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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 1999 > ふわふわ、きちかち、ずずずず、あるいは黒死館の影のもとに 石崎勝基 1930年代展図録

ふわふわ、きちかち、ずずずず、あるいは黒死館の影のもとに

石崎 勝基

これは、両肩に金の翼を持っていて、
脇腹にしっかりと生えた牡牛の頭をいくつか持ち、
頭部にはあらゆる種類の動物の形に似た巨大な蛇がいる
オルペウスの神論、ダマスキオスによる(三浦要訳)

1934(昭和9)年4月号(15巻5号)から12月号(15巻14号)まで『新青年』に連載され、翌年新潮社から単行本化された小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』(cf.,cat.no.3-4-90)を繙いた者は、まず、読みすすめようとする速度を抑えんとでもするかのごとき、ごつごつした文体に難渋するのではないだろうか。「古いコンクリート建築の鉄筋の多条構造のような」と日影丈吉が形容した小栗の文体は(1)、しかし澁澤龍彦によれば、いわゆる悪文では決してなく、「どちらかと言えば人工的」なスタイルなのだという(2)。その評価はさておき、続いて、耳馴れぬ書名がずらずらと羅列され、詩の引用で会話が交わされたりするのに眩惑されることだろう。小栗の作風を語る時必ずあげられる〈ペダントリー〉については、もっとも、松山俊太郎によると「『黒死館』における難解語彙・事項のかなりの部分が、苦しまぎれの捏造と、観念連合の過敏性に基く錯誤の産物と推定される」らしい(3)。ただ日影が、「それはふつうの、主題に関する考証や、プロットやムードづくりの装飾ではなく、つまり小説手法の問題ではなくて、文章論の問題だという気がして来るほどである」と述べたように(4)、ベタントリーと文体は分かちがたく縒りあわされて、たがいに傾斜を異にしつつつながっていくことばの連なりを形成している。詩句の引用合戦など鼻持ちならなくても不思議でないところが、そうならないのは、それが自然味を帯びているからというよりは、まわりの一切が不自然なので、その中に埋没してしまうのだ。「その細部に対する非常に偏執的な吸引力というか、そこのところでもって原典をこえてしまうというような過激さがあって」と、笠井潔はある対談で『黒死館』について語った(5)


そしてこれは、探偵小説としての本書の中でくりひろげられる、さまざまな推理とも不可分だ。当時の範疇からすれば、いわゆる変格ものというよりは、本格ものとしての体裁で物語が進められるにもかかわらず、読者がゲームとしての謎解きに参加することは、不可能といってよいだろう。単に情報量の多寡や難易度が問題なのではなく、論理のあ・阨緖ゥ体が、通常なら合理的と呼ばれるような過程に則ってはいない。


それでは何に則っているのかと問うなら、文体の佶屈やペタントリーともども、ことばを、そしてイメージを連ねていく動勢と傾斜によるといいうるのみだろうか。物語全体が謎の解決なる一点に収斂してしまうという、本格推理小説につきもののアポリアは、だから、ここでは問題になるまい。とはいえそれは、近年のメタ・ミステリー的な傾向の作品に見られる、謎がすべて解決されないことをもって、リアリティの、もしくはリアリティのゆらぎというリアリティの保証とするような、いささか職場放棄めいたメタ・レヴェルヘの依存によるものではない。謎はすべて解かれる(6)。しかし謎も解決も、ことばの連鎖としては等価なのである。ことばの過剰な堆積は、いかなる意味づけにも回収されることなく、ただ積みあげられるばかりだ(7)。もとより、人物の相貌学的な描写などからうかがわれるように、作者が時代の制約から自由なわけではない。しかしそうした限界すらも、ことばの堆積は覆いつくしてしまう。ただあくまで、自律的たらんとする詩ではなく散文、それもエンターテインメントのかぎりで(8)、最終審級としての意味によって保証されることなく、がしゃがしゃとことばが連なっていった結果残るのは、『黒死館』を形容するのにしばしば用いられる、〈空中楼閣〉であろう。



