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土方定一年譜 東 俊郎(編)

【凡例】

0. この年譜は、『土方定一 遺稿』(土方定一追悼刊行会、1981年)収載の「年譜」(匠秀夫編)に主として準拠し、編者が増改訂した。
1. この年譜は■事項の部分と◆引用の部分からできている。
1-1. ◆引用の部分は、土方定一からの引用を中心に、それ以外の引用をふくんでいる。
1-2. ( )内に出典を示したが、土方定一からの引用には特に名を記さなかった。
1-2-1. 出典の最後にあるHは「土方定一著作集』(全12巻、平凡社、1976年)号である。たとえばH8は「著作集」第8巷である。
1-3. また「追想」は『土方定一 追想』(土方定一追悼刊行会、1981年)に収録されている。
1-4. 新聞記事は、その年のものは月日を記すにとどめた。


西暦(和暦)年齢 事項 引用
1904(明治37)年 ■12月25日、父乙吉、母かきの長男として岐阜県大垣市八幡宮の境内に生まれる。学齢前に一家は名古屋市中区板橋町に引っ越す。 ◆私たちより15年から20年上の世代の人びとが、わが国印象派の、美術団体からいえば、二科会の子であり、それより10年ほど上の世代の人びとが、黒田清輝の意味での前期印象派の、美術団体からいえば、白馬会、初期文展の子であるということができるとすれば、ぼくたちの世代は何といっても、後期印象派、というよりフォーヴィスムとそれに連続しているエコールの子であるということができる。ぼくらより年齢の上の人びとのそれぞれの回顧を聞いたり読んだりしていると、それらのうちに、燦然とふりしきる外光を浴びて手を挙げているような、幸福な時代が浮かんでくるが、ぼくらの世代はもう少し苦渋にみちた回顧を伴なうように思われてくる。時代が分裂していたように、意識も感情も分裂していたように思われてくる。(「昭和期美術の批判的回顧」H 8)
1912(大正元)年 8歳 ■松本小学校3年で、東京市本郷区弥生町に引っ越し、根津小学校に通う。  
1913(大正2)年 9歳 ■牛込区早稲田南町に引っ越す。  
1917(大正6)年 13歳 ■4月、早稲田南小学校を卒業、府立第四中学校に入学する。この頃萩原朔太郎、北原白秋、室生犀星、高村光太郎などの詩を愛読した。またこの時期、牛込区戸恊z訪町に住む。
◆ところで、この1918年は、ドイツの各都市に勃発したドイツ革命の年であり、その翌年、1919年の4月には、バイエルン共和政府、いわゆるミュンヘン革命がマルキスト、ノイラートの指導の下にはじまり、4月末に崩壊するまで、ミュンヘンの市街はデモンストレーションと銃声、流血の街と化してしまっている。この間の過程についてはエルンスト・トルラーの「ドイツの青春」(アムステルダム、1933年刊) が詳細に語っている。トルラーの記述はつづいて逃亡と、逮捕の章となっている。逮捕するか通報すれば一万マルクの賞金をかけられているエルンスト・トルラーは、口ひげをつけて変装し、はじめ名をあかさない不思議な男に助けられてその家に、つぎにある医師の家にかくれているが、ライナー・マリア・リルナに助けを求めて、リルケがトルラーの隠れ家にきてくれたにしても、詩人の家はかえって警察によって嫌疑をかけられやすい。そこで、画家レッヒの家に三週間、かくまってもらっていたが、最後に逮捕されてしまうことになる。つぎは牢獄のなかの詩集、「燕の歌」と「朝」の牢獄生活となっている。(注:土方はこのエルンスト・トルラーの詩集『朝』を1926年に翻訳している。)(「パウル・クレー、1933年」H11)
1922(大正11)年 18歳 ■4月、水戸高等学校文科乙類に入学。
◆森有材とは不思議なつながりがある。ぼくが旧制水戸高校の生徒であったころ、草野心平君が早稲田の近衛館というところに下宿しており、その近衛館の経営者の子息が細井君であり、この細井君は天才的な演劇人であったが、画学生でもあった。そこに、ばくの中学時代からの友人で、のちに児童美術の研究者となった故湯川尚文、森有材などの画学生が集っていた。まだ、そのころの画学生は二科展に入選するのが念願であり、あるとき、これらの仲間が、また落ちちゃった、などと話しあっていたことを覚えている。そのころのぼくの家は、この近衛館から遠くない諏訪にあって、ぼくの家の前が亡くなられた中沢弘光の家で、この路次のような片側の方に丹羽礼介、文展時代の風景画家として知られていた山本森之助の家が並んでいた。そして、文展の審査前になると、中沢弘光の門の前に、風呂敷に包んだ大きなカンヴァスを肩にのせたりした画家たちが、列をなして出入りしていた。それはともかく、森有材の作品で、いまでも鮮やかに浮かんでくるのは、どこかの寺の仁王を大画面、一杯に描いた作品と、これまた竹薮を画面、一杯に描いた作品である。独立展の何回であったか忘れたが、時代はすでに文化ファシズムが、日本的な主題を描くことを要請した時代であった。森有材のこれらの作品がこの要錆に従った主題であることはいうまでもないが、ぼくはこれらの作品を見たとき、時代の要請に対して、猛烈なエネルギーの怒りをたたきつけたような、逆説的な傑作であるのに、不思議な感動を受けたことを忘れない。(「回想の今西中通」H8)
1924(大正13)年 20歳 ■はじめ寮に入っていたが、のち信願寺町に下宿し、週末には自宅に帰っていた。同人雑誌『歩行者』を発刊。この年、宮沢賢治の『春と修羅』出版され、ながく土方の愛読書となる。
◆水戸高等学校の土方さんと水戸中学の私とが何ういうわけで知り合ったのか、もう思い出せません。たぶん人形芝居をやりたかった私が、その台本か何かのことを聞きたくて誰かに紹介してもらったのだと思います。
 水高の寮のお祭りがあって土方さんの部屋にクレオパトラがエジプトの宮殿の前に立ってるところを作るから手伝えというので、ボール紙やハトロン紙で円柱や階段を作ったり針金の芯にパラフィンでクレオパトラの立像を拵らえガーゼの衣裳を着せて、何うやらそれらしいものが出来上がり、大騒ぎして徹夜で飾りつけをしました。このクレオパトラが、何とかで、何とかだというキャプションがあった筈ですがそれは忘れてしまいましたが、何か賞を貫ったことだけは覚えています。こんな事が後になって池袋の浜田さんの家でのギニョール作りに、私を連れていってくれたのかも知れません。(真木小太郎「華艶なる先輩」、『追想』)
1925(大正14)年 21歳 ■同窓の船橋聖一、小林剛らと同人雑誌『彼等自身』を発刊、詩を発表する。この頃の土方の詩は官能的であり、またみづからアナーキストを称していた。  
1926(大正15、昭和元)年 22歳 ■この頃草野心平を知り、彼が始めた詩誌『銅鑼』(14年4月から昭和3年6月まで計16号を発刊。)の同人となる。
 2度留年したこの高校時代に、劇作家兼舞台装置家を夢みて、築地小劇場に土方与志をたずね、また、新宿の児童劇団が応募していた児童劇に「少年トルストイの夢」をかいて当選、賞金20円をもらった。いっぽう、アナーキズムに一層ちかづき、エルンスト・トルラーの詩集『朝』を翻訳。
◆土方定一がある日偶然やってきた。彼は当時水戸の高等学校の生徒で舟橋聖一と同級生だった。もう一人、いまは奈良の博物館長をしているらしい小林剛と三人で「彼等自身」という同人雑誌をやっていたが、それに私の詩を出すようにと土方にすすめられ、私は書いた。こうした状態を原稿依頼の訪問ということになれば、私は生まれて初めて原稿依頼の訪問を土方定一からうけたことになる。当時は戸山ケ原の原っぱに面した町角近くに彼の家があったので下宿との距離は歩いて四、五分位のものだった。彼を見た瞬間私は、若き日のアンドレエフを想い出した。なんとなくそんな感じだった。
 「銅鑼は、詩の雑誌としては、日本で一番いいと思うんだけど」 そんな風なことを彼は言った。三好十郎もそんな風に言ったことがあったが、ガリ版雑誌だっただけに余計にうれしかった。土方は毎土曜日ごとに上諏訪の家に帰ってたらしく、よく築地小劇場などを見ていたようだった。(草野心平『わが青春の記』)
1927(昭和2)年 23歳 ■4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学する。はじめ大恤ロ治、ついで大西克礼教授につく。同期に徳川義寛、楢崎宗重、三宅正太郎がいた。
 6月、失橋丈吉、飯田徳太郎、秋山清らと『単騎』を創刊する。また、荻原恭次郎、麻生義、小野十三郎らと『黒旗は進む』を発刊、どちらもアナーキズムの傾向がつよい。
◆時代はプレハーノフ、その他のマルクス主義芸術論の、いわば、氾濫時代であり、そのころ丸ビル内にあったライプツィッヒの古本屋の支店、フォックに注文すれば、たいがいの古木が手に入る時代であったから、へーゲル学派の美学書、プレハーノフが使用し、註に附記してある原書を次々と注文して読みかじりはじめた。(『代日本文学評論史』あとがき、法政学出版局)
◆清水登之というと、ぼくは、いつも、昭和2年4月20日から24日まで、丸の内、丸ビル、丸菱呉服店で清水が帰国直後に開催された個展を見たときの、ある不思議な共感と感動を思いだす。草野心平君と一緒に見に行ったように、ぼくは記憶しているが、草野君にそういう記憶がないということで、それでは誰と行ったろうかと思っているが、ぼくの記憶も、それしかない。丸の内、九ビル、丸菱呉服店で開催したというのも、ほくがいま調べて書いたもので、丸ビルとだけは記憶しているが、そういうぼくの周囲の記憶が曖昧なのに、たとえば、アメリカ時代の作品「テニスプレーヤー」とか、パリ時代の「セーヌ河畔の洗濯屋」、ぼくのいる神奈川県立近代美術館にある「活動写真館」、またパリ時代ではあるが、スペインに行って描いた「トレド郊外(兵隊と憎侶)」などの作品が、いまでも鮮やかな映像となっているのを、われながら驚くことになる。(「清水登之の人と作品 H 7)
1928(昭和3)年 24歳 ■ギニョール劇団「テアトル・ククラ」を結成する。団員は土方の他、東京美術学校彫刻科の学生浜田辰雄、詩人栗木幸次郎、細井知隆、浅野孟府。高村光太郎がフランスのギニョールをもっていたので借りにゆき、智恵子と会ったりもした。池袋に住んでいた栗木の借家に集まってギニョールやマリオネットをつくり、新宿角筈の紀伊國屋二階で上演する。草野心平も出演し、観客には宮島資夫、森三千代、高見順がいた。高見はのちに「土方定一は、アナーキストからコミュニストへと転換しなかった。」(昭和文学盛衰史』)とかいている。
 小川未明の新興童話作家連盟に加わり、機関誌『童話運動』(昭和4年1月創刊)に童話を載せる。
この頃、家は東京市外杉並町成宗に移っていた。
◆ちっぽけなテアトル・ククラの公演が成功だったかどうかは分らないけれども、私たちは一卜晩だけの公演でも満足した。ギニョールの歴史といったことは私には分らないが、多分その晩が日本で最初のギニョールの公演ではなかったろうかと思う。土方定一は詩作を主体に演劇に凝り、また童話を書き、詩や文学一般の評論を書き、翻訳やその他。けれども多岐に亙る彼の仕事の根幹は矢張りポエジイだったように思われる。(草野心平『続・私の中の流星群』)
1929(昭和4)年 25歳 ■3月、浜田辰雄とパンフレット『Gignol』(テアトル・ククラ出版部刊)を出し、そのなかに脚本「どうして馬は風をひくか」を収める。
 麻生種衛とフランツ・メーリング『レッシング伝説』(木星社)を共訳。
 
