鹿子木孟郎とルネ・メナール
──素描にみる鹿子木の主題・技法の展開──
荒屋鋪 透
(1)第3回フランス留学
ひとりのフランス人画家が鹿子木孟郎に宛てた3通の書簡がある。日付は,1918年8月19日,1920年2月18 日,1923年2月7日であり,いずれもパリから投函されている。差出人はルネ・メナール。世紀末象徴主義の画家である。メナールは,鹿子木に関する最も基礎的な文献のひとつ,『自叙略伝回顧五十年』に以下のように回想されている。
ルネ・メナール氏に接近して其の風景画に関する造詣を伺ひたりこの間余の最も専心学修せしは絵画のコンポジションなりき(1) 鹿子木孟郎が三度(みたび)フランスを訪れたのは,1916年2月21日。この日,彼は松井慶四郎駐仏大使の一行とともに,フランスの海の玄関マルセイユ港に到着した。第1次世界大戦さなかのことである。大正4年(1915)12月20日に郵船鹿島丸で出発した一行は,ドイツの潜水艦に脅えながら,南アフリカの喜望峰を経由してマルセイユに着いた。翌日パリに入った鹿子木は,ドイツ軍の総攻撃を知る。 巴里に到着するや時恰もベルダン戦争の開戦当日にして晩冬の迷雲市の全空を掩ひ陰悽の気人に迫るを覚へたり(2) 第1次大戦で最も津惨な戦場となる,フランス北東部の小都市ベルダンに,ドイツ軍が総攻撃を開始したのは,1916年2 月21日。周囲の緊迫した空気とは対照的に,鹿子木は恵まれた環境で留学生活を送ることができた。往復旅費を松風嘉定から,滞在費を住友吉左衛門と稲畑勝太郎から支給された彼は,日本大使館のなかに広々とした一室を与えられ,制作に励むことができたのである。ドラゴン街31番地名言ある画塾アカデミー・ジュリアンでは,晩年のジャン=ポール・ローランスから指導を受けている。第1次大戦中,アカデミー・ジュリアンはアトリエを縮小されながらも開講していた(3)。この渡仏で鹿子木孟郎は,画家ルネ・メナールと邂逅している。上記3通の書簡の内容は以下の通りである。 |
註 |
書簡1.(試訳) 書簡1.(原文)[fig.1-2] |
fig.1 fig.2 |
書簡2.(試訳) 書簡2.(原文)[fig.3-4] |
fig.3 fig.4 |
書簡3.(試訳) 書簡3.(原文)[fig.5-6] □:判読不明箇所 |
fig.5 fig.6 |
現在のところ,ふたりがいつ出合ったのかを知るドキュメントは見当たらない。少なくとも前掲書簡1のなかで,「貴方がブルターニュで制作した一連の素晴らしい習作類の精神を反映していることでしょう。」という件は,鹿子木がメナールと一緒に,その地に滞在していた事実を裏付けているように思われる。ただ,いまひとつ,というよりも一群の作品,1916年と17年の年記をもつ,スケッチブックの断片に残された習作類のなかに,少し気になる100余点(正確な数値ではないが,滞欧作のうち121点が確認される)がある。それは空と雲を描いた習作である。以下に掲げる一覧は,日付と時間,なかには場所を明記したものも含めて,その約半数の60余点。いずれも水平線を低くとり,画面いっばいに空を写したもので,建物と自然の風景は水平線上のシルエットとなっている[fig.7]。几帳面に時刻を記しているのも,この習作が作品を目的としたものではなく,自然観察の研究の一端である証拠であろう。画家は空を観察し記録していく間に,自分の興味ある時間を見い出す。大気の変化と光の移行について記憶していく。この観察はある時期に集中していることが判る。児島薫女史は,『鹿子木孟郎の選択──外光派との関わりにおけるその位置』(「国際シンポジウム 日本近代美術と西洋」,1988 年11月28日-30日,主催:朝日新聞社・明治美術学会)のなかで,鹿子木の外光表現に言及しているが,これらの断片なども,彼独自の光と影の処理について考察する際,貴重な資料になるのではないだろうか。 |
fig.7 鹿子木孟郎 |
〈空と雲の習作〉
1.1916/06/03/10:00.a.m. | vers 10 heures du matin étude de nuage |
2.1916/10/05/4:00.p.m. | 4 heures après midi de l'ambassade |
3.1916/10/07/2:00.p.m. | 2 heures après midi à la Bourgue la Reine |
4.1916/10/11/ | Bourg la Reine |
5.1916/10/11/ | Coin* de Berny |
6.1916/10/11/ | Coin* de Berny |
7.1916/10/14/ | ourg la Reine |
8.1916/10/15/6:20.p.m. | hrs 20 du Soir,à l'ambassade |
9.1916/10/16/ | vers midi |
10.1916/10/16/1:00.p.m | 1 heure après midi |
11.1916/10/16/1:30.p.m. | 1 heure demi |
12.1916/10/24/4:40. | 4 heures 40 Côte l'est(ouest *) |
13.1916/10/24/5:15. | 5 hrs 15 côte(*côté)1'ouest |
14.1916/10/24/5:15. | 5 hrs 15 Côte 1'ouest |
15.1916/11/01/5:00. | 5 heures à Bourgue la Reine |
16.1916/11/02/5:00. | 5 heures à Maucal* □gône* |
17.1916/11/03/4:30. | à l'ambassade 4 heures |
18.1916/11/20/11:00.a.m. | 11 heures du Matin |
19.1916/11/ | à la gare de Garches * tombe de nuit |
20.1916/11//3:00.p.m. | près de Ville neuve l'étang après midi 3 hrs |
21.1916/11/ | rès de Villeneuve étang 3 hrs après midi |
22.1917/03/30/0:30. | midi et demi |
23.1917/03/30/2:60* | 2 hrs 60. |
24.1917/04/06/5:00.p.m. | 17 heures |
25.1917/04/06/5:00. | 5 hrs Nord-est(ouest*) |
26.1917/04/06/5:00. | 5 hrs après midi |
27.1917/04/17/4:00. | 4 heures |
