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8世紀における地方との美術的交渉──曾我蕭白と伊勢の門人たち──

山口泰弘

現在では18世紀のもっとも重要な画家のひとりに数えられているにもかかわらず,曾我蕭白の名が,生前,確かな文献に登場するのはおどろくほど少い。安永4年(1775年)に出版された『平安人物誌』第二版はそのまれな例であるが,京都の有名人事典といった性格をもつこの冊子は,明和5年(1967)にすでに初版が刊行されていた。宝暦から明和にかけて,「群仙図屏風」や「雲龍図」(ポストン美術館)「商山四皓図屏風」(ポストン美術館)あるいは「林和靖図屏風」(三重県立美術館)など多くの優れた作品を発表した30歳代の充実ぶりを知っている私たちには,初版にその名が洩れ,46歳になってようやく登録されるタイムラグはいくらか奇異な印象を与える。

おそらくその理由はほかならぬ蕭白白身の個性や特異な作風に起因しているのだろうが,その詮索はともかくとして,円山応挙を先頭に,伊藤若沖,池大雅,与謝蕪村と続く画家の部の終わりのほうに「曾我師寵 上京」と記された簡単な記載によって,このころ蕭白が京都の上京のどこかに住居を構えていたこと,そして画家としてようやくひとかどの評価を与えられるようになったことがわかる。

江戸時代の画家,とりわけ人気のある画家になると,個人的許容量を越える膨大な制作を余儀なくされることがある場合,それを助ける助手を周辺におくのがふつうである。円山応挙などはいうに及ばす,伊藤若沖なども生前とくに晩年には幾人かの周辺画家を身辺において制作を手伝わせていたことが知られている。『平安人物誌』に登場するほどの有名画家になった蕭白の制作を,周辺で支える画家がいたとしても不自然ではない。

46歳といえば蕭白にとってはもう晩年に近いころだが,上京に,さほど大きくはないにしても工房を構え,何人かの弟子を雇っていたと考えても見当違いではないだろう。現在では,蕭白の周辺画家と思われる幾人かの名前が確認されるようになっている。蕭亭,蕭月,自如などというように,師から一字を貰いうけたにちがいない画家とその作品が知られているからである。もちろん,質的に師を越える画家は現れなかったようだし,作品も師風の追随に終始する亜流様式だが,いかにも工房のなかで訓練し熟練した手慣れを印象づける。

20歳代の終りから30歳代にかけてのある時期,蕭白は伊勢地方を旅したとみられるが,明治になって,桃沢如水という人物が,その地方に通る蕭白の作品や逸話を採集した。

白の如き性格の人故これと始終したる門人とてはあらざりしと見えたり今画風を以て案ずるに我伊勢にては櫛田の奥田龍渓即ち三角の兄なる人,乙部浄明院の頭極禅師,津の二日坊宗雨おなじく田中岷江等なるべし

“白”とはもちろん蕭白を指す。桃沢如水は,信州の出身で東京美術学校で橋本雅邦に学んだ画家だが,病気療養のために伊勢地方を訪れ,その地方に遺る曾我蕭白の作品と蕭白にまつわる逸話を博捜し,それをまとめて『日本美術』(85,86,88号,明治39年)誌上に発表した。この丹精は彼の命を著しく短める結果となったが,幸か不孝か,本職の画家としてよりもこのライフ・ワークによって蕭白研究史上かけがえのない人物として名をとどめることになった。この一節は,それを再録した『三重県史談会々誌』の最後に三村竹清なる友人が加えた補遺である。

引用文の最初に表された見解「白の如き性格の人故これと始終したる門人とては参らざりしと見えたり」は,蕭白の工房とそこで働く門人の存在が認められる現在では,認めることはできない。

