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カール・ラーションヘの旅−スンドボーンとグレー=シュル=ロワン

荒屋鋪 透

三重県立美術館学芸員

 

スンドボーン

 

ストックホルムのドロツトニング・ガータン(通り)にある劇作家ストリンドベリ記念館で,私は1冊の本を見つけた。ふと不思議な挿絵が目にとまったのである。それは1881年スウェーデンのボンニエル出版社から刊行された『移ろいやすい早春の季節に−詩と真実』普及版表紙1)であった。標題のあいだに小説『赤い部屋』で文学界に登場したまだ32歳のストリンドベリの顔をはさみ,垂直にのびる木の幹と水平に配された文字による図案。幹から分れた木瓜(ぼけ)と思われるバラ科の植物の小枝が刺をだして右から肖像を包み,左からはツワプキの葉とアスターのような花が題字にからむ意匠である。絵の作者はカール・ラーション。曲線的なアール・ヌーヴォー様式とは異なり,ここには直線の枝が交互に重なる東洋的な雰囲気が漂っている。初期の小品ではあるが,この表紙絵にはラーション芸術のひとつの特徴を見ることができそうだ。よく引用される「日本は芸術家としての私の故郷である」というラーションの言葉があるが,1895年『私の家族』のなかで述べたその文章にはつづけて,古代ギリシアに源泉をもつヨーロッパ美術の理想美に対して−画家自身の見解ではあるが−美醜に関係なく具体的な動植物をモチーフとする日本美術へのラーションの憧れが表明されている。この言葉はすでに1987年の展覧会『北欧の美術』展カタログにおいて,プー・リンドヴァル氏によって日本に紹介された。氏が引用した箇所を一部分,再録してみたい。「日本は芸術家としての私の故郷である。日本人は世界で唯一の真の芸術家である。我々ヨーロッパ人にとって芸術はひねり出した,手を入れすぎた,スノツブなものである。……しかし日本人の芸術は,たとえ我々の目には風変わりに映ったとしても,生き残る可能性ははるかに大きい。なぜならギリシア人のように美だけを追求するのではなく,いわゆる醜悪(つまり動物や物の外的特徴)をも“参加”させるからである。」2)

 

1993年6月17日,かつてラーションが住んでいたスウェーデンの小さな村スンドボーンにある家を訪れた際,私はそこで画家が蒐集した多くの日本の美術工芸品を観ることができたが,錦絵のみならず屏風,陶磁器,人形,地蔵菩薩像にいたるそのコレクションは,ジャポニスム(日本趣味)をこえて,ラーションの日本美術に対する博物学的な執着心を感じさせるものであった。小原古邨の絵画,菊川英山の木版画が,白い木製のスウェーデン家具や青と白のストライプのカーペットのある明るい部屋の壁に掛けられている。その壁の反対側,ゼラニウムの鉢が置かれた窓辺は作品集『わたしの家』3)の1点,長女スザンヌが花に水をやる情景をそのままにとどめている4)。スンドポーンを訪れる前日,スウェーデン国立美術館長ウッレ・グラナート氏から,画集『わたしの家』の復刻版をいただいたので,私はすぐこの家のなかを思い出すことができた。いまは記念館として開放されているラーションの家は,画家生前の状態を保存しながら実際そこで生活できるよう工夫されており,ラーション家の好意で私はその家に1泊することを許された。

 

スンドボーンはダーラナ地方の県都ファールン市から車で20分ほどの村。ストックホルム国立美術館学芸員のトシュテン・グンナション氏,美術館連絡協議会事務局長の飯田隆介氏と私は,6月17日朝ストックホルム中央駅発9時14分のムーラ行特急に乗りスンドボーンに向かった。スウェーデンの古都ウプサラを経由して,正午過ぎに乗換え駅プールレンゲ着。ここから各駅停車の列車で20分ほど行くと銅山で名高いファールン市である。ファールン駅には12時35分に到着。駅にはカール・ラーション・ゴーデン(記念館)のインテンデント(学芸員),マリアンヌ・ニルソン女史が車で迎えてくださり,私たちはスンドボーン村に1時前に着いた。カール・ラーション記念館は毎年5月1日から9月30日まで一般に公開されていて,午前10時から17時まで,ラーションが家族と暮らした家のなかを見ることができる。ラーション・ゴーデンのなかに住む,カール・ラーションの次男ボントゥスの子息でラーションの孫にあたるラールス・ラーション・ヒュッテ氏夫妻は,私たちを暖かく家のなかに案内し,飯田氏にはラーションの寝室を,私には《スンドボーンに泊まったプリンス・エウシェーンヘの目醒めのお祝い》(cat.no.31)に描かれた「昔風の部屋」を用意してくれた。フリースラント家具の扉を開けるとアルコープのなかにベッドが隠れている,この古雅な17世紀風の客室のとなりはラーションの書斎である。

