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まだ天使が生まれていない場所で

東 俊郎

クールベが天使という
言葉を人か・轤「われたと
きに、嘆笑したことは……
(土方定一)

美術批評家(といわれるのをきらって、むしろじぶんを美術史家だといっていたが、)土方定一のかいた文章は、批評家のそれとしては例外的に、生きている。よんでいるうちに真似たくなってしまう、伝染性のとてもつよい文体だ。思考がときにねじれてしまって、そとからの風がはいってくる欠点まで、むしろすがすがしいと感じさせるし、ともかくこの革袋には、ほとんどなんでもほうりこめる伸縮の自在というか海量があって、それゆえ、こういうスタイルでしかとりあげることができない、いわば論旨の本通りから一歩路地に迷いこんだ、おやっとおもう引用が、どこかにちらりとでてきて、退屈な眠気をそこでさませてくれる。それはたぶん、資質にふかく根ざした感覚がもっともあかるく光っているからだろう。たとえば美術史だけでなく、思想史経済史を自在にかたりながら、土方がヨーロッパ美術展望の拠点にした16、17世紀ドイツ、フランドルの歴史の舞台のうえで、同時代の精神を芸術家はどう呼吸して作品をつくっていったかを、ゆうゆうとした足どりで記述してゆく『ピーテル・ブリューゲル』の、「異端I」の章に、16世紀ネーデルラントを襲った、疫病よりも過酷な異端狩の先兵ピーテル・ティテルマンが、「赤野郎」とよばれる体制と法の番人と会話するくだりなど、まったくそうだ。

「どうしてあなたはひとりでなんか歩き廻るのですか。ど
  こでも人民を逮捕するのに一人や二人の従者を連れてい
  ますよ。わたしは強い軍隊の先頭に立って証拠を握って
  でなければ、処刑はしません」と、赤野郎が話しかけた。
  「ああ!赤野郎」とピーテルは面白おかしく答えた。「君
  は悪い人間とつき合っている。おれは何の心配もいらな
  いんだ。おれは何の抵抗もしない、無実な、徳の高い人
  間だけしかつかまえない。だから羊のようにおとなしく
  捕らえられる。」「大変結構なことだ。」と、赤野郎がいっ
  た。「だが、あなたが良い人民を全部逮捕し、おれが悪い
  人民を逮捕しちゃったとすると、世の中に懲罰をまぬか
  れるやつはひとりもいなくなるじゃないか」、と赤野郎が
  いった。

ようするにこういうふうにひとをつかまえてしまうのが、かれが固有時にもどったときの一種アモラルな世界視線である。不正や悪をよしとしはしないけれど、いっぽうてきに断罪するリゴリズムからはうまれるべくもない、ふしぎにのびやかな空気がぜんたいを「童話」的なできごとにしたてている。ブラック・ユーモアのすごみと、どんな罪をもだきとってくれる救いの視線。そこからうまれるのが黒い笑いにはちがいないとしても、こちらもおもわず微笑せずにいない。

ところで、弱年の土方が童話をかいていたことはよく知られているが、かれが1928年(昭和3)にかいた『満腹した蛭の散歩』や『蛙祝祭』をよむと、鮒の血を吸ってふくれあがった蛭と、蛙たちの王様にのしあがった青大将をえがいてゆくフラクタルな曲線によって、そのおなじ視線がこれらをもまたつらぬいているのがはっきりわかる。ほんとうは全文をぬきがきしたいところだが、とりわけそれがつよそうな場所をえらんでみると、

  どうだ、このおれ様の食べ残しは!おれ様なぞは、まだ
  血を吸うだけなんだから、何といってもお上品だ。きれ
  いでいらっしゃる。だが実に有難いことに、こうしてお
  母さんから蛭として生んでもらったお影で、いわゆる生
  存競争にも勝てるというわけ。勝てると言っては勿体な
  い。勝てるどころではない。そしてだ。強いものがお勝
  ちになって、弱いものが負ける。この位理の当然なこと
  はない。どら一つ腹こなしに、久しぶりで村へ散歩に出
  かけるとしようか。……お、星様も輝いていらっしゃる。
  いつ見てもお星はお美しいなあ……(『満腹した蛭の散歩』)