竹清があげる人々は,画ではなく他の分野で当時伊勢地方で名の通った人物たちであった。だから,ここで“門人”の字義はおのずと周辺画家としてのそれとは異なる。

如水のまとめた記録の中には,津……かつて藤堂藩の城下町,現在三重県の県庁所在地……の寺々を往時飾っていたという,蕭白描くいくつかの襖絵についての伝承も含まれる。西来寺,天然寺,浄明院という寺名を如水はあげているが,その中のひとつ,西来寺にあった「竹林七賢」の襖絵には29歳の年紀があったという。現存していれば,蕭白の若い時期の大規模制作の貴重な実例となったはずだが,これは先の大戦時に空襲で灰になってしまった。西来寺のほか,天然寺あるいは浄明院のばあいも,いずれも戦災その他ですでに亡失したり行方がわらなくなったりしている。

これら蕭白が筆を揮ったといわれる寺々はごく狭い境域に集任している。西来寺に隣接する上宮寺に伝存する双幅(図11)が今回の展覧会に出品されているが,この近辺では亡失を免れた希な遺例といってよい。

描かれたふたりの人物を箱書は小野妹子と迹見赤檮という聖徳太子にかかわる人物に帰しているが,それは『聖徳太子伝暦』の記載に徴して図像的に確認することができる(上宮寺は浄土真宗高田派に属するので,より直接的なテクストは『伝暦』などをもとにして親鸞が著わしたといわれる和讃『大日本国粟散王聖徳奉讃』中の讃歌や『上宮太子御記』の記述に求めるほうが適切かもしれない)。同寺に遺る什物帳に記載によつて(おそらく檀家から)寄進を受けたものであるが,この寺には戦前まで木造の聖徳太子像とそれを納める太子堂があったというから,おそらくは太子像の両脇に掛ける目的があったのだろう。由来のかなり明確な作品である。この作品の存在には如水の博捜の手も及ばなかったようで,言及されていない。

印章の状態や作風を検討すると,この作品が30歳前後の作品であることがわかる。つまり,西来寺の襖絵と相前後して制作されたわけだが,蕭白が30歳の前後に後年の奇想とそれをいかんなく表現できる優れた技量をすでにもっていたことをこの作品は例証している。

蕭白が彩管を揮った寺のひとつ浄明院は,津藩の初代藩主藤堂高虎夫人の墓所のある由緒ある寺だが,この寺で当時住職を務めていた頑極という僧の存在は蕭白の伊勢地方での制作の契機を解く鍵を握っているかもしれない(毛利伊知郎「伊勢路の画家たち──曾我蕭白を中心に──」『日本の美術館』6 東海/近畿)。頑極は蕭白の“門人”のひとりに挙げられた人物である。

『続三重先賢伝』によると,頑極は伊勢の椋本に生まれ,浄明院に転住する前には本山に当たる京都上京の興聖寺の住持を務めていた。興聖寺には蕭白一族の墓所があり,また,津藩主藤堂家は同寺の大檀那であった。「(頑極は)性画ヲ好ミ嘗テ曾我蕭白卜興聖寺ニ於テ其ノ人ト為リヲ共ニ爾汝ノ友タリ彼我ノ往来常ニ絶エス互ニ其ノ技ノ雌雄ヲ争ヘリトイフ」と,『続三重先賢伝』はふたりの関係を記している。著者が何を典拠にしたのか,記述の真憑性は裏付けることはできないが,蕭白と頑極の個人的なつながり,興聖寺と浄明院の本末閑係が蕭白の伊勢来遊に動機を与えた蓋然性は考慮にいれることができるかもしれない。

京都で絵の売れない与謝蕪村が丹波国与謝へ下向するにあたり,浄土宗の関係を頼つたとする説があるが(『与謝蕪村』吉沢忠 日本美術絵画全集19),蕭白にこの例型をはめ込むことはできないだろうか。駆出しの若い画家に望むだけの評価の与えない京都から遠出するにあたり,蕭白が一族と密援に関わる寺のもつ本末のネットワークにつてを得て伊勢に赴いたと……。伊勢における初期の制作が興聖寺の末寺浄明院の周辺で行なわれている事実は示唆的である。