1930(昭和5)年 26歳 ■3月、卒業論文『へ−ゲルの美学』をかいて、東京帝大を卒業するが、大学院にのこる。
 5月、へ−ゲルの研究のため、シベリア鉄道でドイツにむかう。車中で竹林無想庵を知る。
◆パウル・クレーというと、ぼくは、もう30年ちかく前にパウル・クレ一の二点の作品を、ベルリンのナチオナール・ガレリの、一般に「表現主義者の部屋」と呼ばれていた小さな近代美術館ではじめて見たときの不思議な感動、といってはあたらないが、かすかな驚きの記憶が、どうしても浮かんでくる。そこには、パウル・クレーの作品とともに「青騎士」のグループの僚友であったフランツ・マルク、アウグスト・マッケなどの作品から、オットー・ディックスの作品、ウィーンの作家オスカー・ココシュカの作品などが並んでいたが、そこにあった二点の作品の前に立ったとき、ぼくはなにか押しつけがましい絵画という概念から解放きれた自分を驚きながら見なければならなかった。と同時に、鳥の嘴がぼくのなかの未知の感情の壁をつつき、そこに抽象的な船がつぎつぎと現われ、旗が掲げられて行き、また感情の水族館のひとつの壁のなかに一匹の魚が、どこか物ぐさな憂愁の思考に耽っているのを、こそぐられているように感じている自分を見なければならなかった。
 この二点のうち、一点は1925年の作品「金魚」であり、クレーの作品がドイツ国立美術館に購入された最初の作品であるが、パウル・クレーの作品のみでなく、この近代美術館の作家たちの作品は、間もなく、ヒトラー=ドイツの時期となると、すべて頽廃した芸術であるという刻印を押され、両商の飾り窓に陳列することも売買することも法律的に禁止され、公共的美術館にある作品は没収され、パウル・クレーの作品はスイスで、エドワルド・ムンクのような作家の作品は故国オスロでと巧みに競売きれたが、ぼくの記憶のなかの、いま一点の旗を掲げてしいる船の作品は、いままで確定できずにいる。確定できずにいるために、ぼくのなかのイメージは一層、自由となる。絵画の記憶のイメージの不思議な自己展開である。それはともかくとして、アカデミックな絵画の見方を日本で教えられてきたぼくは、このときパウル・クレーの作品から受けたこんな親しい会合を、そのとき実はなにか儀礼的に恥ずかしく思って、ひたかくしにかくそうとしたことを覚えている。(「パウル・クレー」H11)
1931(昭和6)年 27歳 ■胸を病んで帰国する。尾井参市のペンネームで『ハリコフ会議の報告其他』(木星社)を翻訳出版。また三宅正太郎と共訳の『マルクス主義美学』(共生閣)を刊行。
◆大学を卒業して間もない土方がベルリンに現れたのは昭和六年のことではなかったかと思う。江口渙の紹介状を持って、当時ベルリンに在住した左翼系日本人グループの地下集会場へいくつかの質問事項を用意して現れた。彼は特定のイデオロギーに染まったり束縛された気配はなく柔軟な詩魂の人という印象が濃かった。その故かどうかわからないが、神経質な連中からスパイ扱いされたよ、とのちになって述懐していたのを思い出す。
(略)鮮明な記憶が一つある。それは僕の寝泊まりしていた下宿を彼にゆずったことである。われわれのグループには一つのオキテがあった。ベルリンの西区、つまりブルジョア地区に居住してブルジョア的害悪に感染してはならぬこと、労働者街に感性の根を据えて、そこで生起している新時代を学ぶことなどで、この暗黙のオキテにあの自由で頑固な土方が従ったのだとすれば珍しいことだ。ベルリンの東から西へ流れるスプレー河の流域に広がる労働者街の一角に典型的なユタヤ人街があった。ポーランド系のユダヤ人グリュシンスキー夫妻が経営する下宿もそこにあった。下宿の主は夕方出て行って、早朝帰ってくるところを見ると、何処かのカフェかキャバレーの夜番でもやっているらしい、とは土方の観察であった。彼は西区のペンションを引払ってここへ移り住んでから、ブレヒトの芝居や民衆演劇、表現派風の舞踏家ニティ・インペコーフェンの舞台などを見て歩き、新即物主義の文学運動やバウハウスの仕事にも関心を示してしきりに資料を蒐めていた。僕は先に、土方が特定のイデオロギーに深く染まっているという印象はなかった、と書いたが、それは土方が当時の左翼の芸術運動をも冷徹に客観視していた証左で、いくらかニヒルな視線を投げながら真空無重力状態を保ち、一たん彼の関心が何かに向けて運動を起せば、とめどなく拡がり深まってゆくという風で、その後の彼の精力的な活動を見れば納得のゆくことだ。ところがある日、突然に喀血した。寂しがり屋の彼は、シュナップスと呼ぶ安酒をあんなに無茶飲みした故だと下宿のカミサンは言っていたが、強いウォッカのようなやつを一晩で空けてしまう乱暴なやりかたは、いくら土方流の旅愁追放術とはいえ、彼の肉体が受けつけるはずがないと思われた。実家からはスイスへ行って療養するようすすめてきたらしいが、帰国に踏みきる決断も速く、わずかなベルリン滞在で帰って行った。ナチスが世界の舞台に登場する前夜のことである。(島崎蓊助「ベルリンの屋根の下で」、『追想』)
1932(昭和7)年 28歳 ■木星社から『ヘーゲルの美学−唯物論美学への一寄与』を出版。また同社刊の大塚金之助編『ゲーテ研究』などを編集。 ◆洋画でも、山本鼎は爆弾三勇士を描く資料を求めて、東京朝日新聞、陸軍省新聞班に駆けつけてトピックをつくったり、有島生馬に次ぐ「アトリエ」の時評欄で、ファッショ的国家統制の必要なことを説いたりした。この爆弾三勇士の英雄物語は、その後の絵画、彫刻のなかで愛用されたテーマとなったものであるが、その当時、上海にあった有名なレポーター、エゴン・エルウィン・キッシュが、いち早くこれをとらえて、装置の過失から来たこの気の毒な三人の兵士の死から日本の軍部が英雄物語を捏造したことを暴露したり、また上海にある日本軍将校の道徳的頽廃を描写したりしたことは、もちろん、国内では発表されなかった。また、それまで労働者を好んで主題として描いた橋本八百二が、この年(1932年)の文展に「戦友」を出品しているが、これなどは山本鼎とともに、満州事変にはじまる日本のファシズム化の最も初期の反映といっていい。(「昭和期美術の批判的回顧」H 8)
1933(昭和8)年 29歳 ■1月、山室靜責任編集の『クオタリイ日本文学』(耕進社)の創刊に唐木順三らとともに参加する。 ◆ゆうべ遅く家へ帰ると。昔銅鑼でいっしょにやっていた土方定一君から。何年ぶりだかしかし封筒を見たらすぐに分る字で。そしてあけてみたら最後に「僕たちみんなが宮・君を好きだった頃をしみじみ考えています」と書いてありました。そしてこのしみじみという言葉の裏のその当時の僕たちのみんなの景色が。もう胸がごうごうして了いました。(草野心平「宮沢賢治追悼に関して編集氏へ送る弁解」)
1934(昭和9)年 30歳 ■1月、斎藤とみと結婚。この頃新宿区大久保百人町に住み、まもなく大田区千鳥町に移る。
 1月、明治文学談話会の機関誌『明治文学研究』が創刊され、柳田泉、木村毅、神崎清、山室靜、篠田太郎らとともに編集にあたる。柳田、木村、木下尚江らの知遇をえる。
 11月、千葉亀雄の名を借りて「偉人伝全集」の第一巻、『坪内逍遥伝』(改造社)を出版。
 