  どうも近頃、蛙仲間の気分がだらけているような気がす
  る。以前は決してこんなではなかった。例えば、仲間の
  ために死ぬという気分がどこにもみなぎっていた。そし
  て、みんな仲間のために死んで行った。諸君!仲間のた
  めに死ぬほど高貴なことがあるか?」「ぢや、君が死んだ
  らいいぢやないか?」と、一匹の蛙が言いました。(『蛙
  祝祭』)

この視線は、滑稽にも悲惨にも、慈悲にも残酷にも、感傷にも非情にも、また善意にも悪意をはじめどんな心理の異常にもひとしく無理なくはいってゆく、ヒューマニズムをこえたヒューマニズムの不思議な屈折のちからによって、かえって透明感さえそなえているけはいである。ロシアのニヒリストたちの最良のぶぶんの、或は善悪の彼岸にたつニーチェ的な光線というべきか。

土方は後年、みずからの経験或はその経験の集積としての美術史ということばをしきりに口にするようになるが、それはそれとして、まづはじめはヘ−ゲルの美学の優等生としてぼくらのまえに颯爽と元気よく姿をあらわす。大学の卒業論文が「ヘーゲルの美学」だったし、1931年から翌年にかけてのみじかいドイツ留学も、ヘーゲルの研究のためということになっていて、1932年には『ヘーゲルの美学―唯物論美学への一寄与』を出版している。

しかし、世界精神の自己展開としての歴史などといった、キリスト教を転倒しつつ、またべつの予定調和をえがくヘーゲリズムや、そのヘーゲリズムの観念を物質におきかえながら歴史の終末を予言するマルクスの教えの、みごとに体系づけられて弱点などどこにもないようにみえる知のたかみに土方はとどまるべくもなかった。なぜなら、このみごとな知の神殿にもじつは致命的な泣きどころがあって、それが芸術とよばれる領域であることを、いづれかれの資質はみぬかざるをえないからである。そしてみぬけば、そちらのほうにひきよせられてしまうのが、かれには自然だ。普遍の真理という、はずかしいほどおおげさなかんがえばかりでなく、歴史というよりどころさえ蒸発させる、なにか無時間的な感覚こそ、一生をつうじてかれがもっとも魅せられる風光だった。

さきに示したふたつの引用―感覚のかけら―をここで思いだしてみると、それがあきらかにこの真理をも歴史をも撥無してしまう、感覚の無時間的なかがやきにつながっているのが否定できない。ようするにかれはつよい知性のひとであるが、それ以上につよい感覚のひとだった。やがて土方がヘーゲリズムから、すくなくともその美学の檻から脱走するのは、だからとても自然のみちゆきといえよう。とはいえかれが脱走したのは檻からであって、美学からではなかったということも、この際わすれずにいっておくほうがいい。山河はいたるところに美学を星散させていて、かれは歩くだけでよかった。

  講壇で講義される愚かしい理論をいっているのではな
  く、すぐれた画家の自己の経験の認識をいっているので
  あって、もともと美学というものがあるとすれば、そう
  いうものだ。(『いまひとつの海老原芸術』)

感覚のひと土方の地中ふかく根をはっているこのグロテスク/ユーモラスなアイロニーにみちた固有の領域。それをうまく名づけてみたいが、もちろんそうたやすくはない。だから一時的な接線として、おもいきってそこを、まだ天使が生まれていない場所といってみることにする。土地の霊として、なによりも天使をみたてるというこころだ。しかしそれはまだいない。氷のようにあつくて、火のようにつめたいあの世界視線がとびかうだけだ。だからそれを、ひとりの天使はいないが、無数の〈天使〉と〈悪魔〉がいて、敵味方でたたかいあいながら、しかしこっそり裏取引がおこなわれてもいる場所といっていいかもしれない。