 

日本に帰国してから,ラーションのように日本へ関心を寄せたもうひとりのスウェーデン人が18世紀にもいたことを知った。それは「日本のリンネ」と言われたスウェーデンの博物学者トゥンベリーである。西村三郎氏の研究により,その該博な知性の全貌が日本で紹介されたカール・ペーテル・トゥンベリー(1743−1828年)は,スウェーデンのウプサラ大学でリンネに学んだ博物学者5)。安永4年,1775年に来日し長崎の出島に滞在した1年4か月の体験−その間彼は長崎商館長に同行し江戸旅行をしている−を記した『喜望峰,スンダ列島などを経由せる,C.P.トゥンベリーの日本への旅』(1796年)には,日本の版画について以下のような興味深い記述が見られる。それは驚くほどラーションの言葉に近いものだ。「日本人は版畫を全然知らないのではないが,畫としてはずつと欧羅巴に劣る。然し私の考では日本の版畫は特別の価値があると思ふ。それは動植物の如き実際にあるものでなければ繪としないことである。そしてこれに空想の産物で,藝術家の勝手な空想のなかのみに存してゐるやうなものを交じえないことである。」6)

 

もちろんトゥンベリーの稀親書よりもラーションは容易にビングの雑誌『芸術の日本』を見ることができたであろうし,本カタログに寄せたグンナション氏の論文にも紹介されてもいるが,1888年の同誌創刊号ではサミュエル・ビングが「蜘蛛の巣に幾何学を学び,雪の上の鳥のあし跡に装飾のモチーフを見,そよ風が水面に描く漣(さざなみ)に曲線模様の霊感を受ける」7)日本の芸術家の視点に注目している。日本美術に見られる表現上の工夫,例えば輪郭線による形態の把握,掛幅(掛物)の縦長の画面に奥行を与える対角線の構図、対象の部分だけを描き,その強調された細部で全体を暗示する構図法「図取り」,俯瞰構図などはたしかにひとつの技法として画家を魅了したに違いない。しかしラーションの書斎の天井に近い壁に,つづけて観賞できるようにと一列に並べて陳列された日本の役者絵を見ていると,モチーフの細部や断片,そしてその連続した動きなどに固執した画家ラーションのリアリズムのひとつの源泉はその役者絵にあるような感慨を覚える。それは単なる技術上の問題をこえて,日本美術に具体的に表現されているような,自然と人間との関わりへの深い共鳴ではないだろうか。グンナション氏は,ラーションの作品《今日の美術》に描かれた日本人画家について触れ,ラーションの制作を見守るようにしてその絵に登場する「日本の画家は,ラーションにとって自然界に対する新しい視点を示す案内人であると解釈することができ」8)ると述べている。それにしても1796年に刊行されたフランス語版トゥンベリーの日本紀行扉絵−おそらく33歳で来日した当時の面影をもとに,若きトゥンベリーが彼の命名したヤハズカズラ属の植物に囲まれている−のポートレイト9)はストリンドベリを描いたラーションの表紙絵に似ているようで面白い。

 

グレー=シュル=ロワン

 

