を愛玩してやまない、隠れた、しかも端倪すべからざる蒐集家だった。苦労して集めたというよりは、ものによせる鳥海の愛情のゆきわたるところ、おのずから集まったというほうが、その空気をよくつたえる。さきにあげた安田靫彦や中村岳陵でさえ、かれの好古癖がおのずから呼びよせたコレクションとその眼のつけどころに一目おいていたくらいに、鳥海の家には、なぜこれがこんなところにと驚く底の逸品佳品が手ばなしで迎えられ、親しげに座辺をにぎわせたあと、じつにさりげなく別のものと入れかわった。いったん手にいれたものに飽くまでこだわる独占飲も執着心もなくて、風とおしのいい、そんな蒐集のしかただったからだ。


こういう鳥海青児の骨董いぢりがいつからはじまったかは、ほんとうはよくわからない。わからなくてかまわないので、ただ、すでに引用した文でみずから語ったように、ヨーロッパからの帰国後だとかんがえるのがふつうだ。鳥海を慕っていた小野忠弘が仏像や陶磁器などをみて、みる以上に買うたのしさを、帰朝当時の鳥海におしえたのだという話も参考になるが、それとはまた別に、もっとさかのぽって、22、3歳あたりから近世初期の浮世絵や版画に手をそめたとは、これはあるインタビューにこたえた鳥海じしんの証言である。そのころの春陽会には岸田劉生はじめ日本のものが好きな先輩が多かったと、かれはつづけていっている。劉生の影響はきっとあっただろう。そういうすべてをふくめた骨董事はじめとしては、おおよそ1939年あたりに起点をおいていいだろう。家蔵の《初期肉筆寛文舞踊図》について、「我家の珍宝は今の所これ一つ、これからうんと集めたいと思つて居ります。」(*5)という鳥海のことばをとりあえず信用してみたらというこころである。


*5 鳥海青児『第十八回春陽会パンフレット』


浮世絵からはじまった鳥海青児の蒐集は琳派、古筆切れや墨跡、仏像仏画にまでひろがり、その好みは渋くてなかなか半可通どころではなかったし、又いっぽうでは陶磁器にも目くばりひろく、金工木工漆とこおよそジャンルを越境したばかりか、贋物をつかむことをおそれず、ただしみずから信ずる美の本筋にすこしでもつながるならば、専門家とか好事家なら一瞥もしないようなものでも買うことをためらわなかった。そんな橋のうえからみた河のながれのように鳥海をとりまく古美術はつねにゆっくりとうごいている。くるものは拒まず去るものは追わずとでもいいたい、いっけん受動的にみえてそうではない、そうなったという自然を自然とみてとる慈愛につらぬかれたあつめかただったから、万物がやがて地にかえるように、それがふたたび星散して痕をとどめないのもまた自然というべきか。そんなわけで幻の鳥海コレクションはまとめてみる機会どころか、かれが鍾愛してやまなかったときく《稚児大師像》たった一点さえ、どこに隠れたのか、みるのがとてもむずかしい。こんなものもあんなものも持っていたと、いろいろな話を知れば知るほど、鳥海宅を襲って、はからずも無上の眼福にあづかったひとたちの運のよさがつくづくうらやましくなってしまうだけである。


それはそうとして、いったいどんなものがあったのか、その全貌をさぐるためにいまのこっているのは、なにより雑誌新聞にのった対談やアトリエ訪問記のたぐいである。寺田透や秦秀雄や白洲正子のかいた文章と、中村岳陵とか安田靫彦とかわした対談がその一斑よく全豹をつたえてくれる代表といっていいだろうか。(*6)