1935(昭和10)年 31歳 ■5月、詩誌『歴程』を創刊、逸見猶吉、菱山修三、高橋新吉、岡崎清一郎、尾形亀之助、中原中也、草野心平とともにその同人となる。
 年末、明治文学談話会の活動が終わる。
◆土方定一とは、その年3月の集まりで知るようになった。その日、まず小松清が折からの「行動主義文学」について語り、そのあと土方が「ロマンティシズムの特質」という題で語った。小松の話はかんじんのところがあいまいで(それは当時の舟橋聖一らの行動主義文学そのものがそうだった)、わたしは行動主義文学にはある好意と期待をもっていたのだが小松の話には失望した。土方のは、『日本浪漫派』の活動がはじまっていた時期に、浪漫主義の原理と歴史を明らかにすることでおのずと現状を鋭く批判する、という性質のもので、わたしは、すでに『ヘ−ゲルの美学−その唯物論的寄与−』(木星社刊)などの著のある美学出身のこの日本近代文学評論史研究者の書いたものに注目していたので、期待通りの充実した講演のあと、質疑になったときさまぎまなことを問いただした。何を質問したかはすっかり忘れてしまったが、会が閉じたあとも帰りがけのかれにちょっと質問したら、必ずしもめんどうくさげにでなく、むしろいくらかわたしに興味をもったらしく、家へ遊びに来ませんか、といって大久保百人町のかれの自宅への来かたを教えてくれた。わたしは出かけていって、かれの家の二階の縁がわの籐椅子にかけて、かれのいれてくれた紅茶をのみながら話をした。かれは病気でドイツ留学を中途で切り上げて帰国し、それまでほとんどだれも手をつけていなかった近代日本文学評論史を調べるために、上野の帝国図書館(いまの国会図書館の前身。わたしもよくそこへ通った)に毎日通って多くの資料を読みこなし、ほぼマルクス主義的な見地から評論史関係の論文をいくつか書いていた。とくに、改造社の「日本文学講座」の明治編の巻に書いた「明治の文芸評論」という概観は、よく考えぬかれていて明治文学史の構造的な把握にもなっており、わたしは強い影響を受けた。(小田切秀雄「私の見た昭和の思想と文学の五十年(上)」)
1936(昭和11)年 32歳 ■6月、友人渡辺亦夫がはじめた西東書林から『近代日本文学評論史』を出版。文献探索のなかで、「美術の領域に同精神的な親和を求めたい」という新たなテーマがふくらむ。 ◆このときの近代美術史の研究は近代日本文学史の研究と比較して、まったく未開拓の領域といってよく、そのころ「近代日本文学評論史」に収録した論文の資料を調査するために二年間、上野の図書館に通っていた傍、美術雑誌、その他からノートにとっていた。また、現存しておられる作家を訪問して談話筆記をとっていたが、この当時は、現在の美術ジャーナリズムの盛況とは異って、明治美術史の地味な研究報告などを掲載する場所も少なく、今次世界大戦の東京爆撃によって、それらが消失してしまったのは、それらの亡くなられた作家に対して、すまなく思い、残念に思っている。というのは、それらの亡くなられた作家のうちには、いまは忘れ去られてしまい、不遇のうちに亡くなられた作家もおられ、それはそれとして興味ある歴史を形成するからである。(「あとがき」H 6)
1938(昭和13)年 34歳
■5月、大学院での研究テーマ「日本美学思想史」において、中国との関係を深めるため、橋中一郎の推薦で、内閣興亜院嘱託となる。増田渉、波多野乾一、杉浦明平がそこではたらいていた。
◆土方さんの仕事は中国美術の研究であったから、興亜院奏任嘱託という職を活用して、広東から上海、北京まで約一カ月にわたる長期の視察出張をした。日中事変さいちゅうでまだ戦火で荒れたままの日本準占領地だったが、危険なところには現地部隊が付きそいで、いろいろな中国美術を見、上海ではドイツ書などを買って帰ってきた。その豊富な土産話に、窮屈な日本にうんぎりしていたわたしもそそのかされて、外国人教会視察のため上海および北京出張の願いを出したら、課長である陸軍中佐に呼びつけられて、「この非常時に遊覧旅行とは何ごとか。」と一喝されてしまった。(「杉浦明平「暗い時代の触れ合い」、『追想』)
◆戦争は次第に大きくなりつつあった。後は興亜院に勤めるようになって、中国に出向くことがあり、あるとき、おみやげに中国の小さな土の人形をもらったことがある。その人形は身長三センチぐらいの素朴にこねた彩色立像で、五人の人形はそれぞれにほほえましい姿だった。彼のデリケートな心づかいと体温のある美学とがうれしかった。彼がドイツ留学中に人形劇につよく惹かれた話を彼自身から聞いたことがある。彼は人形や童話が好きな青年だった。その愛惜の中国人形たちも空襲や疎開の混乱の中で失われた。(鳥見迅彦「トコトコが来たといふ」、『追想』)
◆麻生三郎という名前をぼくがはじめて記憶したのは、10年ほど前の第一回美術文化協会の会場であったことを、どうしたわけかはっきり覚えている。
 ぼくは、麻生三郎の確か暗緑色を主調とした−ぼくの色彩の記憶はぼくのうちでいつの間にか浪漫的に変ってしまっているようである−自画像や明紅色を主調にした「青年像」などを前にしながら、同じく写実主義とはいっても、印象主義的な写実ではなく、それよりも、もっと人間や事物そのものへの愛情とは離せない、イタリア・ルネサンスとか17世紀フランドル風の肖像画や静物画につながっている、そればかりでなく、そういう伝統とつながろうとしている写実主義的な肖像画や静物画を見ていたし、それがシュルレアリスム一色に塗りつぶされている会場だけに、これらの肖像画や静物画で麻生三郎というこの未知の作家がなにを自己意識しているかを思わないわけにゆかなかった。この未知の作家は、近代を意識し、近代の前になにを対置しようとしているのであろうか、を思わないわけにゆかなかった。この麻生三郎の自己凝視と勇気とは、おそらく、その時のぼくを喜ばしたようであるし、ぼくはぼくの記憶のノートを開いてそこに麻生三郎という名前を書き加えたのである。(「麻生三郎」H 8)
1941(昭和16)年 37歳
■1月、『岡倉天心』(アトリエ社)を出版
 3月、大東亜省の嘱託となる。
 4月、華北綜合調査研究所文化局副局長に就任、北京に赴く。文化局は周作人だった。
 5月、『近代日本洋画史』(昭森社)を出版。
 12月、『岸田劉生』(アトリエ社)を出版。
◆『岸田劉生』(アトリエ社)は、ぼくとして近代日本美術史研究のうち、単行本として、はじめて書いた劉生論(作家論)であったために、忘れ難いいろいろな思い出がある。そのころ、岸田劉生という喧伝されている作家であるにもかかわらず、画集といえば、劉生が生前、自身編纂した『劉生画集及芸術観』(大正9年、聚英閣)しかなく、年といっても10行そこそこの、しかも間違いだらけの年譜しかなかった状態であった。であるから、草土社の同人であった木村荘八、清宮彬、椿貞雄、河野通勢、中川一政氏、また高村光太郎、沢田竹治郎氏らをしばしば訪問し、談話筆記をとり、資料を拝借したりして煩わしながら、ぼくのなかでひとつの意味=モティーフを資料によって基礎づけながら、その間、作品所蔵者、たとえば、神戸の直本憲一氏のところにまで行って、できるだけ、作品を見てリストを作成し、画集を兼ねるように編集した。
 岸田蓁夫人のところに劉生の絵日記があるので、アトリエ社の近代画家シリーズの一冊として劉生を書くので、「絵日記」を拝借したいと申しあげたところ「劉生のようなエライ画家のことは武者小路先生などが書かれるべきで、あなたのような劉生と会ったこともない若僧が書くべきではない」と、いわれたことを思い出す。この会話なども、なかなか、気分がでていていい。(「あとがき」H 7)
◆それは北京郊外の日本軍が占拠した燕京大学のキャンパスの中にあって、大きな池あり築山ありののんびりしたところであった。はじめ単身で赴任してきた土方君はその希望どおりに中国美術の現地での研究に没頭することができた。治安がわるかったので行動は制限されただろうけれども、寺院の調査などもしてその成果をたのしげに話してくれたこともあった。そこでのおなじ研究員二三人を誘って、週に一回、各自の家をまわりもちで何かを輪読したこともあった。健忘症の私は、それには余り興味がなかったせいもあってか何を読んだのか思い出せない。ただ彼が一度、「正法眼蔵」を読みたいねと言ったことは奇妙にも覚えている。また私が「歴程」に発表した詩について忌憚のない批評をしてくれたこともあった。(藤原定「土方定一君と戦時」、『追想』)
◆「当時の北京は敵・味方が混合し合った一種政治的真空地帯という状況にあって、日本では考えられないような思想的自由があった・です。そこに日本にはいられないリベラリスト達が多数逃げ込んできていた。土方さんもその一人だった」(中薗英助談)
1942(昭和17)年 38歳
■『デューラーの素描』(創藝社)を出版。エルンストディーツの『インド芸術』(アトリエ社)を翻訳出版。
◆二年ほど北平にいた私は、その頃の所謂、中共地区で発行されたパンフレット、伝単(ビラ)を偶に見せられて、そこに刷られてある木版画の新鮮な、木版特有の瑞適さで迫ってくる力強い表現に屡々驚嘆の声を挙げた事がある。