オテル・シュヴィヨン(シュヴィヨン館)の応接室はロワン川にのぞむ庭に面した広く特徴的な窓をもっている。開閉のきくフランス窓の上にさらに色ガラスをはめた部分があり,青,黄,緑のガラスから柔かい光線が広い室内に採りこまれる。その窓を通して中庭の右手に見えるのは,かつてラーション夫妻のフランス留学中に滞在したアトリエである10)。シュヴィヨン館が先頃,スウェーデン第2の都市イェーテポリに本拠を置くグレー=シュル=ロワン財団の運営により,インスティテュート(研究所・学生会館)として甦ったことを教えてくれたのは,スンドボーンのラーション家の家長ヨーラン・ランシュトレーム氏夫人とニルソン女史であった。ふたりは,私がスウェーデンからの帰途パリに寄り,市内のスウェーデン文化会館とグレーを訪問する予定があることを知ると,私の持参した黒田清輝や浅井忠のグレーを描いた作品の写真を熱心に見ながら,黒田や浅井も滞在した宿であったシュヴィヨン館の近況を話してくれた。イェーテポリの篤志家により設立されたグレー=シュル=ロワン財団はシュヴィヨン館を所有して,かつてのホテルを改築,維持管理しながら,その施設を芸術家や研究者,著述業者に開放しており,規約によるとスウェーデン,北欧諸国とフランス国籍をもつ者に優先権があるものの,部屋の使用が可能である限りにおいて他の諸外国の上記資格者もその使用が許可されるようである。すでに財団設立にいたる経緯とホテルの改装については,1987年にイェーテポリ美術館で開催された展覧会『1880年代の北欧人,フランスにおけるある芸術家村』展11),また1991年パリのスウェーデン文化会館における『グレーのスウェーデン美術−甦るシュヴイヨン館』展12)で紹介されており,私の報告の多くの部分も後者のカタログに依拠している。

 

『詩と真実』表紙を制作したラーションはストリンドベリと次の仕事『スウェーデン人の日常生活』(1882年)挿絵に着手したが,当時,王立図書館に務めていたストリンドベリは自伝的色彩のこい小説とともに,その旺盛な知識欲を祖国とヨーロッパの文化史に向けていく。やがてエミール・ゾラと自然主義に傾倒した劇作家は『フランス農民のあいだで』(1889年)の執筆にとりかかるが,そのモデルとなったパリ郊外の牧歌的な村がグレー=シュル=ロワンである。ストリンドベリのグレー到着は1883年9月22日。彼をグレー村に誘ったのはラーションである。グレーを劇作家に紹介するラーションの手紙がある。「ぼくはいま,牧歌的な小さな田舎の村に住んでいます。ここで来年のサロンにむけて風景画を描くつもり。きみにはそう映るかもしれないけれど,隠遁したのではありませんよ。……善良な司祭に任された,とてもとても古い教会,我らのプランシュ妃とマリー・ステュアートの幽棲した城の廃墟,木々に縁どられた美しい川,ほとんど入りこむことができないほどに密生した森が片方にあり,もう一方には肥沃な麦畑,可愛らしいロバ,信心深い人々がそうした自然のなかを歩いていきます。それらがこの村にある神の創造物すべてなのです。太陽はいつでも敬虔なものみなの上に輝いています……。」13)

 

グレー=シュル=ロワンはパリ市街から南東に70キロ,フォンテーヌブローの森の南西9キロに位置し,セーヌ河の支流ロワン川の横切る,今日人口千人ほどの村。列車ではパリのリヨン駅から近郊線のモレ駅乗換え,ふたつめのプーロン=マルロット=グレー駅下車徒歩約1時間である。村の中心にガンヌの塔と呼ばれる12世紀の城の廃墟があり,塔を背景にして,すぐ近くの石橋の眺めが美しい14)。同じくフォンテーヌブローの森の東にあるバルビゾン村には及ばないまでも,カミーユ・コローの風景画に描かれ15),ゴンクール兄弟の1863年7月24日の日記に登場する頃から,この小さな村には芸術家が訪れるようになった。そして1870年代から今世紀初頭にかけて,グレー村は小規模ながらアーティスト・コロニー(芸術家村)の様相を呈したのである。とくに1880年代は北欧の芸術家が最も多く滞在した時期にあたり,そのグループの中心にいたのがラーションとカール・ヌードストロームである。ライオネル・カーレイ氏の先駆的な研究により,ラーションが滞在した時期にグレーを訪れた芸術家の交友や影響関係について,私たちは正確な情報を得ることができる。「1880年代と90年代のグレー=シュル=ロワンで活躍したすべての芸術家グループのなかで,最も名高く実りの多かったのは,疑いなくカール・ラーションとカール・ヌードストロームという才能ある主要メンバーのもとに集まった,ひとつの強力な北欧の芸術家グループであった。」16)