28.1917/04/17/5:00. | 5 heures |
29.1917/04/17/5:00. | 5 heures |
30.1917/04/17/5:00. | 5 heures |
31.1917/04/17/5:00 | 5 heures |
32.1917/04/17/5:00. | 5 heures |
33.1917/04/ | place de la Concorde.Couché du Soleil. |
34.1917/05/05/2:00-3:00. | 3 heures=2 heures |
35.1917/05/05/3:00-4:00. | (ou)est 4 heures=3 heures |
36.1917/05/05/3:00-4:00. | Nord 4 heures c'est à dire 3 hrs |
37.1917/05/05/4:00. | 4 heures Nord-est (*ouest) C'est à dire 3 heures |
38.1917/05/05/4:00-5:00. | uest 5 heures=4 hrs |
39.1917/05/05/4:30-5:30. | 5 hrs demi=4 heures demi Ouest nord |
40.1917/05/05/5:00. | 5 heures c'est à dire 4 heures nord |
41.1917/05/09/4:00. | 4 heures l'ouest a Robinson * |
42.1917/06/03/11:30.a.m. | *Nuage vers 11 heures du matin (1916年?) |
43.1917/06/22/ | à Jardin Luxembourg; |
44.1917/06/22/ | à Boulevard Montparnasse |
45.1917/06/22/ | à Jardin Luxembourg |
46.1917/06/22/ | à Avenue Hoche 東南隅(註:虹) |
47. /01/11/3:00.p.m. | 午後3時 |
48. /01/23/4:40.p.m. | 午後4時40分 南方 |
49. /03/05/6:00.p.m. | 西北方 午后6時□ |
50. /03/31/10:00.a.m. | 午前10時 南方 |
51. /04/06/4:30. | 4 hrs demi Sud-ouest |
52. /04/06/5:00. | 5 hrs nord est (*ouest) |
53. /05/27/4:30. | à 4 hrs demi nord |
54. /05/30/ | au petit trianon |
55. /05/31/9:00. | 9時 東* |
56. /07/07/1:00.p.m. | 東方 午后1時 山頂一雲 |
57. /08/13/8:00.a.m. | 午前8時 西北方 |
58. /08/19/6:00.a.m. | 午前6時 南方 |
59. / /11:00.p.m. | 11 heures du matin |
60. /08/19/7:00/p.m. | 午后7時 南方 |
61. /12/15/2:30.p.m. | 午后2時(半*) 西方 |
62. /12/20/5:00.p.m. | 西方 午后5時 |
63. /3:40.ノP.m. | 午后3時40分 |
64. /7:00.a.m. | 7 heures du matin |
65.1921/08/11/6:00.pm. | Côte Sud 6 hrs du soir (註:滞欧作ではない) |
*:綴り字が判明できない文字
□:判読不明箇所
西暦/月/日/時刻 付記事項
これらの習作がメナールの助言によってなされた証拠はない。ただ,メナールの芸術について調査を進めていくと,その独自の光と影の処理,陰影のトーン,形態の明暗法のなかに,こうした自然観照の成果が伺えるのである。仮にこの〈空と雲の習作〉の誘掖をその端緒とするならば,鹿子木とメナールは,1916年6月,あるいは遅くとも10月には出会っていたことになるが,結論を急ぐことはない。ふたりの影響関係を辿ることの出来る,他の一連の素描があるからである。
鹿子木がフランスで描いた素描に,荒蓼たる原野をひとり女の歩く作品がある(図版『ブルターニュ風景(丘)』参照)。画面左下の年記1917年から,第3回滞欧期の制作と判る。女の服装,帽子,木靴と,何よりもその景色を,同時期の何点かの素描と比較してみると,それはブルターニュ風景に違いない。手前から丘の上に延びる石垣の列は,ケルト民族の遺構であろうか,それとも古代ローマ帝国の遺跡の一部であろうか。いずれにしても,いまもなお現地を訪れると,先の両世界大戦の砲火に晒されているとはいえ,すぐそこと分かるであろう,ケルト系ブリトン人の故郷を描いた素描なのである。画家は木陰から温か丘の上を写生している。厚紙に茶色の紙を貼り(この技法を記憶しておいて頂きたい),まず鉛筆とコンテで輪郭をとる。水平線が決められ,丘をなめるようにして這う石壁を追い,手前の岩に突き当たる。前景左の草と丸い穴のあいた木のくい,そして右の岩を,いわば壁で囲まれた道の門と見立てると,その道は,左上に広がる後景の丘の上へと向かう,対角線上を画面右下から左上に伸びる帯となっている。水平線とこの対角線状の帯で仕切られた,左右の直角二等辺三角形のなかに,樹木が影として納まる構図である。手前の木のくい,中心の点景人物,遺跡の壁がそれぞれ効果的に配された佳作だが,この作品で何よりも興味深いのは,それらの形態を描き分ける,素描の方法と材料であろう。原野の土は赤褐色のサンギーヌ,草と樹木の一部は黄緑色の色鉛筆で配色される。前景,くい付近の草はコンテを用い黒く,柔らかい線で陰影を出している。岩や木の線の一部にペン描きのインクで強い調子がつけられる。この作品に限らず,この時期のブルターニュ風景の素描は,コンテ,クレヨン,色鉛筆,ペンなど様々な材料を駆使して,目的によりその材料を使い分けているのが特徴である。あるものには淡彩も施されている。また『ブルターニュの港』(図版参照)という作品は,連続して3点描かれた素描だか,それぞれがコンテ・サンギーヌ/コンテ・クレヨン/鉛筆・色鉛筆・ペンと,次第に鋭く研ぎ澄まされていく様子が,順を追ってわかる画面となっている。恐らく完成作であろうと思われる色鉛筆で彩色された作品では,前述の空と雲の習作の成果を受けて,形態の光が巧みに描き分けられている。最も空に近い塔付近の建物には,一部に水彩(グワッシュだろうか)が施され,その朱とも桃色とも見える明るい色彩が画面全体を引き蹄めている。前景左手前の水面は,色鉛筆を用いて,非常に美しい鮮やかな桃色で彩色される。それは,まさに夏の雲の下で光る水面の表情なのである。