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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1994 > こういう犬をかくひとは 東俊郎 麻生三郎のデッサン展図録

こういう犬をかくひとは

東俊郎

絵のことが頭をはなれないひとりのおとこの仕事をたどるには、すくなくとも同じほどの年月がほしい、と日頃にも似ないことばが口をつくのは、あいてが麻生さんとその絵だからである。なによりまず、つくりだされたものをではなく、そこにあるものをみるという難問。

近代日本の画家というのは或いは史上類をみないユニークな存在かもしれない。かれらの悪戦にむくいるなにもなく、あいつははんとうの絵かきだつたということばで、かろうじて讃えるしかない。どこまでつづくぬかるみぞ。麻生さんもまた。

たつた一点の作品だけですべてはいいつくせない。決着がつかない。それでもここで筆をおくしかないと、ふかく息をすいこむ瞬間に、未完のはずのその作品からはつぎの点、つぎの線をさぐつて歩きつづけようとする手がすでにのびて、あらたな一歩はそこからはじまる。

たしかな生活がないところにたしかな人間はいない。土地の名がきえればそれとともに生活も人間もきえてしまう。麻生さんの「東京」も又ダム湖の底にしずんでゆく。のつぺらぼうの水面をみつめれば郷愁はつのる、などと麻生さんは一言だつて語るまいとしている。

『荒川風景』『隅田川(起重機)』『日雇い労働者』『日暮里駅』『煙突』『木場』『新富橋』『月島』…、荒川上空の太陽も河辺の草もなんだかくたびれていそうで、景気のいい風景ではないそこにかえつて人の気配を濃密にただよわせることにもなる。そして点描される労働者と野良犬たち。こういう犬をかくひとは。

絵などみたこともないひとたちの暮らしにかこまれた自らの日々の生活に深く根をはることしかなかつた。

麻生さんのかく文章がおもしろい。それはすでにシステムができあがつたものときめひたすら細部をみがきたてるのでなく、権威の掌のなかでだけ横紙やぶりを演ずる卑屈な小心さもない。自由から不自由へ、センテンスの曲がりかどを曲がるたびに自由をなくしてゆくのがふつうのその曲がりかどで前後際断し、その時点での空気のながれにまかせてあらためて自由の道をえらぶ、とかいてきて絵も同じことだなともういちど絵にもどる。

自分の目と手がウンといわない絵はぜつたいに描かないというかわらない志があつてはじめて絵はかわつてゆく。これは逆説ではない。絵のもつ自然がそうさせるので麻生さんが、ではない。

リンゴ一個をほんとうに描ききることができれば社会はそこに自らの姿をみせる、という嘘をほんとうと信じるちから。これは一種の勇気である。

麻生さんの油彩はまぢかによつてみるととても微妙でうつくしい色からできている。デッサンの線もまた。それよりもむしろ神聖な滑稽さをいうべきだろうか。『寝ている男』や起きあがれなくなつて困つている天道虫にも似た多臂の『愛染明王』のように、その困惑がかえつてユーモアにかわる。

生命を否定した絵をぜつたいに一枚もえがいていない。生命を否定するものを否定しているのが麻生さんの絵であり、たとえ裏がえしになつても歪んでも捻れてもいつだつていのちの讃歌をうたつている。そんな壊れそうにみえてこわれないそういう生命のもつともシンプルなかたちとして木があつた。すると人間、とりわけ麻生さんのえがく裸婦もまた木なのである。

裸婦をみて、たとえば「それでしかし原始という文字の表現には、その原点にはふれていないが原始は、原始はただうつくしい」ということばをおもわず連想してしまう。山や河がその名の発語のなかにはるかな古代の手がかりを残すように、麻生さんの裸婦は固有名の記憶をかすかにとどめ、最初の一歩のあとにたちどまる。

黄塵至り柳絮舞い眼華とぶ。『大崎駅付近』は、酔眼朦朧とした目とふるえつづける手がとらえた幻覚者の情景とみえても、よくよくみれば地上から宇宙につながる無音のリズムがそこで脈うつていて、それが国東半島の磨崖仏や『辛夷の花のある風景』につながつている。

『辛夷の花のある風景』などは、いつけんなんの見所もない属目の風景にすぎないが、このさびしさからは含羞のひとのいうにいわれないリリシズムが匂つてくる。これがなくなつてもせかいはちつともこまらないけれど、こまらないせかいとこれとでは、こつちのほうを大事にしたい。おなじことは、地球にそつて湾曲した水平線のちかくに何艘かの漁船をうかべた海にふとみると一羽の鳥が飛翔してゆく『東京湾』にもいえる。

麻生さんのデッサンについてかたることは、麻生さんの藝術をかたることでも、それをみる〈わたし〉をかたることでもない。あつてはいけない。かたるくらいなら、もつとみてほしいといつている絵の自然から〈わたし〉の自然にむかつてながれる磁力がうみだす風のごときものに身をまかせることだ。ことばはなくなつてしまいそうになるとしても。

