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「アーティストとクリティック―批評家・土方定一と戦後美術」展構成について

荒屋鋪 透

はじめに

この論文は展覧会報告のひとつの実験であり、1992年8月15日から9月13日まで三重県立美術館で公開される「ア−ティストとクリティック―批評家・土方定一と戦後美術」展(以下「土方定一展」と略す)構成の概要である。土方定一展は3章構成をとっている。つまり第1章「歴史と造型心理―戦時下から占領下へ」、第2章「トコトコが来たと言ふ一心理的映像と詩的情景」、第3章「現代の彫刻的状況と抽象絵画ー抽象構成と建築的空間」である。この基本構成は、20世紀中期の日本美術を、土方定一というひとりの美術批評家がどのような批評精神で評価したのかを、その批評精神の本質を3つの要素に分解することで、組み立てられた。各章のタイトルは、それぞれ以下の土方自身の言葉や論文のタイトルから引用した。第1章「歴史と造型心理」は『ドイツ・ルネサンスの画家たち』土方定一著作集2)「あとがきI」から、第2章「トコトコが来たと言ふ」は『トコトコが来たと言ふ 詩・童話』、第3章「現代の彫刻的状況と抽象絵画」は「現代の彫刻的状況―野外環境と密室環境」(『読売新聞』1968年(昭和43)10月21日)よりの援用である。むろん土方の批評精神を前記の3つの要素から分析すること自体、ひとつの仮説であり、ましてきわめて広範な領域に携わった美術史家、さらに詩人・文芸評論家でもあった土方について、戦後美術との直接的な交渉だけから、その批評精神の本質に接近しようというのは冒険であろう。だが実は、膨大な著作に繰り返し述べられる彼の方法論は、もっとも直接的に同時代の美術との関わりのなかで育まれてきたようにも思われる。本稿では土方の経歴のなかから3つの出来事を抽出して、その出来事についての土方自身の回想や同時代人の証言をくわえ、土方の批評とそれらの証言を併置することで展覧会構成のテーマをさらに明確化しようと試みた。

土方定一個人の批評精神についての考察であるものの、20世紀中期の美術との関わりという観点から、参考にした類似のテーマをもつ展覧会がないではなかった。とくに、1987年フランスのサン・テティエンヌ近代美術館で開催された「ヨ−ロッパの美術一決定的年代:1945−1953」展のコンセプトは大いに参照した。同展は年代別に3つの部分をもつ内容で、第1部「1944−1947年:伝統と近代」、第2部「1947−1950年:存在と実存、『状況におかれた』人間、」、第3部「1950−1953年:抽象、抽象絵画運動―ひとつの岐路:フォルマリスムと神秘主義、客体(オブジェ)と美学」(L’ART EN EUROPE,Les annees decisives:1945-1953、MUSEE D'ART MODERNE DE SAINT- ETIENNE,1987.)となっている。1945年パリにおけるサロン・ド・メ創立前夜から、1954年アンフォルメル展が開催される直前の、ヨーロッパ美術の模索期について明快に分析した好企画であった。同展の注目すべきコンセプトは、20世紀美術を戦前と戦後に分割するのではなく、むしろ戦前に開花した前衛的諸傾向が、戦中・戦後の混乱のなかで一時的に遡行し、そこから新たな伝統の創造と前衛という物語(ロマン)がたちおこり、抽象表現主義が萌芽するプロセスを辿る点である。この戦前・戦後美術を同一直線で敷衍する企画にはもうひとつ、1991年ニューヨーク近代美術館での「1940年代の美術」展があった(ART OF THE FORTIES,THE MUSEUM OF MODERN ART,NEW YORK,1991)。戦中・戦後のアメリカから見た20世紀美術という特異な設定ながら、先の「決定的年代」展と同じく、20世紀中期の美術の特殊性を再考する内容は興味深いものであった。「土方定一展」は、これらの展覧会のような、時代の枠組のなかで20世紀美術史を総合的に俯瞰する内容ではないが、同時代を生きた美術批評家のある時期の活動を振返り、彼の批評の独自性と20世紀中期の日本美術の特殊性の接点を再発見する試みということもできるだろう。「土方定一展」第1章では、歴史と造型心理という土方の美術批評の原点に立ち戻るのがその目的である。東京帝国大学在学中に学んだへ−ゲルの美学について後年土方は、ある時は批判的に、またある時は反省をふまえて語っているが、彼の初期の「近代日本文学評論史」以降に書かれた歴史主義ないしは対話にもとづく議論の展開のなかで、へ−ゲル美学から離れたひとつの批評姿勢を確立している。その転換点にある出来事は、卒業後のヨーロッパ見聞ではなかったろうかというのが、本稿第1章の仮説である。