1.日影丈吉、「解説-小栗虫太郎の文章-」、『白蟻 小栗虫太郎傑作選Ⅱ』、社会思想社(現代教養文庫)、1976、p.233。

2.澁澤龍彦、「解説」、小栗虫太郎、『黒死館殺人事件』、桃源社、1969、p.308。また、権田萬治、『日本探偵作家論』、双葉社(双葉文庫)、1996、p.233。

3.松山俊太郎、「解題」、『黒死館殺人事件 小栗虫太郎傑作選Ⅰ』、社会思想社(現代教養文庫)、1977、p.475。

4.日影、前掲書、p.232。また、原田邦夫ほか、『物語の迷宮 ミステリーの詩学』、東京創元社(創元ライブラリ)、1996、第7章、とりわけ第Ⅳ節。

5.荒俣宏・笠井潔、「悪夢よりの帰還-恐怖の鉱脈としてのラヴクラフト」、『ユリイカ』、vol.16 no.10、1984.10、p.107。引用文中の「原典」とは、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』のことで、『黒死館』のモデルとされる。

6.権田萬治は、『黒死館』「を頂点とする氏の奇怪な殺人の世界は、いわば不条理な知的迷宮の世界であって、結末にいたっても常に不可解な謎を残したままなのである」と述べているが(権田、前掲書、p.228)、ここでの「不可解な謎」は、作品内部の個別の謎を指すものではあるまい。

7.江戸川乱歩は『黒死館』単行本の「序」で、本書に「素材の羅列」との形容をあてている(前掲桃源社版、社会思想社版、ともに頁づけなし)。他方原田邦夫は、中井英夫の『虚無への供物』、夢野久作の『ドグラマグラ』、『黒死館』におけるペタントリーについて、「ペダントリーの過剰は、小説の言葉を事実の再現から引き剥がす。再現しているものがあるとすれば、それは物語の構築、意味の産出の過程それ自体でしかないのだ」と記した。原田ほか、前掲書、p.251。

8.日影、前掲書、p.233。


明治20年代前半の黒岩涙香による翻案、谷崎潤一郎や佐藤春夫などによる先駆的な制作等を前史として、1923(大正12)年の「二銭銅貨」にはじまる江戸川乱歩の初期作によって、日本における探偵小説はジャンルとして確立した(9)。ただ乱歩の作品は、1929(昭和4)年の「押絵と旅する男」あたりを最後に、初期の中短篇がたたえていた濃密な密度を減じ、転換期を迎えることになる。30年代の乱歩が、評価はさておき、自身いうところの通俗長篇や『怪人二十面相』(1936)のようなジュヴナイルを発表するかたわら、30年代には、20年代から発表をはじめた横溝正史(cf.,cat.no.3-4-91)や夢野久作らもふくめ、木々高太郎や久生十蘭はじめ、さまざまな作家たちが活動をくりひろげた。「その著しい特質は、社会的現実に背を向けた怪奇幻想や猟奇的な夢幻の世界に遊ぶ作品が圧倒的に多いということである」とされるが(10)、浜尾四郎や蒼井雄などによる本格ものも制作され、また1936(昭和11)年には、木々と甲賀三郎の間で、いわゆる探偵小説芸術論争が交わされた。


そんな中『黒死館』は、夢野の『ドグラマグラ』(1928-35)とならんで、日本の異端文学の代表的な作例として扱われたり、あるいは、戦後の中井英夫の『虚無への供物』(1964)から竹本健治の『匣の中の失樂』(1978)を経て、1980年代後半以降のいわゆる新本格における、メタ・ミステリー的な傾向と結びつけられたりもする(11)


