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鹿子木孟郎と日本近代

陰里鐵郎

1924年(大正13)に鹿子木孟郎は,『回顧五十年』と題した小冊子を刊行した。それには,「自叙略傳」,「鹿子木孟郎述」とあり,明らかに鹿子木が自ら書いた自叙伝で,14頁の薄い小冊子である。この小冊子を刊行してからさらに17年の歳月を生きて鹿子木は死去しているから,自叙伝としてはいささか中途半端のきらいがあるが,鹿子木を知るのにはきわめて興味ある資料である。因みに,10年後の1934年(昭和9)には,鹿子木の生前没後を通しての唯一の作品集である『鹿子木孟郎画集』が還暦を記念して刊行されており,それには徳美松太郎記による「鹿子木孟郎画伯小伝」が附されている。当然,この「小伝」の前半は『回顧五十年』にそのほとんどを負うている。したがって『回顧五十年』は,本カタログに収載されている島田康寛氏の論文における鹿子木の生涯の時期区分(5期に分けられている)に従えば,その「第4期」の中途までの自伝でしかないことになるが,この画家の出自から生き方,当時の日本の絵画界に対する態度などを知るにはほとんど充分であろう。ただ,残念なことには,この小自伝のなかには,この画家の絵画思想,造形についての思想がほとんど語られていないことである。自作品についても全く触れられていない。しかし,文章の行間や,言葉の端々からそれらしきものを推測することはできるかもしれない。そこで多少の危険を承知しながらも,この『回顧五十年』に従いつつ,画家鹿子木の像をおってみることにしたい。

『回顧五十年』(以下,『自伝』とする)の冒頭には,細川頼之の漢詩「海南行」の一部が引用されているが,これについてはあとで触れることにしよう。  鹿子木は,明治7年(1874)岡山市において生まれている。実父宇治長守,義父吉崎甚兵衛(明治に入り,鹿子木姓)はともに旧池田藩士であった。鹿子木は『自伝』とは別のところで,「実をいうと私は貧乏士族の子弟で」と語っているが,実父は商業に失敗し,兄益次郎の小学校教員の給与によって一家の生計をたてるといった状態で,孟郎は1888年(明治21)に岡山高等小学校をおえたあとは,岡山の師範学校図画教師,松原三五郎の家塾天彩学合(『自伝』では天彩画塾)に入り,絵を学ぶことになった。『自伝』にはつぎのように記している。

余は強いて父兄に請ひニヶ年間の給費を許されて洋画専修の途に入れり 当時自から思へらくこれ最も自から給し自から成を計るに便にして且つ最も余に適合する事業なりと

 「自から給し……」といったくだりは,要するに,洋画家になると,他から給与をうけるのではなくて,生計をたてたり事業を成すのに非常に便利であること,そしてまた洋画を学ぶことは自分に適しているのだ,ということであろう。この文章のなかには,多くの画家たちの回想や評伝などにみられるような,幼児期からの描画の好みや,絵画への愛着といったようなものはほとんど感じられない。それにしても早々に「余に適合する事業」というあたりには,或る種の自己の才能に対する自覚があったのであろう。そして極めて興味深いのは,「自から成を計るに便にして且……」というところである。この一文は50歳になって書かれているので,10代の当時の明晰な自覚であったとは云い難いとしても漠然とした自覚があったことは疑いない。それは,「自立」についての意識であったといってよいようにおもわれる。この「自立」に対する意識は,維新による激烈な社会の変動によって生活の基盤を喪ってしまった旧武士階級の子弟の多くが否応もなく持たざるをえなかったものであるのかもしれない。そしてこの「自立」の意識は,たとえば佐伯彰一氏が深井英五(戦前の日銀総裁)の自伝について書かれている「私語りのリアリティ」(『近代日本の自伝』)のなかで指摘している「武士的なプラグマチズムともいうべきか」といった明治前期の青少年に共通した心性であったともいえようか。

鹿子木の場合も,背伸びをしてでも自立せねばならなかった。そうしたことから「年17歳の春,山高帽と黒紋附の羽織を父兄より靖ひ受け強て年長者の風を装ひ,金六十残を懐中し直ちに郷里を出て肖像画家として各地を周遊し揮毫の需めに応じ資金を得て東京に留学せんと試みたり」(『自伝』)ということになる。

