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近代黎明期の日本画

明治維新における政治的・社会制度的変革は、それ以前と以後とを根本的に分け隔てるほど本質的なものであると考えられることが多い。たしかに明治以前における千数百年の間中国に対峙してきた日本は、明治以後においては欧米に対峙されざるをえない。その変化の、最も象徴的なメルクマールを「アジアは一つである。」(『東洋の理想』)という岡倉天心の有名なことばの中に読みとることもできるだろう。しかし、いま少し時代を遡ってみると、維新の時点をはるか遡った時代にすでに天心に先行するメルクマールに行き当たるのである。『解体新書』の翻訳者のひとりとして知られる杉田玄白が奥州一関藩の藩医建部清庵とのあいだに交した往復書簡をのちにまとめた『和蘭医事問答』のなかで、玄白は、「併不侫此度之解体新書も、色々工夫仕候得共、多く漢人未説者御座候故、右の書第三篇、肝要之者計集候篇御座候。其篇に計蛮名を唐音書キにして、片仮名を付申候存寄に御座候。是は乍不及運に叶ひ、唐迄も渡候ば、其節之為にと存、唐音書に仕候。」〈このたび刊行した『解体新書』はいろいろ苦心が多かったのですが、そこに記された多くは中国人もまだ説いていない内容です。そのなかで第三篇はことに重要な問題が取り扱われています。そこでこの篇だけでも漢語で書いて片仮名を振ろうかと考えています。およばずながら、もしこれが中国にでも渡ることがあれば、と考えたからです。〉と書き記している。それまでの医学は中国医学を宗とし、教えを中国からの持ち渡り医書から得ていた。18世紀後半における最も先鋭的な知識人のひとりであった玄白にあっては、医学上の断片的な知識からにすぎなかったにしても、西欧文化の先進性についての認識がすでに抜き差しならぬほどにおおきな比重を持ち始め、日本対中国という意識を日本対西洋あるいは東洋対西洋という対立意識に転換しなければならないような局面に意識が進みつつあったことが、このことばから理解できるのである。このようにみてくると、明治維新という政治的・社会制度的変革が文化上の意識の成長を、たとえ加速的に強めたものであったとはしても、それ以前と以後を本質的にすっぱりと断ち切ってしまうものではなかったことがわかる。玄白と天心とのあいだに相違点があるとしたらそのひとつは、前者においてその意識の共有圏がごくごく限られた仲間うちでしかなかったのに較べて、後者においてははるかに広汎に理解を得、一時代をリードするに至りうるだけの時代思潮のバックアップが得られた点にあるといえるだろう。いずれにせよ、文化的伝統に限ってみるならば、維新における変革によってそれは前後に分断されたのではなく、同じ精神的連続面に依然連なっていたのである。

18世紀にはいって前世紀を支配していた朱子学的体系が破綻をみせはじめると、それにともなって、儒者の閑余のすさびであった作詩がその手から開放され、独立した詩人の手に委ねられるようになる。古文辞を標傍して朱子学を批判した荻生徂徠は、盛唐詩への回帰を主張する詩人であった。詩人であり経世家であり儒者であった徂徠に較べると彼の弟子たちの拠る所は分枝しはじめている。太宰春台が師の経世家としての面を継いだのにたいして、服部南郭は師のもう一方の面を継いだ。彼は詩作する儒者でない最初の詩人であるといわれている。彼の擬唐詩は、格調を重んじるその高踏性ゆえにかならずしも広汎で多階層的な支持を得たわけではない。しかしその影響は18世紀の知識人たちに決定的な影響を及ぼし、彼らのあいだから離俗的な一種の遊民層を生みだした。浦上玉堂は50歳で脱藩を決行し、田能村竹田は47歳で致仕し、それぞれ士農工商の枠を離れた。彼らの文人としての活動の中心はそれ以後にある。

この世紀の末になると格調派を手代わって清新派、日常卑近な風光事物を詠むべきことを主張する勢力が登場し、その平明さゆえに江戸市民や地方人士のあいだに広汎な支持者層を形成する。市河寛斎の主宰する〈江湖社〉の詩人たち、梁川星巌の主宰する〈玉池吟社〉の詩人たち、あるいは大窪詩仏らのありようは、文化文政期の市民が習得すべき教養としての茶・花・和歌・書など〈諸芸〉の家元にも比肩する存在になっている。

