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「20世紀美術にみる人間展」について

毛利伊知郎

この展覧会は、三重県立美術館、愛知県美術館、岐阜県美術館が相互に協力し、三館の所蔵作品を活用して開催する初めての展覧会です。三美術館とも活動を開始してから20年前後と、美術館としての歴史は決して長くありません。その所蔵作品も美術館コレクションとしては形成途上というべきで、現時点では手薄な分野や時代があることは否定できません。

しかし、三美術館の所蔵作品を一体としてとらえると、状況は一変します。仮想的に三館のコレクションを合体すると、その幅と厚みが格段に増加し、一館の所蔵作品だけでは難しかった密度の高い展示、多様な展示が可能になります。

実は、この展覧会のテーマを「人間」としたことに絶対的な理由はありません。他のスタッフが企画すれば異なるテーマ設定になったことはいうまでもありません。この展覧会の準備が始まる以前から既に他の展覧会に貸し出されることが決まっていたり、保存上の理由から移動が困難な作品があるなど幾つかの条件の中で、三館の所蔵品目録を通覧し、また作品を実見しながら、今回は「人間」をテーマにしてみようと決定したのが実状です。

しかし、改めて考えてみますと、テーマを「人間」としたことには、ある種の必然性もあるように思われます。それは、19 世紀後半から20世紀に制作された作品が三館コレクションで大きな比重を持っていることと関係があるかもしれません。

三重県立美術館は、19世紀明治時代以降の日本近代洋画の系統立った収集を続けてきました。愛知県美術館は、20世紀美術の流れをたどることのできるコレクション形成をめざしています。岐阜県美術館は、ルドンあるいはその周辺の象徴主義やナビ派の作家たちのコレクションがよく知られていますが、収集方針には近現代の日本と世界の美術動向が窺える優れた作品の収集が掲げられています。

こうした方針に基づいて収集された三美術館のコレクションで、19世紀後半から20世紀の作品が大きな位置を占めるのは当然のことですが、その中で「人間」を主題とした作品は枚挙に暇ありません。このことは、自ずと近現代美術において主題としての「人間」が占める地位を示しているということができるのではないでしょうか。

そのような意味で、新しい造形表現が次々に生み出される中で近現代の作家たちが人間をどのようにとらえて表現したかを展望すること、そうした造形作品に現れる多様な人間像は現代の私たちにどのような問題を提起しているかを考える機会とすること、この二つが展覧会のめざすところです。

出品作品は、西洋と日本の絵画と彫刻から選定しました。いわゆる日本画はほとんどふくまれていません。日本画を省いたのは、会場構成上の理由と近代における西洋と日本との相関関係をわかりやすく提示したいと考えたからですが、これについては意見が分かれるかもしれません。

ところで、人物あるいは人間をテーマとする造形作品を集めた展覧会が開催されることは、めずらしくありません。人間・人物は美術展で繰り返し取り上げられてきたテーマです。陳腐なテーマと思われる向きもあるでしょう。

実際、過去に開催された人間をテーマとする展覧会を振り返りますと、実に種々様々です。例えば、主題を見ると、肖像の展覧会、自画像の展覧会、あるいは女性像、子どもの像の展覧会など様々です。

また、出品作品の範囲を見ますと、日本東洋の古美術品によるもの、日本近代美術によるもの、日本と西洋双方の近現代美術によるもの等様々で、ジャンルも絵画や写真によるもの、絵画と彫刻によるもの、書や工芸品なども含む広範囲の作品によるものなど、開催する美術館・博物館のコレクションや活動領域、展覧会の規模に応じて適宜選択されていることがわかります。

さらに、企画の切り口も、顔の表現、あるいは人間の人生に着目した構成、身体性の表現という観点による構成、舞踊・祈りといった人間固有の行動に焦点を絞った企画などバラエティーに富んでいます。

