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形と色に人の根源を探った荒木市三

森本 孝

画家の一生というのも様々である。それほど注目に値するような製作活動を行っていない作家でも、人間関係を巧みに操って、画壇の脚光を浴びるようになった人物もいる。実力のない作家が、何時の間にか何処かの地方ではビラミッドの頂点に登っている場合もあるようである。しかし、画家としての名声をほしがらず、静かに息をひきとり、世の中から忘れ去られてしまった画家もいる。三重県松阪市出身でありながら、ほとんどの三重県人に知られることなくこの世を去った荒木市三もそんな一人となっていたのかも知れない。自分の方から人との交わりを拒否していた感すらある作家であった。

荒木市三が鎌倉市稲村ヶ崎の自宅で急性心筋梗塞のため逝去したのは、今から2年4ケ月前の1990年3月5日のことであったが、残念なことに荒木の画業について、最早詳細が不明となってしまっている。主として春陽会において活躍した画家であり、ほとんどの出品歴は把握できる。しかし、作品の裏面に何年の作品で題名が何であるか、それすら記述されていない作品が多く、図版が残されていないと判別出来ない状態となっている。今後時間をかけて調査を行っていかないと、もうわからなくなっていくのである。

荒木市三は1913年(大正2)年1月28日、父・五百三、母たけのの次男として松阪市下村1168番地に生まれている。荒木家は豊農の旧家で何不自由することなく少年期を過ごしたようである。物事に拘らない資質は、そんな環境のもとで育まれたのであろう。1925(大正14)年、松阪市立第五小学校を卒業、1930(昭和5)年に三重県立松阪商業学校を卒業すると直ぐ上京し、兄隆−の友人であった中谷泰氏の世話を受け、翌年、春陽会洋画研究所に入り、1933年から川端学校で絵画を学んでいた。しかし1937年、満州事変が勃発、大陸に出征しなければならなくなり、荒木の製作は太平洋戦争によって中断を余儀なくさせられている。荒木市三が春陽会に初入選したのは敗戦後のことであった。1947年の第1回美術団体連合展に「洋酒と女」、「1945年池袋駅前通り」が出品されていることから、おそらく同年の第24回春陽展にこの2点が入選したものと想像される。「洋酒と女」がどんな作品であったか分からない。「1945年池袋駅前通り」は今回展示されている「風景」(No.5)であるのかも知れない。1950年の第27回展までの出品歴は現段階では正確には把握できない。1947年といえば荒木は33歳、随分遅れた出発となっていた。

「絵が好きであったとか、子供の時すこしうまい絵が描けたと言う事もあったかわかりませんが、絵かきになりたいと思い始め、17・8歳の頃考えた事は自由に一人だけで仕事ができる。その魅力が第一だったと思います。」(春陽帖43、1973年)と荒木が回想していることから想像してみると、荒木は根っから優しい真率な性格で、世俗に染まることを嫌い、純真無垢の状態のまま気ままに暮らそうとしたようである。「画家なら誰にも妨害されない」という意味の言葉を荒木は記しているが、中谷泰氏の製作風景と生活に魅力を感じたようにも思える。

絵描きは絵が売れないと生活ができない。どういう絵が売れるのか分かっていても描こうとはしなかっただけでなく、自分の作品を理押してくれる人でなければ手放すことをしなかったそうだから、収入は梅子夫人の針仕事によって得られる手間賃に頼らざるをえなかった。しかも手間賃は何年も据え置きで、それで一向に構わなかったそうだから、誰に邪魔されることなく最低限度の生活を慎ましく送れればそれで満足という状態であったようだ。中谷泰氏は「好き勝手に絵を描くだけの彼をずっと支えてこられた梅子さんのご苦労」は大変で、「無欲でおおらかな二人きりの人生」(「荒木君の訃に接して」春陽帖61、1990年9月)であったと述べている。初めて鎌倉市稲村ヶ崎にある荒木家に伺った際、梅子夫人は「うちの人はねえ」と前置きしながら、「一食分にも満たない量であっても極僅かさえお米が残っていれば、それでいいじゃないか、と言うのよ」と目を輝かせながら当時の様子を懐かしそうに振り返る。どうも無欲振りも想像を絶するほど徹底した生活のように想像できる。荒木は良き理解者を得て、自分の人生を幸福と感じていたことだろう。梅子夫人から出てくる言葉を聞いているとそう思えてくる。なお、余談であるが、松阪の荒木家は市三が成人する前に事業に失敗して没落していったのであった。

