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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > ごあいさつ 鹿子木孟郎展図録

ごあいさつ

1901年(明治34)9月,パリの霊廟パンテオンに,街の守護神を描いた大壁画を見詰めるひとりの日本人留学生がいました。彼は,1900年の・恪藻似絡№ノ触発され洋行を考えた画家の一人で,画塾の仲間と太平洋航路を取り米国経由で渡仏したのでした。それは,のちに浅井忠の後を受けて京都洋画界の中心的存在となり,文展,帝展審査員を歴任した洋画家,鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)の若き日の姿でした。

1874年(明治7)岡山娼に生まれた鹿子木は,松原三五郎の天彩学舎と小山正太郎の不同舎で洋画を学び,滋賀県,三重県,埼玉県で教員を勤めた後,1900年(明治33)渡航します。そしてフランス第三共和制下の最後の歴史画家といわれたジャン=ポール・ローランスに師事するため,アカデミー・ジュリアンに入学したのです。ローランスこそパンテオンで見た壁画の作者でした。当時,芸術家のパトロンとして有名であった,住友吉左衛門が学資の援助をします。帰国後は京都に住み,関西美術院,京都高等工芸学校〈現京都工芸繊維大学〉や自らの家塾で後進の指導にあたります。一方,中央画壇では,太平洋画会に所属し,三宅克己の提唱する水彩画専門という画家の在り方に異議を唱えたことから,いわゆる水彩画論争に発展,鹿子木はここで徹頭徹尾,フランスの伝統的な絵画教授法の正当性を主張しました。

1906年(明治39)には再度渡仏,裸体デッサンや油彩のコンクールで頭角を現わし,ローランスの愛弟子としてアカデミーで属目されます。この第2回目のフランス留学では,1907年(明治40)と翌年のサロン官設展覧会に入選,その作品は,帰国後,開設されたばかりの文展(第2回展)にも出品され話題となりました。その後,1915年(大正4)第3回目のフランス留学に向かいます。この留学時代,ブルターニュ地方に旅行し,パステルなど多様な素描技法を学んでいます。ただ,これら3回のフランス留学で,いずれも官学派の画家ローラレスの門を叩いたことなどから,従来,鹿子木の絵画はアカデミスムを墨守した保守的な作品と評価されがちでした。

しかし近年では,西洋と日本を問わず,19世紀絵画を一貫して流れるレアリスムの多様な側面,主題の社会的背景などが明らかにされ,鹿子木の得意とした渓流や森林,そして海岸の風景画,同時代の証言ともいえる肖像画,風俗画,歴史画(一種の報道画),また日本古来からある主題をもとに,西洋の歴史画に倣った構想画の数々が,世紀末から今世紀初頭にかけてパリに留学した,欧米の画家にも共通する傾向,特徴を含んでいる事などがわかってまいりました。例えば,民族主義に根ざした主題の象徴的表現,外光派的な画面の処理などで,それらが共存する折衷的な絵画表現は,近代日本美術が抱えた,日本の絵画伝統と西洋のそれをいかに調和させていくかという問題を考えるうえで重要な意味をもつものといえましょう。

本展はこうした動向と,1985年に発足した鹿子木孟郎調査委員会の調査成果を踏まえ,鹿子木の没後50年にあたる 1991年を記念して,油彩画約100点,水彩画・素描・版画など約50点により,新しい視点から鹿子木孟郎の芸術を再考しようとする試みです。

最後になりましたが,本展開催にあたり,貴重な作品をご出品いただきました美術館および所蔵家各位,ご協力いただきました関係各位ならびにご遺族,協賛いただきました花王株式会社に対し心からお礼申し上げます。

主催者

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