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日本画家たちの視線

佐藤 美貴

1.

絵画をはじめとする造形表現が、制作された時代の社会と大きくかかわりをもつことはあらためていうまでもない。たとえば、平安時代、末法思想による不安から造寺造仏が奢移を極めたように、あるいは町衆が力をもったことにより室町時代後半から江戸時代にかけてさかんに近世初期風俗画が描かれ、江戸時代に庶民に愛された浮世絵がつぎつぎと当時人気の役者や遊女をうつしだしたように、いつの時代も、描き手は社会の動きを俊敏に感じとり、直接的に、ときには間接的にその時代の様相をうつしだしてきた。そして、本展でとりあげた1930年代においても、このような社会と造形表現の関係はかわらない。戦火に焼かれ、すでに現存しない作品、諸事情で出品がかなわなかった作品も多く、もとより会場にある作品のみで1930年代の日本画と社会のかかわりが明らかになるとは考えていないが、〈伝統の再発見〉〈新しい日本画の胎動〉〈都市と田園〉の各章に出品されている1点1点が、当時の社会状況や日本画壇の様子を少なからず反映していることもまた事実である。

本稿では、主に、画家たちが何らかの意志をもって選択した主題に着目してゆきたいと考えているが、まずはじめに、1930年代日本画の諸相を把握しておく必要があろう。幸いなことに、この時期の日本画については過去に充実した展覧会やシンポジウム、詳細な論考などがおこなわれているため、まず、それらの成果に基づいて当時の日本画界の状況を概観してゆくことにしたい(1)


(1)一部をあげると、〈伝統の再発見〉にかかわる、いわゆる「新古典主義」の問題については、庄司淳一「昭和戦前の日本画」(宮城県美術館『昭和の絵画 第1部戦前−伝統と近代−』1991年)、山種美術館開館30周年記念シンポジウム『日本に古典主義絵画はあったか?−1920−30年代日本画を検証する−』1999年、〈新しい日本画の胎動〉については山口県立美術館『昭和の熱き鼓動』1988年をはじめ、大熊敏之「感覚と構成のはざまで−1930年代の日本画のモダニズム」(『日本美術院百年史6』)、菊屋吉生「昭和前期における院展とその派生団体との関係」(『日本美術院百年史7』)に詳しい。1930年代日本画全般では、茨城県近代美術館『近代日本画史を僻瞰するV 昭和戦前期の日本画展1926−1945年』1992年、練馬区立美術館『昭和日本画の軌跡1930−50年代』1993年、群馬県立近代美術館『近代日本画−昭和前期をふりかえる−』1994年などの展覧会がおこなわれている。

2.

1930年代の日本画界といえば、官設である帝国美術院と在野団体である日本美術院という2つの大きな勢力が主流であった。帝国美術院が年1回開催していた帝展は、無鑑査の出品作が増え、活気溢れる展覧会とはいいがたい状況になっていたが、この団体は、特定の主義、主張をもったあつまりではないことから、一方では、新しい傾向の作品も許容することができるという利点ももちあわせていた。

ところで、1935年5月の文部大臣松田源治による帝国美術院改組は、美術界に大きな衝撃を与えた大事件であり、ここで触れないわけにはいかないだろう。この案は、官設である帝国美術院に、在野団体である日本美術院や他の諸団体を統合すること、つまり国家による文化統制を目的としたものに他ならないが、無鑑査出品が増え、「帝展型」と呼ばれる定型までもが生じ、批判の対象となっていた状況を打破しようという考えがなかったわけではもちろんない。画家たちの反対にあい難航したこの改組は、1936年の松田文部大臣急死後、平生文部大臣により再改組が試みられる。しかし、この再改組も画家たちには受け入れられず、1937年には帝国芸術院が創設され、展覧会は文部省が主催(新文展)し、この騒動も終息する。そして、国家権力のもと、文化を統一しようとしたこの騒動を通して、続いて述べてゆく院展がその在野性を喪失したということも明らかになったのである。

