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第2部 図案から創作へ

第1節 浅井忠の図案改良運動

新井謹也が洋画から陶芸へと転身したのはなぜか、それは今のところ推測するほかない。まずは新井の周りを見回してみると、そこには浅井忠の大きなシルエットがある。

京都時代の浅井は、工芸活動にも精力的に関わった。その活動は、図案改良への関心を高め、画家の手による図案を工芸に結びつけるという新境地を示し、京都の伝統的な工芸界に風穴を通したといえる。

浅井は、フランス滞在を機にアール・ヌーボー、セセッションを知り、日本の図案の遅れ、とくに陶器や漆器などの立体物に関する図案改良の必要を感じたが、それを具体的に試みたのが、1903(明治36)年の陶芸家と図案家の研究会、遊陶園(園長は中澤岩太、図案家は浅井忠、藤江永孝、鶴巻鶴一、神坂雪佳、牧野克次、武田五一ら、陶芸家は錦光山宗兵衛、四代・五代清水六兵衛、伊東陶山、宮永東山、沢田宗山ら)の設立、そして1906(明治39)年の漆芸家との研究会、京漆園(園長は中澤岩太、図案家は浅井忠、鶴巻鶴一、武田五一、谷口香キョウ、神坂雪佳、古谷紅麟ら、漆芸家は迎田秋悦、戸島光孚、杉林古香、岩村真次郎ら)の設立だった。さらに1907(明治40)年9月には浅井図案の陶磁器を販売する九雲堂を開店、黒田重太郎の回想によれば、そこでは素地師を雇い、絵付けを弟子たちに手伝わせていた。新井謹也の弟、昌夫もそのなかにいたが、兄弟はまた河村蜻山のもとで陶芸の手ほどきをうけ、図案研究をしていたとされる。

ここではアール・ヌーボーなどの西洋と、光悦・光琳などの日本の伝統をともに生かした、浅井独特の「黙語風」と称された図案をもとに制作された杉林古香、清水六兵衛、河村蜻山らの作品、および同時期の図案の傾向に触れる。

(桑名麻理)


第2節 1910年代における工芸の革新

絵画から陶芸へとジャンルを横断する新井謹也の人生を、新井の気づかぬうちに浅井忠が用意してやったのだとするならば、その道を辿りはじめた新井が精神的な拠り所としたのは、津田青楓、藤井達吉、富本憲吉ら、1880年代に生まれた同世代の工芸活動であったと思われる。

1912(明治45)年春、京都府立図書館で津田青楓の作品展が催され、油彩画のほかに工芸作品も展示された。また賛助作品として藤井達吉の七宝なども15、6点含まれており、二人の作品に対し津田の兄西川一草亭は、共通の特徴があること、それが工芸の新しい評価の基準になり得ることを指摘した。「在来の工芸品というものの系統、慣習を破っている」「作者の真情人間の温かみが物に流露している」。そして何よりも新しいのは、二人の作品が素材や技巧、模様などにおいて、一見稚拙とも思えるアマチュア的な創作性に満ちていることだった。とくに模様については、津田も藤井も従来のものに飽きたらず、自然の草花を写生して独自の模様を創作しており、これは1913(大正2)年の富本の有名なフレーズ「模様から模様をつくらず」とも重なる。

残念ながら、新井の場合、模様考案に関する作品は残されていない。そのため、新井がどこまで津田、藤井、富本らと同じ志をもっていたかは精査の余地を残す。しかしながら、つづく第3部との比較において、この3人を中心に1910年代に展開された創作性をめぐる工芸の革新は、技術に秀でた京都の陶芸家たちのあいだで生彩を放つための、新井にとっての核を形成したと指摘できるのではないだろうか。

ここでは津田、藤井、富本の作品とともに、新井の初期作品と推測されるもの、および新井の模様観をあらわす作品がならぶ。また、新井が所蔵していた富本の版画作品、新井の工房「孚鮮陶画房」で制作された富本の作品などが二人の交流を伝える。

1920(大正9)年、新井は陶磁器研究のため中国および朝鮮半島を旅行する。以来、何度も繰り返されたこの旅で、新井は李朝の日用品に共感し、自らも陶器制作を通して生活の芸術化、実用の工芸に開眼してゆく。

(桑名麻理)

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