漢学支持者層を不可分の需要者層としていた文人画の世界で、文化文政期の詩人たちに近いありようを谷文晃に求めることができる。

文人画発生の源動力が徂徠にあったことを早く指摘したのはほかならぬ岡倉天心であったが、師の詩人としての資質を継いだ服部南郭はまた絵事にも秀でていた。同じく徂徠に師事した柳沢淇園はやはり画技に長じ、初期文人画を代表するひとりにかぞえられている。彼等につづく第二世代の画家たちは漢文脈に囚われない新しい作風の展開をみせている。池大雅は少年期以来生計を得るために習い覚えた工芸の絵付けの技法を通して大和絵の伝統様式と深く通じさらに洋風技法を加味することを試み、与謝蕪村は漢詩の風韻に親しむことによって俗を離れ風雅の世界に遊ぶことを求め俳人としての和文脈の中に漢文脈の融和を試み、いずれも明清からの輸入様式を伝統的な美意識の中に蘇生創造的に組み入れた。この二人に較べると次の世代に属する田能村竹田の場合は、書物や実作品の輸入状況の好転および彼自身の教養を反映して明清画的様式の純粋性がはるかに強いものになってくる。

竹田が通信教育を受けていた江戸の谷文晃の場合はしかし、ありようはまったく異なり、南宗画様式に北宗画様式を交え、琳派様式を加味し洋風画を酌み、当時上方からの重要な下り物のひとつであった円山四条派の作風をも取り込んで、折衷的で雑駁な作品を手当次第エネルギッシュに描いた。このエネルギーと雑駁はそのまま文化文政期における江戸市民の文化的創造精神を反映したものであり、同時に、彼において近代化のひとつのメルクマールであった上方文化と江戸文化の綜合に目処がつく。

彼の最も重要な弟子であった渡辺崋山は維新を待たずに亡くなったが、その他の幾人かは維新を超えて活動を顔けている。奥原晴湖・川上冬崖・佐竹永海を挙げることができよう。維新後の文人画界の状況を大村西崖は次のように回想している。「予が齢ひまだ弱冠ならぬ明治十五六年の頃は、維新前よりの世風、さまであせやらで、漢学はなほ文壇の権威を有し画道も化政天保以来の余勢を保ちて、謂はゆる南宗文人画のみ行はれ、五岳直入晴湖の作は、真贋相雑りて、予が郷里なる嶽南の片田舎までももてはやされ、知事部長より郷紳村夫子の輩に至るまで、四君子を塗抹し、五七言の題賛を能くせざるはなかりき。」

この極端な裾野のひろがりがいわゆる〈つくね芋山水〉を量産させる結果に陥った。

明治初年に前後して生まれた夏目漱石と岡倉天心はともに少年期を漢文の素読に費やした。これは江戸時代の武士の子弟あるいは一部の寺子屋教育とかわらない。しかし一方では、岡倉天心は英語に極めて堪能であったし、夏目漱石は大学で英文字を専攻した。この時期、文人のあいだでは〈西洋〉の必要性が、まったく抜き差しならないものになっていた。さらに明治政府の進めた欧化教育が急激に漢学人口を減衰させていったことは、連鎖的に文人画の存在を地盤から揺がすことになった。

広汎な支持者層を失った文人画は、ふたたびごく限られた知識人の手に戻された。富岡鉄斎に〈西洋〉はないが、〈万巻の書を読み、万里の路を行〉った池大雅に私淑し、自らも実践した。鉄斎の存在は、18世紀初頭にはじまった文人画の歩みが維新を越えてひとつの周期を終えて終息する最後の光芒あり、その歩みが維新によってかならずしも分断されてはいないことを示すものである。

18世紀に入って朱子学的体系が破綻をきたしはじめたのと同じように、前世紀以来幕府の御用絵師として絵画界を牛耳ってきた狩野派も創造性の開発に自らくさびを打ち込んだ結果(狩野安信『画道要訣』)、画壇におけるイニシャティヴと組織の維持にはなお強い力を持ちつづけていたものの、創作力の欠如は如何ともしがたいものになってきた。狩野派の支門から出た円山応挙は、狩野派のアカデミックな様式に大和絵と洋風画そして特に宋元画の様式を活性剤として注ぎこみ、平明でいながら奥深い情感と調和に富んだ写生画を創出した。彼が新しくつくりあげた様式はしかし、小数の例外的な後継者を除いて、門流に規範として受け継がれ、新たな形式主義の弊害に苦しみながら明治を迎える。