さて、帝国美術院設立時、会員になることを固辞し、その在野性を明確にした横山大観が率いていた日本美術院では、1930年代といえば「院展第二世代」あるいは「再興院展の三羽烏」といわれる安田靫彦、小林古径、前田青邨が自身の代表作ともなる傑作を発表し、いわゆる「新古典主義」とよばれる傾向を押し進めた時期にあたる。そして、先述の帝展改組問題の折、設立当初からその在野性を強く意識していたはずの大観が、この改組に積極的にかかわってゆくのである。結果は先にのべたとおりであるが、突然に日本美術院の解散や同人の鑑別を提案したりするというような、大観の気まぐれともいえる言動で日本美術院内の不和が目につくのもこの時期である。一際個性の強い指導者が、なかば強引ともいえる態度で運営にあたるということで、結果的には従来の枠を越えて創作しようとする画家たちを排除するという方向に向かってしまう。このような状況の中、新しい方向を目指す川端龍子は「鶏に孵された家鴨の子」と自らを蔑称し、日本美術院を去る。

龍子が日本美術院脱退後に設立した青龍社は、「床の間芸術ではない健剛な芸術の創造と会場芸術の樹立」を唱え、青龍展において毎年、意欲的な作品を多く発表する。また、青龍社以外にも、この時期、日本画のゆくすえを案じ、新たな日本画の創出を試みた画家たちが設立、参加した研究会や団体−明朗美術連盟、新日本画研究会や歴程美術協会、新美術人協会など−は多く、戦後、日本画が再出発をはかる際に、大きな原動力となってゆく。

以上のうごきをあらためてまとめるならば、この時期は、官展、院展という大きな力の中にある中心的な画家たちが〈伝統の再発見〉という方向へ向かう一方で、青龍社をはじめとする研究団体が組織され、戦後へつながる〈新しい日本画の胎動〉がはじまっていたということができよう。さらに付け加えるならば、流派を越えたデパート展が定着したのもこの時期であり、また、1930年にローマで開催した日本美術展をはじめとして、日本文化を海外にしらしめるため、さかんに海外展がおこなわれていたことなどもこの時期の特徴として付け加えておこう。

3.

簡単に1930年代日本画の諸相を概観したが、つづいて、主題という側面から、1930年代日本画の特色について考えてゆきたい。先にみたように、さまざまな研究会が設立された1930年代において、それぞれの主義主張に基づき、表現方法に差異がみられるのはもちろんのことであるが、モティーフの選択にはなんらかの違いはあったのだろうか。1930年代の作品には、都市風俗と、その一方で福田豊四郎や酒井三良などにさかんに描かれた郷土色の強い非都市風俗が目につく。この時期の都市風俗といえば、モダンガールと呼ばれた洋装の女性、新興都市の情景、列車や工場などの機械類をあつかった作品などが主であり、これらの目新しいモティーフ−とくにモダンガール−が、画家のみならずあらゆるひとびとの興味を惹きつけていたことは容易に想像できる。また、1930年代ということを考えるならば、1931年の満州事変以降、次第に国粋主義が強化されるなかにあって、当時の社会状況を同時代の日本画家たちがどのように捉えたかということも興味深い問題であろう。

新しい日本画の創出を目指した青龍社や明朗美術連盟、新日本画研究会、歴程美術協会などで活動した画家たちが、同時代の社会情勢や都市風俗などに興味をもち、積極的にそれらの新しいモティーフに取り組んだであろうことは想像に難くない。

一方、在野としての役割を担いながら、結果的に日本画界の主流となってしまった日本美術院において、都市風俗をよくした画家といえば、まず《花の傍》(4−1−8)をのこした速水郷舟、《婉膩水韻》(4−1−9)《都会女性職譜》(4−1−12)の中村岳陵、残念ながら今回は出品がかなわなかったが《種痘》《星を見る女性》の太田聴雨らが想いおこされよう。この3人の画家のこれらの作品は、それぞれの代表作といっても過言ではなく、現在においても評価の高い作品である。さらに、これらの作品は、いずれも、積極的に新しいモティーフをとりあげているというだけでなく、画面構成や色彩に注意がはらわれているという点でも共通している。第19回再興院展出品作《花の傍》は、縞模様の衣裳を身につけて編み物をするモダンな女性とそのわきには女性のモダンな生活ぶりを示す洋犬が描かれている。しかし、この作品が新しいと評される理由は決してモティーフが斬新であるというだけではない。女性の着物や帯、テーブルクロス、椅子などストライプを多用したモティーフを中心にすえた画面構成、鮮やかな色彩の対比、そして、それぞれのモティーフを異なる視点から捉えているという点でも御舟は新しい表現に挑戦しているのである。中村岳陵《都会女性職譜》も、太田聴雨の《種痘》《星を見る女性》も、主題の特殊さだけでなく、画面構成や色彩という点で独自性を発揮しているといえよう。

