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デスピオと日本の近代彫刻

酒井哲朗

シャルル・デスピオは,日本の彫刻界にとって忘れられない彫刻家である。とりわけ,1930年代に頭角を現してきた彫刻家たち,すなわち第二次大戦の直前に青春期を迎え,戦争を体験し,そして戦後の日本の具象彫刻の中心になった彫刻家たちは,デスピオの強い影響を受けている。

日本の彫刻にかかわりの深い,ロダン,ブールデル,マイヨールらの展覧会は,これまで日本で再三開かれてきた。また,ザッキンやアルプ,ジャコメッテイ,へンリー・ムアらの回顧展も開かれ,それぞれの芸術の全体像が紹介されている。しかし,デスピオに関しては,1974年に東京と大阪で,彫刻20点,デッサン10点による小規模な展覧会が開かれたことはあるが.日本ではまだ本格的にその芸術の全容をうかがう機会がなかった。

今回,デスピオの生まれ故郷であるモン・ド・マルサン市のデスピオ−ヴレリック美術館のフィリップ・カマン館長の尽力により,また,デスピオ研究の第一人者であるエリザベス・ルボン女史の協力を得て,現在望み得る最善のかたちでデスピオ展が開かれることになった。さらに特筆すべきことは,日本におけるデスピオ展に先だち,デスピオ−ヴレリック美術館で,日本の彫刻家10人の展覧会が開かれることである。菊池一雄,本郷新,柳原義達,佐藤忠良,舟越保武ら,戦後日本の具象彫刻の中心になった10人の彫刻家であり,デスピオの感化を受けた彫刻家たちである。デスピオをめぐる日仏両国の交換展が実現したわけである。

この一連の企画が実現したのは,カマン館長の熱心な努力に負うところが大きい。日本の彫刻家10人展は,デスピオ展開催にかかわった各美術館の学芸員が分担してこれに当った。このような国内の美術館相互の交流と協力もまたこの展覧会の収穫のひとつであったことを記しておきたい。

周知のように,日本の近代彫刻に甚大な影響を与えたのは,オーギュスト・ロダンである。明治末期に荻原守衛や高村光太郎がロダンに心酔し,荻原がロダンに学んで制作した作品は,日本の彫刻界に革新をもたらした。また,明治43年(1910)4月に創刊された雑誌『白樺』は,武者小路実篤.有島武郎,生馬兄弟,志賀直哉,柳宗悦らの同人たちがロダンに熱中し,『白樺』のロダン特集号(1910年11月)をロダン本人に贈呈したのが機縁となり,翌年ロダンから《ゴロツキの首》《ロダン夫人像》《或る小さき影》の3点の作品を譲り受け,展覧会を開くにいたった。

ロダンによって彫刻に開眼した萩原は,「彫刻の真の美は内的な力若しくは生命に存すると断言する」(「予が見たる東西の彫刻」『芸術界』明治41年8月号)と高らかに言明した。1910年代の日本におけるこのような生命主義芸術の高揚の中で,ロダンは象徴的な位置を占め,ルネサンスの巨匠ミケランジェロと並ぶ「生きた天才」として神格化された。高村光太郎が編訳した『ロダンの言葉』(大正5年,阿蘭陀書房),『続ロダンの言葉』(大正9年,叢文閣)は,後続の彫刻家たちによって『聖書』のように読まれ,高村はさしずめ伝導者のような役割を果たすことになった。

1920年代は,日本の美術家たちのパリ留学の最盛期であった。セザンヌやゴッホ,ゴーギャン,ルノアールに憧れてパリに渡った画家たちが,ヴラマンクやドランらを通じてフォヴィスムを学んだように,ロダン歿後のパリに学んだ日本の彫刻家たちは,ブールデルやマイヨールに学んだ。たとえば保田龍門,清水多嘉示,木内克,武井直也らはブールデルに学び,山本豊市はマイヨールに学んだ。彼らは,ロダンの芸術精神を継承し,生命主義的芸術の系譜に連なりつつ,ロダンと異なった道を求めたブールデルやマイヨールの影響を受けたのであった。この頃から,「ロダン以後の彫刻」という問題意識が顕在化してくる.デスピオが注目されたのも,このような流れの中においてである。

デスピオの影響を最も強く受けたのは,1930年代に青年期を迎えた彫刻家たちである。彼らは,中国大陸の戦火が拡大して戦時色が強まり,やがて日米開戦にいたった思想統制の厳しい暗黒の時代に青春を過ごした。この世代の彫刻家で,実際にデスピオに学んだのは菊池一雄くらいのもので,彼らの多くはデスピオの実作を見たこともなかった。菊池は,昭和11年から3年間パリに滞在したが,この頃ブールデルはすでに死去し,マイヨールは南仏の田舎に住み,デスピオがパリにいた。菊池は,フランスに渡るまではマイヨールをこ惹かれていたが,パリに行ってみてマイヨールよりもデスピオの作風に魅力を感じたという。菊池は,デスピオについて,深い敬愛をこめて,次のように語っている。