ところで,この風景画のように,風景のなかに建築物が挿入される作品に観て取れるのであるが,鹿子木は,建築物を大変巧く画面に組み込む技術をもっていたように思われる。これは,不同舎での訓練の成果なのだろうか。不同舎の師小山正太郎は,風景のなかに農家や寺社といった建築を挿入させて,画面を構築する技術を生徒に教授した。不同舎時代に培われた構図の捉え方と,明暗法,例えば,木の影の部分と光を受けた部分の描き分けという技巧の冴えを見せる作品が,『運河』(図版参照)である。フェルナン・クノップフの『ブリエージュの思い出──ベギーヌ会修道院入口』(1904)という作品を想起させる,このパステル画では,まず水路に映る橋と建物の影が目に入る。しかし次の瞬間,人は空の青に目を移すだろう。この鮮やかな青色は,運河周辺の建築物すべてをシルエットにしてしまう程に強い。水路に地上の形態が影となって映し出されているように,この空のもとでは,地上の建築物は悉く影と化してしまうのである。この光と影の強い対比が,鹿子木の素描の特徴となっている。それは不同舎での写生にすでに現れている。不同舎時代の風景写生の何点かは,小山正太郎の模範作品を越えた力強さをもっている。それは,線の有機的な延びとでもいうもので,小山の作品と比較してみると分かるのだが,小山の端正な抑えた線に比べて,鹿子木の線は動いていくのである。動いた部分が光となり影となっていく。以下に,鹿子木の構図法の指標となっている,不同舎時代の風景写生一覧を掲載するが,鹿子木がいかに短期間に不同舎の写生を修得し,それを越えていったのかが分かる。これらはまた,明治20年代の東京とその近郊の姿を知る,貴重な資料でもある。ただ,鹿子木の第3回フランス留学に焦点を合わせ,その時期の素描の展開について論じる本稿においては,不同舎時代に多数描かれた作品の一覧の提示にとどめ,不同舎から第1回フランス留学時代の作品の変遷については,後の研究課題としたい。ここではまず,ルネ・メナールなる画家について知る必要があるだろう。メナールと,ブルターニュの芸術家コロニーであるバンド・ノワールの友人たちこそ,鹿子木に多大な影響を及ぼした画家なのであるから。
〈不同舎時代の写生一覧〉
2.明治25/(1892)/12/20
3.明治25/(1892)/12/26 北豊島郡田畑谷田橋
4.明治25/(1892)/12/30 駒込動坂上り口
5.明治25/(1892)/12/31 豊島郡田畑
6.明治25/(1892)/12/ 根津権現御山
7.明治26/(1893)/1/2 上野公園入口
8.明治26/(1893)/1/6 本郷区根津 寺遠望
9.明治26/(1893)/1/7 浅草田圃
10.明治26/(1893)/1/8 北豊島郡三河島村人口
11.明治26/(1893)/1/9 瀧の川村字田端
12.明治26/(1893)/1/14 小石川久堅町
13.明治26/(1893)/1/14 小石川区伝通院境内
14.明治26/(1893)/1/14 小石川区矢嶋町
15.明治26/(1893)/1/15 北豊島郡日暮里村
16.明治26/(1893)/1/15 瀧の川村大字田端ヨリ遙ニ尾久村ヲ望ム
17.明治26/(1893)/1/18 北豊島郡高田村
18.明治26/(1893)/1/23 本郷区根津権現本社
19.明治26/(1893)/1/27 田端谷田橋
20.明治26/(1893)/2/11 赤羽村
21.明治26/(1893)/2/21 千住
22.明治26/(1893)/2/21 千住
23.明治26/(1893)/2/21 千住
24.明治26/(1893)/3/12 千住町
25.明治26/(1893)/3/25 不忍池畔
26.明治26/(1893)/3/31 □根
27.明治26/(1893)/4/1 根岸田圃
28.明治26/(1893)/4/5 薄暮蛙声閙
29.明治26/(1893)/4/13 千住
30.明治26/(1893)/4/17 西ヶ原妙戯坂
31.明治26/(1893)/4/22 南多摩郡大久保柑
32.明治26/(1893)/5/2 南葛飾郡亀戸村
33.明治26/(1893)/5/13 南足立郡本木村
34.明治26/(1893)/5/17 巣鴨
35.明治26/(1893)/6/3 荏原郡大井村海岸
36.明治26/(1893)/6/7 根津
37.明治26/(1893)/6/8 北豊島下クミ
38.明治26/(1893)/8/8 道灌山
39.明治26/(1893)/8/31 三河島村
40.明治26/(1893)/8/31 三河島村元町屋村
41.明治26/(1893)/9/4 上野公園
42.明治26/(1893)/9/5 根津
43.明治26/(1893)/9/5 谷中
44.明治26/(1893)/9/17 豊島村渡頭
45.明治26/(1893)/9/17 豊島村
46.明治26/(1893)/9/17 尾久村
47.明治26/(1893)/9/17
48.明治26/(1893〉/9/22 舎人村
49.明治26/(1893)/9/22 舎人村
50.明治26/(1893)/9/23 南葛飾郡亀戸村
51.明治26/(1893)/9/25 尾久村
52.明治26/(1893)/10/7 王子村字十條村
53.明治26/(1893)/10/7 十条村民家台所
54.明治26/(1893)/10/11 上野清水堂
55.明治26/(1893)/10/22(2?)赤羽渡頭
56.明治26/(1893)/10/26 板橋入口
57.明治26/(1893)/10/26 板橋
58.明治26/(1893)/10/28 十条村
59.明治26/(1893)/10/28 赤羽
60.明治26/(1893)/10/28 赤羽村河岸
61.明治26/(1893)/11/7 墨堤暮色
62.明治26/(1893)/11/7 綾瀬
63.明治26/(1893)/11/12 根岸
64.明治26/(1893)/11/9 三河島
65.明治26/(1893)/11/9 三河島 二
66.明治26/(1893)/11/21(11) 大宮前
67.明治26/(1893)/11/21 吉祥寺村
68.明治26/(1893)/11/21 写 吉祥寺村
69.明治26/(1893)/11/22 北多摩郡小川村
70.明治26/(1893)/11/22 田無町近郊 野狼半夜来 求食
71.明治26/(1893)/11/23 府中
72.明治26/(1893)/11/23 北豊島郡府中駅
73.明治26/(1893)/11/23 北豊島郡府中駅近郊
74.明治26/(1893)/11/23 府中 鶏争穀
75.明治26/(1893)/11/23 小金井
76.明治26/(1893)/ / 南多摩郡□谷村
77.明治27/(1894)/3/2?
78.明治27/(1894)/3/2? 三河島田家□(明治22年?)
