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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2001 > クチュリエ、ロベール 生田ゆき アートになった動物たち展図録 2001

ロベール・クチュリエ
Rober Couturier

1905年、パリー

22 《小さな馬
Petit Cheval

1993年

ブロンズ
Bronze

29x31x12cm

マイヨール美術館(パリ)
Musée Maillol, Paris

23《小さな馬

1993年

ブロンズ
Bronze
16.5×19×3cm

マイヨール美術館(パリ)
Musée Maillol, Paris


1905年フランス西部アングレームに3男として生まれます。5歳の時にパリに引っ越し、少年時代を過ごします。1918年に美術学校のエコール・エスティアンヌでリトグラフを学びます。絵(特にデッサン)を描くこと、絵が複製となり多くの人の眼に触れることのおもしろさを知り、絵入り新聞発行を意欲的に発行しています。父の死を契機に学校を辞め、1922年から2年間、リトグラフの下働きで生計を立てます。この時、過去の巨匠たちの名作を仕事として手がけつつ、研究し、それが後々の貴重な蓄積になります。その後も彼は多くの職業を経験しました。舞台装飾家、宣伝デザイナー、建築家の助手、彫刻モデルなどなど。しかし、1929年パリ市教職試験に合格し、夜学教師の職を得た後は、安定した収入を得ることができ、作品制作にも身が入りました。1930年ブルメンタル賞受賞。1931年以降、毎年のように世界中を旅し、異国の美術や風俗をインスピレーションの源とします。1934年より活発にグループ展に参加。1937年、建築家のエミール・エローととともにパリ万国博覧会のために優美(エレガンス)宮を制作。500メートルのレリーフに200のマネキンが組み合わされた巨大なものでした。これをきっかけにマイヨールの影響の強かった作風を脱し、独自の道を歩み始めます。

クーチュリエの彫刻を知る人は、彼の動物彫刻を奇妙な選択と感じるでしょう。第二次世界大戦中、1940年に初めてこの分野に関心を向け、《ヤギ》を制作しました。これは19世紀までの動物彫刻が温めていた遺産を分け合うことなく、まったく異なった革新的な視点を提示するものでした。しかし、本格的に制作の中心に入り込むのは1971年まで待たなければいけません。金属製のチューブの様々な断片を寄せ集めることによって、《イヌ》を生み出しました。馬は1993年に彼の彫刻に再び姿を現すやいなや、現在へもその関心は続いています。その時々に応じて選択された素材と形態によって、見る者に様々な解釈を提示してくれます。

馬は作家にとって、自分の子供時代の思い出につながっています。幼い頃、彼は長い時間馬を見つめ、しばしばそれを素描して過ごしました。作家の記憶に埋め込まれるや、過去とさらにもっと過去を、時空を越えて結びつけることを可能にしたのが馬を巡る思い出でした。

クチュリエの《小さな馬》は全体的な形態をそぎ落とした後のエッセンスとして表現されています。それは究極的には、ぶるぶると震える、ギザギザの輪郭線へと還元されていきます。しかしそのふるえは臆病さや自信の無さからくるものではありません。たくさんの手垢にまみれた過去の例や、圧倒的な力で迫ってくる現実の馬の存在感を自分の手と頭で乗り越えようする意気込みの現れとも感じられませんか。彼の馬が、常に動いている状態で表現されるのは、それは作家が馬をギャロップした状態、ずなわち大地をかける生き物としてではなく、自由に飛翔する天空の存在として見ていたと考えられます。すなわち、彼は、馬を何者からも切り離された無重力状態においたのです。まさにこれこそ彼が求めた「馬のイメージ」なのです。作家はいかに実物に似せるかという、表現そのものを探求する機会を私たちに提示する以上に、対象そのものの本質を暗示してくれます。

(生田ゆき)


参考文献

Les sculpteurs et l'animal dans l'art du XXe siècle,Monnaie de Paris,1999,p.37-38.
Couturier:Galerie Dina Vierny,Paris,1984.
Couturier:texte by Ionel Jianou,Arted,Editions d'Art,Paris,1969.

ページID:000056341