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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1989 > 横山操の水墨画への転化 山口泰弘 日本画の現在をみる展図録

横山操の水墨画への転化

山口泰弘

横山操は,晩年,『芸術新潮』(昭和45年2月号)にエッセイ「独断する水墨画」を寄せ,そのなかで,洋画と区別のつかないような日本画の横行によって日本画は自立が危ぶまれている,この現状を打開し変革を加えるのは,日本水墨画の再興にかかっている,という独自の見解をのべている。横山が,それまでのアクション・ペインティングにも似た激しい表出性を持った着彩画を捨て,最初の本格的な水墨画を発表したのは,このエッセイが著される7年前昭和38年のことであるが,横山がある時期を境に,着彩から水墨へとメディアを転じたこの事実が,横山の自己様式の変遷の過程で,いったいどのような要因に導かれてのことであるのかという問題は,単に様式上の問題に止まらず,横山の画家としての内面生活の変遷を知るうえでも非常に興味をそそる問題のように思われる。

この小文では,最初の水墨画の年,昭和38年に発表され,横山の水墨画の代表作のひとつとみなされる「瀟湘八景」を取り上げ,この間題について私見を記してみたいと思う。

墨を顔料として使って描く単色の絵画形式である墨画は,さらに白描画と水墨画のふたつの形式にわけることができる。白描画つまり主として墨線の輪郭によって形態を表現する描き方は時代的には水墨画に先行し,その主導権は,中国で,唐代に水墨画に交替し,山水画あるいは樹石画の分野を主にめざましい発展を遂げ,中国を中心とし朝鮮,日本を含む東アジア地域をひろく覆い尽す重要な絵画形式として以後に及んだ。

唐末五代の画家荊浩は『筆法記』で水墨画を「水曇墨章」と称しているが,その名のとおり,水墨画は墨の濃淡の曇(ぼか)しによって複雑な面を表現する形式として成立したのであった。墨の濃淡は複雑に組み合せることによって,自然の色をモノクロームのトーンに翻案しまた物に立体感や量感を付与することができ,自然主義的な画景を作り上げるうえで,自描画にくらべてはるかに有用な手段であった。

水墨画は,自然主義的あるいは客観的に自然を画面上に翻案する能力を持つ一方また,自然の色を抽象化し,主観あるいは内面の心象を画面に表現する手段としても有効な形式であった。

唐未の8世紀後半,江南地方で行われた「(はつ)墨」はその意味で非常に興味深い形式である。「(はつ)墨」は,墨を画面上に注いで一気呵性に描き上げる,というのが文字通り呼び名の由来であるが,「(はつ)墨」では筆線は使用されても補助的に仕上げに使われるにすぎない。筆線が常に墨面を従えて展開してきた宋代以後の水墨画の歴史からみると,この方法は異例に属する。しかし,墨は,筆線にとりかこまれて拘束を受け,静的であることを余儀なくされていた段階からひとたび束縛から開放されると,自律的で苛烈な表現力を発揮するようになる。

「(はつ)墨」の画家たちの描きぶりは,『唐朝名画録』『歴代名画記』などの画史の伝えるところによると,はなはだ風がわりなものであったらしい。それは,酒を飲み,酔いにまかせて踊り歌い狂い,画紙に注いだ墨のうえを転げ回り,手で擦りつけ,刷毛の代わりに髪に墨を含ませて叩きつける,といった現代のアクション・ペインティング顔負けのすさまじいものであった。筆を加えて画面を整えることはあったらしい。いずれにせよ,画面にぶちまけられた墨の汁のかたまりはみるみるうちに山水樹石へと形象してゆき,そのありさまはさながら「造化のごとく」自然の姿を即いたものであったという。

ひとたび筆線の拘束を脱した「(はつ)墨」においては,しかし,「造化のごとく」自然を写す形似を否定して,写意つまり,自然を観察し心象と化した自然の真理を自在に画面上に表現する主観的内面的な絵画観へと容易に傾斜していった事実は,むしろ当然のことであった。その後の水墨画の歴史が示している通り,墨を主とし筆線を否定するかしないまでも補助的に援用するかしかしない「(はつ)墨」は,主筆従墨の流れの底に伏流化してしまうが,特に山水画の領域で,主観性内面性を主張する以後の絵画観に重要な指針を与えたのであった。

