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堀口捨己と田園趣味を考えるためのプロローグ

桑名 麻理

堀口捨己の建築、あるいは茶室や庭の研究については言い尽くされているのかもしれない。最近では、1996年8月の『建築文化』別冊号で、「堀口捨己の『日本』」という特号が編まれ、堀口の生涯における作品と著作が網羅的に再見された。堀口のしごとの視座は、1920〜30年代にほぼできあがったとされているが、この特集号では、藤岡洋保氏の「『主体』重視の『抽象美』の世界−分離派時代を中心とした建築観の考察」「『日本的なもの』をめぐる思索−ロマンと緊張を内包する伝統理解」、横山正氏の「空間への眼差し−堀口捨己における茶室と庭」、および横川茂樹氏の「堀口捨己をめぐる人びと−他分野を中心に」と、この時期の掘口が多角的に考察されている。また、これに先行する主要なテキストとしては、『新建築 臨時増刊 昭和住宅史』(1977年)の横山正氏の「住宅の50年」、磯崎新氏の「様式の併立−堀口捨己諭」、および『SD 特集 堀口捨己−建築と庭園の空間構成』(1982年)、『建築文化特集2 堀口捨己から受け継ぐもの』(1995年)に掲載された各論などがあげられる。また、『草庭』(筑摩書房1968年)は、戦前の堀口の代表的な著作が再録されているだけでなく、太田博太郎氏の解説も堀口を理解するうえでの基本文献である。と、このようななかで、私が何かをつけくわえる余地はないのだが、展覧会のくみたてのなかでの感想などを、記録として書きとどめることにしたい。

展覧会では、1930年代の堀口のしごとを、三つの住宅建築といくつかの文献によって紹介している。このうち、文献は、建築雑誌などに発表された茶室研究に関するものを中心とし(cat.nos、3−1−45〜48)、住宅建築は、吉川邸(東京・大崎1930年竣工)(cat、nos.3−1−26〜28)、岡田邸(東京・大井1933年竣工)(cat.nos.3−1−29〜35)、若狭邸(東京・上目黒1939年竣工)(cat.nos.3−1−37〜43)とした。その理由は、三つの住宅が、庭を持つ住宅となっているからで、つまり、庭の存在が、堀口の住宅の要となっているのである。それをたしかめるためには、まずは、建物だけをながめればいい。建物は、どれも基本的には鉄筋コンクリート造の「白い箱」で、いわゆる国際建築のスタイルのようにみえる(ただし、和・洋折衷の岡田邸は、この場合、洋館の方を意味している。また、若狭邸は、実際には日中戦争の資材統制で、一部木造への変更が余儀なくされた)。しかし、もうすこし注意をはらえば、これらの建物には、典型的な「白い箱」特有の無機質な雰囲気とはちがうなにかがある。それはあきらかに、緑豊かな庭と細長い矩形の池やプールの存在が、建物に影響をおよぼしているからで、両者のあいだには何らかの関係性が生じている。その関係性の妙に、1930年代の堀口のしごとを探りたくなったのである。

建物の外観が、国際建築のスタイルに近似していることは、堀口が、建築家として、つねにグローバルな価値観のなかにいたことを示している。それは、堀口の文章にも散見できて、たとえば、岡田邸の作品集『一住宅と其庭園』(cat.no.3−1−31)のはしがきには、バウハウスのグロピウスが提唱した国際建築に通じる理念があらわれている。

「現代に於ける正にあるべき建築は所謂日本建築でもなければ所謂西洋建築でもないであろう。そこにあるのは生活の事物的要求を、如何に経済的に解決するかと云う工学的技術が所謂過去の建築様式を超えて作り出した處のもののみでなければならない。」