ところで、かくすのが下手だからはやばやと種をあかすと、この命名にはじつはでどころがあった。いったい、土方定一の精神をかたるとき、決定的にだいじな画家はだれをおいてもまずパウル・クレーではないかと、ぼくはおもうが、そのクレーの晩年に天使のシリーズがあったのをすでに知るひとなら、或はなにか似たような題名をもち、その名によって記憶にふかくのこる暗示にみちた画面をおもいだすことができるかもしれない。ところで天使とはいっても、クレーの天使はダンテの『神曲』のような整然たる称序のせかいに住んではいない。天使たちは「酒飲み」であり「忘れっぽい」し、また「戦闘的」で、「希望にみち」たり「絶望的」になったりしている。ようするにこれは天使というより天使の見習いであり、そういう未熟もののなかでも未熟もので、姿さえはっきりみえていない。そう、その場そのものが身振りを示してたちあがろうとする不思議な印象の作品に、クレーは『生まれつつある天使 Engel im Werden』という名をあたえたのであった。

『藝術新潮』の1961年7月号に土方定一は「クレーの人形芝居」をかいている。それまであまり知られていなかったクレーの一面を紹介したみじかい文章だが、ここでの土方はクレーの研究者をはなれて、まるでもうひとりの自分というか、自分そっくりの他人にであったときの感動のつよさを、柔らかくつつみながら隠しきれない、そういったきもちでペンがひとりでうごいてしまうといった風情がある。クレーが人形が好きだと知ったとき、きみもやはりそうだったかと、かれの孤心はふかく息をのんで、あわせてクレーヘの親しみが、これ以上ないほどつよまると同時にふかまった。そのときついでにゲーテやクライストやジョルジュ・サンドも人形芝居が好きだったと、まるで仲間の秘密をうちあけるみたいに筆をはしらせたのは、あきらかにこの余波だろう。

ところでかれが一時期熱中し、日本最初のギニョール集団と称した「テアトル・ククラ」のことをわすれていたわけではない。けれど、このクレーの記事をよんではじめて、土方はしんじつああいうことが好きでやっていたのかと長年の不審とまではいえぬ不審がとけたわけで、とければあとは、ばらばらに散っていた破片が一点にあつまるように、「ウンクライヒをとおって支那の町」へゆくクレーの足どりをなぞって、人形劇を愛するこの感覚もまた、土方の、まだ天使が生まれていない場所をめざしていることに気づくのは、そうむづかしくないだろう。イーハトーヴォをとおってカレバラスの国へ。ふりかえれば、すでにこういう土方を暗示する破片をすでによんではいたのだ。

  水高の寮のお祭があって土方さんの部屋にクレオパトラ
  がエジプトの宮殿の前に立ってるところを作るから手伝
  えというので、ボール紙やハトロン紙で円柱や階段を作
  ったり針金の芯にパラフィンでクレオパトラの立像を拵
  えガーゼの衣裳を着せて、何うやらそれらしいものが出
  来上がり、大騒ぎして徹夜で飾りつけをしました。(真木
  小太郎「華薦なる先輩」)

  彼は興亜院に勤めるようになって、中国に出向くことが
  あり、あるとき、おみやげに中国の小さな土の人形をも
  らったことがある。その人形は身長3センチぐらいの素
  朴にこねた彩色立像で、五人の人形はそれぞれにほほえ
  ましい姿だった。(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」)

人形に親むのを、こどもっぽさへの固執と名残だといってすませることはかんたんだが、それならそのこどもっぽさが、すくなくとも藝術にかかわるとき、意外にだいじなことで、そのうえ、こどもの心は未開の心性につながって存外にふかくて複雑なものがある。わけ知りぶった大人よりも、じつはシンボル操作の秘密にちかいところに生きているのは、むしろこどもではないか。いったいどんな人間のなかにも人形がいる。ほんとうにつよいのは箇性ではなく類型だ。よけいなものまでみせる素顔に仮面をかぶせ、なめらかすぎる動きを切りすててはじめてみえてくる、せかいの原型。理想の人間を憧れているようなふりをして、かえって人形こそ、むきだしの人間にちかい。