1.1930年ベルリン―――歴史と造型心理

土方定一と戦前のベルリンを歩いた島崎蓊助は、自身の滞欧時代をこう回想している。「ポーランドを経て伯林へ着いた私は、ゆっくり落ちついて貴重な旅を踏み出すいとまもなく、左翼の仕事の手伝ひや、多くは刺戟的なヨーロッパの都会に底深く馴染んで行った」(島崎蓊助『父藤村と私たち』海口書店 昭和22年p.81.)。ワイマール共和国が崩壊寸前にあった1930年、土方定一もベルリンの街角に立っている。その年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した彼はベルリン行きを決意した。大西克礼教授に提出した卒業論文は「ヘーゲルの美学」。在学中は1930年協会の絵画に感動し、ドイツ表現派展にでかけたり、丸善でシュルレアリスム画集を買い求め、またプロレタリア美術展覧会に陳列された作品を見て、「その理論と自己のなかの感動の食いちがいについて頭をひねったり」していた土方は、「ある日、世界ではほんとうにどうなっているのかを自己の眼で判断したいと思い、雪のトンネルのなかを走っているようなシベリア鉄道の三等車のなかに腰かけていました。そこで、ピカソやマティスやまたクレーなどの作品を見て、絵というものが人間にとってこんなに大きな意味をもっていることを知って、異国の『パンを涙でひたして』食べていました」と当時を回想する(『アトリエ』昭和25年3月号)。昭和5年5月に出発し、小説家で児童文学者の江口渙の紹介状をもって、土方は「当時ベルリンに在住した左翼系日本人グループの地下集会場へいくつかの質問事項を用意して現われた……彼は特定のイデオロギーに染まった束縛された気配はなく柔軟な詩魂の人という印象が濃かった。その故かどうかわからないが、神経質な連中からスパイ扱いされたよ、とのちになって述懐していたのを思い出す」と島崎蓊助は初対面の印象を語っている(島崎蓊助「ベルリンの屋根の下で」『歴程』(特集土方定一追悼〉1981年3月)。ベルリン西区のペンションから、シュプレー河に沿うユダヤ人労働者街にあった島崎の下宿を譲り受け、土方はポーランド系ユダヤ人グリュシンスキー夫妻が経営する宿で暮らした。島崎の回想にでてくる「左翼系日本人グループの地下集会場」とは、おそらく、かつて国崎定洞とベルリン社会科学研究会が毎週1回会合をひらいていた集会室かもしれない。この場所を覚えていたのは、やはり当時ベルリンにいた千田是也。ベルリン社会科学研究会に出入りしていた千田は、土方が面会した30年当時の左翼系日本人グループを批判的に観察していた。「国崎はべつとして、新しく日本からやって来た左翼さんたちにはみんな、三・一五や四・一六以来の弾圧を多かれ少なかれ潜って来たせいか、ひどく用心深くて神経過敏で、やたらに〈プチブル〉だの〈アナーキスト〉だのというレッテルをひとにはったり、スパイの烙印を押したりするのが好きであった」(千田是也『もうひとつの新劇史―千田是也自伝』1975年筑摩書房p.196.)。どうやらベルリン到着早々の土方もスパイ扱いされたようだ。千田は島崎蓊助とは懇意だったらしく、「(左翼の留学生たちは)ベルリンの西区に住むとすぐブルジョアの害毒に染まるみたいに思い込んで、労働者街に住むことを仲間に強要したり、その癖ベルリン労働者の荒っぼい機知にも南京虫にも馴染めぬらしく、ともかくも、私みたいな暢気坊主にはとても付き合いきれないので、いくらか私と似たところのある島崎君とだけはずっと仲よくしていたが、あとの連中には、日本との連絡の必要があるとき以外は、なるべくお目にかからぬことにした」(前掲「千田是也自伝」P.196.)と述べている。島崎を介して土方はやはり千田と会っているかもしれない。島崎とともにベルリンに留学した、勝本清一郎には会っているようだ。しかし健康を害した土方は翌1931年帰国。この短いベルリン滞在では、こうした日本人留学生との交流よりもまず、彼がなにを観て、なにを学んだのかがより重要であろう。先の向想では「……ココシュカやディックスやジョン・ハートフィールドのフォートモンタージュまたベルリンの江東、ウェッデイングの画家といわれたオットー・ナーゲルなどの作品の前に立って感動しておりました」とある(前掲『アトリエ』昭和25年3月号)。ベルリンに向かう前からドイツ表現派に関心のあった土方がオスカー・ココシュカにひかれたのは容易に想像がつくが、1930年代のベルリンではすでに表現派は過去のものとなりつつあり、主流は新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)に移行していた。