年代 | 英国風景画関連事項 | 出品作家生没 | ヨーローッパ美術史 | 一般史 |
---|---|---|---|---|
1672 | オランダの海景画家ウィレム・ファン・デ・フェルデ父子,イギリスを訪れ,チャールズ2世の宮廷画家となる。 | |||
1673 | サルヴァトール・ローザ没(15-)。 | |||
1675 | ガスバール・デュゲ没(15-)。 | |||
1682 | ジョン・ウートン生。 | クロード・ロラン没(00-)。
ヤコプ・ファン・ロイスダール没(c.25-)。 |
||
1697 | 17世紀末から18世紀にかけて,イギリスの富裕な階級の子弟の間で,ローマを最終目的地としてヨーロッパ大陸の主要都市や名所旧跡を訪れるグランド・ツアーと呼ばれる旅行が流行。 | ウィリアム・ホガース生(-1764)。
カナレット生(-1768)。 |
||
1700 | ジョージ・ランバート生(-65)。風景画を専門とした最初のイギリス人画家となる。 | |||
1702 | アメリカで英仏植民地戦争勃発。 | |||
1703 | ウィリアム・タヴァナー生(-72)。アマチュア画家であるが,水彩画を中心に古典的風景画を得意とした。 | フランソワ・ブーシェ生(-70)。 | ||
1704 | アントワープ生まれの風景画家ピーター・ティルマンス,イギリスに渡る。 | ニュートン『光学概論』 | ||
1707 | イングランドとスコットランドが合併し、大英帝国成立。 | |||
1710 | この頃.サミュエル・スコット生(-72)。海景画家で,ファン・デ・フェルデの影響の強い海景画から出発し,後にカナレットの影響を受けてテムズ川風景に移行した。 | |||
1712 | フランチェスコ・グァルディ生(-93)。 | |||
1714 | リチャード・ウィルソン生。 | クロード・ジョゼフ・ヴェルネ生(-89)。 | ジョージ1世即位。ハノーヴァー朝の始まり(-88)。 | |
1715 | ウォルポール内閣成立。
ルイ15世即位。 |
|||
1717 | この頃,アレクサンダー・カズンズ,ロシアに生まれる。 | アントワーヌ・ヴァトー《シテール島への船出》 | ||
1719 | この頃,ウィリアム・ケント,自然主義的な庭園設計者として活躍し始める。 | カナレット,ローマに滞在し,オペラの舞台背景を描く。 | デフォー『ロビンソン・クルーソー』 | |
1720 | ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ生(-78)。
ホガース,この頃版画家として自立。 |
|||
1721 | ヴァトー没(1684一)。 | |||
1722 | カナレット,ローマでの修業を終えてヴェネツィアに戻る。イギリスからの注文を多く受け始める。 | |||
1723 | ジョシュア・レイノルズ生(-92)。 | |||
1724 | ウィリアム・ギルピン生(-1804)。 | |||
1726 | ジェイムズ・トムソンの詩集『四季』刊行(-30)。 | スウィフト『ガリヴァー旅行記』 | ||
1727 | トマス・ゲインズボロ生。 | ブーシェ、ローマとヴェネツィアに留学。 | ニュートン没(1643-)。 | |
1728 | この頃、ジョージ・バレット生(-84)。ピクチャレスクな風景画を得意とする。 | ホガース《三文オペラの舞台》(-31)。 | ||
1730 | この頃、ジョナサン・スケルトン生(-59)。
ポール・サンドビー生(-1809)。 |
|||
1732 | ジャン・オノレ・フラゴナール生(-1806)。 | 北アメリカの13植民地成立。 | ||
1733 | ユベール・ロベール生(-1808)。 | |||
1734 | ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー生 | ブーシェ,アカデミー会員となる。
ヴェルネ,船でローマに行く(-53)。 |
||
1735 | ダービー,コークスによる製鉄法を発明。 | |||
1739 | フランシス・タウン生(または40年,-1816)。 | ヒューム『人性論』 | ||
1740 | この頃,ゲインズボロ,ロンドンで銅版画家ユベール・グラヴロに弟子入り。 | ウィリアム・マーロウ生。
ジェイコブ・モア生。 フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ生。 |
ブーシェ,《ヴィーナスの勝利》をサロンに出品。 | オーストリア王位継承戦争勃発。 |
1741 | ポール・サンドビー,兄と共にロンドンに出て軍事測量部に勤務。