もうすこしはなしをすすめたい。土方の、まだ天使が生まれていない場所での世界視線についてさきにすこしふれた、その不十分をおぎなって、ここでもうひとつ世界劇場ということばをかんがえてみるがいい。そしてこのふたつは水と水にうつった空のように区別しがたいので、この事情を説明するには、またしてもクレーを引用するのがはやみちだ。たとえば、土方なら手をうってよろこぶはずの、こういう『日記』のことばはどうだろう。

  この私という自我は、たとえてみれば、旅役者の一座の
  ようなものか。祖先の予言者が舞台にあらわれる。野獣
  のような英雄が吠える。すると、アルコール中毒の遊蕩
  児が学識のある教授とわたり合う。年がら年中恋をわず
  らうリリカがあまったるい声でささやく。すると、パパ
  がうるさく横槍をいれる。すると、ことなかれ屋の叔父
  が仲に入ってでる。すると、叔母がお喋べりを始める。
  すると、腰元「淫ら」がくすくすと笑う。私は、左手に
  とがったペンをもって、びっくりして眺めるばかり。(南
  原実訳『クレーの日記』638)

掌というちいさな劇場のなかで〈天使〉と〈悪魔〉がくりひろげるオペラ・ブッファをみているような、つきはなしてとおく、またするどく風刺的なクレーの視線。そしてここでは英雄にも、遊蕩児にも、リリカにもみえない糸がついていて、それにひとしくあやつられているのも同様に、かれらのうごきはどこか人形的だ。すくなくともクレーはそういうふうに表現している。いったいこれは、劇場としての自我としてみれば、分裂/複数の自我の共存を意味しているし、いっぽう、劇場としてのせかいとしてみれば、あるべきものの倒錯や転倒、つまりさかさまの世界を意味していて、しかもこのとき自我とせかいは、わけることのできない二重性として、視線でもあり劇場でもあるひとつの場所を構成している。

むづかしそうないいかたになってしまったけれど、ようするにクレーも土方も人間、というか自分が人形のようにみえてしまってしかたのない視線をもつ種族だったということがいいたかった。かれらの幸福も不幸も、このメランコリーとアイロニーにみちた視線にのってやってくる。人形が好きだという、いっけん無邪気のその無邪気をひっくりかえせば、邪気が怪物のようにわだかまる。無−邪気というのは、そのうちのたったひとつの徳であるように。そういえばあまり自分の内面をさらけださないのが土方の流儀だが、そのかれにしても、みずからを「フォーヴィスムとそれに連続しているエコールの子」とよびながら、こんなふうにかいたことがあった。

  ぼくらより年齢の上の人びとのそれぞれの回顧を聞いた
  り読んだりしていると、それらのうちに、燦然とふりしきる
  外光を浴びて手を挙げているような、幸福な時代が
  浮かんでくるが、ぼくらの世代はもう少し苦渋にみちた
  回顧を伴なうように思われてくる。時代が分裂していた
  ように、意識も感情も分裂していたように思われてくる。
(「昭和期美術の批判的回顧」)

水戸高校時代から土方はアナーキストをもって任じている。ことばとしてのアナーキズムなど、いまとなっては、天才神話と左翼思想が奇妙にハイブリッドされたこの時代の空気を知るためのキーワードとみえてしまうが、たとえば高見順が「土方定一はアナーキストからコミュニストへ転換しなかった。」といっているのは、かれを知れば知るほどべつに不思議ではなくなる。勇気のもんだいではないからだ。勇気というなら、土方は政治のために芸術を抑圧する社会主義レアリズムに対して、はっきりNonというだけの勇気をもっていた。いったいアナーキストとコミュニストは、ぜんぜん世界視線のちがう、べつの種族であって、革命は革命でもアナーキストのそれは永久革命の匂いつよく、つくるよりは壊すことというか、はじめからつくらないことがだいじになる。

そういうわけで土方のアナーキズムは、たんなる一過性のものどころか、もってうまれた持病にひとしかったので、これはごくてみじかに、かれは地上でのできごとはついに傍観するしかない非日常の眼と藝術家の魂をもっていたといいかえることがゆるされる。或はもたされた、といったほうがただしいだろうか。「詩は不可避である。」といったのは高村光太郎である。みずから意志しておこなうことではなくて、不可避にうながされること。気がついたらそうなっていたという、いっけん受身にもみえる不決断の決断を生きるしかないとき、かえってその矛盾のなかから、せかいはひとに祝祭としての姿をみせてくれる、というのはほんとうだ。