79.明治27/(1894)/4/4 南埼玉増林村元荒川沿岸
80.明治27/(1894)/4/5 千葉県岩名 桃李乱□
81.明治27/(1894)/4/31 上尾久村
82.明治27/(1894)/8/12 写生 王子村
83.明治27/(1894)/8/12
84.明治28/(1895)/4/10 武蔵南多摩郡□師
85.明治28/(1895)/4/10 武州南多摩郡木曽村
86.明治28/(1895)/4/11 南多摩郡石川村
87.明治28/(1895)/4/11 南多摩大倉村
88.明治28/(1895)/4/11 武州南多摩郡大倉村
89.明治28/(1895)/4/12 武州玉川水流
90.明治28/(1895)/4/20 二子渡頭
91.明治28/(1895)/4/22 幡ヶ谷村
92.明治28/(1895)/4/22 幡ヶ谷村ニ於テ
93.明治28/(1895)/12/1 犬上川上流
94.明治31/(1898)/1/14
95.明治31/(1898)/11/6 伊賀名賀郡安部田村
96.明治31/(1898)/11/7 談山神社
97.明治31/(1898)/11/8 吉野山
98.明治31/(1898)/11/8 吉野山
99.明治31/(1898)/11/9 高野山
100.明治31/(1898)/11/9 普通院
101.明治32/(1899)/4/24 道潅山
102.明治32/(1899)/10/25 □久村河柳
103.(明治33)/1900/2/24 埼玉県北足立郡与野町
104.(明治33)/1900/2/24 中仙道原村
105.明治33/(1900)/4/2 備中倉敷
106.明治33/(1900)/4/2 備中倉敷ヨリ 玉島□ノ途中
107.明治33/(1900)/4/5 平井村(富士)
108.明治33/(1900)/4/6 朝日川堤防
109.明治38/(1905)/4/28 京都大仏鐘樓
110.明治38/(1905)/5/6 写之 京都堀川ニテ
111.(明治38)/1905/6/9? 壬生近傍
112.明治38/(1905)/8/26 吉田近傍
113.(明治38)/1905/10/24
114.(明治38)/1905/11/9
115.明治38/(1905)/6/18 堀川丸た町構上□に
116.明治38/(1905)/6/21 浄土院
117.(明治39)/1906/1/29 クロダニノモン
118.(明治40)/1907/3/7?
119.(明治40〉/1907/4/24
120. 真如堂三重塔
121. デマチにて
122. 岡山西川
123. 8/31 三河島村
124. 備中倉敷
125.明治20/(1887)/10/19? 上板椅之一寺
126.明治22/(1889)/3/2? 三河島田家□(明治27年?)
*一覧のNo.はカタログNo.D・とは別。
*年記の記載法は実際とは異なる。カタログを参照の こと。( )内の年記は実際にはない。
*□:判読不明箇所
*一部の旧漢字を改めた。
*ここには日付が記載されている作品のみ掲げた。
(2)ルネ・メナール前掲した鹿子木宛書簡の差出人,マリー・オーギュスト・エミール=ルネ・メナール(1862-1930)(4)[fig.8]は,風景画家,ルネ=ジョセフ・メナール(1827-1887)(5)の息子としてパリに生まれた。父ジョセフ・メナールは,トロワイヨンやテオドール・ルソーに師事した画家であったが,また美術史家でもあり,ラルース百科事典の編纂や美術雑誌「ガゼットデ・ボザール」の編集などに携わっている。伯父のルイ・ニコラ・メナール(1822-1901)(6)は,ミレー,コロー,ディアズらとバルビゾン派のグループに参加して,風景画を.やはりトロワイヨンとルソーから学んだ画家であるが,『ギリシァの多神教』(1863)(7)や『神秘的な異教徒の夢想』(1876)(8)といった著作を残した作家でもある。彼はパルナッソス派の詩人としでも重要な存在であった。このように,芸術家として恵まれた環境に育ったメナールは,古典主義の洗礼を受け,装飾画家ギャランに師事して絵画の勉強を開始し,1880年には画家を志して、アカデミー・ジュリアンに登録している。指導教授はポール・ボードリとウィリアム・ブーグローである。サロンに初入選した1883年,フランス芸術家協会の会員になり,後に国民美術家協会の会員となっている。父親や伯父の影響で,メナールは幼い頃からミレーを賛美し,バルビゾン派の風景画から出発している。サロンに初入選した作品では,デッサン力はもちろんのこと,その個性的な色彩が注目された。初期の作品は,暖色系の色で統一され,黄金色を加味した色彩を特徴としでいる。サイズは小型である。その小画面の油彩の色彩は「玉虫色(Couleurs chatoyantes)」と表現された。旧リュクサンブール美術館所蔵の『伯父ルイ・メナールの肖像』(1893)や,同コレクションの『友人シャルル・コッテの肖像』(1896)に見られるように,彼の肖像画は伯父ルイ・メナールに似た,力強い表現に溢れている。しかしメナールの芸術の中で最も重要であり,また鹿子木に影響を与えたと思われるジャンルは,風景画,それもいわゆる(歴史的風景画)と呼ばれるものである。それは,美術史家の父やバルビゾン派の伯父の後継者として,当然の結果であったのかもしれない。特に詩人の伯父ルイ・メナールの古典主義は彼に決定的な影響を与えている。ただ,それを越えてメナール独自の象徴性を獲得する経緯を説明するには,さらにふたつの事実に言及しなければならないだろう。ひとつは,彼がミュンヘン分離派の通信会員であり,1893年から毎年数点の作品を出品しながら,1897年にはブリュッセルの自由美学に参加したり,シャルル・コッテやリュシアン・シモンらとともに「黒い帯(ラ・バンド・ノワール)」というグループを結成して,デルターニュ地方の農村に滞在しながら制作に励んでいた事実(鹿子木のデルターニュ滞在との関連)。あとひとつは彼の生涯に渡る旅行である。その旅程は,シチリア(1898年).ギリシァ(1902年),パエストウム(1907年),ティパサ(アルジェリアの古代遺跡,ティパツァ)(1908年),パレスチナ(1910年),モロッコ(1922年),エジプト(1925-26年),そしてデルターニュ地方滞在(フィニステール県のペノデ:1910年),ノルマンディー地方滞在(セーヌ=マリティーム県のヴァランジュヴィル=シュル=セーヌ:1911年),タロワール(1918年)と多岐に渡り,オリエンタリスムを反映して,中近東を含めた,いわゆる東洋も見逃してはいない。