オットー・ディクスやジョン・ハートフィールドことヘルムート・ヘルツフェルデはその代表である。土方がこれら新即物主義の芸術に興味をしめしていたことは島崎も指摘している。「彼は……ブレヒトの芝居や民衆演劇、表現派風の舞踏家ニテイ・インペコーフェンの舞台などを見て歩き、新即物主義の文学運動やバウハウスの仕事にも関心を示してしきりに資料を蒐めていた」(前掲「ベルリンの屋根の下で」)。ただ土方にとって、非合理的な表現主義への反動としては興味をそそられても、新即物主義のもつ、現実から遊離した大衆文化への楽観主義には賛同しかねるものがあったのではないだろうか。むしろ彼は1930年頃のドイツ演劇のもつベルリン・ドラマトゥルギーのほうに、その全体的な傾向にこそ共感を覚えたのかもしれない。つまり個人的ではなく、社会や政治的素材により歴史のプロセスをふまえた叙事詩的構造をもち、ドキュメントとしてのプロットを論証的に示しながら、現実に対して批判的な観客に直接的に訴え、現実との激しい対立を迫るディテールのモンタージュ手法をもって、民主主義をめざす政治を希求するベルリン・ドラマトゥルギーである(ユルゲン・ティーミング、ヤン・ベルク他著『ドイツ文学の社会史』上 三島憲一他訳 1989年 法政大学出版局p.148ff.)。ブレヒトの作品に代表される、この演劇用語が土方の批評姿勢にあてはまるのではないか、という論拠のひとつにはまず、戦後の昭和23年秋、自由美術展の松本竣介遺作室を見ての感想があげられる。「……松本竣介の絵を見ていて、僕は二つの方向があって、それが非常に面白かった。その一つは、風景なら風景を主観的心情の秩序に従って近代的に構成して行く方向といま一つは松本竣介のうちに、なにかもっとイデオロギッシュな絵画を描きたいとする要求があって、丁度、野田英夫の画面のようなフォン(背面)をつくって、そこに線で人物や家やを描きこんで行く方向、この二つの方向があるように思え・・・・この二つが矛盾した形で松本竣介のうちにあることが僕には非常に面白かった。……絵画がイデオロギッシュな表現を積極的に持ちたい場合に、どうしても靴磨きなり乞食なり踊り子なりを具象的に、写実にモンタージュ(結合)すると、そこに社会批判なり現実表現なりのイデオロギッシュな絵画が生れる。だけれど、その場合に、普通の視覚世界では、そういうモンタージュされたイデオロギッシュな風景は見られないから、普通の視覚世界を構成する空間をもたせたのでは却って可笑しくなってくる。ですから、空間構成を否定したフォン(背面)をつくってあるいは浮彫のようにフォンを浅くしてそのうえで線で具象的なものを構成することになってくる」(「秋の展覧会から」(インターヴューによる解説と批判)『アトリエ』1949年(昭和24)2月号)。松本竣介は、自らの「イデオロギッシュな表現」を、写実的モンタージュ、つまり社会主義レアリズムを用いることなしに、そうした架空の現実の再構成によらず、「空間構成を否定したフォンをつくって」生み出したという指摘は重要である。これは、物語の筋や主題を説明的に補足するためだけのモティーフのモンタージュ、わざとらしい登場人物の出現やセリフを避けて、主題に最低限必要な人物を舞台中央におき、補足的な要素は全てうしろの背景にモンタージュする、ブレヒトの手法に類似していると思われるからである。そしてさらに重要なのは、このベルリン・ドラマトゥルギーが、土方定一の「歴史と造型心理」の方法論にも反映してくる時である。のちに土方はインタビューに答えて以下のように述べている。「画家にしたって、とにかく、その生きた時代、生きた社会を背景に持っている。そこから画家の造型心理を分析し、再び社会的な背景に帰り、さらに造型心理の分析を重ねる……それがぼくの批評の方法なんです。日本では、その社会的背景の分析も、造型心理の分析も、二つながら欠けているんですね」(1978年10月23日東京新聞(夕))。また、著作集『ドイツ・ルネサンスの画家たち』「あとがきI」のなかで、「これらの巨匠(デューラー、グリューネヴァルト)が、激動する時代の現実に対して、どのようなシチュエーションをもつ経験を形成し、その思想をどのような造形で表現したかを知らねばならなかった。これは一方では、これらの巨匠を同時代のなかに復原する作業が必要であり、他方では、巨匠の画面の造形心理のなかに入ることが必要になってくる。この歴史と造形心理との、いわば、二つの地点を、絶えず上下しながら、巨匠の思想と造形とを知ろうとすることが、ぼくのいつもの研究方法となっている」(前掲書p.309〜310.)と書いている。