浄明院にあった襖絵は如水によると,鶴を主題としたものであった。当時すでに亡失していて如水自身も実現することはなかった。

この鶴の襖絵で思い出されるのが,以前三重県立美術館と練馬区立美術館で開催した「曾我蕭白展」に出品された「鶴図屏風」(参考図・『曾我蕭白展カタログ』図版40)である。この作品は,仔細に検討すると紙継ぎや引き手の痕跡から,六曲一隻という現状とは異なり,当初4面の襖絵あるいはそれ以上の面数の襖絵群の一部として描かれたものであることがあきらかになる。画面の(六曲一隻の状態の)左端から18cm分は上端から下端まで完全に後補で,屏風に改装される際に付加されたものとみられる。落款印章の位置の不自然さはここに起因する。

鶴の外隈による表現,樹様の速筆表現,没骨による下草表現などたしかに非常に技巧的だが,35歳ころ,伊勢滞在中に描いた同じ主題の作品,旧永島家襖絵「波濤群鶴図」に較べると完成度でいくらか譲る。永島家襖絵に先行する作品である可能性を示唆するといえよう。また,30歳の年紀のある「久米仙人図屏風」(ボストン美術館)や「寒山拾得図屏風」(『曾我蕭白展カタログ』図版1)という30歳前後に描いた作品があるが,湧きたつような雲のモチーフとしての扱い方やその描法は,のちの作品にはみられない特徴で,この「鶴図屏風」が共有する唯一の作例である。つまり作風的に検討するかぎりにおいては、この作品は制作時期を30歳前後に設定でき,西来寺襖絵や上宮寺の双幅と同時期の制作とみることも可能になる。多少の強引さは否めないが,30蔵前後における津での制作の一環にこの作品を含めることも決して無理ではないだろう。今後の研究次第では浄明院を飾っていた“鶴の襖絵”(の一部)に充てることを考慮する余地もうまれるのではないだろうか。

蕭白の“門人”のひとりにあげられた頑極自身の作品も今回の展覧会に出品されている。蕭白の直接的な影響を出品作に認めることは困難だが,「達磨図」(図25)は,蕭白のしばしば使用する印文「如鬼」を刻印した印章が捺されているのが興味深い。

如水は「(蕭白が他所へ行って一年ばかりいなくなり,戻ってきたころには,頑極は)蕭白を凌ぐ位に措く様になつた」という伝聞を書き留めているが,それを納得させるような頑極の作品とはどのようなものだろうか。

竹清のあげるもうひとりの“門人”田中岷江の名は,画家というよりむしろ根付作家として記憶されている。江戸時代のもっとも重要な作家のひとりであるが,画家としても,蕭白の伊勢における“門人”のなかで,美術史的に興味の惹かれる存在である。今回の展覧会に出品した「寒山拾得図屏風」(図27)は今日遺る数少ない岷江の作品のひとつだが,随所にいかにも“門人”らしい,蕭白に追随する特徴が現れている。

まず,描かれたふたりの人物,寒山と拾得の表情に溢れる奇狂,これは紛れもなく蕭白のそれに通じる。また,樹幹や減筆風の衣を描く激しい筆意も蕭白に類縁をもとめてよいだろう。作風上の類似だけでなく,画系意識でも両者には通ずるところがある。この作品に加えられた落款は「雪舟支流岷江淳徳図」と読めるが,みずからを雪舟支流,つまり雪舟の画系上の後裔と任じている点は,蕭白が同じ室町時代の画系曾我派の末裔を名乗っていたことと似ている。『三重画人伝』の著者が「雪舟云々」の落款をもつ岷江の作品に言及しているが,使用例が他にもあったとするなら,気まぐれでほなく,雪舟を画祖とみなす志向を彼が強くもっていたらしいこ、とがわかる。

印章の「等楊」はほかならぬ雪舟自身の名であり,この号を借用していることも強い画系志向をものがたるものだろう。しかし,彼のこのような志向は彼の個人的な志向というよりは,この時代の一部の画家が共有する傾向であった。

岷江や蕭白からみると一世代前の世代の人たちだが,17世紀末から18世紀の前半に京都で活動した山口雪渓あるいは望月玉蟾などという画家たちは雪舟をはじめとする室町水墨画への復帰を主張した。蕭白の画系志向はそれをを受け継いだものである。おなじころ,京都のほか江戸においても,同様の画系志向を打ち出した画家が現われる。桜井雪館という水戸出身で雲谷派の系統をひく画家だが,雪舟十二代画裔を自称した彼の許には門人200人が集ったという。彼の画系志向もかなりの評価を得ていたわけだ。芝の増上寺で修行していた若い月僊が就いたのが雪館である。岷江が自らを雪舟本流あるいは嫡流と僣称するのでなく,“支流”といくぶん遜ったのは,彼らの存在を充分に意識してのことかもしれない。