このように、実力と個性をあわせもつ画家も有した院展ではあるが、1935年の御舟没後については、「積極的に洋画手法のものや、或は洋画的題材のものは之を拾ふに甚だ困難であって曾て院展に於いても一特色であった機械美の諸作、新興都市風俗の作品は、意識的にノックアウトされたやうにも思はれるのです。之は常に進歩的近代洋画の先駆者であった、速水郷舟氏の物故して、今は最早審査の席に見ることが出来ないことなど、一因を成して居るのではないでしやうか」(豊田豊「院展と青龍展と明朗展」『藝林第七年十号』1935年)という興味深い指摘ものこっている。すでにみたように、横山大観という強い個性が率いていた組織で、しかも精神性を重視するという姿勢の下では、同時代の社会事象は必ずしもふさわしい画題でなかったといえる。また、1931年の院展評で「(略)今年の院展の一特色は、同人の中堅作家が多く、現代を題材にとり入れている点で、現在をとり入れることが必ずしも新しいと云ふのではないが、その扱い方には明らかに積極的な態度がみへる。小林古径、中村岳陵、透水御舟の三氏等、この意味に於てそれぞれ現代に即して制作して居り(略)」と評価している矢沢弦月が、1933年の院展評では「(略)院展に於ける此種の気分は、現代の吾々の生活とはかなり縁遠いやうに思はれる。二科などは、尤もこれは洋画であり、その仕事は勿論多岐に亘ってはいるが、総じて現代的意義を持ち吾々の生活環境と密接な関係を有している」と述べている点も、新しいモティーフヘの取り組みという点において院展の積極性が後退していたことを伝えており興味深い。

すでに述べたように、官展は、特定の主義主張をもった集団ではないため、青龍社や院展のようlこ全体的な傾向をみることは難しい。しかし全般的には、花鳥画や風景画がおおく、松岡映丘《右大臣実朝》(1−1)のような名作が描かれたとはいえ、文展のころとくらべると歴史画は減少している。都市風俗については、榎本千花俊や橋本明治がさかんにモダンガールを描き、鏑木清方に師事した小早川清も、清方の弟子らしく現代風俗を手がけている。柿内青葉の《十字街を行く》は、東京銀座松屋の角の十字路を歩く女性2人が描かれており、活気あふれる動的な画面に仕上げられている。

しかし、近代の日本画家たちが都市風俗を手がけた作品については、好意的でない見方もある。そのような傾向にたいして、吉中充代氏は、「(現代女性風俗画を中心とした風俗画が、)大衆レベルのモダニズムを皮相に表現するにとどまっているという評価について、当時の時代背景に目をやり今一度考えてみる必要もあろう。」(姫路市立美術館「くらしの情景」1993年)とし、女性や女性が身につける衣裳に興味を示した作品への批判については、当時の女性観、女学生やモガにたいする批判的な観点も大きく反映していることを指摘している。たしかに、昭和初期のころのモガにたいする批判にはかなり手厳しいものがある。だれもが興味をもつ斬新なモティーフをとりあげ、さらにそのモティーフが風紀をみだす好ましからざる存在であるからこそ都市風俗をとりあげることが安易だと思われたのかもしれない。

伝統からけっして逃れることのできない日本画というジャンルにおいて、同時代の社会事象や都市風俗を描くということは難しいことであったにちがいない。しかし、新しい風俗を描くことが評価され難いという風潮は、実は、この時期のみにみられるものではない。これと同じような状況を、美術史の流れのなかに−日本に風俗画という独立したジャンルが確立したそのときに−みることができる。冒頭で触れた近世初期風俗画である。風俗画というジャンルが独立するはるか以前から、画面の点景として、画家たちは同時代のひとびとの営み、とくにその時代の目新しいもの、ひとびとの好奇心を刺激するものを、いきいきと描き出していた。そして、ひとびとの営みそのものが主題となったとき、次第に先にみたような現象がおこる。つまり、興味の対象が遊里で働く女性へと移行してゆくなかで、お抱え絵師として他を圧倒する権力を握っていた狩野派の絵師たちは、それまでは手がけていた風俗画を表向きには描きにくい状況となり、町絵師とよばれる、現在では名前も知られることのない絵師たちがさかんに風俗画に筆をふるうこととなってゆく。画面上で主役に躍り出た遊女たちが、圧倒的な人気と興味をあつめる一方で、風紀をみだすという評価がなされていたことも、狩野派がこれらのモティーフを手がけにくかった一因であろう。さらには、女性のつぎにはその華麗な衣裳に興味がもたれるようになるという展開も近代の日本画とよく似ている。着物への強い興味を示した《松浦屏風》(大和文華舘)という作品がのこされているが、この作品を参考にしたと思われる《装う人々》が1935年に谷口富美枝によって描かれている。