この「激動する時代の現実に対して、どのようなシチュエーションをもつ経験を形成し、その思想をどのような造形で表現したか」がよくわかる作品を、本展第1章では扱うことにしたが、その代表的な画家は福沢一郎であろう。「福沢一郎の絵画の世界は、……自己の精神的な体験を画面のうへに絵画的に表現しようとしている。……私には、この「牛」の系列の作品と、中日戦争直後に福沢一郎が山西省の山間地帯に赴き、そこからのモティーフを画いた、「苦力群像」、「鳥」は忘れがたいものとなっている。また、この期間が福沢一郎の一つの嶺となってゐるものといっていいだろう。……福沢一郎は、視覚のなかにうつる対象だけを画ゐている作家ではない。だから、絵画と思想との矛盾を絵画的に解決することが宿命となっている……」1947(昭和22)年6月号 みづゑ「福沢一郎論」)。ところでドイツから帰国した土方は、『へ−ゲルの美学―唯物論美学への一寄与』(昭和7年)を出版し、ドイツ留学前のアカデミックな方法論を清算している。そして柳田泉、山室静らと明治文学談話会の『明治文学研究』(昭和9年)創刊に加わり、詩誌『歴程』(昭和10年)の創刊にあたっては同人になるなど、文学の領域において活発に活動した。昭和10年3月の明治文学談話会の集まりで、土方の講演「ロマンティシズムの特質」を聴いた小田切秀雄は、当時、土方の執筆していた『近代日本文学評論史』(昭和11年)を読み「強い影響を受けた」と語っている(小田切秀雄『私の見た昭和の思想と文学の五十年』上 1988年 集英社)。この昭和10年は第5回独立美術協会展が開催された年でもあり、そこに展示された海老原喜之助≪曲馬≫を見た土方は戦後、以下のように回想している。「海老原喜之助のこの一点による日本画壇への挨拶は、画面のマティエールの美しさ、知性と感覚にみちた造型思考を通じて表現されたエスプリある画面を示したにちがいないと、僕は思う。……こういう大胆さがアンリ・ルソーの大胆さに通ずる、素朴な造型感情ではないか知ら。……手綱を握っている人物の手、首、頭はドーミエの手、ピカソがときどき試みている手、首、マティスの椅子の脚といったものとの繋りを僕に想像させる。背景の青い空の美わしいマティエールは文学的にいうと、海老原のポエジーの虚無感を伝えるための道具立のように見える。ダダイズムから近代絵画にきた多くの作家、キャンピリでも、プランクーシでもに通じている詩的な気質を僕に想像させる。……一体に海老原の画面は造型思考の明晰さがあって、感覚や本能でフォーヴィックに画かない。造型というものは……絵画という小さな平面のうえで、点、線、形、色が人間の大切な精神的営為と直結する約束といっていいものだ。海老原喜之助が自己の画面のなかにそういう知性的な造型的なシステムを持とうとしたところに、日本における海老原喜之助の誇りと悲しみとがあったろうと僕は想像する」(「海老原喜之助のこと」『みづゑ』1952年(昭和27)4月号)。ここでは海老原喜之助の特異な造型システムに、パウル・クレーが用いる、造型思考という言葉があてられている。前掲した松本竣介遺作室を見ての感想のまえに、実は絵画におけるポエジーの問題が提起されているのだが、そこで土方の採用するポエジーは、文学性ではなく、現実をトランスフォーメーション(演劇用語の「場面転換」)する過程における精神性の表出という意味で用いられている。このポエジーの問題をさらに第2章で考察したい。