 

はじめてグレーを訪れたスウェーデンの画家はヒューゴ・サルムソンだが17)その滞在は1874年の束の間の期間に過ぎず,1876年の年記をもつオスカル・テーノの風景画が,スウェーデン人による最初期のグレーでの作品。テーノには77年のロワン河畔を描いた風景画もある18)。続いて82年にはスウェーデンのリッカルド・ベリが,また同年にはノルウェーのクリステイアン・クローグがスウェーデンのカール・ヌードストロームとともに訪問している。ラーションにグレーを教えたのはヌードストロームである。ストックホルム滞在中に,私はプリンス・エウシェーン記念館で開催していた「カール・ヌードストローム展」19)を観ることができた。会場にはグレー時代の作品をまとめて展示した一室があり,ヌードストロームの外光表現に果たしたこの村の役割を目のあたりにしたのだが,いくつかの作品はラーションとの共通点を示している。『フランス農民のあいだで』第2章のなかでストリンドベリは,この村で画家たちの描く風景画について以下のように指摘している。「特徴的な陰影と固い線という側面をもち,スミレ色の色調をした大気は,コローの靄(もや)の立ちこめるような風景画ほどではないにしても,大抵もいつも霧が掛かるように対象が溶け合っている。」20)風景画家コローと農民画家ジュール・バスティアン=ルパージュ,そしてジャン=シャルル・カザンというフランスの「ペイザンリ(田園風俗・風景画)」の先駆者を引き継いで,北欧のグレー派たちは単色の諧調をもつカマイユ技法を用いた。ラーションの《老爺と新しく植えられた木》(cat.no.10)は,グレーに来る以前のパリ時代の作品に見られる,重苦しい色調と硬直したリアリズムから画家が解放され,年輪という寓意を秘めながらも21),モチーフの本質を詩情をこめて語るラーション芸術のひとつの到達点をすでに示しているのではなかろうか。また彼の《家庭菜園で》(cat.no.11)ヌードストロームの《木々のある中庭のモチーフ−グレー》22)との類似を見せながらも,後のスンドボーン時代の一連の家庭を描いた水彩画を予告するような物語性に満ちている。

 

こうしたグレー時代の水彩画の1点《10月(南瓜畑)》(cat.no.8)は1883年のパリ・サロンで3等賞のメダルを獲得する。ストリンドベリは「……カール・ラーションの作品は素朴でしかも真実味がある。」23)という賛辞を贈っている。この水彩画をめぐっては,フランス政府とコメディ・フランセーズの名優プノワ・コンスタン・コクランが競って購入を希望したが,いち早くパリに打電したスウェーデンの実業家コレクター,ボントゥス・フュシュテンベリーが入手するという一幕が演じられた。ところでラーションには後に彼の後援者となったフュシュテンベリーの邸宅を描いた水彩画《フュシュテンベリー家ギャラリーの室内≫(1885年)24)があるが,その絵には画中画として,湖畔の草原に数人の裸婦が休息する大きな油彩画が描かれている。この画中画の作者はラファエル・コラン。絵の題名は《夏》である25)。コランは黒田清輝をはじめ多くの日本人留学生が師事した世紀末のフランス外光派画家。パリ・サロンで人気を博し,リュクサンプール美術館が所蔵する《花月(フロレアル)》は評判であった。パリの画塾アカデミー・コラロッシで教えていたコランの指導をうけた東京美術学校の黒田の後継者,和田英作や岡田三郎助もコランから影響を受けている。コランの作品は現在でもいくつかの日本の絵画コレクションで見ることができるが,グレーのラーションをいち早く評価したフュシュテンベリーの蒐集品のなかに,コランの作品があるのは興味深い事実である。この絵は現在イェーテポリ美術館に所蔵されている。ラーションより数年遅れてグレーを訪問した最初の日本人画家は黒田清輝であり26),彼は東京美術学校が新設(1896年)されるとその最高指導者となった画家。黒田は日本に外光派絵画を移植し白馬会という名の在野の美術団体を創ったが,それはラーションやヌードストローム,リッカルド・ベリ,ニルス・キュレーゲル,ブリューノ・リリェフォシュといった80年代の北欧グレー派がスウェーデンに帰国後,反アカデミー「オプーネント(反逆派)」のグループに参加し,90年代にヴァールベリなどスウェーデン国内の芸術家村を形成して外光主義を実践して行く姿に類似した足跡を辿るのである。そしてその外光派絵画の発祥の地こそ他ならぬグレーであった。黒田が最初にグレーを訪問したのは1888年(明治21)5月5日土曜から10日木曜のこと。義兄で当時フランス公使館書記生であった橋口文蔵こと直右衛門と黒田はアメリカ人の友人に連れられてグレーを訪れる。黒田は5月13日日曜から24日金曜頃に再訪しており,この時はアカデミー・コラロッシの学友レイムスデルなる人物といっしょである。このレイムスデルとは,アメリカ人画家フレドリック・ウィンスロツプ・レイムスデルのことかと思われる。コラロッシ画塾の記録によると1891年には彼は在籍しているようだ27)。この時期,フュシュテンベリー家の三幅対の壁画を制作するためパリに滞在していたラーションは,妻カーリンとともにグレーを再訪しているが,黒田とラーションが出会う機会があったのかどうかは不明である。