いやなものはいやだという我儘とみたくないと目をそらそうとしてもそらせないという或る種の侠気。このふたつのちからが清潔にとりひきすればどうなるか。「自分の引いている線を次の瞬間に全部否定して新しく線をひいている。」麻生さんの文はむずかしいといつたら、そんなときには声にだしてよんでみれば意外にわかりやすいと次女のマユさんが教えてくれた。それでときどき小学生にもどつた気分で音読してみる。なるほど。たとえば、「テーブルの上にあるコップとパンとその他と、それらの個々のたがいの関係を見ればわかるが、ひろがりの中のたがいの関係のカタチの、なかみの、正反対のカタチの組みあわせによることの、等々がそこにあるということでこの現実がよくわかる。」

「ないものがそれがあるのだということにはならない。たいへん感動するがその質はないのだということだ。そしてないものはどうなるのかということだ。ないものはだんだんになくなる。」なにをいつているのかつて。これは麻生さんの観見の観の目がかたるヨーロッパ論だ、と気づいたとき、ではあるものはあるのか。

「私のまわりには何もないということ、わたしは自分自身の力ですべてを築きあげなくてはならぬこと、を実行した。いまでもすこしもかわらない。」

朝鮮のおじいさん顔をした『百済観音』の線には、かつてうたれたエジプトの彫刻やギリシアのヘラ女神像に匹敵するかたちを自分がそだつた風土のなかに発見したこころの弾みがこもつて、しかも回帰の線を刻々にうちやぶるから、かえつていちどきりしかかけない即興の線の姿をとることになつた。

藝術は自己表現などというものではなくただの表現である。藝術も自己もいらない。はんとうに必要なのはただ表現するということだ。麻生さんはそのことにはやくから気づいていた。模倣をつぎつぎとさかのぽつてゆけば宇宙は円環となり、〈わたし〉をマネるものは〈わたし〉がマネたもののとおい祖先となる。

麻生さんの描く裸婦、それは女ではなくまた裸なのでもない。穴のあいた管でなく、・汲烽ツた空家と蜂でもない。

クシャつと紙をまるめたみたいな、水気のぬけた梅干しのような太陽が空にうかんでいて、元気があるようでないようなそれが印象的な油絵はいくつもある。油絵ほどわかりやすくないが、気をつけているとデッサンにもみつかる。『ひろば』では暈をかぶつて空に君臨するが存在感はうすい。それよりも、饒舌におしゃべりする空間のなかでふとそこだけ動きがとまつているような『空』の、そこにただ「ある」ひらべつたい太陽のほうがなぜか気になる。

空間ということばはなぜか透明な立方体をおもわせ、へりがみえてくる。それにくらべて〈ひろがり〉にはへりがない。へりがみえないひろがりのほうが麻生さんの絵にふさわしい。ひろがるひろがり(という風にかさねていうのが麻生さんの癖)のなかに粗密と干満がうまれ時間がはいつて、それが平面に、つまりかたちになろうとする。

腕がとれ足がもげても、目だけになつても、うちがわのいのちからおしだされたものならくずれることがない。それがかたちである。

『寝ている男』はじつにユニークとしかいいようがない。寝ているのは自分だから、これは麻生さんの絵にしてはめずらしく頭で調子をとつて内的な感覚を室内情景にとかしこんでかたちに描いたものだ。自分の意のままにならない自分という身体感覚を、むこうからではなく、あくまでこちらから眺めている。

人体はいつもあやうい。たしかな腕の一本の線さえまだみつかつておらず、途方にくれたようなひとの身体は刻々にくずれてもとの無機物にもどろうとしているのか。そうではないだろう。壊しても壊しても壊れないかたちをこえたつよさを蔵するものこそ人体であり、しかもそのつよさはたよりなく、弱々しげな無数の線でしかさぐりあてられないのではないかと、ぼくらはだんだん思わされて、いや思うようになつてくる。

『海(鎌倉)』はぼくの好きなデッサンのひとつだ。どこがといわれてもこまる。ただひたすら力のゆききする線のながれ。波はたかいかもしれないが、そうでないようでもあり、風がつよいような、そうじゃなくて麻生さんの視線がつよく速いようでもあつて、ここには晴れた日の光がかんじられる。

ときどき足もとから裸婦をみつめてみること。ひろがる大地のエネルギーをひとつにあつめて揺るぎなく、たつているひとはほんとうにたつている。定まりてしずかなその足のたしかさ。

そとに対象をみつつ、絵はかならず内側から、ただそこにあるひろがりから生成してくる。リンゴがリンゴの芯から表皮をみる眼をきたえるような放れわざ。

世界視線ということばがちらりとでも頭をかすめるのは、たとえば『東京湾』などをみたあとだ。麻生さんの絵のどこかですでになんどかあつたことのある感覚だ。

(ひがししゅんろう・三重県立美術館学芸員)

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