参考図版1 「1930年のベルリン、ポツダム広場」






参考図版2 「ヘルムート・ヘルツフェルデのフォトモンタージュ」

2.銅鑼とその時代への回想−トコトコが来たと言ふ

 第2章タイトル「トコトコが来たと言ふ」は土方定一の詩の題名、また同名の詩集の名によっている。


 トコトコが来たと言ふ


 トコトコが来たと言ふ
 トコトコが朝と一しょに来たと言ふ
 まんぼのやうにねむったら
 トコトコで眼が覚めたと言ふ
 何だかうれしいと言ふ


  (1925.5.4.那珂湊詩編)
  トコトコは川蒸汽のトコトコを言ふなり、まんぼは
  殺さるるも知らずねむると言ふ魚と言ふ


この詩は大正14年11月創刊号の旧制水戸高校同人誌『彼等自身』に掲載され、昭和53年10月にまとめられた土方の詩・童話集に再録されている。草野心平はこの詩を「(土方)の初期の作品の中で最も優れたものの一つ」と述べ、「ゆっくりしたリズムと明るい朝と一寸したユーモアとが入り混って、誰れにも分る簡単な言葉で人間性の一断面を表現してゐる」と評している(「我が友、土方定一は」より「土方定一の詩に就いて」『トコトコが来たと言ふ(詩・童話)』昭和53年 平凡社)。旧制水戸高校時代の土方が同人雑誌『歩行者』や『水戸高校、校友会誌』、また同級の舟橋聖一、小林剛らと発行した同人雑誌『彼等自身』に、いくつかの詩や童話を発表し、当時草野心平が創刊した『銅鑼(どら)』(大正14年)や小川未明の『童話運動』(昭和4年)に寄稿したり、昭和3年、浜田辰雄らとともに日本初のギニョール人形劇団「テアトル・ククラ」を結成するという、いわば土方の青年期の文学遍歴については、草野心平らが『歴程』などに回想しているので改めて繰り返すことはない。本稿では、土方の美術批評における詩学を解析するために、そして造型心理分析の基本的姿勢をたどる目的で、土方の詩人としての側面と、そこで表現された批評精神をもういちど反芻してみたい。美術批評において、いわゆる絵画における文学性ないしは物語性といった意味で「詩的」という言葉をもちいる場合がある。しかし土方のいう「詩的」とは造型心理にそった、ないしは批評精神に貫かれたという意味で常に用いられている。例えば昭和28年の独立美術協会の展覧会場で、「偶然、友人と会って、独立展を見ていて、高畠達四郎がロンドンから送ってきた一連の作品、「載冠式」とか「テームス河」の前にきたとき、その友人が「話があっていい」といって感心していた。話があっていい、というのは、いかにも高畠の作品への適評のように、ばくも思った。かっ色を主調にして、緑、赤などの点綴された風景は、素ぼくでやや稚拙味を滞びた構成と点景とを持っている。この作家にしかないこういう画面は、明るいソネット(短詩曲)のような、話がある。この作家らしい小さな驚きと小さな喜びとがある」とソネットをもちだす時(1953年(昭和28)10月13日毎日新聞)、ここで使われている「話のある絵」とは、もちろん物語性のある絵画という意味ではなく、親しく話しかけてくる絵画ということで、ここでは土方独自の対話の論理が登場することになる。別のところでこの詩情は、「高畠達四郎の絵画の世界は、自然からうける素朴で新鮮な感動を、この作家の気質と、近代造型の経験で構成している。「熱海梅園」(1951年)の庶民的な、赤の点綴している作品は、ぼくの好きな作品のひとつである……「暮色」以下の記録的な作品と、新しい画期を示す滞欧作は、この作家の世界を知るにたるいい展観となるであろう」と評される(1965年(昭和40)6月18日毎日新聞)。こうした土方の詩学はとくに宮沢賢治や高村光太郎からの影響が強いのではないか、というのが第2章の仮説である。かつて土方は草野心平が編んだ『宮沢賢治研究』(昭和14年)のなかで、以下のように銅鑼時代の詩に対する感慨を述べたことがある。「……その頃の表現派のあるものゝやうに、叫んだりわめいたりすることを知ってゐたけれども、さうすることの空虚さと無力さを、そこら辺をうつかり歩いてゐさうな一寸とした現実の前にもつんのめされさうな弱さを同時に知つてゐた。また、それが所謂民衆詩派のくづれといふやうな……かさかさした散文に引きのばされて、pazifistischに歌はれるとき、もう何も言ふ必要はなかった。思想と現実の壓力を感じてゐた故に、その頃一部で言はれ初めた短詩型といふやうなもの……に何の関心を持つことができなかった。といって、深い愛着を感じ乍らも、私達の思想と現実を把んでゐる言葉を入れる余地のない室生犀星、萩原朔太郎に帰ることもできなかった」(「高村光太郎、ヨネ・野口と宮澤賢治氏(銅鑼とその時代へのひとつの回想)草野心平編集『宮澤賢治研究』昭和14年発行(昭和16年第2版)十字屋書店)。銅鑼の土方や草野は、宮沢賢治と高村光太郎の詩に思想的共鳴をおぼえる。ふたりは、「こんなに大きくて、しかも何処にすこしの破綻を知らぬパートスに驚いた」(前掲書)。目のまえの現実に対峙したうえでの心象スケッチ。「『春と修羅』が、心象スケッチとして提出されるときに、詩といふものは本来より心象的なものであるに外ならないのであって、外の、生活の烈しさを予想し、予定することは勿論であらう(現代詩にあってこの勿論がどんなに大きな距離を示してゐるであろう)。それは、例へば、一つの劇が、劇が当然に会話と動作とを主とするために、より内なるもの、心象とそのスケッチをそれらの会話が語ってゐないといふものがあるであらうか」(前掲書)。むろん優れた戯曲には、語りにより的確に心象スケッチが表現されているのであって、それは現実の「主観的体験」を具現している。土方のいう「詩的」表現とは、まさにこの意味での心象スケッチである。それは心象スケッチを武器としている日本のシュルレアリストへの批判として、より鮮明に主張される。「一般にいって、日本におけるシュール・レアリストの諸君は主観的体験のレアリテが希薄なように思える。であるから、夢のモティーフやこの派の常套的な方法をもって、いくら作品を飾りたてたところで、われわれに伝ってくるものは希薄である。借物のモティーフや方法をいくら誇示したところで、それらを発見した必要のレアリテが自分のところになければ、なんにもならない。……現在のレアリズムもシュール・レアリズムも、背後にある人間の体験の烈しいレアリテの必要がまず求められることになってくる。そして、技術は、既に述べたように、現実への過程の科学となってくる」(「二つのアンデパンダン展を見て−レアリズムとアカデミズムその他」『みづゑ』1948年(昭和23)2月号。


