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 3 見出された「伝統」とモダニズムの交錯

1 モダニズム建築と「日本的なるもの」

1920年代の分離派建築会にはじまった日本の建築の革新は、1930年代を迎えるころには、ル・コルビュジェやグロピウスらヨーロッパの建築の新思潮を受容し、無駄な装飾を排した機能的、合目的なモダニズム建築へと移行してゆく。水平線と垂直線の構成によるすっきりとした意匠は、住宅建築はもちろんのこと、かつては様式建築を好んでいた商業建築にももちいられ、1930年代の大衆文化の成熟はモダニズム建築の都市風景のなかに展開する。

たとえば、村野藤吾は、渡辺節の事務所からの独立を機に、森五商店(1931年)、キャバレーアカダマ(1932年)、大阪そごう百貨店(1936年)、宇部渡辺翁記念会館(1937年)など、昭和モダニズムを代表する都市建築をいくつも手がけている。ここで紹介するキャバレーアカダマ(大阪・道頓堀)(cat.nos.3−1−1〜9)は、印象的なアカダマのロゴマークにバウハウス風のモダニズム建築で、写真家ハナヤ勘兵衛が、風車のついた塔屋を写真の背景にしているように、都市文化を象徴する建築となっている。

土浦亀城もまた、1930年代の都市生活のモダン・ライフを身をもって提言した重要な建築家の一人である。土浦は、建築家フランク・ロイド・ライトの本拠地タリアセンからの帰国後、1930年代にはグロピウスのトロッケン・バウを日本に応用するべく、乾式構造のモダニズム住宅をつぎつぎとうみだした。土浦の設計した住宅は、小住宅であること、陸屋根をもつこと、安価で取り扱いの容易な木骨の乾式構造(木造)であることを特徴とする。その代表作、1935年の自邸(東京・上大崎)(cat.nos.3−1−10〜13、15、16)は、モダニズム建築の白い箱そのもののシンプルな外観ではあるが、内部は居心地良く、生活に適した空間となっている。また、食堂と一体化した吹き抜けのある大きな居間を中心とした構成は、視覚的な効果も高い。室内で使われていたパイプ家具も土浦のデザインによるもので、当時の産業工芸の提案を反映している。野々宮アパート(1936年)(cat.nos.3−1−18〜25)も、土浦の傑作のひとつである。東京・九段に建てられたこのアパートが、帝冠様式の模範例、軍人会館と相対していたことは、別の意味で象徴的である。アパートの1階、および中2階は写真家野島康三の野々宮写真館となっていた。

都市文化を担うモダニズム建築が隆盛をみる一方で、ナショナリズムの高揚とともに建築における日本的なるものもあらためて問うようになる。この命題に本質的に取り組んだのが堀口捨己である。分離派建築会のメンバーとして表現主義的な建築を発表していた堀口もまた、1930年代にはモダニズムの建築へと移行している。しかし、この時期の彼のしごとは単に建築にとどまらない大きな膨らみを持つ。茶室、数寄屋の実測から茶会記の解読まで、建築家として茶の湯の復興にたずさわり、日本古来の茶室に建築の構成美を見いだし、モダニズム的な文脈のなかに位置づけたのである。

1933年に来日したブルーノ・タウトが、桂離宮にモダニズムの構成美を「発見」したのも、日本の伝統への見直しがすでに土壌としてあったからで、事実、タウトによって桂離宮の美が広く知られるようになったと堀口は語るが、タウトを桂に案内することをインターナショナル建築会の上野伊三郎にすすめたのは堀口だったという。

建築における日本的なるものの命題は、もうひとつ、時局を反映しイデオロギー的な様相をも呈した。「日本趣味を基調としたる東洋趣味の意匠」という規約のもとにおこなわれた東京帝室博物館懸賞設計競技(1931年)(cat.no.3−1−55)は、帝冠様式を日本趣味の建築とする、というドグマを形成した。それにつづく種々のコンペも、そのようなイデオロギーと化した建築とモダニズムの理念との戦いの歴史であり、30年代の前川國男はその闘士として記憶される。

(桑名麻理)

2 産業工芸のなかのモダニズムと伝統

3 見出された工芸の「伝統」

1928(昭和3)年、仙台に商工省工芸指導所が創設された。ここでの「工芸」は当時の呼び方でいえば「産業工芸」を主に指していたが、その後戦中に至るまでの工芸指導所の方針と活動は、一方で戦後の工業デザインの先駆的な意味を含みながら、まさに明治以来様々な思惑のもとに変遷を重ねつつ「工芸」という言葉が担ってきたものを象徴的に体現していた。実際、工芸指導所が関わったのは、明治以来未だに「工芸」概念の大きな部分を占め続けていた輸出工芸であり、その具体的な内容は日本の伝統的な素材と生産手段に基づく手工芸であることに変わりはなかったのである。ただしかつての「日本趣味」に迎合した装飾的な品々から見れば、それらは一見したところ欧米の新しい生活様式に合わせたモダンな外観を備えている。しかしながら用いられているのは伝統的な素材と手法であり、新たな形の「日本趣味」も織り交ぜられていた。