この展覧会には何点かの,はじめて公開される蕭白の作品が含まれているが,「騎馬人物図」(図24)「達磨図」(図23)というふたつの作品は,竹清が“門人”のひとりにあげている奥田龍渓とその弟奥田三角との親しい交遊を伝える証拠として貴重である。

「騎馬人物図」は,蕭白が自賛を認めた珍しい作例である。

 しかも古来まめ成のみか大夫二尺たる
 此翁こそもろこしの錦のたもと
 むかしにかへす近江の庄司宇治の
 あじろぎ顕れつる佐々木一ツや
 伏見ぬ里のをき名ぐさ菊もまれ
 なり無一物
     奥田土賢英武におくり申侯目出度し目出度し
     曾我せうはく暉雄自画讃(花押)

末尾に記された為書きによって,この画が奥田士賢英武つまり龍渓に贈られたことがわかる。『存心』(三重県内では伊勢市の神宮文庫に版本がある)と題された龍渓の著書には蕭白が挿絵を描いていて彼らの親しい交わりは予測されていたのだが,この席画と思われる簡略な画はそれを確認させる。

龍渓は,伊勢参宮街道沿い,松阪(いくつかの逸話と「雪山童子図」などの作品が残る)と斎宮(「永島家襖絵」を描いた)の中間に位置する櫛田(津藩領・「唐獅子図」のある朝田寺からも遠くない)に生まれ,一時津藩に仕えたが致仕して郷里に戻り大庄屋を飼いだ。奥田氏は近江の豪族佐々木氏の流れを汲むというが,“宇治のあじろぎ云々”は祖先といわれる佐々木高綱の宇治川先陣争いの故事をいうのであろう。

画は,賛文ともどもごく草々とした筆致で,いかにも酒席の戯れといった趣である。ふたりの親しい交遊の様子が偲ばれる。

一方,「達磨図」(図23)も,手早く屈託のない筆致は,いくぶん酒混じりの,その場の和やかな雰囲気を彷佛させる。面貌の特徴は兵庫県個人蔵の「達磨図」(『曾我蕭白展カタログ』図版19)のそれに類例をみとめていいだろう。

この画に賛を寄せている“三角道人”なる人物は,奥田龍渓の弟奥田三角に帰して間違いない。三角は伊藤東涯門下で古学を修めた後,伊勢に戻り津藩に儒員として務めた。彼の名は『先哲叢談』や『続近世畸人伝』に登場する。きわめて真率篤実な人物だったといわれるが,それもいささか度を過ぎていたらしい。三角形を偏愛し,自宅の窓や文房の器具や文庫まですべて三角形に誂えなければ気が済まなかったという,やや備執的な性癖をつたえる逸話がのこるが,その号さえも例に漏れることがなかった。資質は異なるが蕭白とは負けず劣らずの個性的人物であったようだ。

履歴は,『津市史』などによってごく概略的に知ることができる。元禄16年(1703)に生まれ,享保6年(1721・19歳)に京都に上って束涯の門に入り,享保16年(1731・29歳)に津藩の儒員として伊勢に戻り,安永5年(1776・74歳)に致仕するまで同藩に仕え,天明3年(1783・81歳)に亡くなった。

明和7年(1770・68歳)には江戸に出府したことがあったらしく,9カ月ほどを過ごして津に帰る。賛には“辛卯”の年紀があるが,辛卯の年つまり明和8年(1771)は,江戸出府の翌年に当る。

ところで,ふたりの交遊の時場を糸口として,蕭白の伊勢訪問に関する問題に新説を加える資料としても,この作品は価値をもつ。

画面内における達磨の画と三角の賛文,蕭白の款記の位置対応の精妙さは,描画と加賛が同じ時場で行われたことを推測させる。つまり,三角の款記に記された年すなわち明和8年(1771)に蕭白三角の同席の,おそらく彼らの親しい交遊の場からこの作品が生まれたと考えることが可能となる。