土方のいう「詩的」表現を成功させた画家への賛辞のいくつかは、画家の内面や思想を、絵画の造形心理として結実させた作例にむけられている。例えば麻生三郎の《子供》についての批評、「三人展の小さな「子供」の顔を前にするとき、麻生三郎がここで自己のひとつの視野を持つところに辿りついたことは明白である。現在、われわれが麻生三郎として思い浮べる麻生三郎になっているのである。……私はこの率直な愛情のでている「子供」が大変好きであったし、忘れ難い印象を残している。……戦後の作品のなかで、昨年(1948年)の毎日、連合展の「母子」像は、なかでも忘れ難いいい作品であった。……麻生三郎は自己の視覚世界を持っている」(「麻生三郎論−ひとつの世代の抵抗と心理について」『みづゑ』1949年(昭和24)8月号)。この自己の視覚世界の確立こそ、土方のいう詩的表現の結実につながり、画家の造型心理を直截に画面へ反映させる起点となる。そうした例はまた林武の作品にもあてはまる。「フォーヴィックな自然観照の背後に、形態とコンポジションのきびしい追求がなされながら、ひたむきに画きこまれてある一枚一枚の充実した画面のもっている愉しい圧力は、私には限りない魅力である。……「横顔」「星女像」の形態の心理的効果が求められながら朱と背景の黒とのコントラストの大きな画面となっている」(1950年(昭和25) 3月1日毎日新聞)。つまり造型心理の到達点としてのポエジーを土方は考えているのであろう。第3章では、もういちどその造型心理の形成について考察したい。