アーサー・ポンドとチャールズ・クナプトン,デュゲ30点,クロード・ロラン8点を含むオールド・マスターの風景画に基づく42点の銅版画を刊行(-46)。 |
|||
1742 | アレクサンダー・カズンズ,この年以前にイギリスに渡り,ロンドンで画家として教育を受ける。
ウィリアム・パース生(-82)。 トマス・ジョーンズ生(-1803)。 |
ウォルポール辞職。 | ||
1743 | この年,彫版師ジョージ・ヴァーテュは,そのノートブックの中でイギリス生まれの風景画家としてウートン,ランバートを含む4名の名前を挙げる。 | ホガース,《当世風の結婚》のシリーズを制作(-45)。
レイノルズ,ロンドンでの修業を終え,故郷で自立。 |
||
1744 | トマス・ハーン生(-1806)。
ウィルソン,この年までにロンドンで肖像画家として自立。 |
アメリカ大陸で英仏植民地戦争勃発。 | ||
1745 | ピラネージ《グロッテスキ》《牢獄》 | |||
1746 | イタリアの風景画家カナレット,イギリスを訪れ,56年まで滞在。その間,絵画愛好家の間に人気を博すると共に,風景画家に強い刺激を与える。
アレクサンダー・カズンズ,ローマに留学。 |
フランシスコ・デ・ゴヤ生(-1828)。 | ||
1748 | ゲインズボロ,故郷のサフォークに戻る。この頃,《アンドルーズ夫妻》《コーナードの森》を制作。 | ルイ・ダヴィッド生(-1825)。 | アーヘン条約(オーストリア王位継承戦争終わる)。 | |
1749 | ジョン・ウォーリック・スミス生(-1831)。 | レイノルズ,イタリアに留学(-53)。 | ||
1750 | ウィルソン,ヴェネツィアに到着。その後ローマに移り,57年までイタリアに滞在。その結果,肖像画から風景画に転向。
この頃,水彩画における下塗りの技法が一般的となる。 |
ピラネージ,この頃より《ローマの景観》のシリーズに着手。 | ||
1751 | ポール・サンドビー,ウィンザー公園に移り、兄トマスの仕事を手伝う(-60)。 | |||
1752 | ジョン・ロバート・カズンズ,アレクサンダーの子として生まれる。 | |||
1753 | ジョージ・ハウランド・ボウモント生 | ホガース著『美の分析』刊行。 | ロンドンに大英博物館設立。 | |
1754 | ウィリアム・シップレイによって「美術協会」がロンドンで創立。
この頃,スケルトン,ランバートやスコットに近い様式でサリーやケントの風景を描く。 |
ヴェルネ,24の海港都市の風景画の制作を依頼される。
ロベール,ローマに滞在(-65)。 |
||
1755 | ホガース,王室画家となる。
ヴィンケルマン著『ギリシャ美術模倣論』刊行。 |
|||
1756 | フラゴナール,ローマに留学。 | 七年戦争勃発(-63)。 | ||
1757 | スケルトン,イタリアに旅行し,古典的傾向を強める。
ウィルソン,再度ローマを訪れる(-58)。 エドマンド・バーク著『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』刊行。 |
ウィリアム・ブレイク生(-1827)。 | 英仏プラッシーの戦い。 | |
1759 | ゲインズボロ,バースに移り,肖像画によって流行画家となる。 | ジュリアス・シーザー・イビットソン生。 | ディドロのサロン批評始まる。 | イギリス軍,ケベックを占領。 |
1760 | ロンドンで英国芸術家協会第1回展開催。 | ジョージ3世即位。 | ||
1761 | ゲインズボロ,芸術家協会展に初めて出品。 | |||
1762 | ロシアでエカテリーナ2世即位。 | |||
1763 | エドワード・デイズ生(-1804)。
バレット,ダブリンからロンドンに出る。 |
ジョージ・モーランド生。 | フュズリ,ロンドンに渡る。 | パリ条約。フランスはカナダの植民地をイギリスに割譲。 |
1764 | パース,美術愛好家協会に随伴して小アジアとギリシャを旅行。
ボウモント,イートン校でアレタサンダー・カズンズに風景素描を学ぶ。 |
ウートン没。 | ||
1765 | マーロウ,フランスとイタリアを旅行(-66)。 | ロベール,ローマから帰国。 | ワット,蒸気機関を改良。 | |
1768 | ロンドンにロイヤル・アカデミー創立。ジョシュア・レイノルズが初代会長に就任。 | ジョン・クローム生。 | クックの第一次南太平洋航海(-83)。 | |
1769 | ライト,リヴァプールで肖像画家として活躍(-71)。
ギルピン,74年にかけてイギリス中を旅行する。 ロイヤル・アカデミーの第1回展開催。 ウィリアム・パース『イオニアの遺跡』刊行。 |
レイノルズ,講演集『絵画論』をまとめる。