鹿子木宛書簡にも記述されているように,メナールはパリ以外の都市(たとえばブリュッセル)での展覧会に参加したり,国内の諸地方へも頻繁に出掛けていたようである。メナールのロマン主義を刺戟したであろう、これらの旅行に加えて,初期作品に固有な主題である,類型化された神話や聖書の枠組を越えて,より抒情的で普遍的なテーマを追及するメナールの姿勢には,その時代.多くの画家に多大な影響を与えたピュヴィス・ド・シャヴァンヌの芸術的理想が反映されている。それは,世紀末フランスの装飾壁画全般を支配した思想といっても過言ではあるまい。主題は田園牧歌である。1898年の『ラ・プリュム』誌(1889年,レオン・デシャンによって創刊された雑誌。毎月2回発行されデカダンや象徴主義の特集を組んだ。1905-11年まで中断されたが1911-14年に再刊された)に寄せた論評のなかで,Y.ランボソンという批評家は,メナールを以下のように評している。「彼は実の夢想を通して,存在や物質というものを理解している。彼に見える自然とは即ち,神的であり女神や妖精,エルフの住む場所なのだ。メナール氏は詩人である。」(9) |
(4)Marie Auguste Emile-René MÉNARD(Paris 15 avril 1862-Paris:13 janvier 1930) (5)René-Joseph MÉNARD(1827-1887) (6) Louis Nicolas MÉNARD(1822-1901)ルイ・メナールは,コロディオンや綿火薬の発明でもあり,博識なギリシア学者であった。 (7)Louis MÉNARD,Polythéisme hellénique,1863. (8)Louis MÉNARD,Rêveries d'un païen mystique,1876. (9)この引用文は,展覧会カタログLE SYMBOLISME EN EUROPE,Musées Royaux des Beaux-Arts de Belgique,janvier mars 1976,Bruxelles.のメナールの項に所載されている。同カタログ131頁。雑誌La Plume「羽ペン誌」は,1889年にパリでLéon Deschampsが創刊し、1889-1905,1911-1914,と刊行された雑誌。デカダン派,象徴主義周辺の記事を掲載した。 (10)芸術家コロニー「黒い帯」La Bande Noireはブルターニュ地方の漁村に集った画家たちのグループであるが,その名称のLa Bandeは,「群れ」とか「集団」と言う程の意味。寧ろ「黒派」とでも訳そうか。その色の黒がこの場合,さらに重要であると思われる。 (11) L'impressionnisme et son époque:Dictionnaireinternational illustré,vol.,1,p.54.Editions Denoël,1979. (12)Charles Cottet(1863-1924,25)Édouard Aman-Jean(1860-1935) René Ménard(1861-1930) Jacques-Émile Blanche(1861-1942)André Dauchez(1870-1943) Henri Duhem(1860-1941) (13)前掲 LE SYMBOLISME EN EUROPE展カタログ,p.131. |
fig.8 fig.9 ルネ・メナール fig.10 ルネ・メナール fig.11 ルネ・メナール |
鹿子木宛書簡にも名前が挙げられている,画家のアマン=ジャンとリュシアン・シモンは,ともに前述した芸術家グループ(というよりもコロニーとしたほうが適切かもしれない)「ラ・バンド・ノワール(黒い帯)」(10)のメンバーである。鹿子木にも影響を与えたと思われるこのグループは,印象派事典によると,その美的感性において後期印象主義と結び付けられるという(11)。それは,彼らの全般に暗い色調,というよりもその色調の組み立て方や,作品の源泉となる主題の荘重な響きが,同時代の画家と峻別されるからである。ラ・バンド・ノワールの中心人物はシャルル・コッテとシモンで,アマン=ジャン,メナールの他にジャック=エミール・ブランシュやアンドレ・ドシェ,アンリ・デュエムらが参加した(12)。彼らの作品は主に,ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ,ロダン,メソニエらの組織した新しいサロン,「国民美術協会(ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)」のサロンで発表されている。この集団の中心シャルル・コッテは,デルターニュの海岸や漁村を描いた風景画家で,友人の画家ドシェとその地方に住み,漁師の生活から題材を得ている。ブルターニュ地方の漁村を主題にした同時代の画家には,ヴュイヤールとモーリス・ドニが挙げられるが,世紀末から今世紀初頭にかけてこの地方は,多くの芸術家の作品の源泉となった。ドニが挿絵を描いたアンドレ・シュアレスの『黄昏の海』(1933)もそうした文学作品のひとつである。バンド・ノワールの画家は印象派の影響を受けながらも(例えばコッテにおけるホイッスラー的な黄昏時の効果,陰影法,アマン=ジャンにおけるパステルの波動といったもの,ドガとベルト・モリゾを崇拝していた,ジャック=エミール・ブランシュの繊細な画面,ジャポニスムの影響下に,室内の情景を装飾性豊かに表現したアンティミストの画家デュエムなど),すでに自らの時代が技術の上ではともかく,主義主張の点では印象主義と矛盾する立場にあることを意識していた。それはポスト印象主義に近似したものであノったが,前述した「印象派事典」の解説者も,敢えて控えめに言及するならばと断っているものの,確かにイリヤ・レーピンの作品を想起させるレアリスムがそこには見られる。アマン=ジャンとルネ・メナールは,象教主義に接近した画家である。メナールの代表作『夜の調べ』(1899)[fig.9]とそれに続くいくつかの装飾壁画[fig.10-11]には.彼の方法が顕著に現れている。『ヨーロッパの象徴主義』展(1976)のカタログに依れば,メナールは何時もの方法に従って,同じ構図の作品を何点か制作しているという。『夜の調べ』は,キャンヴァスに厚紙を粘り付けたもので(この技法を鹿子木は習得し自作に応用している),パステルで描かれている。1899年の国民美術協会サロンにも、同題名の油彩(この作品は1900年パリ万国博覧会にも出品された)が出品されている。このパステルで注目したいのはカマイユ技法で,これは,鹿子木の素描作品に影響を与えている。画面左で瞑想する腰掛けた女と,竪琴を奏する立った女が効果的に配され,作品を単なる古典的な風景画にしていない。それは,題名が暗示する「調和のとれた幻想」なのである。同展カタログは,レイモン・ブイエの評を引用している。「『夜の調べ』,それは我々の茫漠とした青年時代を夢想する,全ての古代詩の現代語訳である。それは神々を見い出す大地である。流謫は免れるだろう。歌声と竪琴が闇を大きくしている。」(13)