 そのなかの一つで、いまでも時々思い出しては、その鮮かな力強い表現を忘れられないものに、お前達の食料を県城へ行って奪回せよ、というテーマの県城の城壁と農民とを構成した二色の色刷版画(套色版画)がある。このテーマは或いは説明を要するかと思われるが、小麦、粟、高梁などのそれぞれの収穫期になると、これらの食料が所謂、点(県城)、線(鉄道)の日本軍占領地区に廉価な価格で収買されて運び去られてしまうことに対し、お前達の食料を県城へ行って奪回せよ、と訴えているのである。このような、その時時のアクチュアルな政治的課題が、勿論、なかには拙劣な表現もあるが、力強い木版の表現となった大衆の啓蒙、組織手段として使用されているのである。紙はザラ紙、鼻紙様のもので、二色といっても単純な赤色の配色であるが、私はこれを見たときに全く驚嘆してしまって、魯迅がまいた中国木版画の種子がいつの間にかこんなに高く成長したことを今更のように考えずにはいられなかった。(「魯迅芸術学院の木版画」)
1943(昭和18)年 39歳
■伊豆公夫(赤木健介)の仲介で、志賀重昂『知られざる国々。(日本評論社)を編集出版。北京では、津浦線、京漢線沿線の町を訪れて仏教彫刻の写真五百余点を撮影し、また上海では抗日版画を徹底的に収集。(これらは帰国の際、列車が八路軍の襲撃にあって、すべて失った。)
 『歴程詩集』を編集、翌年八雲書林から出版した。
◆ぼくは戦争中の北京の華北綜合調査研究所の研究員として、孫文伝を調査、研究の傍、北支の県城(町)をしらみつぶしに訪れては、カメラのレンズのなかにくっきり明暗をつける中国彫刻の残像の愉しみに自己忘却していたためである。歴史の学問はなんでも具体的であろうが、美術史研究もまた具体的な基礎をもたねばならぬことはいうまでもなく、実物、写真を示しつつ、ぼくの造形と歴史のシステムを展開しない限り、なんの意味もない、ことである。であるから、失われた残像がときどき、いまでも、ぼくを郷愁のように襲うことになる。このごろ、ぼくは絵画より彫刻に執念しているのはこのためかも知れない。(「麻生三郎のこと」H 8)
◆やはり昭和18年頃だと思うが、同盟通信の太原支局長だった小森武氏が、ある日、土方定一氏をつれて、私の公館を訪ねてきた。その前日、私は町に一軒の古本屋で、こんな土地には珍しいインテリ風の人物を見かけて何者だろうと思ったが、小森さんに紹介された土方氏が昨日のその人であった。当時、土方さんは北京の興亜院の嘱託か何かをしていたはずで、太原へは双塔寺という寺の調査に来たということで、その案内を頼みに、小森さんが氏といっしょに私のところへ来たのだった。(洲之内徹『絵のなかの散歩』)
1945(昭和20)年 40歳
■11月、中国塘沽から引揚船江ノ島丸で帰国、19日博多に着く。千鳥町の自宅を焼けだされた家族が疎開していた神奈川県足柄郡吉浜町に落ち着く。
 ポット『上海史』(生活社)を翻訳出版する。
◆そのころ、ぼくは北京郊外にあった華北綜合調査研究所に勤務し、はじめの文化局長は周作人氏であり、ぼくはその下で副局長をしていた。周作人氏についてのぼくの回想を書きはじめると際限がないが、日本の敗戦によって、ぼくが中国を引き揚げるとき、お別れの挨拶をしに局長室に入ったとき、そこに沈思し蒼白となって腰かけておられた周作人氏を見て、声もなく敬礼した瞬間を忘れない。そのとき、敗戦の国にしろ帰ることのできる祖国をもつぼくと、帰るところのない周作人氏の苦衷を思ったのである。帰国してから、周作人氏が漢奸と書かれた布を背中にかけて北京市内を歩かされたことを聞いたが、またギリシア神話の翻訳をということで許され、生活費も政府が負担しており、閑居しておられることを知ってよろこんだ。氏は日本の宇治茶、中国でいう香茶でなく龍井を好み、日本の岐阜の柿羊羹を好まれるので、送ったことがある。(「あとがき、若干、」H 8)
◆日本の敗戦によって中国から引き揚げてきたぼくは、家族の疎開先の神奈川県吉浜町に落ちついた。そういえば、光吉夏弥氏も吉浜にいて、しばしば、吉浜の蜜柑畑の山のなかで話しあったことを思いだす。また、蜜柑畑の山に登ると、真鶴の、まるく高まりながら蒼空の青を映している海原を見ながら、シベリアに抑留されたり、戦死した北京の研究所の同僚などのことを思ったりしていた。(「あとがき」H 7)
◆まず最初に思いだすのは「昭和期美術の批判的回顧」の文章である。この文章は、ぼくが北京から引き揚げてきた直後に、青地晨氏らが編集しておられた雑誌「世界評論」が戦争中の政治、経済、また文化の批判的な論考を連載しており、政治、経済、思想となると、ずいぶん、烈しい論調を持つ論考が多く、占領時代であることはいうまでもなく、GHQの指令によってこの連載が中止され、近藤忠義氏の論者とともに掲載できなくなったということで、青地晨氏から返送されてきたものである。青地晨氏は寺田寅彦氏の女婿で、寺田寅彦氏がフューザン会第1回に出品した躑躅の植木鉢がテーブルのうえに載っている白を主調としたいい静物作品「つつじ」を所蔵しておられるので、同氏の案内で寺田邸に赴き、その作品をぼくが撮影したことがある。この写真は、ぼくの「近代日本洋画史」(昭和16年、昭森社)に掲載したが、その写真がぶれているので、高村さんに見せたところ、「印象派らしくていい」と賞められた(?)ことがある。高村さんは、ぼくたちには、ずいぶん、辛辣な批評をしている。(「あとがき、若干、」H 8)
1947(昭和22)年 42歳
■『みづゑ』8月号に「近代美術とレアリズム」を発表、林文雄とのレアリズム論争に火がつく。
 11月、『近代日本洋画史』(宝雲社)を再刊する。
◆が、それはともかく、敗戦直後の美術展覧会に造型思考のデカダンスを見たのはひとり私ばかりではなかろう。この問題は昭和10年頃までに遡ることのできる問題であって、その初めには、日本的な主題というようなことで、近代絵画の造型思考の放棄ということになり、その後は戦争画ということで、近代絵画の造型思考の放棄ということになっている。私が嘗て書いたように、移植過程にある近代日本洋画が、世界美術のなかに参加したいとする自己恢復の考えは、油彩画という新しい材料と形式とを移植したそもそもの最初からの願望であるわけであるが、ここでは政治的な強制とこの日本洋画の自己恢復の願望とが混同され、すり換えられてしまったといっていい。であるから、日本的な主題を画いているうちに、また戦争画を画いているうちに、それぞれの作家の近代絵画の造型思考は停滞し、混迷し、後退することになっている。これはなにも、今度の世界大戦中に初めて起った現象ではなくて、近代日本の反動期のうちにはいつも起った現象であるが、絵画が人間から離れて外部的な強制によって画かれるときの、絵画の人間への復讐がこのような形で起るといっていいようだ。(「現代美術の展望」『アトリエ』1951年11月号)
◆ぼくが麻生三郎の第1回、第2回美術文化展の「自画像」以後、この作家の作品を見なかったのは、ぼくが中国にあって、カメラのレンズのなかに小さくくっきりと明暗をつける中国彫刻の残像の悲しい愉しみこ自己忘却していたためで、そして麻生三郎はこの期間を通して、ファシズムと戦争と妥協した美術文化協会と訣別して新人展を結成し(松本竣介、靉光、井上長三郎、糸園和三郎、大野五郎、寺田政明、鶴岡政男)、空襲、戦災にあって作品を焼いてしまい、出征して敗戦となっているし、絵画的にはかつて近代に対置したヨーロッパ絵画の伝統への興奮とノスタルジアとを事物に自己をいっそう、密着させることによって解決しようとしながら、いつの間にかこんなに心理的に事物を見るようになっているのである。いうことができれば、かつて、近代と抵抗しようとしたものは、抵抗しながら、いつの間にか、心理的に近代に変質してしまったといっていい。そこには、たとえば、アイロニーさえ忘れた、敗戦直後の美術界風景のような白ちゃけたマーケット風景はないし、軍人の肖像を描いた血にぬれた同じ絵筆で労働者の肖像画を描いている肖像画はない。こういうところに、主題の変化はあるかも知れないが、人間につながっている絵画の変化はない。麻生三郎の作品が、たとえどんなに小さく、暗くあっても、そして、まだ本当の自己意識と勇気とを恢復していないとしても、時間と空間とをつらぬいているこの精神と絵の自己営為を否定することはできない。ジャン・コクトーはかつてalibiとしての作品ということをいったことがあるが、麻生三郎の小さな「子供」は、麻生三郎とその世代の立派なalibiとなっている。(「麻生三郎」H 8)
1948(昭和23)年 43歳
■11月、友人杉浦勝郎の吾妻書房から『現代美術一近代美術とレアリズム』を出版。また『近代日本文学評論史』(昭森社)を再刊。
◆敗戦後の占領下の、いま、ひとつの美術界の事件は、戦後に、日本芸術院主催、文部省後援の日展として出発したが、GHQの勧告によって、昭和24年に展覧会に対する政府予算が打ちきられたために、芸術院と日展運営会の共同主催という半官展の形式となり、もはや、日展はこれまでのように官(設)展でなくなったことである。戦前の文展(文部省美術展覧会)以後、この官展のみを保護した19世紀的な官僚統制について、ぼくたちは絶えず反対していたが、ここで形式的には日本に官展はなくなったことになる。だが、芸術院全員選出についての、文学界などでは、とうてい、想像もできない、醜悪な取引が現在も行われる尾てい骨を残している。ぼくは、このとき雑誌「朝日評論」、昭和23年8月号に、「官展廃止と美術界」なる拙文を書いている。が、ぼくはそれ以後、この問題に触れたことがない。空鉄砲を撃つことに飽きたか、疲れたからである。(「あとがき、若干、」H 8)
1949(昭和24)年 44歳
■2月、今泉篤男を組合長とする美術評論家組合を発足きせるべく、今泉、柳亮、植村鷹千代とともにその発起人となる。
 4月、千葉工業大学教授となる。千葉県千葉市稲毛町2−50に移る。
 