トマス・ローレンス生(-1830)。 |
アークライト,前年に発明した紡績機の特許権を獲得。 | |
1770 | ウィリアム・パース,パーマストン卿のためにアルプス風景を水彩で描く。
ウィリアム・ワーズワース生(-1850)。 |
|||
1771 | ド・ラウザーバーグ,パリからロンドンに移り住み,舞台背景画家として活躍。
トマス・グレイ没。 |
ウォルター・スコット生(-1832)。 | ||
1772 | ギルピン,湖水地方を旅行。
コールリッジ生(-1834)。 |
|||
1773 | ライト,イタリアに旅行し,ヴェスビオ山の噴火を目撃(-75)。
ロシアの女帝エカテリーナ2世が,スタッフォードシャーのウェッジウッド社に50人分のディナー用食器セットを発注。各ピースにそれぞれ異なる英国の実在の風景を描くことが条件であった。 モーア,ローマに移り住み,画家,舞台デザイナー,庭師,グランド・ツアーのガイドなどとして活躍。 |
ボストン茶会事件。 | ||
1774 | ゲインズボロ,ロンドンに移り,王室から注文を受けるようになる。
エカテリーナ2世の食器セットが完成し,ロンドンで展示される。 |
ガスパル・ダーヴィト・フリードリヒ生(-1840)。 | ルイ16世即位。 | |
1775 | ポール・サンドビー『南ウェールズの実景素描に基づくアタアティントによる12の風景』刊行。
ウィリアム・メイソン編『トマス・グレイ詩集』刊行。1769年のグレイの湖水地方への旅行日誌を含んでいた。 トマス・ガーティン生(-1802)。 |
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー生。 | 前年にローマ賞を得たダヴィッド,ローマに留学(-80)。 | |
1776 | ジョン・ロバート・カズンズ,ロイヤル・アカデミーに《兵士たちにイタリアの肥沃な平野を示すハンニバルのいる風景》を出品。またこの年,コレクターで作家のペイン・ナイトに随伴してスイスとイタリアを旅行(-79)。
スミス,ローマに留学。 ジョーンズ,イタリアに留学(-83)。ナポリやローマで戸外での写生を行う。 |
ジョン・コンスタブル生。 | ゴヤ,王室タピスリー工場のために下絵を描き始める。 | アメリカ独立宣言。
ギボン『ローマ帝国衰亡史』第1巻刊行。 アダム・スミス『国富論』 |
1777 | ライト,故郷ダービーに戻る。
トマス・ハーン,彫版師ウィリアム・ビルヌと共同で『英国の遺跡』52点を制作(-81)。 タウン,ウェールズを旅行。 |
アメリカ合衆国成立。 | ||
1778 | この頃,レイノルズ《カロライン・ハワード嬢》 | フランス,アメリカと同盟し,イギリスに宣戦。 | ||
1779 | シャルダン没(1699-)。 | |||
1780 | タウン,ローマに留学。
ゲインズボロ,王室から初めて注文を受ける。 |
ブレイク,ロイヤル・アカデミーに初出品。 | ||
1781 | タウン,ローマからの帰途,スミスと共にアルプスを通り,《アルヴェイロン川の水源》を初めとするアルプス風景を描く。
ド・ラウザーバーグ,「アイドフュージコン」と呼ばれるミニチュアの舞台を制作。またゲインズボロは,幻灯機を作り,ガラスに描いた透かし絵を制作。 |
|||
1782 | ジョン・ロバート・カズンズ,ウィリアム・ベックフォードと共に,2度目のイタリア旅行(-83)。
ボウモント,イタリアに旅行し,カズンズに出会う(-83)。 ギルピン『1770年夏に行った主としてピクチャレスクな美に関わるワイ川及び南ウェールズ他の幾つかの地方の観察』(刊行は83年)。 |
ウィルソン没。
ジョン・セル・コットマン生。 |
||
1783 | ファリントンの銅版画集『湖水地方の風景』(-87)。
ゲインズボロ,湖水地方に旅行。 |
デイヴィッド・コックス生。 | フュズリ《夢魔》 | ヴェルサイユ条約締結。イギリスはアメリカの独立を承認。 |
1784 | ピーター・ド・ウィント生(-1849)。 | レイノルズ,王室画家となる。 | ||
1786 | ギルピン『イングランドの幾つかの地方,とりわけカンバーランドとウェストモーランドの山と湖についての,主としてピクチャレスクな美に関する1772年の観察』刊行。
アレクサンダー・カズンズ著『風景画の独創的な構図を描く際に創造を助ける新方法』。 タウン,湖水地方を旅行。 |
ウィリアム・マルレディ生。 | イギリス・フランス通商条約。 | |
1787 | コプリー・フィールディング生。
パトリック・ネイズミス生。 |
|||
1788 | ウィリアム・シェイヤー(父)生。
ゲインズボロ没。 |
|||
1789 | この頃,トマス・ガーティン,エドワード・デイズのもとで働く。