大正1年に開かれた第6回文展には当時の日本画の大家横山大観,寺崎広業がともに「瀟湘八景」を出品し,広業の「瀟湘八景」の古法に従った表現と大観の新しい解釈,表現との際立った対照に関心が集まり,おおいに話題を呼んだ。

瀟・湘はいずれも中国の川の名で,湘水は瀟水を合せてやがて洞庭湖にそそぐ。この瀟水と湘水の合流する辺りを含めた洞庭湖一帯の水景の地のうち八つの名勝を選んで瀟湘八景と称している。一帯は,広大な江湖,沼潟,山巓といったピクトレスクな景観に恵まれ,さらに水湿の多い大気が気象のたえまない変化に応じて景観に多彩な表情を与えていたという。

瀟湘八景は,平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天暮雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・遠(烟)寺晩鐘・漁村夕照という八つの既定の画題を振り当てられている。
 しかし,この八つの画題は,特定の名勝の景観を事実に別して描写するために選ばれたわけではなく,湿潤な大気のなかに展開される四季四時気象光陰の絶え間ない変化のうちにさまざまに変貌する山水の表情のヴァリエーションに対する興味に負うところが大きく,水墨画,特に(はつ)墨の多彩な技法を駆使するうえでの好素材として描かれていく歴史をもっている。わが国の水墨画家に大きな影響を及ぽした牧溪や玉(かん)の作と伝えられる作品はいずれも,(瀟湘八景)という画題のもつ多彩な表情と(はつ)墨の多様な技法とが巧みに協調することによってうまれたものである。

中国で盛行した「瀟湘八景」は鎌倉時代末期にはすでに日本に移入されていることが知られているが,室町時代から江戸時代にかけて,山水表現の枢要な画題のひとつとして,やはり,水墨と密接なかかわりを保ちながら描き継がれた。

ところで,第6回文展に出品された大観の「瀟湘八景」は,では,どのような点で広業と対照的な新しさをもっていたのだろうか。

大観・広業は山岡米華ともども,明治43年に中国旅行を行っている。この旅行が「瀟湘八景」制作の動機のひとつになったと推測されているが,大観は,「寺崎君は何のために中国へ行ったのか,行ったときの景色は一つもなく,中国人の描いた絵をそのまま写しているとは……」と,広業のこの文展出品作品に対する所感を後に述べている。広業がモティーフや表現にみせている古様は,横山大観のいうように「中国人の描いた絵をそのまま」写したというよりは,むしろ,日本において,江戸狩野あたりで固定化された画体から引き継いだ作風と考えたほうがよさそうだが,それが大観と並んだとき著しく古様にみえたのは想像に難くない。この展観を訪れた夏目漱石は,よく知られているように,美術批評「文展と芸術」のなかでふたりの競作をとりあげ,大観の個性的な作風が伝統的な瀟湘八景から隔絶して「どうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるという感じが出て来る。」とコメントしている。

大観の新意は,たとえば,八景を二景ずつ構図上および季節上から4組のペアにして四季を割り当てるとか,中国旅行の体験をもとに彼地の生活情景を画因として取り込むとかいった点に認めることができる。しかし,歴史的な長いスパンのなかに置いてこの瀟湘八景をみた場合,瀟湘八景という画題が水墨の技法表現と密接にかかわりながら描き継がれてきた歴史と訣別するように,大観が斬新な色彩表現を導入したことにもうひとつの画期的な新意を見出すことができるのである。寺崎広業の場合,これとは逆の意味で,つまり,伝統的な筆墨の様式に寄り掛っていたという意味で,やはり古様に傾いていたのである。