参考図版3 「テアトル・ククラの冊子」『ギニョール』の表紙」





参考図版4 「冊子『ギニョール』より土方定一作「どうして馬は風邪をひくか」第1場

3.ハーバート・リードと土方定一ー現代の彫刻的状況と抽象絵画

土方定一は「パウル・クレーと近代絵画」(1949年)のなかで、彼自身の翻訳によりハーバート・リードを引用している。「クレーの主要な関心は、絵画のなかの心理的な連想的な要素が果たす役割を明らかにするにあった。……この心理的な連想的な要素は素人を絵画のなかの文学的な興味へと誘い出すものであるけれども、またこの要素は美術家を形式(フォルム)の新しい世界へと―新しい世界を創造したり、存在している世界を有機的に変容したりする一種の受胎的な想像力へと―導いていくものである」。その頃出版されたリード編集のクレー画集を紹介しながら、土方はリードが分析する画家の造形思考に焦点を絞る。「クレーは、自然のなかのどこにも発見される柔軟性に相応する性質としての動きを強調し、・象の混乱の背後にあって、心の視覚によってのみ見られるレアリテを表現する形式的手段を忍耐と訓練とによって発見しなければならない」(土方定一『ヨーロッパの現代美術』毎日新聞社 1953年(昭和28)p.45.)。「パウル・クレーの絵画の形式的要素の、自由で表現的な操作」は、まずその「形式的要素の性質、機能を自己の経験としなければならな」いところから出発しているとみる土方と(「パウル・クレー」『パウル・クレー画集』昭和45年 求龍堂【土方定一著作集11】)、クレーは「自然から疎外された社会の苦悩を表現するために(自然は)変容されねばならない」と考えたとするリード(ハーバート・リード「様式と表現」増渕正史訳『芸術と疎外』法政大学出版局 1992年)は、クレー論できわめて近い立脚点に立っているのではないだろうか。土方の「造型心理」はクレーの言葉、造形思考(ダス・ビルドナリシュ・デンケン)を連想させるが、その造型心理の特性について、ハーバート・リードからの影響をみようというのか第3章の仮説である。もっともリードの美術批評に土方はいつでも賛成していた訳ではない。特にリアリズムについてのいくつかの解釈では、リードに真っ向から反対している。「……ハーバート・リードなどは、シュール・レアリズムこそマルクス主義のいう外的な自然的対象のほんとうの反映(模写)だといっているが、……フロイト的である限り、私にはそう思えない」(「レアリズムとアカデミズムその他」『みづゑ』1948年(昭和23)2月号)。また別のところでは、「‥‥‥ハーバート・リードはレアリスムは近代の芸術運動にとってわれわれの美術的、造型的なヴィジョン(映像)ーこれが美術の世界観であるがーになんらの寄与するところがないから、ここでは視野の外におくといっている」ことに不満を表明している。しかしここで細心の注意を要するのは、土方のいう絵画のレアリテは、リードの主張する芸術の最終目的に窮めて近いという点だろう。