ターナー,ロイヤル・アカデミー・スクールに入学。またこの頃,トマス・モルトンのもとで学び始める。 パース『アテネの遺跡』 ジョン・ロバート・カズンズ『森の樹木の一般的性格の描写』刊行。 ワーズワース,湖水地方で長い休暇を過ごし,『タベの散歩』の大部分を書く。 |
ジョン・マーティン生。 | ゴヤ,宮廷画家となる。
ブレイク『無心の歌』を彫版。 |
フランス大革命。 |
1790 | この頃,モーランド,風俗画から風景画に転向。
この頃,クローム,トマス・ハーヴィと知り合い,ホッベマ、ゲインズボロらの作品に接する。 |
|||
1791 | ターナー,サマセットとウィルトシャーに写生旅行。これ以後,毎年夏の写生旅行を続ける。また,この年,ロイヤル・アカデミーに初めて出品。 | テオドール・ジェリコー生(-1824)。
フォンテーヌブローの森を描いた最初の作品がパリのサロンに展示される。 |
第一次対仏大同盟(-92)。 | |
1792 | ギルピン著『ピクチャレスクな美に関する論集』刊行。
ガーティン,最初のパトロン,ジェイムズ・ムアと知り合い,その遺跡研究旅行に同行するようになる。 ターナー,初めてウェールズ地方を旅行。 |
ジョン・リンネル生。 | ゴヤ,聴覚を失う。 | フランス,オーストリアに宣戦布告。
フランス,第一共和制宣言。 シェリー生。 |
1793 | ワーズワース『夕べの散歩』『描写的スケッチ』刊行。また,ティンターン修道院を初めて訪れる。 | フランシス・ダンビー生。
クラークソン・スタンフィールド生。 |
ル・[ヴル美術館開館。 | フランス,イギリスとオランダにも宣戦布告し,イギリスからヨーロッパ大陸への旅行が禁止される。 |
1794 | この頃,神経障害に襲われたジョン・ロバート・カズンズをトマス・モンロー博士が引き取る。
ユダル・プライス著『ピクチャレスクに関する論集』刊行。 リチャード・ペイン・ナイト著『風景-演繹的詩』刊行。 この頃から3年間,ターナーとガーティンはモンロー博士のもとに出入りするようになり,ジョン・ロバート・カズンズらの作品の模写などを始める。 |
ジェイムズ・スターク生。 | ローレンス,ロイヤル・アカデミー会員となる。
フュズリ《小さな妖精》 |
テルミドールの反動。 |
1795 | ボウモント,デダムでコンスタブルに出会い,パトロンとなる。 | フランスに総裁政府成立。
キーツ生(-1821)。 |
||
1796 | ターナー,ロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品。 | ジョージ・ヴィンセント生。 | カミーユ・コロー生(-1875)。 | |
1797 | ターナー,湖水地方への初めての旅行。 | ライト没。
ジョゼフ・スタナード生。 |
アングル,パリに出てダヴィッドのもとで学ぶ。
シャトーブリアン著『風景画芸術に関する書簡』 |
|
1798 | ワーズワース,ワイ川に徒歩旅行し,「ティンターン修道院の詩」を書く。また,コールリッジと共同で『抒情歌謡集』を刊行。
コットマン,ロンドンに出て,モンロー博士邸に出入りする。 イビットソン,湖水地方に移り住み,この地方の風景を描き始める。 |
ナポレオン,エジプト遠征に画家,学者を随行させる。
ウジェーヌ・ドラクロワ生(-1863)。 |
第二次対仏大同盟。 | |
1799 | ガーティン,歴史的風景画を対象とする絵画研究会を組織。
ワーズワースとコールリッジ,湖水地方を旅行。また,ワーズワース,湖水地方のグラースミア村に移り住む。 |
ゴヤ,宮廷主席画家となる。 | フランスに執政政府成立。
ナポレオン,第一執政官となる。 |
|
1800 | ガーティン,北方及びウェールズを旅行。 | |||
1801 | ガーティン,パリを訪れ,パノラマ図の制作を試みる(-02)。
ターナー,初めてスコットランドを旅行。 |
|||
1802 | パリから戻ったガーティン,ロンドンの大パノラマ図をスプリング・ガーデンで展示。しかし,この年ロンドンで没する。
ターナー,初めてフランスとスイスを旅行。また,ロイヤル・アカデミーの会員となる。コンスタブル,ロイヤル・アカデミーに初めて出品。 クローム,イングランド北部と西部を写生旅行。 リチャード・パークス・ボニントン生(-28)。 |
大英博物館に「エルギン・マーブル」が収蔵される。 | 英仏間でアミアンの和約締結。 | |
1803 | クロームを創立者としてノーフォークのノリッジに「ノリッジ協会」創立。
コットマン,ヨークシャーに写生旅行に出かけ,パトロンとなるフランシス・コルメレーと出会う。翌年,翌々年も訪れる。 ロンドンで「水彩画家協会」(旧協会)創立。 ワーズワース兄妹とコールリッジ、スコットランドを旅行。 |