(3)牧牛図とブルターニュ風景鹿子木の第3回フランス留学時代の習作類に牛をモティーフにした一連の素描がある。ブルターニュ地方の景色のなかに放牧された牛を描いた習作である。その内の何枚かに以下の日付が見られる。 1916/12/05.1916/12/05.1916/12/05.1916/12/05.1916/12/05. 1916/12/05.1916/12/05.1916/12/09.1916/12/09.1916/12/09. 1916/12/09.1916/12/09.1916/12/09. 鹿子木は、日付を素描に明記する時には徹底して記入していることから,1916年の12月に彼は,少なくとも5日間(1916年12月5日~9日)以上に渡るブルターニュ滞在の期間中に,毎日6,7枚以上の素描を制作していたことが推測される。また実際,残された素描類は計111葉程(合計111葉の素描のうち,1916年の作と17年の作があるに違いない)であるので,滞在は約16日~18日間程であったとも思われる。帰国後,彼はこれらの習作を基に『牧童と牛』を制作しているが,前章で扱った〈空と雲〉同様,鹿子木にとって重要な主題に,この〈牧牛図〉が挙げられよう。なぜ彼は執拗に牛を描いたのだろうか。もちろん,前章に登場した画家メナールとその一派がバルビゾン派の後継者で,その影響を受けた鹿子木が,格好のモティーフとして牛を選び,牛という対象が彼の関心を惹いたことには違いない。しかし,いまここでは,牛というモティーフの選択と展開を,鹿子木の中国絵画の伝統との関わりと結びつけて考察を進めたい。その理由のひとつは,東洋画題の〈牧牛図〉が,この時期の鹿子木の心情を解く鍵を握っているという伝記上の動機。そしていまひとつは,鹿子木の日本における師と周辺の画家,不同舎の小山正太郎とその師,聴香読画館の冬崖川上寛,小山の不同舎とその塾生,中村不析,満谷国四郎に流れる中国趣味の系譜を辿るという主題上の動機からである。第二の動機に関しては,すでに森口多里が『明治大正の洋画』(昭和16年)のなかで,雑誌「みづゑ」(大正5年5月の本邦水彩画沿革号)に寄せた丸山晩霞の一文「小山正太郎も水彩画を多く描いた。氏の画は漢詩趣味より出でたものらしく画趣をこの方面にもとめた,牧童,濁醪療渇黄葉村店,鹿鳴落葉晩等はその例である。」(14)や,雑誌「浮世絵」誌(大正5年4月,第11号)に寄せた北野京二(森口によると菅原教造)の回想,「冬崖は明治十年前後は御徒町で大名のような生活をして居った。南画の名手で,非常に徹底した支那趣味の人でな,それで油絵もいけたし,殊にスケッチなどさせたら仲々えらいものぢゃったよ。」(15)を引用しているので,そこに端緒を見い出すことが出来る。この系譜のなかで中国趣味の濃厚な,というよりも頻繁に中国の主題に取り組んだ画家は,中村不折である。不折の作品は,いわゆる東洋画題の延長線上にはなく,それを西洋の歴史画に置き換える試みだが,鹿子木の場合はどうであろうか。梁の武帝と達磨大師との会見を描いた不析の『廓然無聖』,王羲之の書「蘭亭序」を奪う太宗皇帝を主題にした『賺蘭亭図』,仙人の伝説『仙桃』,蘇東坡をモデルにした『山高月小』,不折の行う,こうした歴史画の試みを,鹿子木は行ってはいない。鹿子木の作品では,主題に登場する個々のモティーフが,より重要な意味を持つのである。 そして,その対象の描法も見逃すことは出来ない。牛に関していえば,東洋画の主題,特に中国の水墨画において画牛は決して珍しいものではない。それらは牛を山水画の点景として扱ったものから,牛自体を主要なモティーフにした絵画まで様々である。中頃絵画に多く画牛の見られるのは,禅仏教の画僧が,〈十牛国頌(じゅうざゆうずじゅ)〉を残しているからだが,北宗の禅僧廓庵(かくあん)こと梁山師遠(りようざんしあん)の創始した〈十牛図〉中にある,〈牧牛〉と〈騎牛帰家〉というふたつの図像は,後世の画牛の中心的画題となった。仏教の聖獣である牛が,禅宗において修業の道程と自己形成の過程を象徴し,故郷への帰還をも暗喩するという伝統は,康子木の〈牧牛図〉ともいえる『牧童と牛』とその予備習作である滞欧期の牛の素描類について考える際,そしてさらに,鹿子木のブルターニュ滞在の意味を問う時,無視出来ないものであると思われる。第3回フランス留学時代の画家の消息を知る1通の書簡が残されているが,その手紙を読む限りにおいて,鹿子木の心境にはある変化が生じていることが判る。それは,1917年6月23日付,妻春子宛の書簡[fig.12]である。そこには,パリ滞在中に母親を亡くした悲しみと,家族に対するこまやかな愛情が綴られているが,二,三,見逃すことの出来ない記述が見られる。以下にその全文を引用するが,この書簡から,①1917年夏のブルターニュ滞在は,8月1日-9月10日頃までの計画であること,②帰国途中,自作を売る目的でアメリカに立ち寄るが,それが首尾よくいけば,家族を米国に迎えて,ニューヨークかワシントンに数年暮らしてもよいと考えていること,③帰国後は,どこか田舎で田園的な生活を送りたいと考えていることなどが判る。 |
fig.12 (14)森口多里著『明治大正の洋画』,東京堂出版,昭和16年,75頁。 (15)前掲『明治大正の洋画』,7頁。 |
〈春子宛孟郎書簡(大正6年6月23日)〉
(1)五月七日附ノお手紙園子ノ繪封入一昨日朝披見申候/
母上様乃逝去ノ後ハ定めし琳シキ事ト存ゾ当方ニテモ種々案ジ居候得共何ントモ仕方ナク明ラメ申候/
サテ当地滞在モ段々ノコリ少ナク相成リ愈々来ル十月ニハ当地ヲ出発シテ米国ニ渡航スル事トスルベシ米国デハワシントンノ美術学校長メッサー氏(前ニ在米ノ時其ノ家ニ寓居シタル事アリ)ヲ訪問シテ□□ノ計晝ヲ実行シテ見ル心算ニ候/