ただ、意味の徹底した空洞化という点で、やはり『黒死舘』は、特異なあり方をしめしているように思われる。さまざまなリズムと速度をもった語り口を畳みかけることで(12)、〈胎児の夢〉という形而上学的な主題を軸に、ウロボロス的かつ合わせ鏡的な迷宮を構築する『ドグラマグラ』も、『黒死館』に比へると、その形而上学という意味に収束していく。あるいは〈アンチ・ミステリー〉を標榜した『虚無への供物』は、〈アンチ〉の語がしめすように、倫理性を宿してしまっている。小栗は「本質的に審美的な作家であって、彼の作品のなかに、人間的衝動や情熱や怨恨やエネルギーの噴出なんぞを探しても無駄だということを言いたいがためなのである。ましていわんや、彼の作品に思想なんぞを求めるのは馬鹿げていよう。神田の生まれである虫太郎は、夢野久作のような田舎者とは、おのずから人間の出来が違うのである」と澁澤が記したのも(13)、修辞の是非はともあれ、理由のないことではあるまい。その冷酷な空虚さ・無意味さに関しては、沈欝さ・過剰さに対する透明な軽快さという点で表情は著しくことなるにせよ、むしろ、稲垣足穂の「一千一秒物語」(1923)がこれに近いといえるかもしれない。謎解きの体裁をとっているところからすれば、同じ足穂の「彗星倶楽部」(1926)を想起することもできよう。

9.cf.中島河太郎、『日本推理小説史』、第1巻、東京創元社、1993。

10.植田、前掲書、p.7。

11.cf.千街昌之、「〈アンチ・ミステリー〉という怪物」、『幻想文学』、no.55、1999.5

12.cf.原田ほか、前掲書、p.241。

13.澁澤、前掲書、p.309。


1920年代後半から30年代初頭にかけては、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスが流行し(cf.,cat.no34-1~3、5、92)、酒井潔の『愛の魔術』(1929)(cf.,cat.no、3-4-4)や『降霊魔術』(1931)が東西の呪術を紹介していた。藤森照信によれば、赤城城吉が、これも脈絡のはずれたイメージをばらばらのままばらまいた『二笑亭』を建造したのは、1927(昭和2)年から31(昭和6)年にかけてであるという(14)(cf.,cat.no.3-4-29)。近代化していく都市としての東京と、その隙間から湧きだす幻視を重ねあわせた内田百聞の「東京日記」が『改造』に掲載されたのは、1938(昭和13)年1月だった。


他方イメージの自己運動による物語の生成という点では、たとえば、出口王仁三郎の『霊界物語』(1921-26、33-34)とともに、竹内巨麿によって1928(昭和3)年から公開されだした、いわゆる『竹内文献』を想起することもできよう(本節の以下の記述は、すべて孫引きに基づく)。竹内の天津教は、一部の軍関係者を惹きつけながら、あるいはそれゆえにこそ、大本教に対する二度の弾圧(1921、35)の間を縫うかのようにして、1930(昭和5)年と36(昭和11)年、やはり二度にわたって弾圧を受けることになる(15)。狩野亨吉の「天津教古文書の批判」が『思想』に掲載されたのは、1936年6月号だった(16)


もっとも、天津教をその一つとする、近代神智学の日本的形態と呼べそうな流れは、江戸時代後期、平田篤胤前後より連綿と続いてきたもので、大石凝真素美らを介して、とりわけ大本教の出口王仁三郎の活動が、そうした系譜の一つの結節点だったという(17)。そこでは、言霊論をはじめとする霊学(18)、古史古伝ないし偽史、神代文字(19)などが密接にからみあいつつ、さまざまな神話的思考が紡がれた。ヘレニズム末期のグノーシス諸派をはじめとして、神智学的想像力においては、抽象的な観念を体系化するのではなく、底無しの虚空をことばで埋めつくそうとでもするかのように、具体性を帯びたイメージが、通俗性や折衷性、それゆえしばしば何がしかのいかがわしさを交えつつ、連鎖し増殖していくという相を帯びるのだが、近代の日本では、一方で土俗的な神の復興、そのかたわらファナティックな天皇ないし神国崇拝(20)が混然としていた。


いかがわしさは、均衡を失した過剰さから生じる。それはまた、今・ここと超越者との距離の、逆説的なありようをしめすものにほかならない。ちょうど、仏教をふくむインド系の宇宙論で、宇宙規模の時間や空間の単位がはなはだ巨数化されたり、あるいはグノーシス諸派において、始源と劣れる創造神との間に幾重もの神格が積み重ねられたように、古史古伝ないし偽史にあっては、皇統譜が長大なものに拡大された。日く、「宇宙創造を今を遡る『年歴無数』の彼方に置き、地球形成や人類発祥など数億年にも及ぶ壮大な年代史を語る」(21)。「神代の『天皇』は代々、越中に都し、天之浮船という乗り物で全世界を巡行していたという。かくして本書では、五色人(さまざまな人種)の発祥地は日本であり、日本そして越中が全世界の聖地であることがくりかえし強調される」(22)。先行する神話群との異同を確かめる必要はあるだろうが、「およそ、古代史に関する荒唐無稽な話の焦点はすべて本書に集中しているとさえいってよい」とされる『竹内文献』は(23)、その典型の一つと見なせよう。