工芸指導所はもともと、土地固有の資源や産業を基盤に東北地方の振興をはかるという名目の下に仙台に設立されたが、本格的に工業化を目指すというより、結局は伝統的な手工業を対象とし、部分的に科学化、合理化、量産化をはかりつつ、輸出振興を最重要課題としたのである。こうした工芸指導所の方向性は、家具の標準化、規格化の試みにおいて、バウハウスなど最新のデザイン運動の成果に触れ、日本人の生活様式を一から構築することを目指して活動を始めていた型而工房の試みと共通項を持ちつつ、他方で全く別の観点から日本の伝統的工芸をめぐる活動を展開していた民芸運動とも重なることになった。

工芸指導所は欧米の新しい嗜好や需要に応じて伝統的素材と手法を応用するために、海外に視察に出かけるなど情報の収集に努めたが、そうしたなかたまたま日本に滞在することになったのがドイツの建築家ブルーノ・タウトであった。1933年、来日とほぼ同時に、桂離宮をはじめとする建築にかぎらず、日本の伝統的工芸にも関心をもったタウトは、工芸指導所の試作品に具体的な提言を行ったが、それはまさに指導所が必要としていた指針となった。タウトは要請に応じて指導所の嘱託となり、試作品の指導に携わるが、結局数ヶ月で辞任する。その後タウトは群馬県高崎に移り、井上房一郎の招きで工芸品制作の指導にあたり、銀座に工芸品店ミラテスを開設するに至る。タウトのデザインした工芸品は家具から小物まで多岐にわたるが、その多くは竹や木、漆など日本の伝統的な手法と素材によりながら、用途は全く西洋の生活様式のためのものに終始している。

すでに触れたように、当時木工や竹工、漆工など最もありふれた日本の手仕事に注目していたのは工芸指導所やタウトばかりではなかった。柳宗悦を中心に大正末に始まった民芸運動も、次第に重点を古作品の蒐集から同時代に残る手仕事の保存と振興に移しつつあった。しかし手仕事をめぐるそれぞれの立場や価値観の隔たりは大きく、工芸指導所とタウトが袂を分かったばかりでなく、タウトは著書で日本民芸館の所蔵品を取り上げつつ、「げてもの即はいから乎」(『アトリエ』)で民芸を批判し、同じく東北の工芸を関心の的としながら、戦時体制の強まる1940年頃まで、工芸指導所と民芸運動は協力体制を持つことはなかった。

海外のデザイナーから輸出工芸への助言を得るため、1940年に今度は商工省貿易局がフランスからル・コルビュジエの協働者であるシャルロット・ペリアンを招聘し、ペリアンは家具などのデザイン・指導にあたった。そしてこの時にはモダン・デザインと民芸運動もまた伝統的な手仕事の領域で具体的な接点を持つことになった。1941年にペリアンは東京と大阪の高島屋で「伝統・選択・創造」展を開催したが、そこに出品された竹の家具は、河井寛次郎創案、ペリアン指導によるものであった。この頃河井は台湾の竹家具に示唆を得て自ら竹家具を試作していたが、来日したペリアンは素材としての竹に強い関心を抱き、竹によるシェーズ・ロングをもデザインしている。また山形であh同じ頃、藁を素材とし、在来の技法によって、ペリアンのデザインや芹澤_介の指導による家具が製作されている。こうして最も伝統的かつありふれた素材である竹は1930年代の工芸・デザインを象徴する位置を占めることになったが、同じ頃、竹高下の世界では飯塚琅 斎がこのジャンルを近代造形の一つとして確立させる作品を制作し始めていた。彼の作品は当時柳宗悦からもタウトからも高い評価を・けている。竹という素材をめぐるもう一つの伝統とモダニズムの交錯がここに見て取れる。

陶芸家としての河井寛次郎の手法や様式は1930年代に確立されるが、それらの作品は1937年のパリ万博でグランプリを受賞するなど海外でも高い評価を受けることになった。また濱田庄司は日本を代表する「陶工」としてその姿が雑誌『NIPPON』で紹介されるなど、民芸運動を代表する個人作家になった彼らは、伝統性と近代性を兼ね備えている点で、日本文化の国際的なアピールにこの時期重要な役割を果たしている。一方次第に民芸運動と距離を取りつつあった富本憲吉の作品には、意識的にモダニズムの側に身を置こうとする姿勢が鮮明である。作家的な制作と平行して量産の試みをも続けていた富本の白磁作品は、過去のいかなる白磁よりもモダン・デザインに近い。

これ以外にも1930年の前後から工芸において新たに「伝統として取り上げられ、新たな創作活動の出発点となったものがある。たとえば民芸運動はその初期から丹波布や裂織、琉球の筒描を紹介したが、そのなかから型染の芹澤_介、織りの平松實ら作家が登場し、衰退しつつあった草木染復興の試みはほかでも行われている。また陶芸の分野における伝統の再発見として見過こせないのは、茶の湯を中心に展開した桃山期の陶芸への新たな着目とその再生としての制作活動の展開である。北大路魯山人の星岡窯の責任者であった荒川豊蔵が1930年に美濃で絵志野の陶片を発見した前後から、荒川、川喜田半泥子、加藤唐九郎、金重陶陽、小山富士夫、石黒宗磨らがそれぞれに交流を深めながら、古陶磁の「本歌取り」に自らの創作を交えて、すでに同様の制作活動を行っていた魯山人とともに近代陶芸に新たな分野を築いていった。