近世初期風俗画を母胎として、浮世絵は誕生する。そして、いきいきとした当世風俗をうつしだしていた浮世絵の流れをくむ鏑木清方は、同時代の社会事象を手がけることの重要性を述べている。清方は、1932年第12回帝展の審査方針についての座談会で次のように述べる。

「(略)今日から以後の日本画は、今日の近代社会の事象に材をとったものがより多くなって行かなくては、その将来は誠に暗澹たるものだと思ふのです。その絵が如何に技法だけで美しくこねあげ、大作らしくこねあげてあっても、その中にその作家の個性によって得た「今日の社会」があり「今日の社会事象」が脈打っていなくてはならないのであって、今日からの帝展はさういふ将来ある作家に期待しなくてはその前途は心細いもので、それでなくては日本画の将来はないと考えるのです。」

近世初期風俗画にしても、浮世絵にしても、そして近代都市風俗を描いた作品にしても、描かれた当時の社会事象が脈打っている作品は、何十年、何百年を経たわれわれをも魅了するのだろう。

4.

最後に、画家たちがどのように時局を描いたかという問題に触れ、この稿を終えたい。これまでみてきたような1930年代の日本画壇の状況を考えあわせると、時局画についても、都市風俗と同様の傾向がみられるであろうことは容易に推測することができる。そして、その推測どおりに、時局画は新しい日本画を目指した団体に多くみられる。龍子は時局を反映させた「太平洋連作」にとりくみ、《龍巻》《波切不動》《椰子の篝火》《海洋を制するもの》を発表、さらに「大陸連作」にも取り組んでいる。日本画が、技術的な面で戦争画に向かないということは、日本画家自身もしばしば述べており、そのことを自覚していた龍子もまた、上記の作品で戦闘場面を描いているわけではない。たとえば、「大陸連作」中の《ジンギスカン》が、義経が海をわたりジンギスカンになったという伝説をとりあげ、大陸を征する日本人を象徴しているように、時局を連想させるという方法を選んでいる。

日本美術院の画家たちも、時局に無関心であったわけではない。すでに指摘されているように、横山大観は戦意高揚のための富士図を多く手がけ、さらに「派遣軍慰問展覧会」を開催し、その売上金を献金するなどあらゆるかたちで軍部への協力をおしんでいないのである。さらに、一見して聖母子を連想させる中村貞以《浴後》のように、じつは出征軍人の遺族が銃後の勤めを果たしている涙ぐましく、神々しい姿を描いたという作品もある。また、岡茂以《斜陽》は赤十字の看護婦を、太田聴雨《悲母院》は中国の孤児を養育していた大阪の孤児院「悲母院」を描く。帝展においては、益田玉城《南の生命線にたてる日本女性》も描かれているが、いずれも女性の母性や優しさ、あるいはひたむきな強さなどを前面に押し出すことで時局をあらわすという方法をとる。

すでにみた都市風俗においても、背後に戦争の影をみないわけではない。塩川京子氏が「(略)それらの絵が華やかでブルジョア趣味的であればある程、ファシズムの不気味さが、それらの絵の奥でとぐろを巻いているようにみえる」(京都市美術館「近代日本画における風俗画」1984年)と、また、吉中氏が「戦争そのものを描いた作品は少ないが、黙々と芸事に励む姿や堅実な家庭生活の描写に、秘められた銃後の意識が見え隠れする」(姫路市立美術館「くらしの情景」1993年)と述べているように、描かれた女性の背後に、近代的な街の背後に、当時の不安な情勢というものがかくれているように思われてならない。おおくのひとびとの興味をあつめた都市風俗をモティーフとしていても、画家たちはけっしてしのびよる軍靴の響きを聞き逃してはいなかったのではないだろうか。

1931年の満州事変以後、国家主義的な傾向が強化されてゆく1930年代の社会状況やひとびとの注目をあつめたモダンガール。日本画家の視線もそれらの社会状況を捉え、直接的に、ときには間接的に描きだしている。伝統にしばられることの多い日本画の主題という側面からみても、造形表現が社会と密接に結びついているということは明らかである。

(三重県立美術館学芸員)

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