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足代義郎論―「生」の人形(ひとがた)と鮮烈な色彩を求めて―

中谷伸生

一、

足代義郎は犀利な頭脳をもつ画家である。また繊細複雑な人柄の画家である。そのために、孤高、とりわけ周囲の人々が近寄り難いという意味を強く含めて、足代は孤高の画家であると私は思う。しかし、卓れた芸術家が皆そうである、という通俗的かつ陳腐な意味で、私はそう思うのではない。

寒風が吹き荒れる冬の日、陰里館長と一緒に、美術館の学芸員3名が、展覧会の準備のために、伊勢神宮の裏手の丘陵にあるアトリエ「蝮谷庵」を訪れた。アトリエ内に案内されるやいなや、すぐさまテーブルを囲んでの酒盛りが始まった。酔いがまわって、辺りが真っ暗になったころ、画家は私のそばにやってきて、「中谷君、絵画なんてたいしたものじゃない。どうでもいいんだよ」と私の眼を睨みつけるように言葉を放った。私はこのとき、瞬間的に足代義郎の幾枚かの絵画を頭に想い浮かべた。というのも、この語気鋭く吐かれた言葉の中には、この画家が長い人生を賭けて、自己の絵画に託して表明し続けた、深い内実が隠されているように、私には感じられたからである。


二、

明治42年、三重県伊勢市に生まれた足代義郎は、大正11年に第七尋常小学校(現在の伊勢市立厚生小学校)を卒業し、三重県立宇治山田中学校に入学したが、家庭の都合によって、翌年上京して、東京府豊島師範学校(現在の東京学芸大学)附属小学校高等料に編入学した。この年には関東大震災が起こり、足代義郎は、周囲を炎で包まれる恐怖を体験したという。昭和4年、豊島師範を卒業した足代は、小笠原島の小学校教師となったが、すぐさま近衛第一連隊に、短期現役兵として入隊した。その入隊中に葛飾区の小学校に転任する。その後の昭和7年には、上野の東京美術学校に入学して、洋画家の伊原宇三郎、日本画家の平福百穂らの指導を受けるようになり、本格的な絵画の修業に打ち込むことになったという。この時期と相前後して、しばしば浅草六区を彷徨するようになって、榎本健一や田谷力三らが出演した芝居小屋を覗いたり、文豪永井荷風に深い関心を寄せたりした。また新宿のムーラン・ルージュに通って、当時の庶民生活に親しんだという。それから、画家自身にとっても、生涯忘れ難い出来事であると思われるが、多感な23歳の若き足代は、人生を思い悩み、利根川の川岸で死を想い浮べたと聞く。結局は、日本画家の小川芋銭に救われて、思い止まったという。この事件は、おそらく後々までも、足代の芸術と人生に大きな影を落としたと考えられるが、これについての詳細は定かでない。

昭和10年、足代義郎は東京美術学校図画師範科を卒業して、芝愛宕高等小学校で図画教師になった。この時期以後、光風会、新文展に作品を出品するようになり、数多くの油彩画を制作しているが、残念なことに、終戦の年の5月に遭遇した戦災のため、それらの作品はことごとく焼失してしまったのである。この昭和20年、足代は三重師範学校女子部の助教授となって、単身で三重県亀山に住居を移した。この頃の心境を画家は、敬愛する伊原宇三郎からきた手紙を纒めた『恩師の手紙』と題する手記の中で、次のように回想している。

終戦後の昭和21年には水が堰を切ったように美術展がはじまり私の出品する日展もその年には春秋二期に亘って開催された。しかし空襲ですっかりいためつけられ東京を去って亀山のうす暗い街灯の町でローソクをともすような生活をはじめた私には展覧会どころではなかった。私はその頃筆を折る決心をしていた。

しかし、足代義郎はこの意気消沈した状況を脱して、第3回日展に「家」(1947年)、第33回光風会展に「庭」および「稲」(1947年)を出品し、再び旺盛な制作活動を開始したのである。


三、

1951年(昭和26)、40歳を越えた足代義郎は、第7回日展に「ガラス器など」(図版3)を出品して、岡田賞を受賞する。この作品は足代の数少ない静物画の中の1点であって、手前のテーブル上に置かれた、二つのガラス器が示す透明感とそのガラスの質感との表現効果を主たる狙いとする静物画である。中央に大きく描かれた卓布の白が、その周囲の黒っぽい濃青色によって際立たされる。さらに、その周辺部には、濃青色を引き立たせる黄色や橙色が配置された。画面上部の温もりのある暖色系の色彩、対象の輪郭線をぼかした柔らかい形態把握など、この作風はボナールらのナビ派を想わせるが、ここではボナールとは異なって、テーブルや器に量感表現が与えられるとともに、形態が堅牢にされ、しかも室内の空間は、装飾的に平板化されることなく、三次元的にしっかりと捉えられている。