今日ハ六月廿三日ノ土曜日ナリ コレヨリ八月一パイヲ巴里
(2)ニ到留シ八月一日ヨリ九月十日頃迄デヲブロタンニュニ送り(ブロタンニュハ巴里ヨリ二十時間程ヲ汽車ニテ大西洋ノ海濱ニ出タル處ナリ)コゝニテモ シツカリ画ヲカキ 九月十日頃ニハ巴里ニ帰リ夫レカラ十月十日頃迄巴里ニ居リテ カタ附ケヲナシ夫レカラ佛国ノ南部ヲ見物シテ ニューヨークニ出テ ワシントンニ行クベシ/
コレハ何人ニモ内所ニシテ置ク事デアルガ米国ニテハ少シ金儲ケヲスル計晝ダお前へ丈ケ承知シテ居ツテ何人ニモ話
(3)スヘカラズ従ツテ巴里出立ノ時期ナトモ何人ニモ話サヌ方ガヨロシ」/
園チヤンノ繪ハ中々面白イ藤ノ花ノ下ニ画イタ草ナド上出来感心々々オミヤハ澤山持ツテ帰ツテ上ゲマショウ/
立チヤンモ幼稚園へ行クソウダナー 何ンデモ皆々體ダヲ丈夫ニシテ余ノ婦ルノヲ待テ居ツテ呉レ今度日本ヘ帰ツテカラハ大ニ愉快ニ面白イ暮シヲスル事ガ出来ル様ニシテ上ケマス/
何處カヘ一ツ家ヲ立テル事 田園的ナ生活ヲスル事/
書生達ヲ指揮シテ時々ハ余モ耕作ヲヤル事 質素ニシテ愉快ナ暮シヲスル事ナド色々考ヘテ居ル 或ハ
(4)ニューヨークデ又ハ ワシントンデ面白カッタラ迎ヘニ帰ツテ米国ニ数年間デ暮シテ見ルモ面白イナド云フ様ナ事モ考ヘテル其ノ時ハ加藤 砂田 三村ナドモツレテ記テモヨイト思フテル/
余ノ技術ハ大体色々実験ヲヤツテ見タノデ充実シテ来タヨウダ米国デ一旗ヲ挙ケテ見ルノハ中々興味アル事ト思フテル/
コンナ事ヲ考ヘテ此頃ハ中々面白イ考ヘガ澤山出テ来ル コレモ稲畑氏ノ厚意ガ最近ニ原因ヲナセ段々サカノボレバ 松風氏 住友氏 河上氏等ニテ
(5)松井大使ノ厚意ト合セテ鹿子木家トシテ コノ五家ノ厚意ハ永久ニ感謝ノ意ヲ表シ度イト思フテ居ル ローランス先生 杉浦先生 小山先生ハ恩師トシテ永ク鹿子木家ニ記念シ度帰朝ノ上我ガ家ノ出来上リタル時ハ右三師 五家ノ肖像室ヲ造リ度イト思フテル/
戦争ハ中々止ミソウニモナイガ併シ何時突如トシテ休戦ニナルカモワカラナイ ソーナレバ誠ニ大西洋横断ニ安
(6)心ダ 併シ今の處ニテモ ソウ心配ナ事モナイノダ/
フランスノ大西洋渡航曾社ノ船ハ毎週一度ツゝハ必ス解纜シテルガ一隻モヤラレタル事ナク西班牙ノ仝曾社ノ船モ仝様デアルカラ左迄案スルニ足クリナイ/
米国ノニューヨークハ日本人五六千人アリテ湯屋アリ散髪屋アリ宿屋ハ勿論料理屋ナド皆日本人ノ経営ニナレルモノアル由日本ニ居ルト全様ノ心地スル由ナリ/
大阪ノ宇和川氏ト云フ画家ハ本年二月当地ヨリニューヨークニ航シテ今ハニューヨークデ大ニ金儲ケヲヤツテ相應ニヤツ(7)テ行ケル由(コレハ余ガスゝメタルナリ)時々余ニ通信シ来ル/
以上何レモ内証事タカラお前ノミ承知シテ居ツテ外へハ一切漏ラサヌ様ニシテお呉れ/
コレカラ後ノ事ハ人二話シテヨイ/
巴里デハ物資段々欠乏シテ石炭砂糖肉類等其ノ内尤モ欠乏,当年ノ冬迄戦争ガツゝクト 巴里ノ人ハ冬ニハ非常ニ困ル事ニナル石炭ナケレハ冬ハ過ゴセヌ 去年ノ冬モ石炭ノ欠乏デハ非常ニ困ツタ 当大使舘デサへ石炭大倹約ノ為ノ各員一室二合併シテ勉強シタ様ナ次第デアル/
尤も巴里ハソレデモ倫敦ヤローマニ比ベルト余程物資充分ナル方ノ由伯林トナルト中等社曾ノ人デハ一ケ月ニ一度肉食ニアル附ク事ハ中々六ケシイトノ話シ ソレヨリモ尚ホ甚ダシキハ ペトロクラードダト云フ事 ロシヤ王朝ノ□覆ハ□ニ気ノ毒ナ事ナリ/
コレニ反シテ好景気ノ尤モナルモノ米国次ガ日本/
面白イ話シハ面晤ノ上ナラデハ出来ズ/
余此頃身神共々大壮健学資モ先ツ充分ニシテ何ンノ不自由モナク大健全二勉強シツ、アリ
六月廿三日 孟郎
春殿許へ
*この書簡の封筒の表面には「パリ 1917年6月29日」の消印があり,裏面には「東京1917年8月28日」,「岡山 大正6年8月29日」の消印が捺印されている。
1917年=大正6年
/:改行
□:判読不明簡所
なお文中の(1)-(7)は,鹿子木自身の頁指定。書簡は紙面の表裏面に及んでいる。
一般に鹿子木孟郎は不折や満谷のように,フランスの師ジャン=ボール・ローランスの厳格な写実の技法と,その歴史画に見られる構想力を,彼の報道画と肖像画に応用した,関西におけるフランスのアカデミスム継承者,あるいは京都洋画界の領袖と考えられている。だが,この第3 回フランス留学と,その前後に彼の置かれた状況について思い巡らしてみると,住友男爵と実業家松風嘉定という理想的なパトロンを得て,明治末年から大正にかけての文展審査員,そして,浅井忠の後任として関西美術院長の職にあった鹿子木の生涯には,決して順風ばかりが吹いていたのではないことが分かる。島田康寛氏は,この時期の鹿子木の置かれた苦しい状況について詳細に報告されている(「鹿子木孟郎作『書斎に於ける平瀬介翁』-所蔵作品より-」,『京都国立近代美術館ニュース視る』,222号,1985年,12月号)。確かに,文展審査員の解任と京都高等工芸学校の辞職は,すでに四十歳を越していた画家には極めて厳しい実相であった。だがそれ故にこそ,彼はこの第3回フランス留学時代に,ひとつの転機を迎えることになる。それは,ルネ・メナールとの邂逅とブルターニュ滞在を端緒としている。前掲書簡のなかで,「何處カヘ一ツ家ヲ立テル事 田園的ナ生活ヲスル事/書生達ヲ指揮シテ時々ハ余モ耕作ヲヤル事質素ニシテ愉快ナ暮シヲスル事ナド色々考ヘテ居ル」という箇所は重要である。後年,鹿子木は日本画で『牛と童子』(1924年頃)[fig.13]という作品を制作しているが,ここにもまた,〈十牛図〉の主題が登場する。 十牛図とは,「牛を見失った牧人が,再び牛を見つけ出し,野生に戻っていたその牛を牧(か)いながら牛との一体を実現してゆくという十コマ一連の図」(上田閑照)であるという(16)。その牧牛を画題にした伝張芳汝の『牧童図』や伝高然暉の『牧犢図』などの作品では,牧童や牧人は牛を放し飼いにしているが,これは十牛図の〈牧牛〉に添えられた以下の頌(じゅ)に依っている。 |
fig.13 |