荒木市三は金銭的に無欲であったばかりでなく、画家としての名声も名誉にも無欲であった。目立たず、自己の創意を黙々と画布に表現することで、それ以上に必要なものはなかったのだろう。「ルドンの花、クレーのでんでん虫や魚、ピカソの人物を見ているとあきません。彼等の神秘性に心を打たれます。造形的に厳しい仕事をした反面の彼等の神秘性それが芸術だと思っています。アブストレーして行く事と造形化して行く事も絵画構成の一つの手段ではあるが、それよりも何を描こうという思想が第一だとおもいます。形や色彩の構成だけでは絵にはなりますが、その作品は、オブジェとかパターン以外何もない様におもわれます。さて自分でカンバスに向かうのですが何も出て来ません。何を描こうとしているのか解らないで造形的に画面操作を繰り返している事が毎日ですが時々イメージが浮かんではなくなり浮かんではなくなりします。デッサンを繰返しているうちに自分の描きたいものがでてくる時があります。それが自分の絵だと思ってカンバスに向かう時が一番うれしいときです。」(「何を描こう」春陽帖41、1970年)と述べているように,荒木は好きなだけ、気の済むまで製作に打ち込んでいたのだろう。

微妙な色彩を伴いながらも単純化された色彩と形態との調和を求めて妥協することなく追求する姿勢を窺うことができる「洗濯物」(1949年頃)や「洗濯物のある風景」(1956年)には、荒木が求めていた造形の原形があるように思う。イタリアの作家・モランディが静物を相手にして、執拗に対象を見つめ自己の想念を表現したような荒木の製作態度が見えてくる。確固たる存在感がこうした風景には見受けられても、以後に展開する裸婦シリーズにはない点は異なっているが、形式は違っても、対象をみつめる姿勢は一貫しているように思える。1950年代の作品には、ピカソを始めとするキュービズム、あるいはマティスなどのフォーヴィズムと対決している姿が浮かぶ。勿論、岡鹿之助や中谷泰ら春陽会の作家の影響もあったことだろう。デッサンを積み重ね、そして小さな画面にエスキースを描き、不必要なものを省き、必要なもののみによって画面を構成することに集中して構想をまた練り直して、次に大きな画面での製作を始めているようだ。同時進行で複数の画布を相手に製作する場合も多かったようだ。対象を形象化する過程において、自分が納得できる色彩とフォルムを獲得するまで時間を費やしていたのだろう。

風景や静物を相手にしていた荒木の製作の中心はやがて裸婦となる。人間の存在そのものを問い続けることが主題となっていたからだろう。「現代のコスチームで描くより、原始的な裸婦の中に、近代を強く出すものがあると思われます。具象で描きましたが、空間とか色彩は、抽象的にあつかいました。造形的に処理しようとすればするほど、抽象的になりますが、単純化された、近代的な、ユニークなものが私のねらいです。」(「今週の表紙『二人』荒木市三」朝日ジャーナルVol.3No.21 1961年5月21号)。

荒木が裸婦をモティーフに自己の画風を確立しようと腐心していた1960年代、1970代には抽象絵画が一世を風靡していた。「抽象でないと絵画ではない」とさえ主張された時代でもあった。抽象を常に意識せざるを得ない状況のなかで具象を問い直し、具象を否定しようとしても否定できない自己の製作の根源を確認し、その過程を通じて他の作家とは異なる自己を発見し、あらゆる絵画製作の主義主張から自分を開放させ、荒木独自の静かで伸びやかな画風を確立したのであろう。

荒木の描く人物は、空間と人との境が判然としないフォルムが印象的である。画面に溶け込むようであり、どこまでも頼りないフォルムである。色数も極力控え目である。荒木の絵は弱さ、脆さが特徴となっている。人を魅了する強い何かが作品にあるのが普通であるが、荒木の作品はどこまでも弱い。その弱さこそが強さなのかもしれない。音楽においてフォルテシモよりピアニシモに強さを感じるのに似ているのだろう。「要約された独特な形と地味な色彩が妙に調和して異彩を放っていた印象がいまも残っている」(中谷泰「荒木君の訃に接して」春陽帖61、1990年9月)という言葉は的を得た表現と思う。