*6 寺田透「アトリエ訪問」
  秦秀雄『名品訪問』
  白洲正子「都会の隠者」
  鳥海青児・中村岳陵「古美術話」
  鳥海青児・安田靫彦「大磯閑談」

とりあえず年代も順不同で、それらに登場する愛蔵のしなじなをざっとひろってみるだけで、


蓮華に象どった室町の仏器、大雅堂赤壁前遊図二曲一双、厩図屏風(室町)、外記臨摸とある正倉院鳥毛立女屏風の下絵模写、高野山月上院玄証本薬師十二神将(藤原)、初期肉筆浮世絵舞伎図、板絵女歌舞伎図、井戸御本古萩上野とゝや古唐津黄瀬戸の諸茶碗類、大般若経の経箱(鎌倉)、金風炉(桃山)、貞観仏、藤原自然釉壺、室町の鼓、埴輪、乾漆弘仁仏、白描時代不同歌合歌仙、絵因果経(鎌倉)、宗達色紙、経箱唐櫃(藤原)、白鳳の押出仏、黄瀬戸掛花生、光悦色紙(紫式部の歌)、あやめ手の黄瀬戸、三鈷鐶付釜、建武二年銘の蘆屋釜、稚児大師像、白描十二神将図、金銅押出仏、絵巻断簡、ぶちわれの唐津片口、藤原古備前経筒花入、藤原仏龕、雪舟、可翁、宗達の竜胆扇面画稿、黄瀬戸旅枕花入、光悦継色紙、藤原行道面、白鳳仏頭、僧形八幡木像、瓜形龕像、大覚禅師の書、藤原鍍金神像、毛彫鏡像、「べしみ」面、吸坂皿、天啓徳利湯呑、光琳作茶杓、光琳乾山合作の香合、薩摩白磁瓶、趙昌水墨蔬菜図、雪舟の書状、木米書簡、育蓮院旧蔵准胝観音図、法華経観世音菩薩普門品、光悦継色紙(慈円の歌)、奈良朝押出三尊仏、熾盛仏頂威徳光明真言儀軌、白描絵料紙墨書金光明経、如拙瓢鯰図(国宝とは逆向き同図)、兼葭堂旧蔵珠光山水図


といった風になるし、その他日常で、たとえは灰皿につかっていた雑器とか表装のために買いそろえた名物裂をくわえて、どんなものがでてくるかわかったものじゃない。それにただ書きうつしただけだから、だぶっているものがきっとあるはずだし、ぜんぶ一時に勢ぞろいしていたらもっとたいへんだけれど、それでもこれはちょっとした奇観壮観で、おもわず溜息をついてしまうのはぽくだけだろうか。


おかねと暇があるだけではこういうゆきとどいた蒐集はできるものではない。それを手のうちで愛撫することよりも美術史の資料にしたがる専門家と、ひとにとられたくないだけで、つかまえたものは暗いところにとじこめ、また次の獲物をあさる好事家のあいだをすりぬけて、ときには玄人のように、ときには素人のように求めつづけるためには、つねに初心でいることと見識のたかさにささえられた無形のエネルギーがぜったいになくてはならない。そのうえ骨董との真のつきあいは、じつはそれが手にはいった日からはじまる。持続するエネルギーという愛情がなければできることではなくて、そして鳥海青児の古物によせる哀惜愛情にはひときわふかいなにかがあった。いちまいの絵を何年もかけて描くことにふれて、ぽくはなかなかしつこいからね、と、幾分てれぎみに韜晦してかたるそのおなじ根から、この情熱もまた無尽蔵にわきだしてくる気配である。



かきうつしてわかるのは鳥海がけっして体系的にあつめようとしていないことだ。ちいさな美術館をつくって自慢するつもりはない。もっとわがままで、独断的で、であったところからうごきだす。そんな風にうごくこころのほうがじつは率直だから、かえって鳥海の好みは純粋にはだかになっている。いくつかの中国のものと、これはまた別に架蔵したことがわかっているパウル・クレー(ついでにいうと鳥海はクレーをとても気にいっていた。段々畠にも南瓜のシリーズにもその余韻がひびいている。)を例外として、かれが集めたのはすべて日本の古美術にかぎられていた。しかもそれは日本とはいっても、室町や鎌倉さえ影のうすい、さらにそれをこえて古い日本なのである。これはちょっとおどろいていい。


