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 2 モダニズムの成熟

1 新しい日本画の胎動

鶏に孵された家鴨の子」と自らを蔑称した川端龍子は、日本美術院を去り、1929年に青龍社を創立する。しかし、官展、院展という二大勢力が主流となっていた1930年代、その大きな流れに疑問を感じ、あるいは少なからず反発し、独自の理想を掲げた日本画家は、龍子が率いた青龍社で意欲的な活動を繰り広げた画家たちだけではなかった。1930年の第1回帝展で、そろって特選を受賞した3人の画家、すなわち《早苗曇り》(秋田県立近代美術館所蔵)の福田豊四郎、《奈良の鹿》(cat.no.2−1−3)の吉岡堅二、《くぬぎ林》(cat.no.2−1−1)の小松均もまた、既存の日本画に強い不満をもっていた20代の若き青年画家たちであった。

1933年、福田が帝展出品問題で青龍社を除名されたのを機に、彼らは1934年6月に山樹社を、さらに、福田と吉岡は、青龍社に出品していた画家たちを中心とした新日本画研究会を結成する。この新日本画研究会には、のちに歴程美術協会を設立する画家たち−シュルレアリスムや抽象主義などを積極的に取り入れる実験を試みた岩橋英遠はじめ山岡良文、船田玉樹、田口壮たち−も参加している。そして、1938年、この新日本画研究会は、新美術人協会へと発展する。かれらは、二科会あるいは1930年設立の独立美術協会など同時代の洋画壇そして西欧の絵画からフォーヴィスム、シュルレアリスム、キュビスムなどの影響をうけており、今回出品されている福田の《濤》(cat.no.2−1−5)や吉岡の《馬》(cat.no.2−1−4)のように、濤や馬あるいはトナカイや樹氷のような動物や自然現象などの対象を分析的に把握するような作品も残している。吉岡は、《馬》制作のために、ピカソの馬のスケッチを模写しており、ピカソのキュビスムから直接的な影響をうけていることがわかる。

西欧絵画、そして日本の洋画壇の活動に刺激、そして影響をうけた日本画家たちではあるが、けっして日本画というものを否定的には捉えていない。かれらは、たしかにアウトサイダーとしての役割を担い、革新的な仕事をのこしているが、あくまで日本画の伝統的な技術を身につけた上で新しい方向を模索している。福田は1936年の『美術評論』中で次のように述べている。「洋画家は、日本画家を劣等視するが、一日早く洋服を着ているからといって威張ってはならぬ。洋服なら西洋人がもっと早くからいいのを着ている。(略)日本人が羊服を着るのは外国人になるためではない。」と。さらに福田は、日本画が新しく進んでゆくためには、洋風絵画の摂取はひとつの必至の過程・条件だとも述べている。「新しい時代の絵画には新しい武器を必要とする。」のだと。この時期、日本画のゆくすえを案じ、新たな日本画の創出を試みた画家たちが設立、参加した研究会や団体は数多い。先に触れた歴程美術協会や、福田と同じく、1934年に青龍社を脱退した落合朗風により組織された明朗美術連盟、松岡映丘門下の杉山寧、山本丘人らの瑠爽画社などをあげることができる。

新しい時代の絵画を創造するため、この時代の日本画家たちは新しい武器を手に入れようと研究や実験を繰り返した。そして、この時期の革新的な画家たちの活動は戦争を体験することで中断をやむなくされるが、「それでも心の中の火はきえない」(吉岡堅二)で燃えつづけ、戦後、日本画が再出発をはかる際に、大きな原動力となる。

(佐藤美貴)

2 前衛の屈曲

a.浮遊するイメージ

大正期新興美術の展開を担った作家たちの少なからぬ部分がプロレタリア美術に参加していったため、一部を例外として、1930年代の前衛的な傾向は、20年代とは様変わりした面々によってくりひろげられることとなった。そのせいもあってか、大正期新興美術が、美術と生活の境界を侵犯するような、反芸術的な性向を宿していたのに対し、30年代の前衛は、基本的には、美術ないしタブローという枠を前提にして、枠自体を問いかけるというよりは、枠内での操作を主眼としていた。

そこから、厳密に画定されることのない無規定なひろがりの中を、イメージや形態が浮遊するという空間が成立する。これは、当時の前衛を二分したシュルレアリスムと抽象双方に共通して見られ、また、フォトグラムやコラージュを用いた新興写真との親縁をしめすものでもあった(2章3節参照)。

b.都市のメタファー

もっとも、前提としての枠どり−画面の表面とその四方の縁−をとりこんだ表現が皆無というわけではなく、これは、画面の四辺に平行な格子状の布置・分割という形で、幾何学的抽象のみならず、シュルレアリスム系の作品でも見出すことができる。ただ、水平線と垂直線だけで構成された山本敬輔の『80−x−38』(cat.no.2−2−22)でも、水平線の間隔の変化が音楽的なリズムを奏でるように、古賀春江の『窓外の化粧』(cat.no.2−2−13)や谷中安規の『瞑想氏』(cat.no.2−2−15)における分割も、置換が不可能であるというよりは、恣意的な可動性をたたえている。その意味では、モンドリアンの作品におけるような、厳格な演繹性は認めがたい。