もとより、『黒死館』と『竹内文献』に直接の関連があるわけではなく、仮に何がしか平行を読みとれるとしても、世界を把握しようとする欲望に突き動かされた神智学的想像力と、徹底して無意味な空中楼閣を築いた『黒死館』をひとしなみに扱えるものではあるまい。また、幾本かの平行線を、何らかの原因から生じた結果あるいは反映ととらえようとしているわけでもない。ここでの関心は、1930年代という織物を縮みあげた糸の内から、平行して走ると見なせそうな教本をひきだしてみた時、どんなアラベスクが浮かびあがるか、ということでしかない。さて、美術の領域で、曖昧であれ何らかの平行を見出せるような手がかりはあるのだろうか。

14.藤森照信、「二笑亭再建せり」、式場隆三郎ほか、『二笑亭綺譚』、求龍堂、1989、pp.196-201。

15.中村和裕、「偽史を支持した軍人たち」、『別冊歴史読本 特別増刊14「古史古伝」論争』、新人物往来社、1993。長山靖生、『偽史冒険世界 カルト本の百年』、筑摩書房、1996、第6章。

16.前掲『「古史古伝」論争』に再録。

17.cf.荒俣宏編、『世界神秘学事典』、平河出版社、1981、pp.466-503。『古神道の本(Books Esoterica-10)』、学習研究社、1994。

18.cf.鎌田東二、『神界のフィールドワーク』、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1999。同、『記号と言霊』、青弓社、1990。

19.cf.府川充男、「図彙漫筆 異形の文字諸体」、『クリティーク』、no.15、1989.4。同、「神字と新字 近代日本における〈文字〉の発明」、前掲『「古史古伝」論争』所収。長山、前掲書、第5章。

20.cf.「総特集=偽史倭人伝」、『地球ロマン』、復刊1号、1976.8。

21.原田実、『幻想の超古代史「竹内文献」と神代史論の源流』、批評社、1989、p.18。

22.原田実・森克明編、「古史古伝事典」より『竹内文献』の項、前掲『「古史古伝」論争』、p.417。

23.原田、前掲『幻想の超古代史』、同上。


本図録第2章2節aの解説で記したように、1930年代の前衛的な傾向においては、シュルレアリスム的であれ抽象的であれ、無規定なひろがりの中をイメージなり形態が浮遊するという空間が、少なからず見受けられるように思われる(24)。それはまた、1931(昭和6)年の『独逸国際移動写真展』を契機の一つとして展開した、フォトグラムやフォトモンタージュによる新興写真とも共通している(本図録第2章3節参照)。たとえば古賀春江や福沢一郎の30年前後の作品が(cat.no.2-2-13、2-2-1)、その組みたて自体すでに、コラージュ的なあり方をしめしていることは、その出典もふくめ具体的に論じられているが(25)、ここでいうイメージなり形態の浮遊とコラージュないしモンタージュは、基本的に同じ事態の現われと見なすことができよう。


しかし他方、両者が一つの根から発したとすれば、コラージュがもともと有していたはずの、作品の外部からの異質なものの侵入と衝突という性格が、視野から消えていることを意味する(もっとも、福沢の画面がたたえる粗放さは、そうした相をうかがわせるものだが)。ところで、浮遊するイメージなり形態あるいはコラージュは、何らかの支持体のひろがりの上に配される。支持体のひろがりが必須であるということが自明の前提と見なされる時、自明であるがゆえにそれは、視野の背後に退くことだろう。すると今度は、その上に配された、散在するイメージなり形態あるいはコラージュの外部性もまた、不問に付され、予定調和の内に回収されることになる。ここから、近代趣味という意味でのモダニズムの、モダンと呼ばれる感触が生じるのではないだろうか。モダンな感触とは、空白の支持体が背後に退く、まさにそれゆえに一切を包摂することで、その上に配されたイメージや形態、断片だけでなく、画面全体に、支持体の白さ、ひいてはどこにも足をつけることのない軽さと浮遊感をいきわたらせることだと、いえるかもしれない。