 

オテル・シュヴィヨン

 

ロワン川にかかる石造りの橋は「昔の橋」と呼ばれている。半円形のアーチをくりかえすその橋から役場に向かう途中,村のメイン・ストリートにあたるウィルソン通りに面してオテル・シュヴイヨンは建っている。ふたつの世界大戦により「昔の橋」はしばらく他の資材で補強された痛々しい姿であったが,今では立派に修復され,かつて多くの画家たち,ヌードストローム28),英国のジョン・レイヴァリ,日本の浅井忠29)や児島虎次郎30)の作品に定着された往時のままに,たおやかに流れるロワン川を跨いでいる。この小さな村の中心には,ラーションの書簡にもあるプランシュ・ド・カスティーユ,ルイ12世,ルイ16世ゆかりの寺サン・ローラン教会があり,そのすぐ南隣が村役場である。1990年の3月に私ははじめてこの村を訪れ,役場にも行ってみたのだが,新シュヴィヨン館はまだ開館されていなかった。新シュヴィヨン館開館を記念して開催された,パリのスウェーデン文化会館での前述した展覧会カタログには,スウェーデンの人々が1970年代からシュヴィヨン館に関心を寄せ,1986年頃から新シュヴィヨン館の事業が具体的に計画されて,イェーテポリの篤志家が同館を購入したことで財団設立が実現したと報告されている。

 

ラーションがグレーに滞在していた頃,村には芸術家を対象にしたふたつのホテルがあった。ひとつはオテル・ボーセジュールで,これはローラン一家が賄っていたことからオテル・ローランとも呼ばれていた。あとひとつがシュヴィヨン一家のオテル・ド・ラ・マルヌ,別名オテル・シュヴィヨンである。宿の正式な名称よりも,画家たちは主人の名をつけたオテル・ローラン,オテル・シュヴィヨンと呼んでいたようだ。ストリンドベリがパリで出版した第2詩集『夢遊病者の夢』(1884年)のなかの1篇「グレーの外光派画家」にはオテル・ローランに住む多国籍の芸術家が唄われている。「スウェーデン人,アメリカ人,フィンランド人,…はパリとそこにいるモデル,バカ騒ぎを残してボーセジュールに静寂を求めた。彼らはヌムール近傍のグレーに腰を落ち着けたのである。」31) 村の歴史を記録した書物32)によると,シュヴィヨン夫妻には4人の子ども−長女エルネスティーヌ,長男ポール,次女ベルト,次男ジュール−がいたが,1881年に夫を失ったシュヴィヨン夫人は宿をポールとともに切り盛りしていた。浅井忠の『愚劣(グレー)日記』に登場するのはポールである。シュヴィヨン館はポール・シュヴィヨンが亡くなる1917年に店を閉じ(その3年前にはシュヴィヨン夫人も死去している),同年10月にラヴェルノ家に買収されて,オテル・ラヴェルノとして営業されるが,そのホテルも1924年には閉店している。続いて同ホテルは1925年にはオテル・ロワン,また1930年にはオテル・ド・ラ・プール・ドーという名前でオーナーを代えながら宿を開いていたようだ。

 

