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画家・新井謹也の周辺

毛利伊知郎

新井謹也は、画家と陶芸家という二つの顔を持っている。画家としての新井謹也の名は、浅井忠の門人として、また明治末に新しい芸術をおこそうとしていた京都の青年画家の一人として記憶されている。しかし、資料が乏しいこともあって、その経歴には未だ明らかでない点も少なくない。ここでは、画家として生きた新井の前半生と新井周辺の動向について改めて検討を加えることとしたい。

最初に、新井謹也の自筆履歴書に従いながら、彼の生い立ちからたどることにしよう(新井自筆の履歴書は、1937年2月に記された2通と、1940年に記された毛筆書きの1通が残っている。しかし、後年記述されたせいか、青年時代の事項については事実関係に疑問が残る箇所もある)。彼は、1884(明治17)年7月31日に、三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽町2016(現・鳥羽市鳥羽)で元鳥羽藩士頼暉(安政4年11月21日生)、母久子(本名さは、慶応元年7月21日生)の長男として生まれている。彼には後に、弟昌夫と妹光が生まれた。

父・頼暉について詳細は明らかではないが、官吏として職を得ることになったようで、ある時期に鳥羽を離れた。そうした父の職業と関係してか、新井謹也は河芸郡白子(現鈴鹿市白子)の尋常高等小学校を1898(明治31)年3月に卒業し、同年4月に津の三重県尋常中学校(翌年三重県第一中学校と改称)へ進学している。

新井が中学校に進学した当時、同校には後に洋画家として活躍する鹿子木孟郎が図画教師として在任していた(1896年9月から1899年3月まで)。在学中に新井は鹿子木孟郎と何らかの接触を持ち、この二人の出会いが新井が後年画家をめざして上洛する要因の一つになったと考えられる。

中学時代の新井には、もう一つの出会いがあった。それは新井より半年ほど年長の榊原一廣(1883−1941)との出会いである。中学時代の二人の交友がどのようなものであったか明らかでないが、後年京都で二人が再会したことによって、榊原も画家の道を歩み始めることになる(榊原一廣については、『榊原一廣とその周辺展』図録1990年 三重県立美術館)。

小さな町の中学校を舞台にした青年たちの偶然の出会いが、後に京都の洋画界を彩ることになるという、ささやかではあるが、どこかにのどかな時のながれと人生の不可思議さの感じられるエピソードである。

履歴書によると、新井は津の中学校で2年間学んだ後、1900(明治33)年に東京麻布の私立城西中学館へ転校しているが、その理由は定かでない。父の勤務先が東京に移った可能性が大きいが、想像をたくましくすれば、その前年に鹿子木が三重から埼玉へ転出していたことが関係していたとの推測が成り立つかもしれない。

東京で中学校を終えた新井は、1903(明治36)年の1月、京都で牧野克次に入門、6月に新たに開所した聖護院洋画研究所に入学している。東京で洋画を学ぶこともできたはずだが、京都で洋画研究を開始した背景には、父の転任(ある時期から父頼暉は京都高等蚕業学校の官舎を住まいとしていた)があったか、あるいは津の中学校時代に知り合った鹿子木孟郎の助言があったのかもしれない。

新井は、その年秋に開催された関西美術会の展覧会を皮切りに展覧会へも出品を始めているが、現時点でそれらの作品は所在が確認されていない。

しかし、画家をめざして歩み始めた新井を待っていたのは兵役であった。日清戦争後、中国東北部と朝鮮半島の支配をめぐって対立を深めてきた日本とロシアは1904(明治37)年に戦争状態に入る。戦局が激しさを増す中、新井は同年11月に徴兵され、1905(明治38)年3月から翌年1月まで戦地に赴くことになった。

新井はこの間に中国の人々や町の様子を水彩で描き留め、画帖にまとめている。そこに貼り込まれた水彩作品18葉は、おそらく現存する新井の作品中最も早い時期の作と思われるが、浅井忠風の素朴な表現を示すこれらの作品からは、20代初めの新井の画技と志向を窺うことができる(挿図参照)。


新井謹也 日露戦争出征中の水彩画

履歴書によると、日露戦争が終り、新井が洋画研究に復帰したのは1907(明治40)年12月であった。その月の16日には師の浅井忠がこの世を去ったが、新井は関西美術会をはじめとする展覧会への出品を翌年から再開することになる。