以上のことは、人間をテーマとした造形作品による展覧会は、担当者によって様々な企画構成が可能であることを示しています。企画者の数と同じ数の、人間をテーマとした造形作品による展覧会があるともいえるでしょう。それだけ、人間というのは複雑多様な存在である、人間というのは終わりのない造形活動のテーマであるという言い方もできるでしょう。

さて、この展覧会ではどのような切り口から人間に迫るか、過去の展覧会図録を集めたりして思案を重ねました。しかし、これだけ色々な展覧会が過去に開かれていますと、それらと異なる斬新なアイデアというのは、容易に思い浮かぶものではありません。テーマ展の難しさを改めて痛感した次第です。

種々思案した結果が、この小冊子にある8章からなる構成です。出品作品に即して近現代美術の諸相を展望するとともに、近現代の造形作品に見られる人間像の特質を浮かび上がらせようという二つの意図を込めたつもりです。

章分けが細かいために、散漫な印象があるかもしれません。また、各章の内容がありきたりであるとの批判もあるでしょう。さらに、作品個々の分類に対する疑義の他、そもそもこのような分類にどれだけの意味があるのかという批判もあるでしょう。展覧会の意図や趣旨がより多くの方々に伝わり共感されることは非常に喜ばしいことですが、一方でそうした企画者の意図から自由になって、作品を観照していただくことも非常に重要ではないかとの考えから、鑑賞者の自由度がより保障される内容にすることを常に念頭に置いて、構成を検討しました。

各章の内容は別頁をご覧いただくとして、このような章を立てた理由を少し述べることにします。上にも述べましたが、「人間」はいかようにも扱うことができる多様な性格を持った造形作品の主題です。近年の展覧会を見ますと、各担当者が構成に様々な趣向を凝らしていることがよくわかります。そこには、展覧会担当者の芸術観、人間観が現れているといってよいかもしれません。

そうした担当者の独創性が強く現れた企画が、鑑賞者の共感を呼び成功をおさめる場合も少なくありません。すぐれた学芸員というのはそうした能力を持っています。しかし、一つ間違えると、企画担当者の独善に陥る場合も時としてあります。

今回の章立ては、近現代美術の造形的特徴と、激動の世紀であった20世紀に象徴される近現代の社会と人間の在り方、人々が直面した大きな課題に着目しておこないました。核となるキーワードは、「個性」と「生命」の二つで、これらを基に八章を導き出しました。

最終章「ゴーギャン版画にみる人間像」は、少し異質に思われるかもしれません。ポール・ゴーギャンが晩年の10余年間をタヒチ島で送ったことはよく知られています。ゴーギャンは、パリという近代社会を逃れて、近代文明に毒されない楽園を求めてタヒチに渡りましたが、そのことで彼はかえって近代人としての苦悩を深めます。タヒチの自然と人々を主題とする彼の作品には、彼の苦悩のあとが表現されているということができるでしょう。つまり、ゴーギャンは20世紀の人間が抱くことになる苦悩や葛藤をいち早く感じ取り、それを表した作家であったともいえます。そうした意味で、ゴーギャンの版画作品のみで1章を立てることにしました。

この展覧会に出品される作品が提起している課題は、作家だけものでも、あるいは制作当初の人々だけのものでもありません。今を生きている私たち自身の課題でもあります。21世紀が始まった当初、20世紀美術を振り返る展覧会が各地で開催されました。それらを見て私は、 20世紀の総括を行うことは当分の間容易なことではないと素朴な感想を持ちました。なぜならば、20世紀、あるいは20世紀美術が投げかける問題は、きわめて今日的な課題でもあるからです。

今回の展覧会が20世紀美術の概観にとどまらず、作品と向き合って今後私たちはどうあるべきか、どのように生きるべきかという未来に向かった問いかけや対話が生まれる機会になれば、企画者としてこれに勝るよろこびはありません。 

(三重県立美術館学芸員)

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