2年後に描かれた「錐体のある静物」(1953年・図版4)は、同じ静物画であるとはいえ、作風がまったく相違する。幾何学的な直線のみによって構成された、テーブル、椅子、ガラス器などの配置は、がっちりとした形態描写を表明している。こうしたスタイルは、厳密にいって、キュビスムというよりも、やはりセザソヌの画面構成に接近するものであろう。けれども、渋く落ち着いた色調は、足代義郎独自のものである。

この時期の絵画は、後に見られる、激しい情念の噴出と形容できる作品とは対照的に、きわめて理知的であって、犀利な思考をもつこの画家の一面が、端的に表明されている、といって間違いはない。しかし、足代は自己の体質に根ざすこうした知的でクールな様式を、徐々に乗り越えようとしたのである。


四、

さて、1950年代の後半に入ると、足代義郎は作風を急激に変貌させる.この50年代における美術界の特色として注目されるのは、1951年に〈サロソ・ド・メ東京展〉が開催され、今ではすっかり忘れ去られたフランスの画家たち、すなわちエドゥアール・ピニオン、アンドレ・マルシャン、ジョルジュ・ディエ、リュシアン・クートー、アンドレ・ミノー、ギュスターヴ・サンジェらの、いわゆる〈抒情的な抽象〉派を大々的に紹介したことであろう。この時の記事は『アトリエ』や『みづゑ』、そして『美術手帖』、『芸術新潮』、加えて『美術批評』などの美術雑誌に、特集として掲載されることになった。大雑把にいって、彼らのキュビスム風の構成とフォーヴィスム風の色面配置を採り入れた半具象、半抽象の絵画は、当時の日本の洋画家たちに、いささかセンセーショナルな話題を提供したようである。同時に、ベルナール・ビュッフェやイタリア出身のマッシモ・カンピーリらの構成的な要素を含む具象絵画が注目されたことも忘れ難い。こうした海外美術の動向は、たとえば、海老原喜之助がサロン・ド・メに招待出品した「殉教者・サンセバスチャン」(1951年)、第1回日本国際美術展への出品作「ボン・サマルタン」(1952年)、それに「船を造る人」(1954年)などの作風に、多少なりとも影響を与えているのではなかろうか。また、アカデミックな具象絵画の旗手と目される、小磯良平のような写実に徹した画家にとっても、おそらくわれわれの想像以上に、こうした流れは大きな衝撃であったに違いない。実際、1950年代初頭から中頃にかけての小磯は、「母子像」(1951年)、「音楽」(1954年)、「麦刈り」(1954年)などに指摘できる、正方形や長方形の枠内に、人物像をはめ込むという、小磯にしては珍しい様式の実験を行っている。

こうした時代状況に、足代義郎がどう対応したかは私には分からない。まったく無関係であるのかも知れない。ただ、確実に指摘できるのは、この時期の足代の作品には、やはり矩形を使った構成的な画面が顕著に見られることであろう。一例を挙げると、「想」(1958年・図版12)、「浜辺」(1957年・図版10)、「歳月の記録」(1958年・図版13)、「トルソと女」(1959年・図版14)などであって、たとえば「想」においては、膝を地面につけてかがみ込む、真横から描かれた女の姿が、正方形に近い矩形の中に押し込められる。女の右手や右足は、矩形の枠に合わせて直角の形態にされている。しかし、こうした作風の時期は比較的短く、足代は60年代にはいると、一気に、いわば表現主義的な激しい画面へと向かうことになる。