おそらく、この頃から1917−18(大正6−7)年頃までのほぼ10年間が、青年画家新井謹也が最も盛んな活動を展開した時期であったといえるだろう。そして、この10年間は京都の美術界で、個人の自由な精神を尊重した新しい芸術をめざす革新的な運動が青年作家たちによって行われた期間でもあった。そうした意味で、この時期の新井の活動は当時の青年作家たちの動向と軌を一にするものであった。ここで、新井謹也を通してみた当時の青年作家たちの動向を見ておくことにしよう。

(以下の無名会、黒猫会、仮面会等については、関千代「黒猫会・仮面会等覚書」『美術研究』232号1963年、京都市美術館『叢書 京都の美術U 京都の洋画 資料研究』101〜109頁 1980年、島田康寛『京都の日本画』416〜431頁1991年 京都新聞社、等に詳しい。)

関西美術院第一期生で、梅原龍三郎とともにフランスに留学し、滞仏中に実作家から美術批評家に転向して帰国した田中喜作(1885−1945)を中心として1909(明治42)年12月に結成された無名会は、そうした運動の中で最も早いものであった。無名会は、田中の他に中井宗太郎、藤井挂空ら批評家たちによって運営され、その例会ではヨーロッパの新しい芸術思潮の紹介や展覧会批評が行われた。

無名会は明治末年頃まで活動を続けていたようだが、当時の『日出新聞』には例会参会者として新井謹也の名もあげられていて、当時の新井がどのような関心を抱いていたかを窺うことができる。

1910(明治43)年12月、田中喜作と10名の青年画家たちとによって黒猫会(シャ・ノアル)が結成され、新井謹也も会員に名前を連ねた(田中と新井以外の会員は、土田麦仙(僊)、小野竹喬、樫野南陽、秦輝男、福本古葉、杉浦香浦、田中善之助、黒田重太郎、津田青楓)。もともと黒猫会は、日本画、洋画というジャンルの垣根を取り払って画家たちが親睦を深め、新しい芸術創造をめざすことを確認し合うのが主な目的であったが、展覧会の計画が持ち上がると会員間の意見がまとまらず、翌1911(明治44)年5月に突然解散となった。

この黒猫会のあとを受けて結成されたのが仮面会(ル・マスク)であった(会員は新井の他に、土田麦仙(僊)、小野竹喬、田中善之助、黒田重太郎)。会員の親睦を主としていた黒猫会とは異なり、仮面会は作品研究を第一とし、第1回展を黒猫会解散の月に、第2回展を1912(明治45)年5月に開催したが、リーダー格の田中喜作が翌年東京へ転居したこともあって、自然解散となった。

新井謹也は仮面会第1回展に《少女》など4点の油彩画を、また第2回展には《志摩》を出品している。当時の『日出新聞』展覧会評は、新井の出品作に対して必ずしも好意的ではないが、残念ながら新井の仮面会出品作を現在確認することは不可能である。

黒猫会、仮面会の時期を含む明治40年代の新井作品は、現在のところ水彩・油彩あわせても小品が8点ほど確認されているにすぎないが、そこには師・浅井忠からの強い影響を窺わせる平明な風景描写を見ることができる。

仮面会解散後、新井の主な作品発表の場は関西美術会、あるいは浅井忠門人たちによって結成された同人会の展覧会などであった。この時期の作風は、彼の故郷鳥羽に近い志摩半島と思われる海景を、外光派風の明るく平明な色調とタッチによって描いた《朝の海》(1916年)等に見て取ることができる。また、詳細は明らかでないが、仮面会結成の頃から1918(大正7)年に関西学院中学の教師に転職するまで、新井は大阪三越呉服店意匠部に勤務して生計を立てていた。

1920(大正9)年の中国・朝鮮半島旅行以前の大正前期に描かれた新井の絵画も現在知られているものはごくわずかで、しかも本格的な作品はほとんど見ることができない。不運にして多くの作品が失われたということもあるだろうが、こうした状況を見ていると、画家としての新井の活動には、完全燃焼していないかのようなある種の不自然さが感じられる。