1963年,個展越路十景展に最初の水墨画の大作である「海」「雪原」を出品した横山操は,同じ年に「瀟湘八景」を発表している。それ以前,横山は,黒を使う場合主にカーボンブラックや岩黒などの顔料を用いており,墨はほとんど使っていなかった。では横山を水墨に傾斜させていったものは何だったのだろうか。「どうやら僕たちは久しい間作品の中に〔精神〕を見る習慣を忘れたようだ。意図やモティーフの新しさなどぞ作品の価値をはかってきた。これは間違いだという気が最近になってしてきた。」(「私のシゴキ教室」)。この文章は,1965年つまり「瀟湘八景」発表の2年後に書かれているが,アメリカの前衛芸術特にアクション・ペインティングに著しい傾斜を示していたそれまでの横山に,日本的な精神主義が呼び覚まされてきた,当時の心境の変化を端的に物語っている。

横山は,さらに5年後の1970年に書いた「独断する水墨画」というエッセイの中で,横山大観の「生々流転」を最も好ましい作品として挙げ,「(大観は)絵巻という手で拡げつつ展開される様式の中で水墨という必然を日本的呈示の仕方で自己表現したのである。」と語っている。また同じエッセイの中で雪舟の時代を取り上げ,日本の水墨画が戦国時代への予兆を秘め都市経済の進展しはじめた人心の不安定な時代に日本人の精神生活の中に定着化を果たしたことと人間不信に陥りやすいと横山の考える現代の状況とをダプル・イメージで捉らえ,「それはまったく他力の思考ではなく,自力の思考であり墨という単純にして深く,柔らかくして強靭な,広くして狭く,単彩にして多彩なる複雑な容量が,一瞬の独断を強要し,自己の矛盾と他の矛盾を明確に表現する意志の強さを強要し,その純粋さが一瞬膨大な容積を許容する。(略)水墨は作家の精神をギリギリまで追い込んで,心的表現へと導く。」と語る。

横山が水墨画に表現手段を転化していった内的要因は,横山自身によって,こうした言葉の中に語られていると考えてよかろう。横山にとって,水墨画は,精神性を秘めた主観的内面的表現,横山の言葉を借りるなら,「自己表現」「心的表現」を可能にするための必然的な手段だったのである。

前述のように,瀟湘八景は筆線を従として,主として墨面の濃淡から生まれてくる多彩な表現効果を駆使して描く(はつ)墨という様式と密接にかかわっていた。牧溪や玉(かん)の作品はその意味で典型と呼んでよいものであった。室町時代以来の多くの八景図は,その筆様を牧溪様玉(かん)様と称され,それを水墨画様式のひとつの規範として描かれてきた。大観の着色による八景図は,このような流れのなかでは,異例の存在であったわけである。

それに比べてこの横山操の作品は,すべて水墨で描かれ,しかも筆線の廓を取り去り,墨の多彩な表現効果を駆使して描いた作品であり,その意味でむしろ正統的な八景図の流を汲んでいるといえ・驕B

八景のうち,たとえば「山市晴嵐」などは,この八景図のありようを最もよく表している作品ということができるかも知れない。この作品では筆線はほとんど用いられてはいず,墨独特の表現効果として宗達光琳派が多用したたらし込みが画面のほとんどを占めている。宗達光琳派の場合たらし込みが装飾的効果を狙って使われていたのに対し,横山のたらし込みから受ける印象はかなり異なっている。筆線の拘束を離れて一気に爆発膨脹するような,いかにも横山らしい苛烈でダイナミックな外面効果と,それとは裏腹に,紙背に秘めるような,求心していく内面作用という二律がこの画面に共存しているように思われる。

横山が求めた,作家の意図やモティーフの新しさといった価値判断の基準とは異なる,作品に内在する「精神」あるいは「作家の精神を,ギリギリにまで追いこんで,心的表現」へと導きあるいは「自己表現」の段階にまでたかめなければならないという表現意思が,水墨というメディアと適切なモティーフとの相乗効果を得て,成果を上げているのである。
 この八点はそれぞれに異なった画景を題材とし,異なった手法で描かれている。成果に幅こそあれ,横山の水墨というメディアに託した表現意思を探る上で,この「瀟湘八景」は確かに重要な契機を胎んでいるといわなければならない。

(三重県立美術館学芸員)

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