いかにも油っこい初期の絵からはもちろん、後期の洒落た絵のみかけからでさえ、これはなかなか想像できないし、たとえば水墨画や文人画が好きなんだろうなとおもうと、じつは大雅以外のほとんどの水墨は、純粋に造型としてみればとるにたりないとしてむしろ斥けられている。けっきょく室町以後でかれがよしとするのは意外にも近世初期肉筆浮世絵なのだ。なぜなら粉本にたよらずぢかに現実にぶつかって、ほんとうに人間を人間とみてえがいたからである。人間の匂いがする。それはそれとして、ぜんたいとして室町以降の評価はひくく、ふつう鎌倉を代表するとされる彫刻も、ちからの過剰がかえってちからの量的均斉を欠き、彫刻の原基であるトルソの資格がないとしてすてられるし、絵画も建築もそれ以前にくらべればかれの共感をよぶことはめったにないのである。


そういうことで、鳥海がもっともたかく買っているのは平安、というより藤原といいかえたほうがもっとよく雰囲気のつたわる時代の仏画であり、白鳳から貞観にかけての仏像、とりわけ弘仁仏ということになる。これもまた意外な感がする。パリのノートル・ダムをえがきつづけた硬質で骨のふとい画家の体質と、洗練のきわみで微妙なニュアンスと化した王朝の美なるものとが、うまくむすびついてくれないからだ。


いつのまにか藤原は優雅だけれどよわよわしいということになってしまっている。桜のはなびらのようにほんのりと上気した命うすいもの。眼のするどい鳥海といえども、こういう通説と常識からはじめたのは、ぽくらとたいして変わらない。もっとも、そこからがちがう。源氏物語のながれる文章が、だらだらと間のびしているようにみえて、簡潔にみじかく、宇宙も素粒子も、どんなことでもいってのける純粋散文のたくましいちからを秘めているのと同様、そのおなじ時代の美術に、とおくからでも香りつづける梅の匂いに似た、しなやかなつよさがあったという、だれもが忘れてしまったことを鳥海はおもいだす。いや、かれの手によっておしえられ、その手とともにかれの眠がそれを霧のなかからみいだすといったほうがいい。発見されるまろやかな日本。そういう日本が、高野山月上院玄証本薬師十二神将や准胝観音や法華経観世音菩薩普門品や貞観弘仁仏の姿をして、ゆきばをうしなった窮鳥のように、気がつくと自然に鳥海の懐に抱かれていた。


たとえば、ここに法華経観世音菩薩普門品がある。本文の色がわりの料紙に金銀の切箔をちらしながら継ぎあわせて普門品をうつす、その書もさることながら、それに花をそえる、見返しのやまと絵風風景画がまたすばらしい。あけぼのの空に日輪が顔をのぞかせ、やわらかに起伏する山の稜線と、屈伸する水のながれが古雅な音楽を唱和する。そよ風に葉をひるがえす一群の蓮華もまた。装飾になりきらず自然の姿をとどめたそのリズミカルなうごきと、そういう自然描写にさからわずに葦手がきで画面にばらまかれた、「元垢清浄光 惠日破諸暗 普明照世間」のことば。たしかに工芸的なしごとかもしれないが、絵と書とデザインが一体となってつくりだすこのせかいの感覚はばかにできない、ということをつとに鳥海はみぬいている。近代の独創という理念からとっくにかれは自由なのだ。だから三十六人歌集を、「ただやはり日本美術の特質を強く持つていると思うのですよ。工芸と字と絵画と入り乱れているエスプリなんていうのは、ちよつとやつぱり比類ないものだと思うのですよ。」(*7)と擁護するのだし、光悦や琳派をみとめるのも、他でもなく、平安のエスプリを模倣をこえて生かした、批評的な知性の冴えにあるのだが、それより、桃山人が古代によせた憧憬のあつい血に、ふかく共感するところがあったことのほうが、もっとだいじだ。それで鳥海が、慈円の「おほけなくうき世のたみにおほふかな我立そまにすみぞめの袖」をしたためた光悦色紙をもっていた意味もなんとなくわかってくる。ちなみに、それをかれは遠山裂や辻が花で表装して遊んでいるが、その遊ぶ楽しみにおいて時間は撥無され、鳥海はきっと光悦と、また逸名の装飾経の作者と腕をきそいたがる、同業のつくるひとになっている。


