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第4部 新井謹也の文人趣味とその後の作品

第4部は、新井謹也が制作した様々な陶芸作品と戦中・戦後に制作された茶碗、戦後多数描かれた南画風の絵画作品、第3部までに紹介できなかった新井の作域を示す作品等によって構成されている。

戦中期に入り京都での作陶が困難になると、新井は鳥取県在住の後援者の紹介によって、1944(昭和19)年に同県西伯町の法勝寺焼窯元に疎開した。法勝寺窯に滞在中、新井は米子地方に疎開していた辻晉堂らと親交を結び、同地方での展覧会「麓人会」にも二度ほど出品している。辻との親交は深かったようで、辻の手になる新井をモデルにした彫像や肖像画は、新井と辻との親しい関係が戦後も続いたことを示している。

彼の陶芸作品は文人風の草花文様や漢詩文等で飾られることが多いが、戦後になると新井は曽遊の地・中国や朝鮮半島、あるいは長く暮らした京都の風物、自身の陶器などをモチーフにした南画を数多く描いた。戦後の京都で新井の思うような作陶が困難になったことも背景にあったようだが、新井自身が強く持っていた文人趣味が、即興的な絵画作品に現れたと見るべきだろう。

ところで、制作年時を明らかにできる新井の陶芸作品は極めて少ない。年代を特定するための資料が乏しいことに加え、たとえば《呉須文字四方花瓶》などのように、器形や装飾がほとんど同じ作品が戦前から戦後まで長期間にわたって制作されていたらしいことなどがその主な理由である。現状では、新井の陶芸作品の展開を年代を追って跡づけるのは困難というしかない。そのために、第4部では、戦中・戦後の作品とともに、文人趣味が色濃く現れた作品によって、新井作品のバリエーションを紹介している。この文人趣味ということは、折にふれてモダニズムを志向するグループに身を置きながらも、新井の内部で常に大きな位置を占めて、彼の作品の内実をなしていた特質であった。

(毛利伊知郎)

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