しかし、堀口は、モダニズムを無批判にうけいれていたわけではない。『一住宅と其庭園』から十年ほどさかのぼる『紫烟荘図集』には、「建築における非都市的なものについて」という論文が収録されている。そこでの堀口は、紫烟荘(埼玉・蕨1926年竣工)が「現代の重大な社会問題である住居政策の如き、或は住宅の都市計画的改善の如き問題とは、何等交渉する所ない建築」であることをことわりつつも、近代の都市的解釈が、ひとの原始的な欲求、本然的な性向をゆがめていると指摘し、生活の本質的な欲求を満たすための、非都市的な建築の必要性をといている。そして、非都市的なものとして茶室建築を称揚する。

非都市的な建築は我國に於ては都市的なるものに何等見るべきものがないのに比して非常に優れた精錬された徹底した伝統を作り上げている。其中で最も注意を引くものは茶室建築であろう。」

ここで大切なのは、掘口は、茶室建築を、建物だけでなく、露地を含む全体の空間、つまり、茶室と露地の空間構成としてとらえていることである。とはいえ、どのような空間構成になっているのかは、堀口も語っていない。それは、おそらく、当時の様子を伝える露地草庵がほとんど現存していないことから、茶会記やおこし絵図などをたよりに推測するしかなかったからか、あるいは「ものをつくる人」特有の強い直感ゆえにか、いずれにせよ、現代人に必要とされる非都市的な住宅のモデルを、茶室と露地との空間構成に求めたのである。ちなみに、堀口が、現代建築のモデルとして茶室に言及したのはこれがはじめてで、この論考は、1932年刊行の『建築様式論叢』の「茶室の思想的背景と其構成」(cat.no.3−1−45)に結実している。つづく「有楽の茶室 如庵」(『国際建築』数寄屋特集1934年1月号)(cat.no.3−1−46)や「妙喜庵の利休茶室待庵」(『現代建築』利休特集1940年7月号)(cat.no.3−1−47)など、この時期に集中して執筆された論文の数々は、網羅的な文献調査にもとづいた実証的な手法ゆえに、茶室論としての完成度が高い。しかし、これらが同時に、設計をするうえでの基本理念の形成に重要な役割をはたしていたことを、いま一度喚起しておきたい。

ところで、堀口は「茶室の思想的背景と其構成」でも、茶室と露地の空間構成に触れ、それらが「文化的階級の要求と都市生活者商人階級の(原始的なものへの)要求によって発達した」という意味において、「田園山間的要素から成り立ってはいるが、然し文化的都市的なものである」と指摘している。つまり、露地草庵は、田園山間的情趣に満ちてはいても、本質的には都市のものであり、堀口は、田園が都市的洗練のなかにあること、ひらたくいえば、都会人の田園趣味を肯定しているのである。

ここでふたたび、堀口の住宅作品から、彼がどのように茶室と露地の空間構成を現代に創出させようとしたのか、いかにして非都市的な住宅の実現をこころみたのかをみてみる。

まず、吉川邸の計画案のパース(cat.no.3−1−26)には、すでに、豊かな緑にかこまれた草葺きの住宅がみられる。このパースは、1925年に描かれているので、ちょうど、紫烟荘と同じ頃である。まるで「建築における非都市的なもの」を絵にしたようなイメージだが、実際には、草葺きの屋根はコンクリートの陸屋根に変更され、デザインされた庭園に対して構成主義的な抽象度の高いラインをみせている。

岡田邸は「秋草の庭」をもつ。堀口は、よほど腐心の成果に満足したのだろうか、庭の植物が落ち着くのを待って、『NIPPON』1935年5月号(cat.no.3−1−34)に、そのあとで『一住宅と其庭園』に発表している。「秋草の庭」の作庭記「草庭の試み」(『瓶史』1936年4月春の号初出、『一住宅と其庭園』再録)(cat.no.3−1−35)は、とても印象的なので、すこし長いけれども追ってみようと思う。