鞭索時時不離身 鞭索(べんさく)時時 身を離れず 恐るらくは伊(かれ)が歩を 縦(ほしいまま)にして埃塵に惹(ひ)かれんことを相い将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんな)せり 羈鎖(きさ)拘(こう)すること無きも自(おのずか)ら人を逐(お)う 「羈鎖無拘自逐人」とは,「手綱やくさりで拘束しなくても,牛のほうから君についてくる。人を追ってくる。」の意(17)。飼い牛なので綱はついているものの,既に牛も人も自由に振る舞っている。にも拘らず,綱の制約の範囲内に納まっているところが,禅の牧牛の主題である。次に(騎牛帰家)には以下の序と頌がある。 干戈已罷,得失還空。嶋樵子之村歌, 干戈(かんか)已(すで)に罷(や)み,得失環(ま)た空ず。樵子(しょうし)の村歌を唱え,児童の野曲を吹く。身を牛上に横たえ,目は雲霄(うんしょう)を視る。呼喚すれども回(かえ)らず,撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。(以上「序」) 騎牛■(い)■(り)欲還家 牛に騎って■■(いり)として 家に還らんと欲す ■笛(きょうてき)声声 晩霞(ばんか)を送る 一拍一吹 限り無き意 知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓(こ)せん (以上「頌」) |
fig.14 韓滉 |
騎牛帰家は,伝張芳汝『牧童図』など多くの画牛の中心的な主題であり,その牧歌的な内容を,最も美しく表現することの出来る好画題である。小山正太郎の『牧童』(1879)もこの主題を扱ったものだ。牛の背に乗り,時に笛を吹きながら家路につく図はまた,牛と人とが一体になり自己の葛藤がやみ,天地の一体性を得るという詩趣を帯びる場面でもある。牧人や牧童の吹く笛の曲は,還郷の曲と呼ばれ,樵子の村歌,児童の野曲である。還郷曲は元来,故郷に帰るブッダを迎える歌であったが,廓庵禅師はそれを文字通り樵子の村歌,田舎の歌とし,中国古来の伝統と仏教を結びつけたのである。騎牛帰家は,陶淵明の帰去来辞(役人を辞めて故郷に帰る)の系譜に連なる隠逸の図像となった。もっとも,禅仏教が屠代中期,華北より江南に本拠を移し,聖獣としての牛が日常触目の身近な生き物に重なった時,牧牛図もまた芸術家を刺激する主題となっていたに違いない。唐代の画家韓滉(かんこう)は,弟子の戴崇(たいすう)とともに牛の画家として知られている。歴代名画記には,「韓滉,字は太沖。官は金紫光禄大夫・■(せい)東西両道節度使・左僕射・同乎章事に至り,晋国公に封ぜらる。貞元三年。年六十五。太傅を贈られ,忠粛と諡(おくりな)す。隷書・章草に工なり,雑画は頗る形似を得たり。牛羊は最も任し。戴嵩。韓晋公の浙右に鎮するや,署して巡官となす。晋公の画を師とす。他物を善くせず,唯(た)だ水牛を善くするのみ。田家・川風,亦た意あり。嵩の弟■(えき)。亦た水牛を善くす。」(18)とある。韓滉(723-787)は,代宗・徳宗両朝に仕えた官吏であるが,左遷されて江南に住み画をよくしたという。歴代名画記の記述もここから始まっている。韓滉が江南の自然とその風物を好んで描いたことは,貴族趣味が横行していた唐朝では極めて異色であり,彼が質素倹約を信条とし,江南の野趣に共感を覚えた反貴族的性格は,彼の画牛に現れている(19)[fig.14]。鹿子木がこうした画牛の伝統と主題の本質を,どこまで理解していたのかは分からない。ただ,前掲した鹿子木の基礎的文献『回顧五十年』の付録部分,彼の芳名緑のなかに,狩野直喜(1868-1947)の名のあることは無視出来ない。狩野直喜は京都帝国大学を,内藤湖南とともに支那学の牙城とした人物で,中国語はもちろんフランス語にも堪能な中国文学者である(20)。鹿子木がどの程度このシノロジストと懇意であったのか,現在のところ不明なのだが,彼が京都帝国大学の多くの学者の肖像画を描いていることや,画家や美術関係者以上に,研究者や知識人との交際を好んでいた事実と重ね合わせてみると,ふたりの交友は充分考えられる。鹿子木の第2回フランス留学期の作品で,1908年のフランス芸術家協会サロンに入選した油彩に『ノルマンディーの浜』(Société des Artistes Françaisのカタログには[fig.15]No.945:KANOKOGUI(T.),Chez M.Paul Foinet fils,rue Bréa,21───La plage d'Yportとあり,この作品の仏題は『イポールの浜辺』であることが分かる。同時に入選した油彩は,『漁夫の家』No.946:Maison de pêcheur.である)があるが,この作品などを,鹿子木の〈漁隠図〉と見立て,元来の画家倪■(げいさん)の『漁荘秋霽図(ざよそうしゅうせいず)』に重ねてみることは出来ないだろうか。こうした鹿子木の中国絵画への傾倒を考察するには,彼が特殊な作品を除いて,中国絵画の主題を採り上げることがなかったことから,むしろその技法を,■墨(はつぼく)から皴筆(しゅんぴつ)・暈染(うんせん)という山水画の画法の起源に求め,例えば,『大和吉野川渓流』,『奈良の藤』,『北海道層雲峡』[fig.16]などの油彩に見られる鹿子木独自の技法の源泉を,山水画の技法(21))───などと比較しながら論を進めるのがよいのだろうが,これは鹿子木の油彩を対象とした先の課題となろう。本稿では,ルネ・メナールというひとりの世紀末象徴主義の画家が鹿子木に宛てた書簡を端緒に,彼の第3回フランス留学時代の足跡を辿り,特に〈空と雲〉の習作と〈牧牛図〉の主題がメナールとの交友から生まれ,育まれた経緯を,ブルターニュという土地で描いた素描を材料にして考察をすすめた。彼のブルターニュ滞在期の素描,帰国後の『牧童と牛』[fig.17],そして更に遡って,第2回フランス留学期の『ノルマンデイーの浜』[fig.18]などの作品の背景には,ローランスに代表される歴史画の伝統というよりも,バルビゾン派やラ・バンド・ノワールの前衛的な傾向が色濃く反映されているのではないだろうか。いずれにしても,鹿子木孟郎の第3回留学時代に描かれた一連の素描作品を見るかぎりにおいて,彼は第2次世界大戦以前に活躍した洋画家のなかでも,最も優れたデシナトゥール(素描家)のひとりであったといえよう。 (あらやしきとおる・三重県美術館学芸員) |
(18)長廣故雄訳注『張彦遠 歴代名画記2』(東洋文庫311)1977年,平凡社,299頁以下。 |
fig.15 fig.16 鹿子木孟郎 fig.17 鹿子木孟郎 fig.18 鹿子木孟郎 |
(本稿は,鹿子木孟郎調査の一端を紹介するもので,本稿を執筆中,山梨絵美子女史から,小山正太郎についての資料を頂き,また妹尾克己氏からも貴重な資料を頂きました。最後になりましたが,鹿子木孟郎調査委員会の方々に厚くお礼申し上げます。)