1950(昭和25)年 46歳
■3月3日、母かき逝去。
 平凡社版『世界美術全集』の編集委員となり、下中称三郎の知遇を得る。
 近代美術館設立準備委員会が発足し、安井曾太郎、高間惣七、佐藤敬、村田良策、吉川逸治とともにその委員となる。
◆松本竣介は昭和22年に36歳の若さで死んだ作家ではあるけれども、昭和11、2年頃の、ルオーから暗示された黒い太い線でくぎった建物風景以後の8、9年間の作品は、それ自身完成されながら多様な要素をもっている。この期間に松本は、まれに見る魅力にあふれた強靱な画面のうえに碧色を主調にした心情風景や愛情のある都市風景や茶褐色を主調とした写実的な人間像やをこまかな感覚そのもののような線をかりて画いているのである。私はいつもこれらの作品の前に立つとき、戦争とそれにつづく期間に、すぐれた感受性と覚めている知性とをもって、この作家が自己の大切な夢と詩とをこんなに純粋な造型の言葉で語るのを見て、烈しいが澄んだ感動にとらわれるのを常とする。絵画というものは、しょせん、こういうものではないであろうか。(「近代代表作家造作名品展から」新大阪新聞1月17日)
◆会場のなかで、知っている学生に会ったら、美術展覧会って一体、なんですか、という変な質問をした。絵のマーケット(市場)だよ、と答えたら、一層、変な顔をした。戦後の学生のマーケットは新宿や新橋が思い浮んでくるのにちがいない。昔は王候、貴族がパトロンだったが、街に出た市民社会の芸術家は展覧会という市場で一般と接触し、一般に訴えるのだから、君も市場へ入って買うつもりで見給え、といったら、そんな気になれませんということであった。どうも日本の観客は余り絵の前でおどおどしているような気がする。(「春陽会に向上のあと」毎日新聞4月13日)
1951(昭和26)年 47歳
■6月、千葉工業大学を辞し、神奈川県立近代美術館の副館長となる.
 11月17日、神奈川県立近代美術館開館。記念展は「セサンヌ・ルノワール展」。
 