岡田邸は、和館・洋館が併存する住宅で、堀口は、1933年7月号の『新建築』「過渡期の住宅」(cat.no.3−1−32)で、そのことを過渡期の悲喜劇といっている。和館・洋館の併存は堀口の本意ではなく、というのも、岡田邸はもともと別の事務所によって、設計、工事がすすめられており、施主の意向で途中から堀口に変わったのだった。「過渡期の住宅」によると、堀口は、西洋間と日本間をそれぞれ二つの存在とし、互いに変形させてまで調和をもたせようとはしなかった。そのかわりに、この住宅が木々に囲まれてあまりよく見えないようにして、主要道路からも二つのものが同時に視野に入らないようにと、配置の工夫をしたのである。それでも庭に立てば、二つが同時に見えてしまう。そこで和室、洋室、およびそれぞれの部屋の前の庭とを、構成することで調和がはかられた。堀口は、建物の垂線と水平線、そして庭のコンクリートの敷居によって、空間全体を構成している。その調和を乱さないように、庭は芝を基調とし、とくに和室の前の庭を、庭園にありがちな石庭にはせず、草庭にした。それが「秋草の庭」である。

草庭(ソウニワ)という耳慣れない言葉は、石庭に対する堀口の造語表現である。一般的な花壇というわけでも、イタリア・ルネサンス式庭園でもなく、あえていえば、イギリス式風景庭園の一部にみられるような草花の叢を計画したという。季節があるので二種類の案を考え、秋草の庭をメイン・テーマに、もうひとつは春の山草だった。

秋草の庭の構想は、すでに数年前から堀口の心にあり、たまたま岡田邸で実現させることにしたらしい。そのおどろくべき発想源は、宗達の秋草図屏風で、彼は、宗達の画中のススキやハギ、ナデシコが持つ線や点の組合せの美しさ、そしてそれらが全体として大きな美を構成していることに感動したのだった。しかし、自然のなかでは植物の一つ一つに生命の美しさを感じても、宗達のに見られるような構成的な美しさは感じられない。なぜなのか。堀口が考えたのはこうである。背景の金地が平面として絶対的に存在しているからこそ、その前に構成される草々の美が活きているのだ。堀口は、さっそく庭を取り囲む白いコンクリート壁を屏風の背景に見立てた。「其背景の一平面は白であれ金色であれ一人平面として装飾的効果となって観者に働きかけるのである」。

堀口のアイデアのおもしろさは、彼が秋草の可憐な情趣のために庭をつくろうとしたのではなかったことにある。そうではなく、植物を構成して、構成の美を創出させることに砕心し、岡田邸の住空間の一要素として機能させようとしたのである。

作庭は、「草の性質をよく知ってそれを組み立てる事」としてはじめられた。草の成長は予想のしようもなかったが、とはいえ、毎年の植え替えの手間をはぶくために、予測し得る範囲内で最初から計画的につくられた。ただ、キキョウやオミナエシなどアクセントになるものだけは、毎年植え替えることにした。草が枯れる冬には、樫の木と沙羅の木の木立と、それから前もって叢の間に植えていたトサミヅキの一株が目立ち、二月にはカンツバキが、三月にはトサミヅキが、そして春には秋草の庭の手前につくった山の草が花をつける。山の草は飛び石の縁などに、エイザンゴケ、ショウジョウバカマ、タツナミソウ、ヒメトラノオ、ヒメイタドリ、イカリソウ、ゼニガタサイシン、イワウチワなどが植えられ、その間にはシダ、ギボシ、ホトトギスなどが構成的効果をねらって配された。

若狭邸に関しては、『現代建築』の1939年7月号に「工を竣へた小住宅W邸」(cat.no.3−1−43)を掲載している。そのなかで、「よみがえるべき古へからの精神、否定すべき様式主義、この二つの事柄をとおして新しく世界的文化の刺激の中に生れ出て来た家」と若狭邸を紹介し、「この住宅と(同じ時期に設計した)日本の茶室は同じ理念で設計出来る事を身をもって感じた」と記している。ここでは、家人の趣味に合わせて、建物と直角に細長いプールを庭につくり、外から目隠しとなるように土が盛られ、作庭された。「今迄の庭園的技巧を避けて自然らしい特に武蔵野の感じに縁のある表現をとり、中央に芝と四角な白いプールを人工的な対立として生かすように務めた」。