トマス・シドニー・クーパー生。 | 英仏戦争再開。ナポレオン,英国上陸を計画。 | |
1804 | コックス,ロンドンに出て,ジョン・ヴァーリーのもとで学ぶ。 | モーランド没。 | ダヴィッド,宮廷主席画家となる。 | 「ナポレオン法典」発布。 |
1805 | ナイト著『趣味の原理の分析的探求』刊行。
ド・ラウザーバーグの版画集『イングランドとウェールズのロマン主義的でピクチャレスクな景観』刊行。 ノリッジ協会の第1回展開催。 水彩画家協会の第1回展開催。 ロンドンでタウンの遺作展開催。 サミュエル・パーマー生(-81)。 |
ナポレオン,皇帝となる。
トラファルガーの海戦。 アウステルリッツの戦い。 |
||
1806 | コットマン,故郷ノリッジに戻る。
ド・ウィント,この頃ジョン・ヴァーリーの影響を受けるとともに,モンロー博士邸に出入りする。 コンスタブル,湖水地方を旅行。 |
アングル,ローマに留学。 | ナポレオン,大陸封鎖。 | |
1807 | ロンドンで「水彩画家連盟」(新協会)創立。
ターナー,クロード・ロランの『真理の書』を意識した版画集『研鑽の書』第1巻を刊行。また,ロイヤル・アカデミーの遠近法の教授となる。 |
ダヴィッド《ナポレオンの戴冠式》 | ||
1808 | オノレ・ドーミエ生(-79)。
フリードリヒ《テッチェン祭壇画》 |
|||
1809 | ターナー,恐らくこの年初めてエグリモント卿の邸ペットワース・ハウスに滞在。 | |||
1810 | コックス,「水彩画家連盟」の会長となる。
ウィルキンソンの『カンパーランド,ウェストモーランド,ランカシャーの景観』の序文としてワーズワースの「湖水地方へのガイド」が出版される。 |
ナザレ派の画家たち,ローマにはいる。 | ゲーテ『色彩論』 | |
1811 | ターナー,最初の地誌的銅版画集『イングランド南岸のピクチャレスクな景観』のためにドーセットなどを旅行。
マーティン,ロイヤル・アカデミーに初めて風景画を出品。 |
トマス・クレジック生。 | イギリスで失業や暴動が続発。 | |
1812 | トマス・ローランソン,『ピクチャレスクを探求するシンタックス博士』において,ピクチャレスクの探求を諷刺する。
コットマン,海に面したヤーマスに移り住む。 ターナー《アルプスを越えるハンニヴァルと軍勢》 |
ド・ラウザーバーグ没。
ウイリアム・ジェイムズ・ミュラー生。 |
テオドール・ルソー生(-67)。
ジェリコー,サロンに初出品。 |
ナポレオン,ロシア遠征。 |
1813 | マーロウ没。 | ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)。 | ||
1814 | コックス,ヘレフォードに移り住む(-27)。また,この年『風景画論』を刊行。
クローム,フランス,オランダ,ベルギーを訪れる。 |
アングル《グランド・オダリスク》
フランソワ・ミレー生(-75)。 |
ナポレオン,エルバ島へ追放。
ウィーン会議開催。 スティヴンソン,蒸気機関車を完成。 |
|
1815 | ナポレオン,エルバ島を脱出。しかし,ワーテルローの戦いに破れ,セントヘレナ島へ再び追放。神聖同盟。四国同盟。 | |||
1817 | コットマン,ヨーロッパ大陸へ初めて旅行。ノルマンディーを訪れる。
ボニントン,家族と共にフランスのカレーに移り住む。 スタンフィールド,この年までにロンドンで舞台背景画家として自立。 |
イビットソン没。 | シャルル・ドービニー生(-78)。
フランス学士院により,ローマ賞に風景画部門が初めて加えられる。 |
|
1818 | ターナー,ジェイムズ・ヘイクウェルからイタリアを主題にした水彩画の制作を依頼される。また,ウォルター・スコット著『スコットランド地方の古遺物』のためエディンバラを訪れる。 | イギリスで教会法施行。
アーヘン列国会議 |
||
1819 | ターナー,初めてイタリアに旅行し,ヴェネツィア,ローマ,ナポリ,フィレンツェなどを訪れる(-20)。
コンスタブル,初めてハムステッドで夏を過ごす。 ジョン・ラスキン生(-1900)。 |
《メデューズ号の筏》をサロンに発表したジェリコー,その巡回展のため,イギリスに渡る。
ギュスターヴ・クールベ生(-77)。 ヨハン・バルトルト・ヨンキント生(-91)。 |
ウォルター・スコット『アイヴァンホー』 | |
1820 | ボニントン,パリに出て,エコール・デ・ボザール及びジャン・グロのもとで学ぶ。
スタンフィールド,ロイヤル・アカデミーに初出品。 |
ブレイク『ヨブ記』(水彩) | シェリー『鎖を離れたプロメテウス』 | |
1821 | コンスタブル,《干し草車》をロイヤル・アカデミーに出品。