かれの眼はいつもいきることの昏さに敏感だった。だから社会の不正をにくみ、しいたげられている大衆がたって、きたるべき革命をのぞむ土方という像のどこにも嘘などはない。1941年、華北綜合調査研究所文化局副局長として北京にいたころも、仏教彫刻をカメラにおさめながら、そのかたわらで、

  その頃の所謂、中共地区で発行されたパンフレット、伝
  単を偶に見せられて、そこに刷られてある木版画の新鮮
  な、木版特有の端的さで迫ってくる力強い表現に屡々驚
  嘆の声を挙げた事がある。(『魯迅藝術学院の木版画』)

とかいている、その体制に反抗しはじめた人民への関心が、のちのちまで灰のなかの熾火のように消えることがなかったのは、はるか後年、ブリューゲルをめぐる16世紀ネーデルラントの情勢を熱をこめてかたるときでさえ、他にかけばかけることより、

  このときになると、民衆の積極的な反抗も項点に達し、
  スペインの植民地支配と異端迫害に反対するパンフレッ
  ト、びら、落首、その他が町に、ネーデルラントの諺で
  いえば「雪ふった」ようであった。(『ピーテル・ブリュー
  ゲル』)

などと、かつての記憶のうえをもういちどなぞっなようなことを書いてしまうことからも、たやすく想像はできるのだ。しかしそのどちらにも感傷はない。チェーホフの小説のなかでしばしば感ずるような、とおくから平行にとんできて大地を射る土方の視線には、あたたかさとつめたさが、ずいぶん微妙にまじりあっているのは、あいかわらずだ。

かれはよく「造形思考の必然性」ということをいう。造型的なシステムとか造形心理といいかえてもおなじことだし、作品が「肉体をもつ」というのもそうで、いづれも、ほんもののプロフェッショナルかどうかを判断する土方流の指標となっているが、ようするにある画家なら画家の造形に必然性があるというのと、さきにぼくがいった、画家それぞれに固有の不可避にうながされるというのはおなじことを指し、土方/クレー的経験なるものもまた、それらをめぐらずには集積されない。思考の必然と肉体と不可避と経験とは、いわば正四面体のそれぞれの頂点をかたちづくって、そこにはじめて芸術の磁場が生まれる。そういう磁場をもちつづけたひとだけを、藝術の使徒としてたかく評価したからには、かれじしんにも、それらにひとしい磁場があったはずで、それなら、「まだ天使がうまれていない場所」とよんできたその場所がそれだった。

すると絶対零度の宇宙からやってきて、地上の光にぬくめられた土方のまなざしのこのつめたさは、かれの不可避からきている、かれの経験からやってくる、劇中劇をみているような世界視線につらぬかれているせいだとまでは、いっていいだろう。もちろん明晰な土方は自分のこういう視線のありようをよく知っていて、また別にさまざまにいっている。たとえば「冷たい浪漫主義」、というクレーを経由したことばもそうではなかったか。

  私は、最後に、地上にひきずられる力と反対なものもろ
  の力を、大きな円周を描くまでふりまわす。私は激情的
  で衝動的な様式をこえて、すべてが一体化する、あの冷
  たい浪漫主義に到達する。(パウル・クレー『造形思考』)

土方定一がもっとも土方定一である固有の領域にはたらくちからを、いろんな風にいいかけてみてみて、ここまでくると、さいごにぼくはあらためて「童話」ということばをつかってしまいたくなってくる。もちろん、精神的なあゆみの出発にあたって童話的な詩や、詩的な童話をかれがかいていたという起源論からではない。童話のなかにはたらく力学が非童話的な童話はむしろいっぱいある。いっぽう土方の詩も童話も、しょうじきいってけっしてうまくはないけれど、ただ、詩が虹のようにかかるその磁場や童話のせかいを支配しているちからと重力の法則が、童話というしかない、ふてぶてしくも透明な力線にのっていること、それはまちがいようがないのである。かれは「童話」から出発したのではない。くねくねとした道をたどって、さいごにたどりついたところが「童話」なのだ。またしてもことばが混乱しそうになってきたが、ぼくのあたまにあるイメエジははっきりしていて、じつはモーツァルトのオペラ『魔笛』とか『フィガロの結婚』とか、そして『ドン・ジョヴァンニ』をおもいうかべてもらえばいい。そこでくりひろげられているのは非日常の夢ではなくて、高分子化した日常生活であり、超人である人形/人形である超人の、オペラ・ブッファともよばれる祝祭なのだ。