こうした可変的な格子のもたらす流動的な空間に、当時発達しつつあった近代的な都市の構造との平行を認めることができるかもしれない。またそこで、航空写真に想をえたという村井正誠の『支那の町No.1』(cat.no.2−2−20)等、および向井潤吉の『影』(cat.no.2−2−21)から読みとれるような、軍事的な視角が交差するさまをうかがえることだろう。

c.物の語り

吉原治良の『作品』(cat.no.2−2−33)は、暗黙の前提としての格子の上に形態を配したものだが、きわめて厚い絵肌をしめしており、それが形態の浮動を封じている。同じ吉原の『作品A』(cat,no.2−2−32)では、物質としての絵肌が溶解し、流れおちだしたかのようだ(制作順は逆だが)。そして鳥海青児の『水田』(cat.no.2−2−30)や桂ゆきの『作品』(cat.no.2−2−31)になると、イメージを浮遊させた空間の枠どり自体が崩壊して、画面を作りなす物質がその存在をあらわにする。

空間の崩壊と物質性の現前という様相は、一つの流れをなすものではなく、また時系列の上で後に来るというわけでもないが、浮遊空間を成立せしめた日本的モダニズム自体の、裏面が顔を出したものと見なすことができるかもしれない。また新興写真の一部にも、これと平行する相が認められる。

(石崎勝基)

3 機械の眼としての写真

a.モダニズムの光跡/b.主題としての日本/c.そして大陸/d.グラフ構成の展開

ドイツを中心に欧米で展開された写真の革新は、すでに1920年代後半、村山知義や仲田定之助らによって日本に紹介されていた。しかし、それが新興写真運動として一大潮流となるのは1930年のことである。この年、『フォトタイムス』誌の編集主幹木村専一を中心に堀野正雄、渡辺義雄らが新興写真研究会を結成し、関西では浪華写真倶楽部の安井仲治と上田備山が丹平写真倶楽部を、中山岩太は芦屋カメラクラブを結成した。翌1931年には村山知義、岡田桑三の尽力で「独逸国際移動写真展」が東京と大阪を巡回し、そのような状況のもとで、1932年、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人に雑誌『光画』(cat.no.2−3−14)が創刊された。

−「芸術写真」と絶縁せよ。既成「芸術」のあらゆる概念を破棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして写真の独自の「機械性」を鋭く認識せよ!−

『光画』創刊号に掲載された伊奈信男の歴史的な論文「写真に帰れ」は、写真の本質を、カメラの機械性においている。つまり、感光板によるフォトグラムから、レンズをいかした俯瞰・仰瞰、クローズ・アップ、あるいはフォトモンタージュなどの新たな技法が、写真表現にもちいられた。1932年に刊行された堀野正雄の写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(木星社書院 板垣鷹穂の構成)(cat.no.2−3−16)、あるいは翌年の小石清の『初夏神経』(浪華写真倶楽部)(cat.no.2−3−17)は、新興写真の記念碑的代表作となっている。

機械の眼とそれによる現実への新たなアプローチを本質とした新興写真は、1930年代の写真表現の前提となったが、技法のマンネリズムを誘い活力を一旦失う。ふたたび活性化するのは、1937年、瀧口修造と山中散生の企画で「海外超現実主義作品展」が開催され、シュルレアリスムと抽象表現の影響が流れ込んでからである。浪華写真倶楽部、丹平写真倶楽部の若手によって結成された樽井芳雄、花輪銀吾、平井輝七らのアヴァンギャルド・造影集団、ナゴヤ・フォトアバンガルドの下郷羊雄、田島二男、山本悍右ら、前衛写真といわれた彼らの活動がモダニズム写真最後の光跡となった。

ふたたび伊奈の論文を参照すると、彼の論は機械の眼による現実への社会性を説いて結びとなる。カメラを持つ人が社会的存在であることを求めた伊那の言葉は、新興写真を始点とした報道写真への展開を示唆している。

報道写真の展開のうえで、もうひとつ重要なのは、写真印刷術の進歩によって可能となったグラフ構成である。写真のもつメディア性を十二分に引きだすこの方法は、堀野正雄の写真を板垣鷹穂が構成した「大東京の性格」『中央公論』(1931年10月号)(cat.no、2−3−102)、あるいは同じく堀野の写真を村山知義が構成した「首都貫流−隅田川アルバム」『犯罪科学』(1931年12月号)(cat.no.2−3−103)に代表される。これらグラフ構成と報道写真が見事に結実したのが、対外文化宣伝雑誌『NIPPON』(cat.no、2−3−104)である。創刊は、1934年、ドイツから帰国した名取洋之助が設立・再建した第二次日本工房によって、渡辺義雄、土門拳、藤本四八らプロ・カメラマンを擁した本格的なグラフ雑誌として、英・独など4カ国語で印刷された。

写真の可能性がひろがった1930年代、機械の眼はまさに時代の証言者だった。写真史の文脈を越えてあらわれる日本と大陸という主題は、第3章の問題意識とともに再考の余地を残しているように思われる。まだ、写真のメディア性がイデオロギーと化してしまう寸前のイデオロギーと芸術のあいだに存在していた時代である。

(桑名麻理)

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