ボニントン,初めてノルマンディーを旅行。 マーティン《ベルシャザルの祝宴》 |
クローム没。 | フリードリヒ《希望号の難破》
この年までにフォンテーヌブローの森にすでに芸術家村が形成されていた。 |
|
1822 | コットマンの版画集『ノルマンディーの建築遺跡』刊行。
パーマー,ブレイクらの影響を受けてこの頃から幻想的な作風にはいる。 |
ドラクロワ,《ダンテの小舟》をサロンに初出品。 | ||
1823 | コットマン,再びノリッジに戻る。
コンスタブル《ソールズベリ一大聖堂》 |
|||
1824 | コンスタブル,《干し草車》をパリのサロンに出品。
ボニントン,ドラクロワ,ジェリコーらと交友を始める。 |
アングル帰国。
ロンドンにナショナル・ギャラリー開館。 ウジェーヌ・ブーダン生(-98)。 |
イギリス,ストライキ法を承認。 | |
1825 | ターナー,チャールズ・ヒースの注文で『イングランドとウェールズのピクチャレスクな景観』に着手。
ボニントン,ドラクロワと共に,フランスに移って以来初めてロンドンを訪れる。 パーマー,ケントのショーラムでセピアの素描のシリーズを制作。 |
ドラクロワ,イギリスに渡り,ターナー,コンスタブルらの作品を見る。
コローの第1回イタリア旅行(-28)。 |
イギリスで最初の鉄道敷設。 | |
1826 | ボニントン,イタリアに旅行。また,初めてロンドンで作品を展示。 | |||
1827 | コックス,ロンドンに戻る。 | ボウモント没。
ジョン・ミドルトン生。 ウィリアム・ホルマン・ハント生。 |
ルソー,フォンテーヌブローで制作。 | |
1828 | ターナー,2度目のイタリア旅行。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ生(-82)。 |
ドラクロワ,《サルダナパールの死》をサロンに出品。 | ||
1829 | コンスタブル,ロイヤル・アカデミーの会員となる。
ジョン・エヴァレット・ミレイ生(-96)。 |
ドーミエ,初めて石版画を発表。 | イギリスでカトリック教徒解放令発布。 | |
1830 | ロジャーズ著『イタリア』,ターナーの挿絵付きで出版。
コンスタブルの銅版画集『イングランド風景画集』刊行(-32)。 |
スタナード没。
ジョン・ウィリアム・インチボールド生。 ジョン・ブレツト生。 |
カミーユ・ピサロ生(-1903)。 | フランス七月革命。ルイ・フィリップ即位。 |
1831 | ネイズミス没。 | コロー,《フォンテーヌブローの森の眺め》を発表。 | ||
1832 | ドラクロワ,モロッコを旅行。
エドゥアール・マネ生(-83)。 |
イギリスで第一次選挙法改正。 | ||
1833 | エドワード・バーン=ジョーンズ生(-98)。 | トロ・純Cヨン,サロンに風景画を初出品。 | イギリスで工場法制定。 | |
1834 | ターナー《国会議事堂の火事》
ジェイムズ・アボット・ホイッスラー生(-1903)。 |
コロー,2度目のイタリア旅行。
ウィリアム・モリス生(-96)。 エドガー・ドガ生(-1917)。 |
||
1835 | パーマー,ウェールズを訪問。 | コロー,バルビゾンを訪ねる。 | ||
1836 | コックス,水彩画用にデイヴィッド・コックス紙を発見。
ラスキン,『ブラックウッズ・マガジン』にターナーへの批判に対する反論を掲載。 |
この頃,ヴィンセント没。
ローレンス・アルマ・タデマ生。 |
ルソーの最初のバルビゾン長期滞在。 | イギリスでチャーティスト運動始まる。 |
1837 | パーマー,新婚旅行でイタリアを訪問(-39)し,作風が変わる。 | コンスタブル没。 | イギリスでヴィクトリア女王即位。 | |
1838 | スタンフィールド,リトグラフによるライン川,ムーズ川,モーゼル川の景観のシリーズを刊行。 | |||
1839 | シュヴルール『色彩の同時対照の法則』
ダゲール,写真術を発表。 ポール・セザンヌ生(-1906)。 アルフレツド・シスレー生(-99)。 |
|||
1840 | ターナー,初めてラスキンに会う。 | コロー,サロンにイタリア風景を多数出品。
クロード・モネ生(-1926)。 オーギュスト・ロダン生(-1917)。 |
中国でアヘン戦争勃発(-42)。 | |
1841 | コックス,故郷のバーミンガムに戻る。 | アングル,2度目のローマ滞在から帰国。 | ||
1842 | ターナー《吹雪-港口を離れた汽船》
ラスキン,ノーウッドやイングランド,またフォンテーヌブローで写生を行う。 |
コットマン没。 | 清朝,アヘン戦争に敗れ,イギリスと南京条約締結。 | |