新井謹也は、1920(大正9)年の中国・朝鮮半島旅行を契機に絵画から陶芸に転向したと自身も履歴書等に記しているが、実際にはそれ以前から陶芸に親しんでいたと思われ、絵画と陶芸のいずれをめざすか逡巡していた時期があったのではないかと推察されるのである。

当時、新井とは津の中学時代の同窓生で、やはり関西美術院に学んでいた画家榊原一廣は、飯田呉服店に勤めて図案の仕事をしながらパトロンを探し、1920(大正9)年に念願のヨーロッパ旅行へ出発している。また、この年には田中善之助も渡欧し、新井とともに1920(大正9)年に中国・朝鮮半島へ旅行した国松桂溪も翌年には渡欧するなど、当時の関西美術院系の作家たちの多くはヨーロッパ留学をめざしていた。

周知のように、1920年代には関西だけでなく東京の作家たちもこぞって渡欧した。それには、第一次世界大戦が終わってヨーロッパに平和が戻り、西洋の新しい芸術に直接触れたいという日本人作家たちの希望を実現させる環境が整ったという背景がある。もちろん、経済的な問題など乗り越えねばならない壁は低くはなかったが、画家たちは何らかの手だてを講じて資金を調達しヨーロッパへ旅立って行った。

黒猫会・仮面会に参加して、田中喜作からヨーロッパの新しい芸術の動向を伝え聞いていたはずの新井謹也が、渡欧ということを全く考えなかったとは想像し難いし、渡欧のチャンスをつくることも不可能ではなかったはずである。

1920(大正9)年の中国・朝鮮半島旅行は国松桂溪との二人旅であった。国松の目的は写生、新井のそれも画家として最後の写生であったが、彼の手記からは陶磁器へも強い関心を注いでいた様子をうかがうことができる。

新井謹也がなぜ絵画から陶芸に転向したのかは今も大きな謎である。日露戦争に出征したために洋画の研鑽にブランクが生じ、他の画家たちに遅れをとったこと、あるいは師の浅井忠に陶芸を勧められたことが理由であると作家自身が語っていたのを聞いたという関係者もいる。

そのようなこともあったのかも知れないけれども、あるいは陶芸を手がけながら夭逝した実弟新井昌夫の存在も何らかの関係があったのではないかとも感じられる。

新井昌夫は謹也よりも5歳年下で1906(明治22)年12月の生まれだが、詳しい経歴はほとんど明らかでない。ただ、兄謹也と同じように、ある時期に京都で美術の世界に入ったらしい。昌夫の現存作品は、本展に出品されている《菓子鉢》《呉須絵茶器》の他には、水彩による小品の存在が知られているだけだが、仮面会展の第2回展には陶器6点と図案1点とが河村蜻山によって出品されている。

当時の『日出新聞』によると、新井昌夫は絵を菊池左馬太郎・浅井忠に学び、主として陶器の絵付けを行って、河村蜻山にも師事していたという。河村蜻山は、1903(明治36)年設立の遊陶園に1909(明治42)年から園友として参画し、浅井忠とも近い関係にあった。

おそらく、新井昌夫は兄と同じく京都で洋画を研究していたが、工芸図案に関心を持って、河村蜻山から教えを受けて陶芸や図案制作を行っていたのだろう。

河村蜻山とその実弟喜太郎は新井謹也とも親しい交遊を結んでいた。確実なことは明らかでないが、新井謹也の陶芸への接近は、絵画と図案・工芸とが親密な世界を築いていた京都の美術界を背景に、新井兄弟と浅井忠・河村蜻山との関係の中でなされたものとも思われる。

もっとも、陶芸に専念するようになったといっても、新井謹也は全く絵画から離れたのではなかった。昭和10年代に入って描かれた油彩画が少数ながら現存しているし、画材は異なるものの戦後には数多くの南画が制作されている。しかし、しょうした作品の世界は彼が青年期に参加した黒猫会や仮面会の活動がめざした西洋近代の個人主義に傾斜したものとは全く性格を異にするものであった。

この大正期以降の新井作品に強く認められる東洋趣味・文人趣味は、20代半ばに西洋の新しい芸術思潮に接近しながらも、最終的には西洋世界との間に距離を置くことになる新井謹也という作家の内面で起こった複合的な変化に根ざすものであったのだろう。

(三重県立美術館学芸員)

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