土方の初期童話にもすでにそういう祝祭の感覚がかんじられるのではないだろうか。鮒の血を蛭が吸い、その蛭をこどもがさかむけにする『満腹した蛭の散歩』と、毎日蛙をのみこむ青大将が、こんどは「三郎君」に殺される『蛙祝祭』かはは、構造だけをみると、なにやら、ボッシュやブリューゲルの例の「大きな魚がちいさな魚をのみこむ」寓意をよみとることもできそうだが、土方の最良の部分はそういう記号なら記号に還元できるところにはない。アイロニカルでするどい風刺の視線にもかかわらず、そのぜんたいを柔らかな光がつつんでいて、そのなかでは、鮒も蛭も小作人も、そして蛙も蛇も、劇にはいろいろな役者が必要だし、筋もなくてはならないからあるだけで、役をおりればみんなおなじとでもいいたげな、どういえばいいのか、なにか奇妙な絶対平等を知ったうえで舞台にのぼっていたといえば、すこしいいすぎだろうか。

必要だったのはただひとつ成熟である。こんどはあまりふれられなかったけれど、土方の中国体験はとてもたいせつだ。謎のような部分もおおく、けっきょく日本からの精神的な逃亡だったとしても、それでもかれが太平洋戦争の末期に中国の土をふんだのはいいことだった。土方が土方になる蝉脱のもっとももおおきなモメントがそこでうごきはじめた。およそ、まともにかんがえるだけの頭があるひとなら、金子光晴が『どくろ杯』でいう「おちょぼ口した、手先のきれいな」日本人のままでいられないほどの経験をしたたかにしいてくる、底のしたにまだ底のある暗黒が、そしてそれを撥無してかがやきだす光が、かわらぬ歴史とともに中国にあるからである。わけ知りぶった島国の知恵で分別したせまっくるしいだけの枠から、はみだしてゆかずにいないもの。

  たとえば、万里の長城を前にしたとき、ぼくの眼がもつ
  視覚の範囲外に風景が広がっているのに戸惑いする(『追
  憶のなかの林武さん』)

と土方がかいても、かれの眼がもつ視覚の範囲外にひろがっていったのは、そういう風景だけにかぎらない。風景はひとを模倣する。人間もきっと万里の長城に似ていたにちがいない、とするなら、かれはこの石のようにかたくつめたい大陸の茫茫とした空間で、かれのもっとも哀惜していたはずのなにかを、生きるかぎりはすりつぶさなければならない。しかしそれは根こぎにするためでなくて、もちろんたくましく再生するためではあるが。そして、星が星に継ぐように、根から根へと継承されたものはあった。まだ天使が生まれていない場所の奥行きがぐっとふかまったというべきかもしれない。いいかえると、さきにふれた祝祭の感覚がいっそうはっきりしてきた。もういちどいいかえると、なにもしないことの徳へとさらに一歩ちかづいた。或はだれでもないことのエチカへと。