1843 | ターナーを擁護したラスキン著『近代画家論』第1巻刊行。 | |||
1844 | ターナー《雨,蒸気,速度》
コックス,この年から56年まで毎夏ベトゥース・ア・コイドを訪れる。 ハント,ロイヤル・アカデミー・スクールに入学し,ミレイ,ロセッティと知り合う。 |
|||
1845 | ターナー,ロイヤル・アカデミーの会長代行となる。
コックス《太陽,風,雨》 |
ミュラー没。 | ボードレール『1845年のサロン』 | |
1846 | ラスキン『近代画家論』第2巻刊行。 | ルソー,バルビゾンに移り住む。
ヨンキント,パリに出てバルビゾンの画家たちと接触。 |
||
1848 | ロセッティ,ミレイ,ホルマン・ハントら,「ラファエル前派」を結成。 | ポール・ゴーギャン生(-1903)。 | フランス二月革命。
マルクス,エンゲルス『共産党宣言』 |
|
1849 | ロンドンでラファエル前派の最初の展覧会開催。 | ミレー,家族と共にバルビゾンに移る。 | ||
1850 | ラファエル前派の機関誌『ジャーム』創刊。 | ヨンキント,ノルマンディーとブルターニュを旅行。 | ||
1851 | ハントは《プロティウスからシルヴィアを救うヴァレンタイン》を,ミレイは《木樵の娘》をロイヤル・アカデミーに出品し,非難を受ける。これに対してラスキンは,『タイムズ』紙上でラファエル前派を擁護。
ラスキン『ヴェニスの石』第1巻刊行。 |
ターナー没。 | ロンドンで万国博覧会開催。 | フランスでルイ・ナポレオンによるクーデター。 |
1852 | ミレイ《オフィーリア》 | |||
1853 | ヴァン・ゴッホ生(-90)。 | |||
1854 | ハント,中近東に旅行。
ラスキン『エジンバラ講演集』刊行。 |
マーティン没。 | クリミア戦争勃発。 | |
1855 | ホイッスラー、パリに移り,グレールの教室などで学ぶ。 | フィールディング没。 | パリ万博に出品を拒否されたクールベ,個展を開き,「レアリスム」を宣言。
ピサロ,パリに出てコローを訪問。 |
|
1856 | ラスキン『近代画家論』第3巻刊行。 | ミドルトン没。
ジョン・シンガー・サージェント生。 |
雑誌『ル・レアリスム』創刊(-57)。 | クリミア戦争終結。 |
1857 | ラスキン『素描の要素』刊行。 | ドービニー,アトリエ船からセーヌ川,オワズ川を描く。 | ロンドン金融恐慌。 | |
1858 | ラスキン,ジョン・ブレットの《石割り人夫》を賞賛。 | モネ,ル・アーヴルでブーダンに出会う。
ジョヴァンニ・セガンティーニ生(-99)。 |
インド,イギリス国王の直接統治領となる。 | |
1859 | ホイッスラー,ロンドンに移り,銅版画の《テムズ川連作》に取りかかる。 | コックス没。
スターク没。 |
モネ,ピサロと知り合う。
ジョルジュ・スーラ生(-91)。 |
イタリア統一戦争開始。 |
1860 | ラスキン『近代画家論』第4巻刊行。 | フイリップ・ウィルソン・スティーア生。
ウォルター・リチャード・シッカート生。 |
この頃から,クールベ,ノルマンディーの海岸をしばしば訪れる。 | |
1861 | ホイッスラー,病気療養のためブルターニュに滞在。 | ダンビー没。 | セザンヌ,初めてパリに出る。この年以降,パリとエクス=アン=プロヴァンスを往復しつつ制作を続ける。 | イタリア王国成立。 |
1862 | ホイッスラー,ピレネー地方で海景を描く。 | モネ,ル・アーヴルでブーダン,ヨンキントと制作した後,パリに出て,ルノワール,シスレーらと知り合う。 | ||
1863 | マルレディ没。 | マネ,落選展に《草上の昼食》を出品。
モネ,ドラクロワを訪問。 ポール・シニャック生(-1935)。 |
||
1864 | ピサロ,サロンに風景画を出品。
モネ,ブーダンやヨンキントらと共にオンフルールで制作。 |
ロンドンに第一インターナショナル設立。 | ||
1865 | ホイッスラー,トゥールヴィルでクールベと落ち合う。 | モネ,クールベやホイッスラーと知り合う。またトゥールヴィルで,ブーダン,クールベ,ドービニーと制作。 | ||
1867 | スタンフィールド没。 | イギリスで第二次選挙法改正。 | ||
1868 | シッカート,ロンドンに移る。 | |||
1869 | ドービニーとコロー,ロイヤル・アカデミーに出品。
ハント,再び中近東に旅行(73年にも)。 |
クレジック没。 | モネとルノワール,ブージヴァルで制作。 | |
1870 | ミレイ《冷たい十月》 | モネとピサロ,イギリスに赴く(-71)。 | 普仏戦争勃発。
フランス第三共和制宣言。 |
|