*7 鳥海青児・矢代幸雄・小林秀雄・秋山光和「日本美術百選」

こんな風になら藤原へむけた鳥海のまなざしはまだまだかたれるとして、そういうことをふくめて、こういうかれの判断の根のいちばん太いところがなにかと気になってくるが、てみじかにあっさりと、鳥海じしんのかたるところから求めれば、おおよそ、


たとえばアジャンタの壁画を見て、法隆寺の壁画を見るとまるで洗練度が違う。粗砂がインドのもので、フルイにかけたものが日本のものだというふうに、きめが非常にこまかい。偉大だとかそういうものだけが美術の全部ではないと思うんだよ。やはりリファインされたものというものも一つの重要な条件になつてくる。その点で僕は日本のものが好きなんだね。つまり大きいだけが、りつぱなだけが芸術の全部ではないと思う。片々たるかけら、小さい感じのものでも非常に美しいものがある。それもやはり取り上げなければならない。(*8)


*8 鳥海青児「世界の中のインド」

ということになるのだろうか。ところで、ここにあらわれた鳥海の視線はたしかどこかでであった憶えがある、と感じるのはぽくだけだろうか。あの雑草の可憐なうつくしさに驚いた視線が、ながい地下の水脈をとおってふたたびここに姿をあらわした。そのあいだに余分の汚れはぬけおち、もっと養分をあつめて、ひとくちでいえばゆたかに熟した。かつてのような不安はもうここにはない。自然は多端である。個性とか風土からくる制限をじゅうぶん知ったうえで、わたしにはこういう風にみえる、こういう風にしかみえない、といっている。だから、そんな鳥海の視線だけがただしいのではないが、鳥海の視線はただしい、というか信用するにたるのである。自然をみつめる観見の観の目がもしどこからか生まれるとしたら、こんなところからではないか。すでにみいだされているのかもしれない。雑草の可憐なうつくしさ。はじめはみようとしてみえたそれが、鳥海のゆっくりした歩みによって、みようとしなくても、いつもそこにあってかれをとりまくものとなる、といえばおおげさだろうか。そんなとき、片々たる枯草の色なき色は普賢の光をあびて、われらが聖母をやどす伽藍の色にかがやく。これをあわてて日本回帰などといった軽薄きわまりないことばで包んで、むりやりのみこむことはない。身心をはこんでゆくところ山河はどこでも鳥海のノートル・ダムとなる。



こんな妄想にも似たかんがえをかきながら、ぽくはいま鳥海のあることばをずっと思いうかべている。だいじなことほどくりかえすのがこのひとの癖だと、まえにいったが、中国やインドの仏像仏画が人間臭さにみちているのにくらべて、じぶんはやはり日本の仏像仏画が好きだという、そのわけを、「日本出来は仏を感ずる」「日本にくると、仏の姿を感ずる。」「日本美術で定朝様式というものが完成したのは、仏を日本人が完全に見たという感じのものだと思うのですよ。」(*9)といい、「あれだけ仏を仏として作りあげた日本人というもの」(*10)とかたり、「仏を見るという点では、日本人が一番見ている。」(*11)とくりかえすときの、この仏ということばがそれなのだけれど、それは、たんなる比喩をこえて、鳥海にとってもっとも大切ななにかを意味する。こういうことばを、ぼくらのほうから、せまい日本にとじこめてはならない。古代人がどうであれ、鳥海のほうはたしかに仏をみているのだし、ぽくにはそっちのほうがはるかにだいじだ。