鹿子木の上京は1892年(明治25)10月,小山正太郎の画塾不同舎への入学は,「不同舎日記」によれば11月1日であった。『自伝』によれば,小山正太郎の不同舎への仲介の労をとったのは杉浦重剛であったという。兄益次郎は既に在京,杉浦の知遇をえていたことによる。ここですこしく注目をひくのは,杉浦重剛との関係である。これ以後,鹿子木が杉浦に親炙したという記録も資料もないが,いうまでもなく杉浦は,イギリス留学の経験をもちながらも志賀重昂らとともに欧化主義に反対して特異を「日本主義」を唱導した思想家であり教育者であった。一般には後年,東宮御学問所御用掛として帝王学を進講した人物として知られている。鹿子木上京の時期には,新聞『日本』を創刊して言論界で活躍していたときである。鹿子木は,不同舎で修業のあと,最初の教職につくときにも杉浦の世話をうけている。鹿子木は『自伝』のなかでもそれ以上のことを記してはいないが,後年の鹿子木の制作における主題の選択や主張などを想いうかべると杉浦の日本主義の反映をみることもできるようにおもわれるのである。それはたとえば,杉浦が化学,物理といった自然科学を学び,欧米の自然科学思想を尊重しながらも日本歴史や文学にみられる日本思想との調和を志向したように,後年の鹿子木は西欧絵画の技術の科学性を一面的ではあったが強調し,同時に日本的なるものとの調和を主張したことを考えれば,鹿子木の思想の根底には杉浦らの主張した日本主義がよこたわっていたようにもおもえるからである。

鹿子木はまた,兄益次郎の誠意ある援助と「小山正太郎の薫陶」をあげている。小山の絵画指導の様相は,先に開かれた「鹿子木孟郎水彩素描展」(1989年,三重県立美術館)の展示作品,また本展の一部の素描作品によく示されている。

不同舎出身の画家たちの回想記にしばしば語られていることであるが,小山の指導の口癖は,「たんだ一本の線」であったという。一本の線で輪郭線を描け,ということである。それは,工部美術学校でのアントニオ・フォンタネージに学んだ小山が,フォンタネージの素描をとおして学びとり,それに小山自身の描画体験からえた方法であった。それは,再現的表現にある種のリゴリズム(厳格主義)を要求したということであり,それ故に一面では,作品の画一化を生んでいる。いわゆる不同舎風素描で,ときには作者の個性が全く消えてしまっている場合もあったが,技術の修練という点では有効であったに違いない。鹿子木はここで不同舎風の素描技術としてはすぐれた地点に到達したようにおもわれる。

満20歳になって鹿子木は,教員免許状を取得,滋賀県彦根をはじめとして,三重県津,埼玉県浦和で教職につき,1900 年(明治33)秋,渡米,ついでヨーロッパへの留学の途についている。

鹿子木のヨーロッパ留学と滞在は三次にわたっている。  第1次(1900−04) アメリカ,フランス  第2次(1906−08) フランス(パリ)  第3次(1915−18) フランス,アメリカ  記した国名は主要なもので,もちろん帰国時などに他の国にもおとずれている。

三次にわたる海外留学は,鹿子木にとってそれぞれに重要な意義をもった。そしてそれぞれの帰国以後のことでは,日本の絵画に,また関西の画壇に波紋をもたらした。

鹿子木はそれを総括してつぎのように記している。

前後三回に亘りての留学は余をして欧洲現代の流行的絵画の発足点は,時代思想の尤も忌むべき欠陥より出でたることを恫察せしめ所謂新らしき流行画家なる人々の技巧を軽侮せしむると共に古名匠の技倆に対して益々渇仰の念を盛しならしめたり

ここには,かたくななまでに時代の動きに背を向け,新しい主義主張や思想を拒否している鹿子木が示されている。すでに時代は20世紀に突入したときに初めてヨーロッパの文化を体験した鹿子木であるが,彼が思想のうえで受けいれたものは,19世紀半ばまでのものであったようだ。滞欧期に鹿子木が模写した作品は,クールベ,コローまでに限られているし,それも自由模写ではなく忠実な再現模写である。もっとも模写に関していえば,鹿子木を庇護し,滞欧を援助した住友家が,ヨーロッパ絵画の名作の購入を彼に求めたとき,鹿子木は自分の師のジャン=ポール・ローランスの作品は別にして,日本の後進画家のためには鹿子木自身が行った模写で充分であり,購入の費用を自分の滞欧のために補助してほしいと申し出たという話もつたえられている。こうしたところにも,どこか鹿子木にはプラグマティックな思考があったようにおもわれる。それともあれ,鹿子木は,印象派以後のものは,単なる流行にすぎず,「何等の敬意を表せしめず」という。