シュヴィヨン館の建物は村の広場に面したファサードをもつ主要部分とその両翼からなっている。コの字型をしたホテルにはかつて18の客室があったというが,新しくオープンしたスウェーデンの財団による新シュヴイヨン館には,小さなキッチンとバスルームを備えた6つの部屋が用意された。客室を両巽にもち,主要部分の1階には旧ホテルの玄関ホール,大きな集会室と食堂,台所がある。ラーションの旧アトリエは中庭の側面2階で台所とバスルーム付,シュヴィヨン館で最も大きな滞在用ロッジとなっている33)。1993年6月22日,新シュヴィヨン館を管理しているベルナデット・デュペラ女史のオフィスで,私は新シュヴィヨン館のリーフレットを見せていただいたが,その表紙に使われているラーションのスケッチ34)には,ロッジを舞台にしてラーション夫妻の愉快なカリカチュアが描かれている。後にラーションの妻となるカーリンが友人の女流画家イューリア・ベック,イェーダ・リィドベリと初めてグレーを訪れたのは1882年夏のこと。3人はまずシュヴィヨン館に投宿している。ラーションは同年9月にはカーリンと婚約,翌年ストックホルムで挙式して84年春にはグレーを再訪,シュヴィヨン館に戻っている。そのロッジに移るのは85年5月からである。やはりグレーに滞在したデンマークの画家ペーダ・セヴェリン・クロイヤーのパステル画《オテル・シュヴィヨンの朝食,1884年》35)には,かつての集会室の情景,食堂の様子とともにカールとカーリン・ラーション夫妻が描かれている。1884年5月23日のラーションの書簡「ここには満ち足りた季節があります。シュヴィヨン夫人の食堂のテーブルには30人ほどの異なる国籍の人間でいっぱいです。みんなの皿の間にデンマーク人のクロイヤーが入り込み,そこでスウェーデン人たちの方をしばらく凝視しながらパステル画に精を出しています。実のところ僕の妻の後姿と真中にいる僕の横顔なんです。」36)ラーション夫妻の最初の娘スザンヌが生まれる1884年8月11日の前日,ラーションと宿の若主人ポール・シュヴィヨンは近くのマルロット村に産婆を呼びに行く。スザンヌの誕生で画家は母子をテーマにいくつかの作品を制作しているが,これが後の『わたしの家』に代表される家庭の情景の端緒となった。《アトリエの牧歌》と題されたパステル画や油彩の《小さなスザンヌ》(cat.no.80)である。この《小さなスザンヌ》の縦長の画面は日本の掛幅を連想させるが,よく見ると子どもの足もとに人形が寝かされている。ラーションの回想からそれが日本人形であることがわかる。「それ(《小さなスザンヌ》)は画家のアトリエと呼ばれている一種の取り散らかした部屋の片隅です。娘が本物のルイ15世時代の肘掛椅子に座っています。彼女の背後の壁にはコルドバ革と1枚の版画。コルドバ革はかつてクリスティーヌ女王の狩猟小屋で見ることができたもの,版画はスウェーデン国王グスタヴ3世陛下の高官カール・グスタヴ・テシーン伯爵に献呈された,雅びな巨匠プーシェの油彩から制作されたものです。長椅子の上にはルイ16世時代のマントが剣といっしょに投げ捨ててあります。母親の後には,円い木枠に張られてまだ手をつけていないカンヴァスが見えます。床には仲間からのクリスマスの贈物であるペルシア絨毯,そして日本人形があります。」37)

 

スンドボーン

 

この回想はロココ・リヴァイヴァルの画家でもあったラーションの一面を伺わせる内容になっているが,《小さなスザンヌ》という作品がパリ・サロンに落選した大作《宮廷画家のアトリエ》の切り取られた一部であり,またその落選がグレー訪問の契機になったことを考慮すると,ラーションはフランスのロマン主義時代に復興したロココ趣味,エコール・ド・ファンテジー(幻想画派)やラ・ヴィ・エレガント(優雅な生活)の画家38)が描くような都市生活の寓意画に引かれていたのではなく,ロココ美術にある田園牧歌への憧憬に共感していたように思われる。日本美術に見られる自然観察,グレー村で見いだした田園生活への賛歌,そしてスンドボーンでの総合的な芸術的実践。それらが結実した「洗練された田園での芸術生活」こそラーションの絵画とスンドボーンの家に表現された,彼の芸術の本質ではないだろうか。