四、

さて、1950年代の後半に入ると、足代義郎は作風を急激に変貌させる.この50年代における美術界の特色として注目されるのは、1951年に〈サロソ・ド・メ東京展〉が開催され、今ではすっかり忘れ去られたフランスの画家たち、すなわちエドゥアール・ピニオン、アンドレ・マルシャン、ジョルジュ・ディエ、リュシアン・クートー、アンドレ・ミノー、ギュスターヴ・サンジェらの、いわゆる〈抒情的な抽象〉派を大々的に紹介したことであろう。この時の記事は『アトリエ』や『みづゑ』、そして『美術手帖』、『芸術新潮』、加えて『美術批評』などの美術雑誌に、特集として掲載されることになった。大雑把にいって、彼らのキュビスム風の構成とフォーヴィスム風の色面配置を採り入れた半具象、半抽象の絵画は、当時の日本の洋画家たちに、いささかセンセーショナルな話題を提供したようである。同時に、ベルナール・ビュッフェやイタリア出身のマッシモ・カンピーリらの構成的な要素を含む具象絵画が注目されたことも忘れ難い。こうした海外美術の動向は、たとえば、海老原喜之助がサロン・ド・メに招待出品した「殉教者・サンセバスチャン」(1951年)、第1回日本国際美術展への出品作「ボン・サマルタン」(1952年)、それに「船を造る人」(1954年)などの作風に、多少なりとも影響を与えているのではなかろうか。また、アカデミックな具象絵画の旗手と目される、小磯良平のような写実に徹した画家にとっても、おそらくわれわれの想像以上に、こうした流れは大きな衝撃であったに違いない。実際、1950年代初頭から中頃にかけての小磯は、「母子像」(1951年)、「音楽」(1954年)、「麦刈り」(1954年)などに指摘できる、正方形や長方形の枠内に、人物像をはめ込むという、小磯にしては珍しい様式の実験を行っている。

こうした時代状況に、足代義郎がどう対応したかは私には分からない。まったく無関係であるのかも知れない。ただ、確実に指摘できるのは、この時期の足代の作品には、やはり矩形を使った構成的な画面が顕著に見られることであろう。一例を挙げると、「想」(1958年・図版12)、「浜辺」(1957年・図版10)、「歳月の記録」(1958年・図版13)、「トルソと女」(1959年・図版14)などであって、たとえば「想」においては、膝を地面につけてかがみ込む、真横から描かれた女の姿が、正方形に近い矩形の中に押し込められる。女の右手や右足は、矩形の枠に合わせて直角の形態にされている。しかし、こうした作風の時期は比較的短く、足代は60年代にはいると、一気に、いわば表現主義的な激しい画面へと向かうことになる。


五、

「二人」(1963年・図版22)、「降下」(1963年・図版20)といった、足代義郎の作品は、強烈な色彩を画面にぶちまけたような、そして、具象的形象を消滅させるかに見える、生命力に溢れる絵画である。これらは、1950年代後半から60年代前半にかけて展開した、いわゆる「具体美術協会」の画家たち、たとえば、アンフォルメル運動の洗礼を受けた、元永定正らのそれと、絵肌の感触という側面において、共通する性格をもつ。しかし、いうまでもなく、足代は「二人」においても、〈人〉の執拗な追求を止めようとはしていない。しかも、見逃せないのは、足代特有の鮮やかな赤の使用によって現出した、いわば情念の色彩であろう。その上ここでは、絵具の渦の中に埋没するかに見える、屈曲する二つの肢体は、あくまで赤い人形(ひとがた)の存在感をとどめており、非定形の絵画となることを、敢然と拒否しているのである。

1966年から67年にかけて現れた、〈女〉を主題とする一連の作品群は、足代義郎の芸術を理解するために、最も興味深い作例であるといえよう。なかでも、「女」(1966年・図版25)は、観る老に威圧感すら与える迫力ある絵画である。両脚を開いて座る女は、大きな乳房を強調し、武骨な男のような手と指を広げて、ものすごい形相で何かを睨んでいるかに見える。形態を崩された人体は、およそ〈美人〉タイプとは無縁の女性像となっており、エロティックな性格は皆無である。1971年作の「女」(図版30)も同様であって、歪められた顔貌とその醜悪とも見える表情は、悲壮感すら漂わせているように思われ、まるで上品ぶった世間の人間に対する挑戦のように感じられる。鮮烈な赤を塗られた下着に見られる、大胆ですばやい筆触の跡も、ただ激しい挑発的性格を露にするのみである。こうした女性像は、人間社会に対する、画家の深い懐疑と苛烈な格闘を根源的に表明しているのであろうか。これらの作品が、ニューヨークで活躍した抽象表現主義の画家、デ・クーニングの絵画に酷似すると考える者がいるようだが、そうした見解は、あまりに皮相的であると私は思う。というのも、この女の描写からは、新奇な作風を見い出すために、ただ単にアメリカの流行を追うといった、やわくて小賢しい画家の姿勢などは、微塵も読み取れないからなのだ。足代義郎はそれほど甘い画家ではない。この〈女〉の絵画は、足代にしか描けない絵画である。イギリスの画家、ベーコンの手法を想起させるかに見える、数点の「女」(1967年・図版27)の作品も、然りである。この時期、足代義郎の内面では、芸術と人生の両面にわたる、とりわけ激しい闘いが繰り広げられていたのではなかろうか。というのも、数多くの〈女〉を主題にした絵画を眺めたときに、なぜか私には、あるペシミスティックな人生観の調べが、ときに強く、そしてときに弱く、しかし非常に明瞭に鳴り響いてくるような気がしてならないからである。