1952(昭和27)年 48歳
■4−11月、平和条約発効以前のため、共同通信社の特別通信員の名目でヨーロッパ各地を旅行。とくにロッテルタムの都市計画による都市と彫刻の共同に感銘し、野外彫刻への関心がたかまる。
◆パウル・クレーの、いわゆる色彩分割(Divisionism)といっていい方法によって描かれた作品を戦後、ぼくがはじめて見たのは、1952年、ウィンタートゥルのオスカー・ラインハルト美術館で開催されていたパウル・クレー展であった。そこでは、パウル・クレーのこの色彩分割によって描かれた作品がクレーの他の作品の間に点々と置かれていたので、パウル・クレーはいろいろな時期に、こういう作品を描いたように錯覚して見ていたが、会場から出てきて、カフェで休んでいるときにカタログを見たところ、それらが、1930年代の初め、パウル・クレーのバウハウス教授団の時期の終りから描かれていることを知って、どういう理由で、この時期にクレーがこういう色彩分割による作品のシリーズを、しかも精力的に描いたかについて疑問をもちはじめた。(「パウル・クレー」H11)
◆最初にマドリードに赴いたときは、プラドー美術館の前のホテル、ナチオナーレというところに二週間ほどとまって、同美術館に通ってノートをとっていた。夏のシーズンで、昼、12時から4時までは休館で、ほくはホテルにもどって昼食をとり、鎧戸を降して昼寝をし、起きてひと風呂浴びて、また美術館にでかけることになる。慣れてくると、この昼寝とひと風呂浴び、鎧戸を開けて南の国の明るい光線のなかにいることが、なんともいえない愉しい一日となってくる。外にでて広場でも散歩するときは、海老を塩焼きにしたのをつまんでビールを飲むのも悪くない。隣りを見ると、カトリックの坊さんが同じように海老の塩焼きで一杯、やっている。夏のマドリードは暑く、北京と同じである。街を歩いていて、ときに足下に小さな竜巻が起って消えてゆく。(「あとがきと若干の参考文献」H 5)
1953(昭和28)年 49歳
■7月、『ヨーロッパの現代美術』(毎日新聞社)を刊行。
◆一年ぶりで都美術館に入ってみて、憂鬱になったことは、どの部屋も暗く陰気で、絵を見る環境とはなっていないことだった。暗い壁面にかけてある作品を見ていても、不安になってしょうがない。この暗さでは、油絵具の持っているニュアンスの探さや強さを、たのしむわけにはゆかない。
 春陽、国画展を通じて、抽象絵画、または抽象絵画風な作品が、会場にハンランしているのに、ぼくはいまさらのような注意した。世界的な現象だといってしまえば、それまでだが、写実的な作品が抽象されるのは、作家が自己の絵画的映像を、もっと純粋にしたいという欲望をもったときに、抽象されるにちがいない。だから、作家の造型感情のよろこびや悲しみが、この抽象化で一層、魅惑にみちて観るぼくたちに話しかけてくれないと、なにがなんだかわからなくなってしまうのではないだろうか。「壁ふさぎにでもしておけ」といわれないためには、作家の造型感情が、どんなに深い作家の経験に根づいているかを、色や形で示してくれねばならぬだろう。そうでないと、抽象絵画風な仕事は、いわば、戦後の世界的な流行にすぎないことになってしまう。しかも、もう少し遅すぎる流行でもある。(「写実と抽象の間」毎日新聞4月26日)
◆ところで、ヘンリ−・モアが1951年につぎのように書いています。
 「彫刻は野外の芸術です。日光、太陽の光線が彫刻にはどうしても必要です。そして私には彫刻をおく一番いい場所、背景は自然です。私の彫刻の一つを、私の知っている一番美しい建物のなか、または上におくより、風景のなか、どんな風景のなかにでもおいた方がいい。」
 これはヘンリー・モアでなくても、誰でも賛成だろうと思います。(『ヨーロッパの現代美術』)
1954(昭和29)年 50歳
■5月、美術評論家連盟が結成され、会長になる。
 初夏から晩秋にかけ、ヨーロッパ各地の美術館を訪ねる。
◆「パルナッソスで」を、1954年、ヴェネツィアのビエンナーレ国際美術展のパウル・クレーの部屋のなかで見たとき、この大きなコンポジションのなかで、うちから輝いているような浪漫主義的な画面の感動はともかくとして、ここでのモザイクのような方形の点のひとつひとつが二重になっていて、下の方形はやや暗く、そのうえに、より明るい方形の点が置かれ、このように二重に描かれた点が無数に併置されていることに驚嘆したのである。(「パウル・クレー」H11)
1955(昭和30)年 51歳
■この年、大田区調布嶺町1−100に移転。
 4月、『世界美術館めぐり』(新潮社一時間文庫)刊行。
◆第3回日本国際美術展には幾度も足をはこんだが、その度に、僕は新鮮でたのしい印象をうけた。また、現代日本美術の問題について、いろいろ反省させられた。これは、僕の職業からくるばかりでなく、アマチュアの友人からしばしば聞いたことである。一番多く聞いたのは、一点ずつ展覧されたグレコとファッチニの彫刻を見て彫刻というものが現代日本の彫刻と全くちがったものだ、ということがわかった、という感想であった。これは、もちろん、議論のあることであろう。だが、現代日本の写実主義的な彫刻だけが彫刻ではなく、もしかすると、グレコやファッチニの方が彫刻じゃないか、という重大な疑問を一般の人がもった、ことなのである。戦後の現代のイタリア彫刻は世界の各国でガイセン的な歓迎をうけているが、わずか二点の作品が、こういう重大な疑問を与えたことは忘れがたいし、若い作家を鼓舞することになったにちがいない。(「理解と共感の場所」毎日新聞6月14日)
1956(昭和31)年 52歳
  ◆新制作協会の彫刻部は、戦後、現代日本の肖像彫刻を新しい写真のうえに確立した功績をもっている。ところが、昨年ごろから、この新らしい写実的な肖像彫刻が混乱しはじめ、今年あたりは西常雄が孤塁をまもっているほか、会場は現代イタリア彫刻の暗示をうけた現代イタリア調となっている。現代イタリア調というのは、人体なら人体をまるく充実した、動きのはげしい量塊として、彫刻的に構築しようとする方向だ、と印象的にいってもいいだろう。菊池一雄、本郷新、佐藤忠良といった主要作家たちも、この方向に急激に移っている。本郷新など、この新らしい形態の予感を小品のなかで示しているが、ぼくたちがこれらの作家に期待するのは、現代イタリア彫刻の本郷的、菊池的といった個人的なヴァリエーション(変化)ではない。未知な新しい形態(フォルム)を掘り起してくれることだ。こんなことは、これらの作家にとっては、先刻、ご承知のことにちがいないが、現代美術の問題とすれば、こういう重要な問題となってくる。日本では、なんでもかんでもアヴァンギァルドなどといっているが、アヴァンギャルドということになればむかしも今も世界美術に参加するような実験的な作業を創造的になりながら、未知な新しい形態を掘り起こしてくれることだ。個人的なヴァリエーションぐらいをアヴァンギャルドとは呼ばないことになっている。(「新しい形態の発見」毎日新聞9月26日)
1957(昭和32)年 53歳
■9月、高村光太郎賞が設定され、審査委員となる。
 『みづゑ』11月号からブリューゲルについての連載がはじまる。(「ヨーロッパの美術のぼくの貧しいが長い研究の後で、このブリューゲルは、ぼくとしては、はじめての連載であった。」)
 この年、『現代イタリアの彫刻』(河出書房新社)、『ゴッホの水彩と素描』(美術出版社) を刊行。
◆「ブリューゲル」を書いているとき、この再洗礼派の思想は、ぼくをはげしくとらえたが、巨匠たちの思想、また、再洗礼派の思想との関係を明らかにしたい、というのがぼくの第三の理由であった。ルーカス・クラーナハのように、ルターの福音信仰に少しの疑いもなく終始した作家もおり、またマティス・グリューネウァルト、エルク・ラートゲープのように、再洗礼派の信仰を内にもっていた作家もいる。そして、時代の民衆を深くとらえたこの再洗礼派の信仰が、グリューネウァルト、ラートゲープのような永遠の、世界美術史のなかにその比をみない作品を、生んでいるのも事実である。
 再洗礼沢の千年王国のアポカリプス的思想を、現在から迷妄として笑うことができるかもしれない。だが、それがグリューネウァルト、エルク・ラートゲープの画面となっていることを笑うことはできない。
(略)再洗礼派の思想を一言でいえば、教父たちの原始宗教(教会)の時代のキリスト者の生活に帰ろうとする信仰と、その信仰に基づいた協同生活を実践しようとする、また実践した宗派といっていいであろう。そして、この派の説教師たちは行状が正しく勇気をもち、断首、火刑を恐れず、その結果として民衆の信頼を得たことも、また本書のなかに触れている。(「あとがきI」H 2)
1958(昭和33)年 54歳
■10月、妻とみ逝去。この秋から冬にかけて約半年ヨーロッパ、オリエントを旅行する。
10月、『造形の心理(生きている絵画)』(新潮社)を刊行。
◆いま、東京京橋の中央公論画廊で開催されているシェル美術賞展の審査に参加したとき、応募作品のなかに、我々の期待している新人の作品もあったが、そのほとんどが作品を見たことも名前を聞いたこともない無名新人の作品であったことに、ぼくは驚いた。そして、それらの無名新人の作品の質が、美術団体のなまじっかな会員や会友の作品よりはるかに新鮮な思想と、手堅い技術とを持っていることに、ほくはあらためて驚いたのである。どこの美術団体にも所属していないし、また個展も開催したことのないこれらの無名新人層―しかも、生き生きと現代を呼吸しているこれらの無名新人層が、美術団体とそのなかの作家によって代表されている日本の美術界となんの関係もない、ということは、どういうことであろうか。
 ところで、二科、行動美術、院展などを第一陣とする秋の展覧会に、ぼくはなにを期待しているだろうか。ぼくは尊敬している作家がアトリエの孤独な作業場で新しく描いてくれたものがどんなか、また無名新人がいるか、という期待でしか展覧会を見たことがない。これは、ぼくに限らず、だれでも、そうであろう。そして、アマチュアのぼくの友人には、好きな絵だけ見るようにすすめている。家に帰っても記憶に残って、精神をそう快にしてくれる絵は、いい絵だ。翌日、目がさめて、いま一度、見たくなる絵は、いっそう、いい絵だ。3日、それが続いたら、その絵の作家は現代のセザンヌだ、と。(毎日新聞8月23日)
1959(昭和34)年 55歳
■1月、『近代日本の画家たち』(美術出版社)を刊行。
◆新人層の作家が情熱的に抽象的絵画の方向に向っているのは、だれの目にもわかる現象である。ぼくが、ときどき驚くことは、いままで具象的な画風であった作家が急に抽象絵画の方向に進んでいることである。もちろん、そういう変ぼうは、あってかまわない。また、ニコラ・ド・ステールのように、そのときどきの自己の絵画的映像に一致した表現、つまり具象的な絵(比較的の話であるが)を描き、抽象的な絵を描いてもかまわないわけだ。が、ぼくの驚くことは、具象的な画風のときの、あまりよくない色感や、のっぺりした空間で、抽象的な作品を描いていることである。写実的な画風は、ものを描写するために、ものを説明するだけのアカデミックな技術的訓練に終りやすい。その結果として、作家の感動も心情もない外面描写に終ることになる。(「雑然としたなかで」毎日新聞10月2日)
◆ミロの絵画作品を考えると、麻袋のような、目の粗い、薄褐色の背景のうえに、鮮やかな赤、青、黄、黒で描いているのが多いが、ミロのなかに東洋陶磁器のもつハダあいへのあこがれのようなものがあるのではないか、とぼくには思われてくる。アルティガスは、ぼくにつぎからつぎへと、自作を見せてくれたが、それらはユネスコの壁と違って、上品な、おとなしい色と端麗な形をともなっていた。日本の陶磁器にたいして親しみのある深い理解と尊敬をもっているこのスペイン第一の老陶工は、どこか日本の陶磁器に近づこうとしているようだ。
 われわれはスペインのうまい家庭料理の昼食をごちそうになって、桑の木の青い実の下で話しあった。アルティガスは日本の陶器の伝統のことや、日本ほど陶器の伝統が生活のなかに入っている国はない、とうらやましそうに話した。だが、ぼくはミロの陶板の壁のような、それより比較にならない大きな壁を日本のどこかの海岸に建てたい、と夢想していた。(「ミロの窯場を見て」朝日新聞8月4日)
1960(昭和35)年 56歳
■1月、山口雪江と結婚。
 12月23日、父乙吉逝去。
◆最近は、批評のなかに、はんらんする熱い抽象絵画、いわゆる抽象表現主義の作品に対して、造型の新しい秩序を要求する声が現われている。作家の心理世界と一致する個性的な造型秩序がなければならぬことはいうまでもないが、最近のように類型的な造型秩序の展覧会になってしまったら、なんの意味もない。戦後の現代美術の新しい傾向はつぎからつぎへと、めまぐるしく変貌している。絵画も伝達する造型言語をもっていて、通俗化した言葉を新鮮な言葉におき代えねばならぬことは、他の芸術と共通している。グッゲンハイム美術館長スウィーニーが最近号のアメリカの美学雑誌に、現代美術がつぎつぎと変貌する不安定な現象は、作家の造型言語と造型秩序の新しい展開である限り、現代美術が生きている証拠であるといっている。生きている証言であるような作品が大切であろう。(「近代美術の不安定さ」毎日新聞5月4日)
1961(昭和36)年 57歳
■大高正人、柳原義達、向井良吉と山口県宇部市彫刻運営委員会をつくり、同市常盤公園で、わが国はじめての野外彫刻展をひらく。これは1963年に全国彫刻コンクールと改称、さらに1965年からはビエンナーレ形式の現代日本彫刻展となる。新人を育成するだけでなく、国際的コンクールにまで発展させる計画だった。 ◆正直のところ、久しぶりに黒田清輝が帰国した直後の作品「舞妓」(明治26年)をはじめとして名作展について現われる作品を見ていると、忘れたものを目の前にするようで回想的になってくる。
 この「舞妓」は、黒田が京都の舞妓を新鮮な異国趣味でながめた作品であると、ぼくは想像するが、その舞妓の前にうしろ姿で、おどけて描かれている日本の少女が、この作家の異国趣味を一層、明らかにしているようでおもしろかった。マネのあの有名な「オランピア」の背後に立っているネグロの召使いの点景と同じような意味を、この日本の少女に待たせたようだ。(「国際派と土着派」毎日新聞7月11日)
1963(昭和38)年 59歳
■6月、「美術選書」の一冊として『ブリューゲル』(美術出版社)を刊行。
 11月、『ブリューゲル』によって、毎日出版文化賞をうける。
 12月、新書『画家と画商と蒐集家』(岩波書店)を刊行。
◆浜田さんの「戦争」シリーズは、次に朽木にくし刺しされた人体の凄(せい)絶な風景となっている。浜田さんはミケランジェロ的な、男性的な形に濃い明暗をつけながら、白昼夢のような風景を、われわれに示してくれる。この版を見たときの、ぼくの感動は、イタリア・ルネサンスの画家たちの戦闘図のような印象であった。
 ぼくは、浜田さんのこれらの「戦争」シリ一ズを思うと、すぐ大岡昇平氏の「俘虜記」が浮かんでくる。大岡昇平氏の「俘虜記」が戦争世代の永遠の記録であるとすれば−ぼくは思うが−浜田さんの「戦争」シリーズは「俘虜記」とならんで戦争世代の永遠の記録となっている。
 おそらく、浜田さんの真実の性格は、この期に形成されたものであろう。戦後の浜田さんは抽象的な思考のなかに逃亡することなく、現実のなかの真実をいつも、やや超現実主義的=象徴的な描いて、われわれに示してくれる。われわれは、この真実を描く画家とともに、ときに笑い、ときに悲しむ。そして、この孤独の画家をたいせつな画家だと思う。(「浜田知明の芸術」熊本日日新聞6月26日)
1965(昭和40)年61歳
■1月、神奈川県立近代美術館長となる。
 6月、『渡辺崋山(少年伝記文庫)』(国土社)を出版。
 10月、宇部市で現代日本彫刻展が創設され、審査委員長となる。
 