 

スンドボーンのラーションの家は英国のアーツ・アンド・クラフツに触発されたいくつかの要素をもっている。本カタログのエーヴァ・エーリクソン女史の論文にもあるが,例えばウィリアム・モリスのレッド・ハウスに見られる作り付けの椅子,赤い食器戸棚,絵入ガラス,夫人の手による織物などである。英国のアングロ=ジャパニーズの芸術家具のような日本趣味の作例は見当らないものの,長いあいだヨーロッパ人がその芸術を軽視してきた国,日本の優れた趣味を見なおそうとする態度,チャールズ・ロック・イーストレイクの『家事ヒント集』(1868年)に記述されているような日本美術への賛美がラーションのジャボニスムにはある。そしてスンドボーンの家は英国の建築家ベイリー・スコットが設計した,イングランド南東部,サセックス州クローバローにある「ウィンズクーム・ハウス」(1900年頃)に見られる,素朴さ,静寂の感覚,統一のとれた均質なインテリアという理想を,北欧芸術家として試みたものなのかもしれない39)。そしてこれらの実践は,ラーション芸術が建築史の文脈でも採り挙げられる理由のひとつになっている。1991年に著されたカミングとカプランの著書『アーツ・アンド・クラフツ運動』には以下のようなスンドボーンの家への記述が見られる。「スウェーデンの画家カール・ラーションの家,リッラ・ヒュットネースもまた総合的な芸術作品であると同時に,自国の最良の伝統を具体的に表現した田園の山荘としてのアーツ・アンド・クラフツの理想の家を実現している。」40)

 

6月17日,ラーション家での晩餐の席で,ランシュトレーム氏は,1992年にスウェーデン国立美術館開館200年を記念して開催されたカール・ラーション回顧展が,ラーションの多彩な活動を紹介する好機になったと語り,ラーションと日本との深い結びつきも強調された。夏至祭を目前に控えたスウェーデンの村はもう夜になっていたが,庭の木々にはまだ午後の強い日差しが注がれている。まったくといってよいほどに風がなく,川の向こうの柳やポプラが透明な水面に反映している。晩餐を終えてスンドボーンの庭を散策していた時,その風景すべてが静止した時のなかに映っているようだと飯田氏がつぶやいた。この風景のなかでは,いつカールとカーリン・ラーションが歩いていても不思議ではない。翌日私たちは満ち足りた気持ちでスンドボーンの家を辞した。

 

私のスウェーデンとフランス滞在は短い期間ではあったが,関係者の方々の配慮で充実したものだった。いまその多くのスウェーデンの人々,フランスの人々に感謝しながら,この報告を終りたいと思う。

1) ストリンドベリ『移ろいやすい早春の季節に−詩と真実』普及版表紙(カール・ラーション)

 

1) ストリンドベリ『移ろいやすい早春の季節に−詩と真実』普及版表紙(カール・ラーション)

 

 

2) ブー・リンドヴァル「民族的ロマンティシズムの発見−19世紀末の北欧美術」、『北欧の美術』展カタログ、西武美術館、1987年

 

 

3)カール・ラーション『わたしの家』から

 

3)カール・ラーション『わたしの家』から

 

 

4)スンドボーンの家の室内(1993年6月、著者撮影)

 

4)スンドボーンの家の室内(1993年6月、著者撮影)

 

 

5)西村三郎著『リンネとその使徒たち−探検博物学の夜明け』、人文書院、1989年。三重県立美術館学芸員、山口泰弘氏より本書を教示いただいた。

 

 

6)山田珠樹訳註『ツンベルグ日本紀行』、駿南社、1928年、p.437

 

 

7) サミュエル・ビング編『芸術の日本』、美術公論社、1981年。ビングによる1888年5月創刊号の序論(小林利延訳)

 

 

8) トシュテン・グンナション「カール・ラーションのジャポニズムと同時代のスウェーデンの絵画」本カタログ所蔵(高波眞知子訳)

 

 

9) 『ツンベルグ日本紀行』口絵

 

9) 『ツンベルグ日本紀行』口絵

 

 

10) オテル・ショヴィヨンの応接室(1993年6月、筆者撮影)

 

10) オテル・ショヴィヨンの応接室(1993年6月、筆者撮影)

 

 

11) Nordiskt 1880−tal, en konstnarskolonii Frankrike, Goteborgs konstmuseum,1987-88

 

 

12) Art Suedois a Grez-Le reveil de l'Hotel Chevillon,exh. cat., Centre Culturel Suedois, Paris, 1991-92.

