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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1989 > 鹿子木孟郎水彩・雄描展-鹿子木孟郎調査委員会について 陰里鐵郎  鹿子木孟郎水彩・素描展図録

鹿子木孟郎 水彩・素描展─鹿子木孟郎調査委員会について-

陰里鐵郎

鹿子木孟郎の遺品(絵画作品・書簡・図書資料など)についての調査委員会が発足して、本格的な調査活動を開始したのは、 1985年(昭和60)夏、8月のことであった。以後、調査は毎年2回から4回、期日を決めて精力的に行われ、このたび、その一部を「鹿子木孟郎水彩・素描展」という形で公開するはこぴとなった。本展の開催にあたり、ここに至るまでの経過についてその概略を記しておきたい。

鹿子木孟郎(1874-1941)は、大正から昭和初期にかけて、関西洋画界において重きをなした画家である。岡山県に生まれた鹿子木孟郎は、上京して小山正太郎の画塾「不同舎」に学んだのち、滋賀県、三重県、埼玉県の各地で教職につき、明治33年(1900)以降、3回にわたって欧米に留学し、フランス官学派の画家ジャン=ポール・ローランスに師事した。帰国後は京都に居住して制作活動を行い、傍ら京都高等工芸学校や、自ら創設した画塾「アカデミー鹿子木」などで後進を指導、また関西美術院長、帝展審査員をつとめ、昭和16年(1941)4月、京都下鴨の自宅で死去している。歿後、鹿子木の作品は、ごく少数の作品が一般には知られていたに過ぎなかった。初期の不同舎時代、各地の教員時代、それにつづく3次にわたる欧米留学、その間に行われた水彩画論争をはじめとする活躍など、鹿子木と同時代の日本洋画界の歴史的な推移のなかでの鹿子木の歩みと、鹿子木が果した役割についての調査と検討は、興味深い闘題であるにもかかわらず極めて不充分であったというほかなかった。こうしたときに、鹿子本家閑係のひとり、上田篤氏(大阪大学教授(当時))から高階秀爾氏(東京大学教授)を通じて、遺作遺品の整理と調査の話がもちあがったのであった。その依頼をうけて結成、発足したのが鹿子木孟郎調査委員会(以下、調査委とする)であり、その事務局は若き日の鹿子木が教師を勤めたこと(鹿子木孟郎は明治29年~32年まで、三重県尋常中学校(現・津高等学校)に勤務)でゆかりのあろ三重県立美術館におかれることとなったのである。

1985年(昭和60)3月19日、京都市下鴨の鹿子木家、宇治市上田家に遺存していた作品類、文書資料類等を三重県立美術館へ移送、あと追加分をも含めて調査の対象となる資料は、油彩画約600点、素描類約1000点、他に書簡、国内外の図書資料など多数であった。それはすべて燻蒸後に分類調査することとなったのである。

1985年4月21日、調査委の第1回打合せ会が開かれ、調査方針を討議し、決定した。その中の主要なことを箇条書きにするとつぎの通りである。

一.本調査委(代表・河北倫明)は鹿子木孟郎の作品、資料等を、近い将来の鹿子木展開催を配慮しで整理、調査研究する。 一.本調査は、京都国立近代美術館、三重県立美術館が中心となってすすめ、東京国立文化財研究所が加わる。(のちに、岡山県立美術館、東京大学文学部美術史研究室のメンバーが参加した) 一.作品の燻蒸、保管は三重東立美術館が責任をもって行う。 一.共通の作品カードを作成する。 一.作品は全てモノクロームで写真撮影し、主要なものはカラーで記録する。 一.作品カード(資料基礎台帳)の作成は三重県立美術館が中心となって行うが、その場合出来る限り他機閑のメンバー1名を加える。

以上のような方針をもって、以後、集中調査日を調整して決めながら調査がすすめられてきたのである。なお、調査委への参加者はつぎの通りである。

河北倫明(代表)、高階秀爾(東京大学)、酒井忠康(神奈川県立近代美術館)、島田康寛(京都国立近代美術館)、山梨絵美子(東京国立文化財研究所)、鹿子木良子(遺族)、上田麻棠子(鹿子木家閑係)、陰里鐵郎・中谷伸生・荒屋鋪透(三重県立美術館)。のちに伊瀬輝雄・妹尾克己(岡山県立美術館)、児島薫(東京大学大学院(当時))などが参加した。

集中調査日以外に年に一度、委員会を開き、それまでの調査結果を報告し、またそれ以後の進め方などについて討議を行った。

1987年(昭和62年)6月5日、第一次調査がほぼ完了し、調査委においてつぎのような報告がなされた。

作品調査について──島田康寛
鹿子木孟郎年譜について──山梨絵美子
作品の現状とその修復計画について──合原莱津子
作品『津の停車場』について──荒屋鋪透

以上のような調査に関する費用、作品移動費、燻蒸費、カード印刷費等々については鹿島美術財歯(島田康寛)、岡田文化財団、三重県立美術館協力会などからの研究助成金の一部があてられたことを附記しておかねばならない。また、調査委参加者のうちから、本調査を通してえた新しい知見をもってすでに研究発表を公開した例のあることも特記されねばならない。それはつぎの通りである。

〇「鹿子木孟郎について」島田康寛 鹿島美術財団、研究報告会 1987年2月
〇「京都洋画壇におけるフランス・アカデミズムの移入と展開──鹿子木孟郎を中心として(共同研究)」島田康寛・加藤類子 『鹿島美術財団年報・1986 年』
〇「主題としての駅──鹿子木孟郎「津の停車場」をめぐって」 荒屋鋪 透 『研究論集』第2号・1987年 三重県立美術館
〇「鹿子木孟郎の選択──外光派との関わりにおけるその位置」児島 薫 国際シンポジウム・日本近代美術と西洋 1988年11月29日
〇「アカデミー・ジュリアンの日本人画家──画学生コロニーについて」 荒屋鋪 透 国際シンポジウム・日本近代美術と西洋 1988年11月30日
〇「鹿子木孟郎 滞欧書簡(Ⅰ)」山梨絵美子 『美術研究』344号 1989年

三重県立美術館館長
鹿子木孟郎調査委員

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