1967年のことであるが、足代義郎は若い頃から苦しめられてきた胃潰瘍を再発させて、松阪の大西病院で切開手術を受けている。またこの頃には、団体展の審査員としての自己の立場に疑念を抱き、その苦しい心情を、恩師の伊原宇三郎に書き送ったようである。伊原はそれに答えて、次のような返事をしたためた。

この度の貴兄のお手紙は大変むづかしい問題を含んでおって私の口添えなどどの程度お役に立てるか疑懼していますが一つの考えとしてご参考までに申しあげます。光風会や県展などそれがたとえ地方の小さな展覧会であっても事情は同じで、貴兄の様な人一倍ものを考える方にとっては、大きな悩みであることはよくのみこめます。しかし、このことは貴兄にとって乗り越えねばならぬ当然の試練で、弱気や厭気をおこしてどうなることではありません。(昭和44年4月『恩師の手紙』)

さて、この60年代の終わりの時期に、足代義郎は「女」(1968年・図版28)、「女像」(1968年)、「女」(1969年・図版29)、「女像」(1970年)といった、まさに足代独自の個性溢れる作風を確立する。運動感のあるすばやい筆触は、一見すると荒々しく感じられるが、仔細に観察すればすぐさま分かるように、決して大味ではなく、鋭い細線が無数に走っており、描線の上を別の描線が磨れ合い重切(じゅうせつ)するその画面は、神経質すぎるぐらいに織細である。固有色を捨象して、赤をポイントに置いた様々な色彩の班片(はんぺん)は、ある種の清澄さを醸し出している。激しい筆触を随所に駆使しているとはいえ、画面はあくまで静かである。これらの作品においては、すでに威圧感や挑発めいた性格は見られず、画家は形態と色彩との戯れの中で、眼を凝らして〈女〉の形象を追いかける。


六、

70年代の足代義郎の〈女〉には、社会生活の要素が入り込む。つまり「夏日」(1974年・図版31)にしても、「女奇術師」(1978年・図版36)にしても、あるいは「まどろむ」(1979年)にしても、そこに登場する〈女〉は、何かを演じているというわけなのだ。〈女〉 との熾烈な格闘は、すでにここには見られず、画家は絵画に向かう姿勢を、徐々に変えようとしているのである。


七、

〈眠れる女〉、〈むなしい姿〉、〈影〉、〈不安〉、〈悲しみ〉、〈夜〉。これらの言葉は、足代義郎が中日新聞の「月曜ずいそう」と題したコラムに、短い随筆を載せたときに使っている言葉である。それは1981年の師走のときで、足代が伊勢郊外の丘陵にアトリエ蝮谷庵を構えた少し後の時期であった。

私は妙な夢を見た…………。(中略)孤独にさらされた一つのドアの前に、電光に照らされた残酷なものが横たわって見える。それは眠れる女のむなしい姿の造形物であった。(中略)私はそれを見ているだけで心に突き刺さる真理のひらめきを感じて、もしそれが私に話しかけでもしようものなら、私は即座におびえきってしまっただろう。私の影、不安、悲しみ、夜の一部がよみがえってきた。(昭和56年12月「月曜ずいそう・空白の日」、『中日新聞』)