1966(昭和41)年 62歳
■4月、神奈川県藤沢市鵠沼海岸に移転する。
 『みづゑ』5月号から、「ドイツ・ルネサンスの画家たち」の連載をはじめる。
 10月、新書『日本の近代美術』(岩波書店)を出版する。
 11月、藤沢市鵠沼藤ケ谷3丁目1番10号に新居を建てる。
◆ぼくは3年前に、この鵠沼に住むことになり、最初は小田急沿線の鵠沼海岸駅の海岸よりにいた。海岸よりといっても、いまある東屋旅館の前を通って、ちょっと、横に入ったところで、昔の東屋はいまの東屋と場所もちがうが、昔の東(あずま)屋は、数年前、ローマで客死した長谷川路可の生家にあたっている。芥川龍之介などの文士が訪れ、また大杉榮なども泊った家屋である。ローマで客死した長谷川路可は、ぼくが説明するまでもないが、ローマから1時間ほど地中海の海岸ぞいに走ったところの、かつて栄えた小さな町チヴィタ・ヴェッキアの礼拝堂の正面に、日本の打掛(うちかけ)をかけた日本の女性としてのマリアが幼児キリストを抱いて立つ像を制作している。ガラスで有名なムラノの島の先にあるトルチェロの島のカテドラルの、やはり、正面の11世紀のマリア像を思い浮べながら、長谷川路可は日本のマリアを、モザイクとしたことは疑いない。そのマリアの下に長崎の二十六殉教者の、けなげな少年をもふくめた磔刑像を配している。(『岸田劉生』日動出版)
1967(昭和42)年 63歳
■10月、北海道立美術館内に三岸好太郎遺作品管理運営委員会設立、その委員となる。
 11月、『ドイツ・ルネサンスの画家たち』(美術出版社)を刊行。
 