再々発表された二人、あるいは三人の裸婦。朱か青が基調となって裸婦の他は布や鏡が登場するくらいで、漠然とした瞑想の境地のような掴みどころのない雰囲気に満ちている。くずれてしまいそうな、その限界のところで絶妙のバランスを保っている。こうした裸婦の作品群のなかで、1971年の第48回春陽会展に出品され、遺作として1991年の第68回春陽会展に展示された「天使の涙」が荒木市三の作品のなかでも最も記憶に残っている。子供の死を嘆く母親のようであり、母の死を悲しむ子供のようでもある。誰の死であってもいいのであろう。死そのものを尊厳に見つめ、その心情に共感する荒木の心がある。中央の二人は全身が描かれているが、この二人を取り巻く女性群は顔と1つの手以外は省略されている。座った女性の目は虚ろで、一方は緑、もう一方は茶味を帯びている。その茶系の目から一滴の涙が落ちようとしている。朱と青・緑という補色を形成する絵具を丹念に塗り込んだ薄塗りの画面で、人の姿の表現は空中を彷徨うように不確かである。こうした表現からプリミティブな人間の情感が伝わってくるようである。

荒木市三は、1952年に春陽会準会員、その2年後には会員となり、1959年に開催された春陽会選抜新人展(2月3〜8日、日本橋高島屋)には、五味秀夫、安谷屋正義、田畔司朗、宮城音蔵とともにメンバーに選抜されている。このときには一躍脚光を浴びたようであるが、1968年と1970年に兜屋画廊で個展を開催したこと、1969年にパリを中心に外遊したことくらいしか、荒木の画歴の上で特筆しなければならない事象は現段階では把握することができない。目立つこと、世間から注目されることを拒否していたのだろうか。逝去してからそれほど時間は経過してないが、今一つ実像が明確にならない。梅子夫人によると、貧乏暮しも一向に苦にせず、夫人に愚痴をこぼしたり、威張ることもしなかったそうであり、世間の様々な雑音から開放された境地で、ただ黙々と製作し、春陽会に出品していたのであろうか。

作品を売ることを意識しなかったことが影響しているのか、荒木の作品には独特の伸びやかさ、おおらかさが画面に溢れていて、媚びたところが全く感じられない。荒木市三に師事していた武井健治氏が、荒木が話した断片を記録していたメモのコピーを、梅子夫人から送付されてきたので、実像を探る意味で最後に紹介したい。

(もりもと たかし・三重県立美術館普及課長)


  • マチエールはつくるものだ。何回も絵具をかさねて描き込んでいかなくてはならない。
    油彩のタブローに抜けたところがあってはならない。外国の作家はマチエールがしっかりしている。
    それは、小さな画の写真でも分かることだ。日本人は紙に描く長い習慣から、余白を空間として
    感じてしまうのだろうか。(1976年3月16日)

  • どういう作品が売れるのか、分かる気がする。
    だが、今の製作過程は私自身なのでどうしようもない。(1976年3月16日)

  • 写生では実影から受けた感じをそのまま描く。
    これを整理し、自分の画として製作すると、形は非常に違ったものになることがある。(1976年10月16日)

  • 自然には一様に見える所でも、よく注意すると皆違う。この多様さ。空の明るさも一様ではない。
    画の中において、空のバックも、上下左右で皆違う。(1976年10月16日)

  • 自分の意思で描くこと。それが統一に他ならない。一様でない色彩、形の整理、多様の中に
    調和を見出し統一すること。少しずつ変化を与えると楽だ。(1976年10月16日)

  • 大胆にともかく描くことだ。(1976年10月16日)

  • 自分の色でえがくこと。これは自分のものとなった色をつかってマチエールを造るという意味である。
  • 黒色絵具は黒として使うこと。調子をつけるためならウルトラマリンでよい。黒を使いこなした画家は少なく、
    華麗な花の画を描いたルドンのような見事な黒は極稀だ。(1981年5月4日)

  • ただ描く。純粋に描く。それでいいではないか。だが、けっして世間はそれを認めようとしないのだ。
    そして、それは当然であり、止むを得ぬ。しかし、私は描くことしか知らず、他に今となって何もできないし、
    描きつづけるだろう。(1985年5月3日)
  • 花は大体のところを一日か二日で手早く描く。後日自分の色で描く。(1985年5月4日)
  • 私は、ほぼ1年がかりで描く。後で何回か加筆するのだが、描いてあるもの、状態がこちらに影響を
    与えて迷うことはなく、いつも自分の色で描けば、自分が出てくるだけで、バランスを失うことはない。
    (1985年5月4日)

  • 私は製作に当たって光を意識しない。物そのものだけを描く。(1985年5月4日)

  • ジンクホワイト、レモンイエロー(それにカドミウム・イエロー)、イエロー・オーカー、バーント・シエンナー、
    ヴァーミリオン、クリムソン・レーキ、コバルトブルー、ウルトラマリーン、ヴィリジアン、オキサイド・グリーンを使う。
    淡い白、青色調のバックにも、わずかなヴァーミリオンを入れてある。なるべく生のいろで描いて、
    殆んどスリ込むようにしてマチエールを造る。(1985年5月4日)
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