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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 2001 > 動物彫刻をめぐる断想-日本と西洋 毛利伊知郎 アートになった動物たち 図録 2001

動物彫刻をめぐる断想―日本と西洋

毛利伊知郎

今、なぜ20世紀西洋の動物彫刻の展覧会なのかと問われて、真正面からそれに答えることはかなり難しい。動物彫刻というならば、20世紀西洋だけでなく、時代・地域・民族・宗教等々の違いを越えて、古代から現代にいたるまで世界各地で多くの作品がつくられてきた。

筆者が勤務する三重県立美術館でも、1995年に日本近現代の動物表現をテーマとする展覧会を開催したことがあった(「動物美術館・・・20世紀日本の生き物のイメージ」)。また、国内でそれ以前に、動物を主題とする造形作品をあつかった主な展覧会としては、古代から現代までを対象とした「動物彫刻―縄文から現代―」(1984年 サントリー美術館)と、日本現代の動物彫刻で構成された「彫刻動物園」(1987年 栃木県立美術館)などがあった。その後も動物表現をテーマとした展覧会は折りに触れて開催されている。なかには、造形面だけでなく、歴史学・民俗学などの成果も取り入れて人間と動物との関わりを多角的にあつかった展覧会も見ることができる(「動物とのつきあい―食用から愛玩まで―」(1996年 国立歴史民族博物館)。

では、日本で開催されてきた、動物を主題とするこうした展覧会にはどのような背景があるのだろうか。いうまでもないことだが、そのひとつは私たち人間というものが他の動物と深い関係を持ちながら、生存しているということである。ある時期まで、人間も他の動物たちとともに地球全体の生態系の一部に組み込まれていた。生存を確実にするために、人間は動物の捕獲や飼育を行ったり、あるいはペットのように動物を生きる上での伴侶としてきた。さらに、時代や民族によっては動物を神聖とみなして尊崇の対象とするなど、人間は物心両面で動物とさまざまな関係を結んできた。

動物に対する日本人の観念の大きな変化は、狩猟生活から農耕生活に移行した原始古代に見られるというが、西洋文化が大量に輸入された明治時代にも日本人の動物観は大きく変化したという。そうした意味で、西洋的な動物観に対してどのようなスタンスをとるかは、西洋化を大きな目標として近代社会を築きながら大きな限界に突き当たった私たち日本人にとって、今改めて考えるべきことがらであろう。

日本の古代・中世に造形された動物たちがほとんどの場合宗教的な意味を与えられていたのと同様、西洋世界でも過去において動物表現は宗教、神話と強い絆によって結ばれていた。わが国で世俗的な動物表現が大きな位置を占めるようになったのは、近世以降―16世紀末以降のことと考えて大きな誤りはないだろうが、西洋近代の科学的合理精神から何らかの影響を受けて日本人が動物を表現し始めたのは18世紀後半以降のことである。彫刻の場合、日本近代木彫りの祖といわれる高村光雲が、西洋彫刻の写実表現を意識した作品《老猿》を制作したのが19世紀末の1893(明治26))であるから、わが国における世俗的な動物彫刻の本格的な登場は20世紀以降のことといってよいだろう。

他方、西洋世界において19世紀後半から20世紀にかけての時期は、動物に対する人間の視線や視界が大きく変化した時代でもあった。そのことは、たとえば動物園というものの発展にも見ることができる。今日、私たちは犬、猫など身近な愛玩動物以外の生き物に接しようとする時、動物園を訪ねるのが最も近道である。動物園に行けば、遠い異国の動物を始めとする地球上の多種多様な生き物に接することが出来る。近代的な動物園の起源は18世紀後半のフランスやイギリスにさかのぼり、19世紀に大きく発展してヨーロッパ各地やアメリカに普及し、19世紀末には日本でも開園している。動物園は、近代社会において人間と動物との接触を促す最も直接的な装置で、動物と人間の関係に大きな影響を与えたが、それだけではなく欧米各国による植民地支配の拡大、秘境探検・博物学の流行、鉄道・船舶など遠距離輸送機関の発達等々によって動物を見る人間の目は大きく変化していった。