本シリーズで毎回取り上げてきた御木本真珠店は、1937年のパリ万博にそれまでの技術とデザインを結集した「矢車」を出品し、好評を博した。この頃御木本のデザインには再び非常に洗練された伝統的な意匠が目立ち始めている。しかし戦時色が強まると同時にデザイン活動は急速に沈滞していかざるを得なかった。

日本における1930年代の工芸・デザインをめぐる問題は、一見したところ西洋のモダン・デザインの受容を中心に展開したようにみえるが、実は様々なレヴェルにおいて新たに見出された「伝統」をひとつの中心とし、もう一方の中心を広い意味でのモダニズムとしつつ、これら二つの中心をめぐってあたかも様々な楕円が描かれるかのような様相を見せているように思われる。たとえば「手仕事」は雑誌『NIPPON』が日本文化を海外に宣伝していく際に重要なテーマのひとつであったが、この時代「手仕事」がこれほどまでクローズアップされたのも、単に伝統への回帰として片づけることはできない錯綜した問題を孕んでいる。それは明らかに、様々な思惑のもとに外からの視点と内からの視点の交錯するところに見出されたのであった。

(土田真紀)

4  書物文化到来

愛書趣味の高まりに応じるように、1920年代後半からフランスの装本を模倣した装幀が登場する。酒井潔はその先駆者的存在として、今後の体系化が待たれる装本史にあらためて浮上してくるべき人物だが、一般的には長谷川巳之吉の第一書房をそのスタートとする。

『フランス・ジャム詩抄』(1928年)(cat.no.3-4-6)やポール・モーランの『三人女』(1928年)(cat.no.3-4-7)に見られるように、1920年代末の第一書房の本は、西洋の本装のデザインをそのままに、革やクロース、マーブル紙の使用など、美本への努力、情熱が明らかである。だが、装幀家としても名高い恩地孝四郎の言うように「出来上がったものは上下(かみしも)を着たシルクハットで、靴をはいたみたいな醜態」の感をぬぐいきれない。いずれにしても第一書房のしごとは、その後の豪華愛書家本、あるいはフランス仮装本の流行を育んだ。

フランス仮装・略装本(フランス装)の流行は、おそらく、当時のフランス文学を中心とした翻訳文化の興隆と無関係ではないだろう。また、自蔵本を本装する習慣のない日本では、仮装は本来の意味を離れ、装幀の一形態としての独自の領域をつくりだした。絵画的な要素の強い表紙、ジャケット、箱などのデザインは、明治以来のいまだ歴史の浅い装幀史を、ごく自然に継いだと思われる。よって、ここではフランス装の流行を発信したであろう書店と装幀家のしごとを中心に、1930年代の書物文化の様相をわずかながら紹介することになる。

フランス装を手がけた書店のうち、均質なしごとを残したのは白水社である。白水社は、・副黷ノ東郷青児、阿部金剛らをむかえ、ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』(1930年)(cat.no.3−4−8)など、フランス文学をはじめとした文芸書をつぎつぎと刊行した。また、厚生閣書店が1929年から32年にかけてシリーズで出版した『現代の芸術と批評叢書』(cat.no.3−4−52〜63)も、シンプルなフランス装をもちいて内容との調和をはかっている。

装幀と内容との調和は、しだいに本を創るというニュアンスをおびていく。江川書店、創元社、版画荘のしごとをそこに位置づけることができるだろう。そして、横光利一と佐野繁次郎、あるいは創元社を介した小林秀雄と青山二郎などの、作家と装幀家、ときには書店をふくめたコラボレーションがそこから生まれたのである。

書物文化の到来を1930年代のモダニズムの成熟によりひきつけるなら、ボン書店の活動と北園克衛のしごとに象徴させることができるだろう。ボン書店は、1932年から7年間だけ活動した小さな個人出版社で、北園克衛、山中散生らモダニズム詩人らの詩集などを洒落たフランス装で刊行していた。そこで中心的な役割を果たしていた詩人が北園克衛である。彫刻家の橋本平八を兄にもち、1920年代のおわりにはシュルレアリスムの詩人として活動していたが、はやくも30年代には新しいスタイルの探究に身を投じていた。書物の形態に関心を示したのもこの時期からで、自身の本も含めて数多くの装幀を手がけている。また、恩地孝四郎編集の愛書家雑誌『書窓』(アオイ書房)(cat.no.3−4−85)の第7巻第1号では、ゲスト編集者として「現代書物文化特集号」を編み、自ら執筆した「未来の書物」では、写真と文字の混合を提唱している。写真を詩人の表現の道具の一つととらえていた北園にとって、現実を迫力をもって切り取る写真とテキストとの相互関係は、新しい書物への可能性を示すものだった。実際、写真の強烈な視覚イメージは、文章の世界の人々に興妹をもってむかえられていた。

(桑名麻理)

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