画家の語る言葉を幾ら並べてみても、それが彼の絵画と直接に繋がるわけではない、というのは、近代の芸術論の教科書的な一般論にすぎない。実際のところ、上記の足代の言葉は、驚くほどに、この時期の彼の絵画が表明する内容と重なっているのである。〈眠れる女〉のイメージは、「浮遊」(1986年)、「炎のメモリーU」(1986年)、「臥像」(1986年)などの潤いのあるエロスを含んだ絵画と対応し、〈むなしい姿〉のイメージは、「空を見る女」(1982年・図版39)、「歌姫」(1984年)、「にげた鳥」(1984年・図版48)の空虚な印象をもつ作品と結び付く。〈影〉のイメージは、「瞑想」(1984年)、「三態」(1985年)の鬱々とした画像と関連をもって、〈不安〉のイメージは、「落葉」(1983年)、「サーカス」(1984年)、「黒い雨」(1985年・図版53))の寂寞とした絵画と重なり、〈悲しみ〉 のイメージは、「孤室の像」(1983年)、「追想」(1985年)などの孤独の雰囲気と連繋する。そして〈夜〉のイメージは、「真夜中のマネキン」(1984年・図版45)、「炎のメモリーI」(1984年)、「いろはにほへと」(1984年)、「月の出」(1983年)に見られる虚無感漂う作品を連想させるのである。

つまり、1980年代に入って、足代義郎は、明らかに〈人生のテーマ〉を扱い始めた、と考えられるであろう。しかも、これらの絵画においては、主題やモティーフの多様化のみに尽きることなく、一種のシュールレアリスムの表現法や、コラージュよりヒントを得た画面構成法、あるいは写真映像を想わせるスナップショット的な画像形成のやり方、さらにはスプレーによる絵具の吹き付けにいたるまで、およそ利用できる限りのあらゆる描写のテクニックと、大胆に構築した造形思考が駆使されているのである。

そして、この時期における最も密度の高い作品が、「木枯」(1982年・図版41)ではないかと私は思う。シュールレアリスム的な不安感を漂わす「木枯」は、枯葉の舞う強烈な赤の色面内に、白い孤影を覗かせる人物象を、鋭い輪郭線を使って、まるで切り絵のようにはめ込んでいる。人影の色面内には、茶系統の色彩による洗練された細線が、織細に引かれていて、見るほどにその美しさを増す。ここでは、いわゆるセンチメンタリズムは感じられず、専ら造形上の厳しい追求が見られるのみである。色彩画家、いや卓抜な色調の画家、足代義郎の面目躍如というべき作品ではなかろうか。画面に漲る緊張感は観る老を圧倒する。しかし、それにしてもこの絵画は、人の胸に直截に迫る〈悲愁〉の気分を漂わせているのである。その意味では、大掴みにいって、「木枯」もやはり人生を象徴的に描いた絵画だといえよう。この時期にいたって、足代義郎は芸術と実人生とのバランスを、自己の内面が志向する方向へと、徐々に、しかしまるで重力に従ってのめり込むかのように、崩し始めたのである。比喩的な言い方かも知れないが、純粋な造形的世界に対して、人生、すなわち〈生きる〉ということの重みが、足代にとっては、より一層切実なものと感じられるようになって、自己の人生観を画像の中に、少しづつ披瀝しようとする感情が沸き上がってきたのではなかろうか。


八、

蝮谷庵で歓談していた際、画家は、われわれ美術館の職員に、「私を実際以上に持ち上げて欲しくない」と強い口調でいった。足代はきわめて犀利な頭脳をもつ織細複雑な性格の画家である。それゆえ、この発言には、長い人生の様々な体験と、そのときどきの画家の心情とが、余人の想像を越えるほどに、層を成して積み重なっていると考えるべきであろう。「絵画なんてどうでもいいんだよ」と語る足代の言葉も、その意味では、一種の凄みのある迫力を示すものだと私は思う。長身痩躯、理想家肌のこの画家は、相手の気持ちを敏感に思いやりつつ、しかもしばしば辛辣な発言を行う。その厳しさは、逆に、あまりにも優しい。芸術と実人生との激しい闘いを通じて、それでもなお、「持ち上げて欲しくない」と語る、まるで青年のような足代義郎の武骨で真摯な表情に、苦汁に満ちた複雑な人生観が刻まれていると感じたのは、青二才の私の生意気な感想にすぎないのかも知れない。しかし、足代義郎という人物とその芸術の魅力は、他ならぬこの複雑さにこそあると私は思う。人間嫌いともみえるペシミスティックな低音を響かせながら、しかもなお、徹して〈人〉の温もりを追求して止まない、この芸術家の生き方以上に、より適切に、その鋭くて、繊細で、大胆で、鮮烈な色彩を放って、激しい情念を含んで、しかも悲愁の気分を漂わす足代義郎の絵画を説明できるものはないであろう。


(なかたに・のぶお 三重県立美術館学芸課長)

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