また、グローバル化が進む現代社会は動物をめぐる状況を大きく変えつつある。自然破壊、災害、地域紛争などによって人類を含む多くの生きものが生命の危機に直面し、同時に情報技術の急速な発展や都市化によって動物と直接接する機会が急速に減少しつつある私たちは、動物を通じて地球環境、人間、生命などの極めて今日的な問題を考えることになる。たとえば、最近開発されたコンピューター仕掛けの動物ロボットに寄せる現代人の強い関心は、動物に対する人間の見方、人間と動物の関わりが大きく変わりつつあることを端的に示しているのだろう。

ところで、日常生活のレベルで動物たちの姿形と行動は、私たちにさまざまな感情を引き起こす。また、動物の姿を目にしながらも、実際には自分自身や人間について考えているということも多い。近年のペットブームに象徴されるように、動物に心の癒し・安らぎを求めることも珍しくない。

このような動物という存在が20世紀西洋の立体造形と結びつくとき、作品の前で私たちはどのような思いを抱くのだろうか。よく見知っている動物が想像を超えた姿形に表現されているのを目の当たりにして、造形という行為が持つ多様な可能性や、作家のイマジネーションの豊かさに驚くこともあるだろうし、その動物固有のイメージやその時々の動物観に対する認識を新たにすることもあるだろう。この他にも、さまざまな受け取り方があるかもしれない。20世紀欧米の革新的芸術運動は動物表現にも新しい局面を開いたが、そうした新しい造形表現の開拓者たちが、どのような造形世界を開いていったかが本展では出品作品によって示されることになる。同時に、この「西洋」という舞台設定は、日本と西洋との動物観の相違を検討する上での材料をも浮かび上がらせるだろう。

では、彫刻に表される動物にはどのような特徴があるのだろうか。動物を主題とする20世紀に制作された作品全般を見渡せば、洋の東西を問わず身近な動物が大半を占めていることは明らかだ。特に、20世紀前半に活動を開始した比較的古い世代の作家たちの場合はそうであろう。鳩や鶏、犬や猫、馬や牛は好んで取り上げられる動物の代表である。もちろん特定の種ではなく、鳥や獣といった概念的な動物が作られる場合も多いが、その際も珍獣奇獣が作品の源泉となることは少ない。

しかし、20世紀も後半になると、動物表現のレパートリーは飛躍的に増加する。もちろん、人間に身近な動物たちが動物彫刻の主役の座から降りたわけではない。しかし、20世紀前半以前には造形表現の対象とならなかった動物たちが新たな役割を演じはじめたことも事実である。

たとえば、本展覧会の多くを負っている展覧会「20世紀美術における彫刻家と動物」(1999年パリ造幣局)の図録を見ていると、例えばアンリ・ジョルジュ・アダムの《ひきがえる》、ギー・フェレの《激しくそがれたセミ》、エミール・ジリオリの《イモムシ》、エティエンヌ・アジュの《ヒバリ》、ジル・ドゥ・ケルヴェルソの《クロコダイル》等々のように、若い世代の作家たちの作品には20世紀前半には見られなかった動物が頻繁に登場する。こうしたことは欧米だけのことではない。現代日本の若手作家たちも、爬虫類、両生類、鯨、犀やキリン、昆虫など、伝統的な動物彫刻はもちろん、近代彫刻にも見られなかった生きものたちを好んで取り上げている。

こうした現象は、直接的には第二次世界大戦後における造形表現の多様化と結びついている。しかし、それだけでなく、現代社会における人間と動物たちの関係の変化を背景にして、動物を見る作家たちの目に大きな変化が生じていることも無関係ではない。動物の姿に託して、現代の作家たちは自分のさまざまな主張や感情を込めることになる。たとえば、社会に対する批判、人間存在についての問題提起、生命に対する畏敬・愛情・共感、作家独自の世界観、あるいは新しい空間構成や、形態の提示等々である。かつて造形の対象として取り上げられた身近な動物だけでは、現代作家の多様で複雑なメッセージを伝えることが難しいのかもしれない。

交通機関と情報伝達手段の発達によって20世紀には時間距離が大幅に短縮されてきた。グローバリゼーションに象徴されるように、近代の電子情報網の急速な発展と普及によって私たちは今新たな局面を迎えている。この展覧会に出品される作品を目にして、私たちはこの百年の間に私たち自身と人間社会に起こった大きな変化に気づくだろう。動物自身は変わっていない。人間が大きく変わったのだ。

(三重県立美術館学芸課長)

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