「当時の私のような青二才に対しても,少しの構えもなく,まるで旧い仲間のように接するので,こちらはまごついたが,かつてロダンの前でも『私にはそういう風に見えません』と平然といったそうである。誰に対しても,独立の芸術家は対等の立場にあるというのがその信念であった。他人の作品については『これは炎(フラーム)がある』『これは私にはわからない』としかいわない」(「デスピオについて」『デスピオ展』図録,1974.読売新聞社)。菊池は,静かで凛とした,自己抑制的で内面的な探さをもつ,デスピオの人と芸術に惹かれたようである。菊池の《ギリシャの男》(1937)や《スペインの娘》(1938)などは,デスピオの感化の濃い作品である。

菊池は,日本で晩年のロダンの助手兼弟子だった藤川勇造に師事した。藤川の彫刻は,ロダンの激情的な表現とは異なった穏健な写実であるが,菊池は師の彫刻について,ロダンを正当に理解し,当時のロダンとフラ・塔X彫刻のよい面をこの人らしく消化して日本に伝えた人だという(今泉篤男「菊池一雄の人と作品」『菊池一雄』1976,現代彫刻センター)。菊池は,この藤川の評価にみるように,デスピオを通じて,フランス彫刻の「よい面を」菊池らしく消化して,独自の彫刻をめざしたといえるだろう。

ロダンを崇拝し,高村光太郎を敬愛し,反アカデミズムと生命主義を標榜して,1930年代はじめに国画会に結集し,昭和14年(1939)に新制作協会彫刻部を創立した若い彫刻家たち,すなわち本郷新,山内壮夫,明田川孝,柳原義達,舟越保武,佐藤忠良,吉田芳夫らに,デスピオは強い影響を与えている。
年長で彼らのリーダー格であった本郷新は,彫刻を平易に解説した名著といわれた『彫刻の美』を昭和17年に冨山房から刊行したが,その中で彫刻の歴史について,次のようにのべている。

「その後フランスでは,ロダンによって新しい自覚にかえった彫刻は,その後続者であるブールデル,マイヨール,デスピオという現代の大家によって,さらに深くなっていった.…中略… また張りきった生命を単純な形にちぢめて,エジプト彫刻の大らかさとギリシャ彫刻の清らかさを,新しく現代に生かしたのはデスピオである」。

柳原義達は,「ロダンの時代が去って,ブールデル,マイヨール,デスピオの作品が当時の学生の心をとらえていた」(「私と彫刻」『柳原義達美術論集・孤独なる彫刻』昭和60年,筑摩書房)と回想し,同じ著作の別の箇所で,デスピオについて,「その簡素な仕事は決して単純という意味ではない,その中に生命が宿り,生命の息吹がある」と語っている。彼らにとって,デスピオは,ロダンの芸術精神を正統に継承した現代の大家であった。つまり,ロダン以後の具象彫刻の指標となったのである。神の如く偉大で激しいロダンに対して,デスピオの簡潔なフォルムとデリケートな清澄さは,彼らに人間的な親しみを感じさせたようだ。

柳原や舟越,佐藤らの初期の作品,主として首であるが,それらのほとんどにデスピオの影響が認められるといえよう。柳原に《犬の唄》(1950)という,犬がちんちんするように前かがみの特異なポーズをした有名な裸婦像があり,翌年それと対照的な直立のトルソをつくっているが,このトルソはデスピオの面の構成を意識して制作した,と作家自身から解説されたことがある。また,大理石を手がけた舟越は,デスピオがロダンのシャヴァンヌの大理石像を彫ったことを知っていたであろうし,デスピオの《ポーレット》などは参考になったと思われる。

しかし彼らは,デスピオの作品の実物を見たわけではなかった。佐藤忠艮の回想によれば,当時彼らは,美術雑誌の写真などを切りぬいた作品集を,きそってつくったという。佐藤自身は,古書店で見つけたデスピオの作品集を愛蔵していた。彼らは図版を通じて彫刻を学び,それぞれの方法を見いだしていったのである。

この点について,佐藤忠良から興味深い話を聞いた。佐藤は,はじめマイヨールに惹かれたという。そこでマイヨールをまねて彫刻をつくろうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。その原因は,マイヨールの様式をまねようとしたことにあったという。マイヨールは,フォルムを円や立方体などの要素に還元して構成しているため,その様式だけをまねることは不可能だということに気づいたというのである。

佐藤は,デスピオから写実を学んだという。デスピオの彫刻は,シンプルな形の中にしっかりと内容が充実しており,内部に力があるという。つまり,内面的写実である。さきに引用したように、柳原も,「その中に生命が宿り,生命の息吹がある」と同じことをいっている。この頃,ロダン以後とか,ロダンからの脱出ということがしきりにいわれた。このことは,ロダンの影響がいかに強かったかということを物語るとともに,具象彫刻というものが,どのようにロダンから脱出し,独自の様式を創造するかが,彼らの共通の課題であったことを意味する。彼らは、その手がかりをデスピオに求めたのである。

デスピオに親炙した菊池一雄は,「素朴で誠実で,あくまでも自己に忠実であり,いささかも商売気がない」(前掲『デスピオ展』図録)とその人柄を語り,その制作態度は「文化というものの本来の姿に近いものであり,ギリシャの伝統をどのように解釈したかということではなくて,伝統をそのものの中に生きていた人というべきなのであろう」という。菊池ら日本の若い彫刻家たちは,このようなデスピオを通じて,ロダンやフランス彫刻を再解釈し,それぞれに独自の具象彫刻をめざしたのだといえよう。

[三重県立美術館長〕

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