応挙は宋元画のほかに洋風画の表現様式からも大きな影響を被っている。しかし、当時における一般的な西洋認識は決して、西洋の精神文化の深奥を理解しようとするものではなかった。この世紀初頭、日本に密入国して捕えられたイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バティスタ・シドッチを尋問した新井白石が、シドッチの学才には十分な敬意を払いながらも、「其教法を説くに至りては、一言の道にちかき所もあらず、智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり。ここに知りぬ、彼方の学のごときは、ただ其形と器とに精しきことを。所謂形而下なるもののみ知りて、形而上なるものは、いまだあづかり開かず」と下した判断は以後、江戸時代を通じての一般的な西洋理解の態度となった。幕末期、佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術(註*この場合芸術とは技芸と学術を意味する)、精粗遺さず、表裏兼該す」と述べ、維新を越えて〈和魂洋才〉思想へと展開してゆく。このような西洋理解は、当時の洋風画派においても変わらない。秋田蘭画の小田野直武が、図版制作を担当した『解体新書』図篇の末尾で、「それ紅毛(註*オランダあるいは西洋をさす)の画や至れるかな」と感慨を漏らしたのは西洋画のもつ写実技法の巧みさに対してである。直武や佐竹曙山あるいは司馬江漢が理想としたものは、円山応挙の場合と同じく、中国の宋元画のもつ奥深い写実の精神であり、その写実理論は唐の張彦遠の思想(『歴代名画記』)に負っているところが多い(註*成瀬不二雄「江戸時代の西洋画論について−その東洋思想との関係−」『美術史』第85号)。

18世紀に蠢出してきた在野の新興勢力の積極的な活動はこの世紀の末には狩野派の地位を脅かすほどにまで成長している。寛政2年(1790)の禁裏造営の際、円山応挙が幕命を帯び一門を率いて障壁画制作に乗り出した事件は、狩野派と在野派の勢力関係の交替を鮮やかに物語る象徴的事件であった。このような外からの圧力に拮抗するために狩野派は、内部からの変容を余儀なくされる。この時期の狩野派の動きを、岡倉天心は狩野派歴代の変遷を通観して次のように述べている。

「狩野歴世ノ画相ヲ鑑ミルニ、其変化一ニシテ足ラザルナリ。祐勢・元信ノ骨法ハ、永徳・山楽ニ至テ一変シ、渾厚蒼古ニ換フルニ豪健奇壮ヲ以テシ、興以・探幽ノ出ヅルニ及ンデ再変シテ瀟酒雄抜ニ転化シタリ。周信・岑信ニ及ンデ気力消磨シ、殆ンド父祖ノ衣鉢ヲ伝フル能ハザルニ至り、栄川ノ巧緻ヲ以テ第三変ヲ試ミタレドモ其余勢長大ナラズ。遂ニ晴川・伊川ヲシテ勉メテ唐宋元明・本朝古代諸派ノ粉本ヲ蒐集シ、該博含蓄ヲ以テ第四変ヲ為サシメタリ。」(「狩野芳崖」『国華』第二号)

栄川は幕府奥絵師の木挽町狩野家第六代栄川院典信(1730−90)。典信の孫で第八代を継いだ伊川院栄信(1775−1828)、その子第九代晴川院養信(1796−1846)と続く。天心の言う狩野派の第四変、回生の努力は、18世紀末から19世紀前半にかけて、木挽町狩野家を中心に唐宋元明画や大和絵などの古画研究を通して行われた。この木挽町狩野家の新しい動きはその後しばらくは伏流化を余儀なくされたが、その成果は幕末維新を経て加速的に顕われてくる。

狩野芳崖が、このような木挽町狩野家の流れの最後で、古画研究の成果を最も有効に作画の骨格に組み込んだ。フェノロサが芳崖を評した「呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最期の音を打ち鳴らした人」という言葉は、「私は、唐宋の中国の伝統の流れが下って日本に来て終末に至る道筋をこのように現実に即して跡づけ得たことを喜ぶ。私は、明代中期以降の近代中国美術が、この流れと何らかの関係があるとは思わない。」という東洋美術史に対する理解に基づいている。このようなフェノロサの理解のしかたは今日、東洋美術全般の流れに照して客観的にみると、かならずしも当を得たものであるとはいいがたい。しかし、芳崖の仕事は、前世紀を批判しつつ18世紀に始まった、日本における、伝統復興の一連の経過の最後での、見事な締め括りの仕事であったとはいえよう。

山口 泰弘
(三重県立美術館 学芸員)

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