1871 | ホイッスラー,『テムズ川連作』を刊行。また,テムズ川の《ノクターン》を制作。 | モネとピサロ,ロンドンの風景を描く。 | ドイツ帝国成立。帝国憲法発布。 | |
1872 | ホイッスラー,《ノクターン》連作を初めて展覧。 | ウイリアム・ニコルソン生。 | セザンヌ,ピサロを訪ね,共に制作。
モネ,アルジャントゥイュに定住。 |
|
1874 | 第1回印象派展開催。 | |||
1877 | ホイッスラー,《黒と金のノクターン:落下する花火》を展覧。ラスキンが酷評し,ホイッスラーはラスキンを告訴。 | ヴィクトリア女王,インド皇帝となる。 | ||
1878 | オーガスタス・エドウィン・ジョン生。
チャールズ・ジナー生。 スペンサー・フレデリック・ゴア生。 |
デュレ『印象派の画家たち』刊行。 | ||
1879 | ホイッスラー,銅版画制作のためヴェネツィアに滞在(-80)。 | シェイヤー没。 | ||
1881 | パーマー没。 | |||
1882 | ロセッティ没。
シッカート,ホイッスラーに出会い,弟子入りする。 スティーア,パリに行き,ブーグローとカバネルに学ぶ。 |
リンネル没。 | イギリス軍,エジプトに出兵し,カイロ占領。 | |
1883 | シッカート,パリに行き,ドガに出会う。 | スーラ,《アニエールの水浴》に着手。
ブリュッセルに「二十人会」結成。 モネ,ジヴェルニーに移る。 |
イギリスにフェビアン協会設立。 | |
1884 | ホイッスラー,シッカートらと共にセント・アイヴスに行く。 | パリにアンデパンダン展創設。 | イギリスでウイリアム・モリスら,社会主義者同盟結成。 | |
1885 | ホイッスラー,シッカートとディエップに滞在。
サージェント,ロンドンに移る。 |
スーラ,《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を完成。 | ||
1886 | ホイッスラー,『ヴェネツィアの12枚の鋼版画』を出版。
サージェントら,ロイヤル・アカデミーに対抗してニュー・イングリッシュ・アート・クラブを結成。 |
第8回印象派展開催。
ゴーギャン,ポン=タヴェンに行き,エミール・ベルナールに出会う。 |
||
1887 | スティーア,この頃から数年にわたり,イギリスにおける印象派として活躍。 | ジェイムズ・ディクソン・イネス生。 | エミール・ベルナール,「クロワゾニスム」を創始。 | 英国植民地会議開催。 |
1888 | インチボールド没。 | ゴーギャン,ポン=タヴェンに滞在。
ゴッホはアルルに行き,ゴーギャンを招いて共同生活を送るが,耳切り事件が起こる。 |
||
1889 | シッカート,スティーアら,「ロンドンの印象派」展を開催。
スティーアの作品が,フランスの後期印象派の作品と共にブリュッセルで展示される。 |
ポール・ナッシュ生。 | この頃「ナビ派」結成。 | |
1890 | ゴッホ,ピストル自殺。
モネ,ジヴェルニーに家を構入。この頃から《ポプラ並木≫《積みわら》の連作に着手。 |
|||
1891 | スタンリー・スペンサー生。 | ゴーギャン,タヒチに向かう。 | ||
1893 | ジョン・ノースコット・ナッシュ生。 | |||
1894 | オーガスタス・ジョンとロバート・ベヴァン,ボン=タヴェンに滞在中,ゴーギャンに会う。 | |||
1895 | シッカート,この年より毎冬ヴェネツィアで過ごす。 | ヴォラール,パリで最初のセザンヌの個展を開催。 | ||
1897 | ロンドンで印象派展が開催される。
ピサロ、ロンドンで制作。 |
テート・ギャラリー開館。
ゴーギャン,『ノアノア』を発表。 |
||
1898 | セガンティーニ《アルプス連山》(-99)。 | |||
1899 | モネ,ロンドンに行き,テムズ川連作に着手。以後3年間たびたびロンドンを訪れる。
シッカート,ディエップに住む(-1905)。 |
シニャック著『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』刊行。 | ||
1901 | ジョン・クリストファー・ウッド生。 | |||
1902 | クーパー没。
ブレット没。 |
|||
1903 | カミーユ・モークレール著『フランス印象派』の翻訳が出版される。 | グレアム・サザーランド生。 | ||
1908 | マイヤー=グレーフェ著『近代美術の展開』の英語版刊行。 | |||
1910 | ロジャー・フライ,ロンドンで「マネと後期印象派」展を開催。 | ホルマン・ハント没。 | ||
1911 | シッカートら,ニュー・イングリッシュ・アート・クラブに対抗してカムデン・タウン・グループを結成。 |
土田 真紀(三重県立美術館学芸員)・編