吉川邸、岡田邸、若狭邸の三つの庭は、どの庭にも細長い池(若狭邸の場合はプール)があり、その平面構成の展開を追っていくことができる。しかし、もっと大事なのは、「秋草の庭」も若狭邸の庭も、人工物によって、自然が構成されているということだ。「秋草の庭」は、コンクリートの壁があってこその自然の構成であり、若狭邸の武蔵野風の庭も、プールの白い矩形に対比させられている。つまり、人工物と自然との構成、あるいは対比がつねに作庭の要となっているのである。庭は自然と人工物との空間構成である、という堀口の理念、あるいは自然観は、庭とは技巧である、という庭園専門家の見方とおおきく異なる。実際、堀口が美しいと思う庭園は、「東京のうちで一番きれいな所」は「宮城のの、お堀の辺。あの辺の松の木や、池や、石垣のあいだ。」であり、あるいはまた、厳島神社の、海と宮島と神社建築の包括的な光景であり、堀に囲ま・黷ス古墳であった。

庭を技巧としてでなく、自然を持ち込むものとして考える堀口の庭園観は、さまざまな示唆に富んでいる。自然を持ち込むとは、逆に言えば、自然を都会化させるということで、それは、都市のなかの田園、つまりは都会人の田園趣味なのである。これを、冒頭の茶室に帰結させることもできるだろうが、もうひとつ、それを可能にした場としての郊外の存在を指摘しておくべきだろう。郊外という概念は、大正期から昭和にかけて発生したもので、家族を単位とする個人住宅の成立をうながした。戦後の日本を支えた「郊外に一戸建て住宅を」という家族の夢は、ここに端をみるといっても過言ではないだろう。しかし、それをそれぞれの生活スタイルにあわせてどのような建物にするかは、建築家ごとに、いまだ模索の状態にあった。そのようななかで、堀口は一つの掟案をしたといえる。つまり、普遍的な国際様式をとりこみながらも、庭との空間構成において、施主のアイデンティティを、いわば都会人の田園趣味として実現させたのである。三つの住宅が建てられた大崎、大井、上目黒は当時の郊外であり、施主は、子爵や大学教授などの洗練された都会人で、当然のことながら、郊外にある程度の広さの土地を持ち、田園趣味を実現できるほどの経済的余裕があった。堀口捨己もまた、本質的に都会人の田園趣味を理解する、自ら教養人だったので、彼らにとっての住宅建築家として存在していたのである。この田園趣味は、漠とした流行ではなく、明らかな磁場があったと思われる。具体的には、堀口が、茶の湯研究、あるいは庭園の研究と称してつどっていた西川一草亭のサークルのことで、ここは、志賀直哉、幸田露伴、室生犀星、和辻哲郎、谷川徹三、小宮豊隆、阿倍能成、長谷川如是閑、板垣鷹穂、正木直彦、川喜田半泥子、北王路魯山人らの文化人、教養人、茶人、花人らの集まる、ある種の教養をわかちあう知識共有体のようなものだった。彼らの顔ぶれから想像しうるその傾向は、時代のナショナリズムの問題とも深くかかわってくるだろうし、それはまた、柳田國男、蔵田周忠らの民家研究との比較検討を必要とするだろう。それに、堀口にとっての「非都市」と「郊外」の整理もしなければならない。しかし、これらは今後の課題として、堀口の、建築は常に庭としての風景のなかにある、という言葉が、一草亭主催の「庭を語る座談会」で室生犀星が語っていた「何か、茶室というのものは、庭の中にある時に、外側から、あるかないか分からないような、溶けこむような感じをもたせる…ただようというような感じであるものじゃないでしょうかな。」にこだまするのを感じながら終わりとしたい。

(三重県立美術館学芸員)

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