 

 

13) ibid. p.12.

 

 

14) グレー=シュル=ロワンの「昔の橋」(1993年6月、筆者撮影)

 

14) グレー=シュル=ロワンの「昔の橋」(1993年6月、筆者撮影)

 

 

15) カミーユ・コロー《グレー=シュル=ロワンの眺め》1860年頃

 

15) カミーユ・コロー《グレー=シュル=ロワンの眺め》1860年頃

 

 

16) Lionel Carley, CARL LARSSON and GREZ -sur-LOING in the 1880s,The Delius Society Journal,45,October 1974,pp.1-18.ディーリアス・トラストのライオネル・カーレイ氏から上記論文を送付いただいた。ディーリアス(Frederick Delius,1862-1934)は英国の作曲家。ゲレーで生涯を送った。

 

 

17) Art Suedois a Grez, p.11

 

 

18) オスカル・テーノ《川の風景−グレーのモチーフ》1877年

 

18) オスカル・テーノ《川の風景−グレーのモチーフ》1877年

 

 

19) Karl NORDSTROM, exh. cat., Prins Eugens Waldemarsudde,1993.

 

 

20) Art Suedois a Grez, p.40

 

 

21) Kirk Varnedoe, Northern Light, 1988.Yale University Press, 1988. pp.162-164.およびNeil Kent, The Triumph of Light and Nature, Thames and Hudson, p.148の解説による。

 

 

22) カール・ヌードストローム《木々のある中庭のモチーフ−グレー》1884年

 

22) カール・ヌードストローム《木々のある中庭のモチーフ−グレー》1884年

 

 

23) Art Suedois a Grez, p.54

 

 

24) カール・ラーション《フォシュテンベリー家ギャラリーの室内》1885年

 

24) カール・ラーション《フォシュテンベリー家ギャラリーの室内》1885年

 

 

25) このコランの油彩画については、トシュテン・グンナション氏より教示いただいた。

 

 

26) 黒田清輝《草つむ女》1892年

 

26) 黒田清輝《草つむ女》1892年

 

 

27) Lois Marie Fink, American Art at the Nineteenth-Century Paris Salons,Cambridge Univ. Press.1990. p.383.にRamsdell, Frederick Winthropの記載がる。

 

 

28) カール・ヌードストローム《グレーの昔の橋》1882年

 

28) カール・ヌードストローム《グレーの昔の橋》1882年

 

 

29) 浅井忠《グレーの森》1901年

 

29) 浅井忠《グレーの森》1901年

 

 

30) 児島虎次郎《風景》1908年

 

30) 児島虎次郎《風景》1908年

 

 

31)Nordiskt 1880-tal,p.1

 

 

32) Rene-Charles Plancke, Nemours et ses Environs, Editions Amatteis, 1992.pp.189-210.

 

 

33) 新ショヴィヨン館のラーションのアトリエ(1993年6月、筆者撮影)

 

33) 新ショヴィヨン館のラーションのアトリエ(1993年6月、筆者撮影)

 

 

34) 新シュヴィヨン館のリーフレット

 

34) 新シュヴィヨン館のリーフレット

 

 

 

35)ペーダ・セヴェリン・クロイヤー《オテル・シュヴィヨンの朝食、1884年》(部分)

 

 

36) Art Suedois a Grez, p.50

 

 

37) Art Suedois a Grez, pp.61-62.

 

 

38) Carol Duncan, The Pursuit of Pleasure: The Rococo Revival in French Romantic Art, Garland Publishing,1976を参照した。

 

 

39) Elizabeth Cumming and Wendy Kaplan, The Arts and Crafts Movement, Thames and Hudson,1991, p.65.本書及びベイリー・スコットの家とラーションの家との類似について、三重県立美術館学芸員、土田真紀女史に教示いただいた。

 

 

40) ibid. p.149.
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