*9 鳥海青児・矢代幸雄・小林秀雄・秋山光和「日本美術百選」

  *10 鳥海青児・中村岳陵「古美術話」

  *11 秦奔雄『名品訪問』

ここでみあやまってはいけないことがある。すでに、やさしいだけが鳥海の好みなのではなかった。雑草をいかす風土の繊細さは又雑草がいきる風土のたくましさでもある。藤原のあのやわらかそうな線のながれも、うちに秘めたつよさがあってはじめてでてくることを、鳥海はよく知っていたし、逆にいえば、それがあっての古い日本への尊敬なのだ。掌にのってしまうくらいちいさな《鍍金女神像》のかたまりに凝ったエネルギーの感覚。神々しさよりもっと素朴であたたかみがまさった《僧形八幡像》。そしてどこかユーモアをふくんだ《べしみ面》の単純なちからづよさ。およそものにこだわらない、おおらかで温雅なものは、いまあげたものだけでなくて、《藤原行道面》にも《瓜形龕像》にもたしかにみてとれて、それらこそ、手にいれたことを鳥海がなににもましてよろこんでいる純真でまどかな日本なのだ。


おなじことはこの島国の古陶についてもいえて、日本のやきものは色もかたちも、「風土の匂ひをそのまゝ表わしている」(*12)から好きだとだけいっておけはいいのに、中国のそれのようなきびしいフォルムをもっていないと認めるのがくやしいのか、「よく唐津をはじめ日本の陶器は、支那のものなどにくらべて形がくずれて居ると云いますが、私はくずれてはいないと思う。」(*13)とつよがるのは、このひとならではの愛嬌でもあり、どんな観念にもとらわれない、まなざしの探さでもある。はじめから普遍的な美があるのではない。まづ手ぢかなところで土なら土の手ざわりを楽しむ。その楽しむこころがきわまるところ、四時風土の底にひそんだ色がその当の色のなかからゆっくり現成してくるように、そとからではなく、かたちはかたちが生まれたがるその線の力学のなりゆきにそって、いわば「自然」にあらわれなければならないもの、と鳥海はかんがえる。そして日本の古陶にはそれがあった。それは、本職の油絵において、


私は描く材料の上では、心に盛り上がつて来るまで考へますが、根がラフなせいか、どんなものを表はしたいとか、どんな感じを出したいといふ様な考へは起りません、出来上がった畫が私の畫なのです。深く尊び得た材料を素直に観、心に何のこだわり無く描く。それ以上の究明がないのです。一口に申せば「自然」です。(*14)


*12 鳥海青児・安田靫彦「大磯閑談」

*13 鳥海青児・安田靫彦「大磯閑談」

*14 鳥海青児「私の画生活」

というときのその「自然」になぜか似ているのだけれど。そしてこの「自然」には、山河のいたるところに念仏の声をきいた一遍上人の非我と無差別と兼愛のおしえがかたちをかえながら、鳥海にいきているともみえるのだけれど、それならば、作画の心得をかたったそれがまた、はからずも、鳥海のやきものをみる眼とぴったりかさなってしまうのは、けっして奇異ではないものの、そのことをふくめて、骨董いぢりと本来のしごとのあいだの微妙なつながりについては、いまは深くたちいらない。だいいち影響をいうほどなら、たがいにたがいの影響はあったのにきまっているので、それは又手にあまるがべつの機会にたのしみながらやってみたい魅力的な主題である。いまはただ、鳥海がほんとうに古美術が好きで好きでたまらなかったことがわかればいいので、白洲正子にたずねられてこたえた、裏をよもうとすればよめないことがないことばを、そんな誘惑にまけず、鳥海がいつもこころがけていたはずの素直なきもちにこちらもなって、聴くことができればと思う。


仕事をして、疲れると、こういうものを出して来て眺めるんです。そうすると、頭がカラッポになって、いい気持になる。休まりますね。(*15)

(三重県立美術館学芸員)

*15 白洲正子「都会の隠者」

(出典委細はカタログ掲載の文献一覧を参照)
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