1968〈昭和43)年 64歳
■5月、新潮社が「日本芸術大賞」を設定し、その美術部門の審査委員になる。「神戸須磨離宮公園現代彫刻展」が創設され、その審査委員長となる。
 11月、前年出版した『ドイツ・ルネサンスの画家たち』で、芸術選奨文部大臣賞をうける。
 
1969(昭和44)年 65歳
■箱根、彫刻の森美術館創設され、運営委員となる。
 『季刊藝術』第8号から、「レンブラント・ファン・レイン」の連載がはじまる。
 
1970(昭和45)年 66歳
■夏、湯河原胃腸病院に入院、友人中山恒明執刀の手術を受ける。
 11月、全国美術館会議会長になる。
 旭川市、中原悌次郎賞を創設、審査委員になる。
 群馬県立近代美術館創設され、顧問となる。
 11月、『クレー画集』(求龍堂)を監修、出版。
 
1971(昭和46)年 67歳
■1月、『ムンク画集』(筑摩書房)を監修、出版。
 4月、『大正・昭和期の画家たち』(木耳社)を刊行。
 5月、ヨーロッパ各地を訪ねる。
 6月、「エドワルド・ムンク展」の功績により、ノルウェー、オスロで、聖オラーフ騎士十字一等勲章をうける。
 9月、『岸田劉生(評伝シリーズ)』(日動出版)を増補、出版。10月、『評伝レンブラント・ファン・レイン』(新潮社)を刊行。
◆ぼくは3年ほど前に、オデイロン・ルドンのひとり息子、といっても、もう高齢のアリ・ルドン氏を訪れたことがある(先年、亡くなられた)。アリ・ルドン氏は父の仕事部屋、といっても、一隅にベッドがあり、その並びの戸棚にルドンの作品に登場する、例の淡紅色の大きな貝殻、日本の絵模様のある壺、その他が父ルドンの生前のままに置かれた小さな部屋であるが、そこに入ったとき、ルドンが愛する周囲のものがつながっているシステムをそこに見た感動を忘れない。ベッドのうえに懸けられてあるキリスト架磔図のキリストが若い青年であり、ひとり息子のアリ・ルドン氏が第一次世界大戦に兵士となって前線にあったときの父ルドンの作品であると聞いて、ぼくは心の淵のなかに石が投げられたようであった。(「浜口陽三の世界」H 8)
◆ドイツにいたぼくは、ベルリンの画商が一家心中した記事を読んだことさえある。そしてこの世界的な経済恐慌が、戦前の華やかなりしエコール・ド・パリの終焉の原因であり、ばくが昭和期美術を回顧するとき、いつもこの世界的な経済恐慌を思いだす理由である。と同時に、20世紀前半の芸術的な発見にみちたアヴァン・ギャルドの時代は完結しつつ終ったということである。ぼくは今年(1971年)、パリで開催されたマックス・エルンスト展、またボルドーで開催された画期的なシェルレアリスム展を見ながら、作品と見る者との秘儀的な対話を絵画の本質とした古典的な絵画と、造形思考の終結を前にする思いがしたことを、いま思いだしている。(「文化ファシズム下の美術と現代の美術と−昭和期の絵画」H 8)
◆が、ぼくとして、これまで後年のレンラントについての評価に傾き、それを絶対視しているレンブラント研究に対して、若きレンブラントの内部世界に入ろうとするところから、はじめている。劇場的な場景のなかの劇的なシチュエーションを把える画面が後年のレンブラントの作品と比較して、若きレンブラントの欠点とされていたのに対して、この欠点こそが若きレンブラントの内部世界の表現であることを語りたかったのである。後年の作品との比較論として正しいことはいうまでもないが、巨匠はそれぞれの年輪を持つことをいいたかったのであり、この欠点ある作品にしても、同時代の画家と比較すれば、技術的にも新鮮であり、人間心理の深所につながっていることはいうまでもないからである。と同時に、碩学ハイジンハの解釈に反対して、レイデン時代の若きレンブラントが目撃した宗教的な闘争こそが、レンブラントをしてただ聖書に聞くメノナイト派的な宗教思想に向わせたことをいいたかったのである。これはドイツ・ルネサンスの画家たち、またブリューゲルの時代の再洗礼派を追跡してオランダ的帰結にいたったぼくのひとつの研究報告であり、パスカルのジャンセニスムと同精神的な態度といってよく、フランスにあっては18世紀につづいているものである。歴史的現実を異にすれば、その様相の異なることはいうまでもないが、略年譜にみられるように、ミュンスター的=再洗礼派となる島原の乱と、その後のかくれキリシタンの日本の残虐物語と並行している。(「あとがきI」H 4)
1973(昭和48)年 69歳
■3−4月、キリコ展準備などのためヨーロッパに滞在。
 5月、パウル・クレー『造形思考』(新潮社)を共訳、出版。
 11月、多年にわたる美術館、展覧会の企画活動により菊池寛賞をうける。
 11月、小田切秀雄の仲介で『近代日本文学評論史』(法政大学出版局)を再再刊。
 この年、長野市、野外彫刻賞制定され、選衡委員長となる。
◆ブレダンについていえば、ルドンが回想しているように、幻想によってしか描かず、ニューヨーク近代美術館のカタログの序文が書いているように、同時代のレアリスムと印象派の強力な流れに埋もれてしまった画家であるが、ルドンとの個人的な関係という以上に、芸術のなかの幻想の表現を求めた作家として、超現実主義の先駆者といっていい。ブレダンについての日本での関心は一部にあるが、その作品が日本にないように思われたので、パリの画商のカタログに三点、版画が出ていたので、ブリュッセルから王立図書館版画部のウァルシュさんにあわててパリに電話してもらったところ、一点だけ売れないでいるということであった。また、あわてて荻須高徳夫人に電話して、そのパリの両商に行き、買って置いていただいた。神奈川県立(鎌倉)近代美術館に買ってくることができたのは、こういういきさつがある。今回のルドン展に一点であるが、展示しているのは、ブレダンとルドンとの関係によっている。(「日本におけるオディロン・ルドン展に関連して」H11)
1974(昭和49)年 70歳
■9月、ヨーロッパ歴訪。
『ベルギー国立図書館編、ブリューゲル全版画集』(岩波書店)の監修委員となり、「ブリューゲルとその時代」を収載する。
◆〔注:「ブリューゲル全版画集」出版のため〕岩波書店編集部の高草茂、大見修一両氏は最終的な校正を行うためにブリュッセルに赴き、10日間ほどを、原版画と比較しつつ精密な校正を終えている。怠け者のぼくは、その傍で見ていたにすぎないが、その間、5月の変り目のきびしい季節の雨のなかを共にリエージュに赴いたり、アムステルダム国立美術館の版画室に赴いたりしていた。リエージュでは雨のなかの寒さと睡眠不足で、ある
カフェで腰かけたままリエージュ見物に行こうともしなかったぼくを同行のキューレーター、ウァルシュ嬢が「どうしてムッシューは動かないのか」と聞いたことを思いだす。また、アムステルダムでは高草氏らが仕事をしている間、同版画室の館長、カール・ボーン氏に頼んで、同版画室のオディロン・ルドンのすばらしい版画を恍惚として見ていたことを思いだす。カール・ボーン氏が、これらのルドンの版画はルドンが生きているときのベルギーの友人が、そのときそのときに買ったものを寄贈したとぼくに説明されたが、その名を忘れてしまっている。刷ったばかりというか、刷ったままのような状態のこれらのルドンの版画をつぎからつぎへと見ていたときの感動は、やはり、ぼくの生涯の思い出のひとつである。見ているぼくに、係りの女の人が温かい紅茶を一杯、持ってきてくれたことも忘れがたい。(「あとがきと若干の参考文献」H3)
1975(昭和50)年 71歳
■11月、神奈川文化賞をうける。
 美術文庫『ヒエロニムス・ボス』(新潮社)を出版。
 
1976(昭和51)年 72歳
■1月、平凡社から『土方定一著作集』の刊行がはじまる。
 8月、鎌倉市笛田に転居。
◆今日、パウル・クレーのひとり息子、フェリックスさんから無事に作品が着いたという国際電報が入った。パウル・クレーの作品の収集家はたくさんいるが、一個所から借りて展覧会を開催できるのはベルン美術館とフェリックス・クレーさんの所蔵である。第1回はベルン美術館から、第2回、第3回はフェリックスさんから借りて開催したが、今年度のは第3回であった。ぼくはクレーの全貌を示すにいる展観を日本の美術愛好家に示すことができたことを、ひそかに喜んでいる。これには新聞社、百貸店の協力があって、はじめて可能になった。
 それはともかく、ぼくは長い間、パウル・クレーの晩年の苦痛のひとつは、フェリックスがナチスの兵士として召集されていたことだと確信していた。ところが、フェリックスが東部戦線に赴いたのは1944年であり、パウル・クレーがベルンで死去したのは1940年であった。
 ぼくがこう誤解したのは、オディロン・ルドン(1840−1916)のひとり息子、アリ・ルドン氏のパリの家を訪れたとき、ルドンが第一次世界大戦の兵士となった息子を思って、若い青年としてのキリスト架刑像を描いた作品を見てからである。若い青年としてのキリスト架刑像など美衛史上にないが、この作品の感動は鮮やかに残っている。そのアリ氏は先年亡くなられた。(「日記から」朝日新聞夕刊11月12日)
1977(昭和52)年 73歳
■3月、「アンソール展」と多年のブリューゲル研究および「ブリューゲル版画展」の功績により、ベルギー王国レオポルト二世勲章をうける。
 6−7月、ムンク版画展準備のためノルウェーを訪れ、またオランダ、ベルギー、パリなど遊歴。
 8月、湯河原胃腸病院に入院、10月退院する。
 
1978(昭和53)年 74歳
■『岸田劉生全集』(岩波書店)の監修者となる。
 土方定一『トコトコが来たといふ 詩・童話』(平凡社)を刊行。
 
1979(昭和54)年 75歳
■7月および9月、ヨーロッパにわたる。
 11月、三重県立美術館建設相談役となる。
 年末、東京女子医大病院に入院。
 
1980(昭和55)年 76歳
■3月、三重県立美術館資料選定委員会の委員長となる。
 4月、東京女子医大病院を退院。
 11月、鎌倉七里ヶ浜の恵風院に入院、退院ののち自宅寮養。
 12月23日、結腸癌のため逝去。(翌年1月23日、東京青山葬儀場で、全国美術館会議葬。)
◆えっ本当ですか。悲しいな。ねむの木学園で子どもたちに描かせた絵を5年前、土方さんに見てもらったんです。こわい人で恐る恐るだったのよ。そうしたら「これは奇跡だ」とほめて下さって。それで私、子どもたちの展覧会開く決心がついたんです。53年の1月、土方さんと毎日芸術賞を一緒に受賞しました。その時、「子ども美術館つくりたいな」と話したら、「大変なことですよ。(私が)がんでなかったら助けてあげられるのに」とおっしゃってました。恩人の死だけに悲しい。(宮城まり子「子らの絵の恩人」朝日新聞夕刊12月23日)
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