この当時,三角が京都に赴いていた可能性を積極的に支持する資料はいまのところない。したがって,明和8年(1771),42歳の蕭白が伊勢地方に滞在していた可能性は大きい。所蔵者の談によると,先代が戦前津市内で購入したということだが,これもこの見解の蓋然性を高める材料になるかもしれない。

35歳前後(明和元年・1764)に行われたといわれる第2回目の伊勢歴遊と,明和8年(1771)のあいだの蕭白の動向は,冷泉勝彦氏の研究によってその一斑が明らかになっている(「播州の蕭白画について」『美学論究』5 昭和46)。冷泉氏は播磨地方に残された蕭白画について広範な調査を行い,その結果,明和4年(1767)38蔵前後に蕭白がこの地方に滞在し制作を行っていたことを明らかにした。

現在の定説では,蕭白は30歳前後と35歳前後の2度伊勢地方に赴き制作を行ったと考えられている。冷泉氏の研究で,伊勢地方での2度目の制作活動をひととおり終えた蕭白がさらに播磨地方に活動の場を得ていたことが明らかになったわけだが,この「達磨図」の存在は,その後または伊勢に戻っていたことの証になる。42歳というと,そろそろ京都でも一定の評価がくだされはじめたころだろう。蕭白をあたたく迎える熱心な支持者がこの地方にも形成されていたのだろうか。

如水の記録に描かれた蕭白像には,逸話につきものの誇張,如水の時代の人々が描いた蕭白についてのイメージさらには如水個人の蕭白に対する思い入れなどが輻輳し,そのあげく強烈なボヘミアンぶりばかりが強調されることになった。

三角をはじめ,如水が“門人”としてあげた人士はいずれも当時伊勢地方有数の文化人として知られる存在であった。彼らが蕭白との交遊の場を設け,さらには“門人”にさえなったとしたら,それは蕭白に対する敬意がこの地方の人々の心に育ってきていたことをものがたってもいる。
 彼らに態度の変化を促した要困はいくつかあるだろうが,京都における蕭白評価の上昇に微妙に連動していることも一端を担うだろう。

蕭白の芸術の誕生と生育の基盤は,もちろん京都にあった。しかしその支持範囲は思いのほか遠方にまで及んでいる。伊勢や播磨はいうまでもなく,作品の分布,あるいは伝承の及ぷ地域にまで範囲を広げると,山陰や九州にまで蕭白の足跡を追うことができる。このような現象はなにも蕭白ひとりに限ってみられるのではなく,例えば,池大雅,与謝蕪村の例ををあげれば,同時代の芸術活動の重要現象であったことを知るには十分だろう。

交通の発達それにともなう商行為の活発化,出版業の盛行,あるいは江戸時代特有の武士の二重生活その他さまざまな媒体によって中央(江戸や上方)で誕生し生育した創造的な芸術がほとんど時を移さず地方に達し,受け入れられ あるものはその地のひとぴとの創作行為に大きな影響を及ぼした。蕭白の伊勢との親密な交渉は,このようにすでに醸成されつつあった地方の中央に対する憧れの気持ちや関心が導引となっている。彼が作品にときおり記す款記“平安云々”は,地方人士のそうした心理をくすぐる蕭白のしたたかな計算の現れにほかならない。

すでにいわれているように,蕭白の強い個性は,伝統的な美意識の殻に包まれた鑑賞者やライヴァルのひしめく京都より地方においてより解放され,主観的であくの強いエキセントリックな画風をさらに一層自由で大胆なものにした。本稿でみてきたような,蕭白が地方に及ぼした影響もさることながら,蕭白評価が伊勢や播磨など地方での活動が大きな比重を占めていた30歳代の作品を中心に行なわれている現在,地方での制作行為と人々との交流が彼の芸術的個性や制作に投げ返した相乗効果もまたみのがすことができない。

(やまぐちやすひろ・三重県立美術館学芸員)

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