この第3章では、土方の唱える作品の造型心理が近代的な意味で、つまりリードも評価するモダニズムの範疇のなかで形成されたものを選定した。土方の抽象絵画や現代彫刻への接近は、同時代の前衛芸術への共感や関心といった先鋭性に必ずしも導かれたものばかりではなく、戦前から彼の方法のなかにあった造型心理を解明する過程で、その連続として評価された作品の内容に依っている。例えば川端実の個展を見ての評論、「一昨年あたりから試みられようとした空間処理が強められて、大胆な形態や強い色彩をもつこの作家の画面は、実感のある、ニュアンスも深められた画面になってきて、なかなかいい個展になっている」(1951年(昭和26)1月28日 毎日新聞)や同年の村井正誠への評、「線と色面を交錯させて、童話風な幻想をつたえるこの作家の抽象画風な画面は、私をいつもよろこばせる」(1951年(昭和26) 7月12日毎日新聞)、また、「川口軌外は色彩に幻想を托しながら、変らない地味な仕事を持続している珍らしい作家である」(1951年(昭和26)11月25日毎日新聞)、山口長男についての「伝統的に体質的となっているわれわれの形と色の感覚に、この作家の造型的なきびしい感覚が加えられて清新な画面となっている」(【第6回日本国際美術展】1961年(昭和36) 5月22日 毎日新聞)という記述などを読むと、紙面の都合から短くまとめられたわずかな言葉のなかに、作家の造型心理に対して土方が求めていた厳しい姿勢をうかがうことができる。造型心理という言葉にもう一度こだわってみると、土方の戦前の美術批評に、昭和13年の「独立展評」があるが、そのなかで彼は、絵画の色彩効果が生理作用に与える影響にふれて、作品と観者の間の「心理的シチュエーション」を設定していることに注目できるはずだ。土方によれば、観者の作品理解のうえで、作者や作品との心理的シチュエーションという近代的心理の相互作用がなければ、作品に対する共鳴がうまれず、自己の心理的シチュエーションにのみ忠実な、切迫感に似たものしか作品に残らない、近代の作家には疲れた真剣な顔だけをもつ者が少なくないが、それは観者と心理的シチュエーションが通っていないからで、その真剣な表情に芸術家が耽溺する方向からは、「一遍身を離してもらいたい気がする」という。そして「手近な切迫感を持った心理的シチュエーションに忠実に、レァリスティクな態度で追求し表現」する作者と、そうした「レァリスティクな態度から離れて、何か自分のうちに持っているものを護ろうとするようなロマンティクな態度で仕事をしようとしている」作者を分類し、後者の例として斎藤長三の「海岸」、「人々のゐる岡」、「夕暮の卓」をあげている。「斎藤長三氏の場合では、何か自分の持つてゐるものを護らうとするところに、少年らしい真剣ささへ見られる。‥‥‥氏が少年らしく私達に訴へ説明するところのものを私達はよろこんで・揄するにしても、さういつたところから来る感傷に対して注意したい気持がする」(「独立展評」『アトリエ』昭和13年4月号p.48−51.より)。本展では斎藤長三は第2章に分類したが、この頃から土方は作品の背景にある心理的境遇(状況)、作家の造型心理にかかわるものとしての作品に関心を寄せていたことがわかる。そして土方が戦後、レアリズムについて、「……私は絵画の時間的な変化というものは、時代なり階級なり集団なりが自己の生活感情を表現したいとする必要から、自己の絵画方法を新しく発見するものである、と思っている。であるから、現在のレアリズムの必要はアカデミズムの絵画方法でなしに自己の絵画方法を発見し、このようにして新しい視覚世界を実現してみせてくれることだと思っている」と述べ(『みづゑ』1948年(昭和23) 2月号)、また「……美術家である以上は、キャンヴァスに筆をつける前に、外的な自然的対象にどのように対しているかの態度が決定していなければ一筆をも加えることはできない。……絵画のなかのレアリズムというのは、こういう造形意識のなかに見られる美術家の世界観のことであって、それだからこそ見るものに画面の視覚的直観ー造形ーを通して、美術家の世界観に訴えるものである筈である」(『アトリエ』1949年(昭和24) 5月号)と規定する時、彼のいう造型心理もまたその絵画のレアリテに従属するものであることは明白である。とすれば以下のリードの言葉に集約される彼の芸術観は、土方の造型心理の延長線上にあるといえるかもしれない。「疎外の条件の受容でなく融和が、芸術の最終目標であるからだ。人間としての経験は、それらが精神からある物質的な形体に投影される限りにおいてのみ、我々の思考と享受のために存在すると言いうるであろう。そして私は思うに、我々は経験のこれらの具体化が、それらが芸術作品の特定の特徴を持つ限りにおいてのみ後世に生き永らえると言えるであろう」(前掲『芸術と疎外』P.79.「様式と表現」)。

土方定一の美術批評は、ハーバート・リードの美術批評がそうであったように、まず第一に人間存在に対する深い共感がその柱となっている。ただ土方はリード以上に緻密な哲学と文芸学の該博な知識をもって、ある時は社会科学的に、ある時はフォルマリズムを駆使して作品に接した。それは歴史と造型心理という言葉でまとめられ、その膨大な著作はひとつの批評精神に貫かれている。本稿では彼の歴史に対する姿勢、詩学そして哲学を戦後美術−これは戦前の美術をふくめて20世紀中期の日本美術とくくりたいところだが−とのかかわりにおいて考察した。最後に美術批評についての土方定一の考えを紹介して本稿を閉じたいと思う。
「……美術批評は教養でするのではなくて、われわれの同時代の絵画の熱情と要求でするものである。……美術批評は美術家の営為とその作品とが、人間の精神生活の最高の営為であるという体験と自覚から成立していることは忘れてもらいたくない。これは、私が学生時代に深田康算の短い論文から教えられたことである」(「批評の批評の批評」『アトリエ』1949年 (昭和24)11月号)。

(三重県立美術館学芸員)

最後になりましたが本稿作成にあたり、岩部定男氏、酒井忠康氏、匠秀夫氏、土方明司氏、神奈川県立近代美術館と東京国立文化財研究所の方々にご指導、ご協力いただきましたことに深く感謝いたします。

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