鹿子木が黒田清輝の系譜に立つ和田英作の導きではいったアカデミー・コラロッシから,アカデミー・ジュリアンへ移ったのは,ジャン=ポール・ローランスの作品に接したことにあった。そのときのことを鹿子木は,「一陣の威風余が頭脳を襲ふの慨あり,身神(ママ)共に緊張して座するに忍び難く」(『自伝』)と書いている。不同舎で培われた素描感覚が鹿子木をしてこのような体験をもたらしたのであろうか。19世紀フランス絵画のアカデミズムの正統に属し,歴史画の巨匠であったローランスである。鹿子木以後,中村不析,満谷国四郎,さらには斎藤与里,津田青楓,安井曾太郎など,日本画家で不同舎系の人たちが相ついでアカデミー・ジュリアンに学ぶことになった。こうして20世紀初頭のパリでは,黒田・白馬会系がラファエル・コラン:アカデミー・コラロッシへ,旧明治美術会・不同舎系がアカデミー・ジュリアンへといった具合いになっていき,それは,日本における白馬会対太平洋画会といった対立の図式をパリでもそのままに再現していた観がある。

ともあれ鹿子木の素描力は,ここで充分な鍛練をうけた。「輪郭整ふて而して後色彩あるは画の常道なり」,「絵画の90 パーセント迄はデッサンなり,残りの10パーセントは色彩の研究なり」との後年の鹿子木の主張はこのころの体験に基づくのであろう。

1904年(明治37)春,帰国した鹿子木は,明治美術会の後身,太平洋画合展に数多くの《裸体素描》を発表するとともに,自説を強く主張しはじめる。それが,本カタログの原田光氏の論者でとり扱われている「水彩画論争」となる。この論争については,すでにいくつかの論者(匠秀夫,中村義一,村田真宏)があるが,鹿子木の白馬会批判から出発して水彩画論争に発展,さらにはコランは二流,三流,ローランスは一流として黒田清輝,久米桂一郎批判となっていった。それは,党派的な対立による論争であったが,また流派の対立論争でもあった。『自伝』のなかで鹿子木は,「当時我が国に行はれつつありしアンプレショニスムに対しレアリスムを唱へ洋画壇の大団体たる一派の態度を非難」したのだと書いている。また,後年には「我洋画家が日本の自然に背反したる画を作って居ることを難じ,日本人は日本の特色をあらはした画を画かなければ面白くない」(太平洋画会『展覧会の回顧』1925年)と語っている。論争のなかでは,鹿子木の帰国後の不満の感情がむき出しになっている部分もあり,自説を強調したことによって,原田論文でも指摘されているように,自らを縛ってしまったところもあった。しかし,印象派以前のレアリスムこそが絵画の正鵠である,ということが鹿子木の主張の中核であったであろう。

第二次留学,鹿子木はこの滞欧期については多くを記してはいない。「ローランス師の許に峻烈なる油画裸体写生の研究に没頭」,フランスのサロンに入選したこと,アカデミー・ジュリアンのコンクールで受賞し,購入所蔵されたことを記している。

しいて云うと,第一次が木炭素描の完全な習得の時期であったとすれば第二次は油彩画技法習得の時期であった。

鹿子木は,彼自身が別のところに書いているように,「天才」を信じなかった。努力だけが能力を開発し,発揮するものであると信じていたふしがある。したがって「峻烈」といった言葉をそのまま信用してよいとおもわれる。徹底して努力を重ねたに相違ない。そしてこの第二次留学期が,鹿子木芸術の項点をなした時期であったとおもわれる。≪ノルマンディーの浜≫≪漁夫の家≫≪少女≫などの作品がそれである。今日,多くの作品が失われているが≪ノルマンディーの浜≫や,残存する習作類でもその様子は充分にうかがえる。ノルマンディーのイポール,そして作品≪ノルマンディーの浜≫については,本カタログ収載の荒屋鋪透君の論者に詳説されている。

第二次留学から帰国後以後は,鹿子木にとっては国内,とりわけ関西の洋画界における教育者,指導者としての意義が大きくなってくる。京都高等工芸学校,関西美術院などで多くの後進を育てているが,また一方では,第一次からの帰国時に続く「日本的なる油画」の制作に本格的に取り組んだのでもあったようだ。

第一次後の白馬会批判の意識にたっての日本的な油画として≪琵琶法師≫(1905)≪大原女≫(同)≪舞妓≫(同)という作品があり,第二次以後のものでは≪新夫人≫〈1909〉≪林泉≫(1910)≪加茂の競馬≫(1913)などがある。