かつてかれは、詩人であり、童話をかき、アナーキストをきどり、あたまの冴えた不良っぽい美青年であり、昼ちかくにおきてくるオブローモフで、あらゆる価値をうたがうスタヴローギンで、十年一日のごとく図書館にかよいつめる篤学の学究であり、またそのどれでもなかった。どれでもない不安と分裂にさいなまれてもいた。しかしみえない河をわたったあとのかれはもう、詩人やアナーキストはおろか、正統の説に異をたてるあまのじゃくでも、きまりかけた会議をひっくりかえすワンマンでも、商才にたけた戦略家でも、未知にいどみたがる精神の冒険家でも、またわが国ではじめてできた近代美術館の館長ですらなく、だれでもないが、そのだれでもないことによってそのだれでもある。いまはもう詩や童話をかくことがだいじなのではなくて、それはよめばいいのだし、さらにすすんで、みるひとがみれば、ものとひとは現実そっくりそのままの姿で、たちどころに詩や童話のかおつきをあらわす、というのは可能だというところのちかくにきている。たとえば道元はそういうせかいの消息をさして「全機関同時現成」ということができた。これは道元のせかい認識の最高の達成であることによって、せかいを童話にしている。童話がせかいをつかんでしまっているので、その逆ではない。ところで土方が『正法眼蔵』をよみたいといったり、よめとすすめていたのをじっさい聴いていたひとが二三あった、ときくのは心づよい。かれの固有の領土をとびかう視線は、あれはひとのいうことをなかなかきかない頑固な土方流のバイアスがつよくかかった「全機関同時現成」をうたううただったと、おもいきっていっていいくらいだ。

せかいのすべてがかくれることなくあらわれているこのエッセイの冒頭にしめした、『ピーテル・ブリューゲル』の一挿話がそうだ。ドイツ農民戦争、そしてとりわけ、それまで日本であまり評価もされていなかった再洗礼派の千年王国的な信仰にたいするあつい共感は共感としてたもちつつ、逆にそれを弾圧するほうにまわった人間をも人間として、ほがらかに玲瓏にせかいをみることができるちからは、又つぎのような文章をかかせるちからとなる。

  そこにあった二点の作品の前に立ったとき、ぼくはなに
  か押しつけがましい絵画という概念から解放された自分
  を驚きながら見なければならなかった。と同時に、鳥の
  嘴がぼくのなかの未知の感情の壁をつつき、そこに抽象
  的な船がつぎつぎと現われ、旗が掲げられて行き、また
  感情の水族館のひとつの壁のなかに一匹の魚が、どこか
  物ぐさな憂愁の思考に耽っているのを、こそぐられてい
  るように感じている自分を見なければならなかった。
  (『パウル・クレー』)

これは土方のかいたもののうちで最上の詩的な、というよりも詩そのものである文章であって、ぼくなどこの箇所はなんどよんでも、これをかきながら土方がおもいだしていたクレーの作品が、そのとおりの順でぼくのまえを通過し、そのたびに花火のようななにかが打ちあがって、感心するしかない。

いいのこしていることは、まだたくさんあるが、あとがなくなった。ところで、かれにとって固有の土地の霊としてきた天使はうまくかたづいただろうか。天使は生まれたといっていいのだろうか。ぼくらはそういう問いそのものが無意味になるところまで、いまはきている。それ以上一歩をすすめたいなら、また別の問いを用意したほうがはやみちだ。かたちのひとでなく、土方定一という、つねに生成しつづけるひとにたいし、このつぎは、もっとうまく問いかけなくてはいけない。

もっともここでもういちど、すでに天使がいる場所で、とかすかにつぶやいてみると、みえそうになる風景がないわけではないのだけれど。それは、ぼくだけにみえる幻の風景かもしれない、だれでもないことの晴朗さにみちた時間である。ずっと土方のかいた文筆をよんできて、かれがどういう場・鰍ナいちばんくつろいでいるだろうかとかんがえると、きまってうかんでくるのは見知らぬ外国の街である。朝寝ばうしてゆっくりおきたかれは、まださめきっていないまま、ホテルのちかくのカフェで、あついコーヒーをのみながら、道ゆくひとをぼんやりとみている。かたわらには昨日美術館で買ったカタログ。しごとはしなくていいし、だれもかれのことは知らない。かれはこころからくつろいで、自分にかえる。よけいなことばはいらなくて、とてもおおきな虚しいものにちかづいた、天使がなんども通過してゆくこの至福の沈黙のとき。無為であることのかがやきと空の青よりも濃い真空の密度。そして、そういう真空のような無為にささえられてはじめて、鎌倉の近代美術館を拠点とする、土方の精力的な活動があったので、ぜったいにその逆ではない。

(三重県立美術館主任学芸員)

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