こうしたなかでの教育の領域では京都高等工芸の校長中沢岩太との意見の齟齬が生じ,また関西の同僚画家たちとの間にも衝突が生まれてきている。もっとも第二次渡欧のとき,鹿子木は若き斎藤与里を同道したが,斎藤は帰国(1908)後の感想のなかでフランスに着いてからの見聞は日本にいたときに聞知したことと全く異っていて,コランやローランスの時代ではなかったことに驚いたと語っている。こうした差異が自ずと多くの齟齬や懸隔を生まずにはおかなかったに相違ない。

しかし鹿子木の意見は依然として変わることはなかった。第三次留学は,鹿子木にとっては定見を日本で貫徹させるために必要な事業として行われた感がある。『自伝』には次のように記されている。

現代の我国にて行はるる所謂洋画なるものは,妖画にして欧米の夫れに対比すべくもあらず,恰かも玄人の技術に対する素人の道楽技術の如きの観あるを認む,この画壇を警醒するは蓋し鹿子木画伯の任なるべし

こうすすめたのは友人松風嘉定であったという。鹿子木は急遽,渡仏,海外滞在の期間としては第一次,第二次にまさる滞在となった。繰り返すことになるが鹿子木の意図は,「日本的なる油画」を創りだして「世界の画壇に貢献」すること,「妖画」でもなく「洋画」でもない,「我が国を代表する油画」を創作すること,そしてこうした考え方で世論を導くことであった(『自伝』による)。意図は壮図ともいうべく大きいものであったが,意図は意図として,鹿子木の絵画についての意見はもはや時代にそうべくもなかったであろう。滞欧時の母の逝去と壮図の挫折は,鹿子木をしていささか厭世的な心境に導いたようである。それでも鹿子木は理想の実現のために,「アカデミー鹿子木」を設立して後進を指導,晩年は風景画の制作に尽力している。

そこで『回顧五十年』の冒頭で,細川頼之(1829−92)の漢詩「海南行」から最初と最後の二句

人生五十愧無功,起尋禅 臥清風

を引用し,「何んで隠退清風に臥するの要あらんや」と書くのである。

それにしても鹿子木の生涯と彼がいだいた壮図をどう評価すべきであろうか。

正当にそうであったかどうかには疑問が残るとしても,鹿子木の出発にはどこか,「武士的なプラグマティズム」が感じられると述べた。青年期に接した杉浦重剛とその日本主義の反映も見逃せないであろうことにも触れた。そして絵画のうえでは,色彩ではなく形態を重視する素描に最大の重点をおく絵画観がリゴリスティックなまでの不同舎の教育のなかで培かわれ,それがローランス体験につながったであろうと推察した。こうしたことから鹿子木の技術偏重の思想が形成されていったのであろう。鹿子木は描写技術のシステムについては,鮮剖学を含めて過度なまでに探求したが,視覚のシステム,さらには思想と視覚との連動のシステムについてはほとんど思考しなかったようにおもわれる。ましてや新しい思想と新しい視覚に対しては。それにしてもこの鞏固な定見の維持はまた見事といってよいかもしれない。そしてそれはそのまま明治から大正にかけて日本の絵画界のなかで孤立してしまった観がある。

日本の近代,とりわけ明治期は,多くの分野で政治的な側面をつよく感じさせるものがあるが,新しい文化であった洋画界にあっても,明治政権の中枢部に近い旧藩の子弟は才能を開花させるのに有利であったし,それ以外は労苦を強いられた。鹿子木も例外ではなかった。そしていつの間にか,主流は前者によってつくられていた。洋画に関していえば,フランスにおける在野的性格の流派が日本におけるアカデミズムを形成し,フランス・アカデミズムの正系に近い流派が在野となっていた。鹿子木の不満の根源もそこにあったに違いないが,その在野のなかでも後半の鹿子木は孤立してしまった観がある。それは在野が在野的性格を時代ととも変質させたのに対して鹿子木はその変質を拒否していたからであろう。鹿子木は昭和期にまで活動期をもったが,鹿子木の本質的な部分の形成は,明治期にあり,それを持ちつづけたようである。その意味では,鹿子木芸術は,きわめて明治的ともいってよい性格のものであろう。孤立していただけに,これまで無視,あるいは冷視されてきたようにもおもわれる。あらためて検討される時期にきている。

(かげさと・てつろう 三重県立美術館長)

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