こうした様相は、30年代には、本図録第2章2節bの解説で記したように、格子状の布置ないし分割という形で、平らな表面という、支持体のあり方自体を主題化しようとしたかに見える作品にも、基本的には認めうると考えてよいだろう(26)。また、たとえば長谷川三郎の『無題-青の静物』(cat.no.2-2-18)では、テーブルクロスを表わすらしき8の字型をはじめとする文様が、画面全体をほぼ均一に覆うことで、絵の表面の存在を強調する。ただ、文様の配置がかすかに末ひろがりをなすため、絵の表面に沿いつつも、その上を斜めに滑空するかのような空間が生じている。8の字を描く筆の速さと白さは、暗さゆえ後退しようとする地の青との間に乖離をひきおこし、そこに空間のイリュージョンが宿される。二つの静物が、さらにその手前で浮かぶ一方、葉や花を縁どる筆致の強さは、8の字文様と連絡している。


一時期のマレーヴィチを連想させるこうした空間は(27)、小野忠重の『かたち 水』(cat.no.2-2-16)や向井潤吉の『影』(cat.no.2-2-21)のような具象でも、また山本敬輔の『80-x-38』(cat.no.2-2-22)のような抽象、傾斜する帯状の色面が横にならぷ村井正誠の『パンチュール No.3』(cat.no.2-2-12)でも、大まかには同様だ。他方、広幡憲の『39xQE(cat.no.2-2-23)では、線や面の重切が奥行きを発生させる。いずれにせよ、絵の空間と支持体とが即物的に一致するような事態は避けられ、何らかのイリュージョンが生じる余地は残されているのであり、むしろ、そのイリュージョンこそが表現の核をなすものとして呈示されているのである。

24. 拙稿、「日本の幾何学的抽象をめぐる覚書-四角はまるいかⅡ-」、『芸術学芸術史論集』、no.5、神戸大学文学部芸術学芸術史研究会、1992、pp.4-8。

25.速水豊、「日本シュルレアリスム絵画の発生-イメージの移入とその影響-」、百橋明穂代表、『日本美術のイコノロジー的研究-外来美術の日本化とその特質-』、平成元年度・二年度科学研究費補助金【総合研究A】研究成果報告書(研究課題番号01301008)、1991.3。速水豊、「古賀春江の超現実主義絵画と同時代のイメージ」、『美術史』、no.137、1995.3。大谷省吾、「福沢一郎とコラージュ-1930年代初期の日本におけるシュルレアリスム受容をめぐって」、『東京国立近代美術館研究紀要』、no.5、1996.3。

26.拙稿、前掲論文、pp.9-11。

27.もっともマレーヴィチの作品は、戦前には充分な形で紹介されていなかったという。五十殿利治、「マレーヴィチと日本の前衛美術-戦前期を中心に-」、カジミール・マレーヴィチ(五十殿訳)、『無対象の世界 バウハウス叢書11』、中央公論美術出版、1992。ちなみに、戦前の日本におけるモンドリアン受容については、五十殿、「ネオ・ダダイストから始まる-『モンドリアン受容』小史」、『モンドリアン展』図録、ハウステンボス美術館ほか、1998。


桂ゆきの『作品』(cat.no.2-2-31)でも、コラージュされたコルクは画面全体をほぼ均一に覆っている。中央左下よりの大きめのかたまりやその右下の白い縦長の長方形がアクセントをなすとはいえ、ここでは、コルクの配列は空間のイリュージョンを生むことはなく、むしろ、コルクの押しあいへしあいが、空間の形成を封じんとしているかのようだ。その結果作品は、他の何か、空間なりイメージになぞらえられることのない、物であるところの、コルクの集合としてのみ現われることになる。他方集合であることは、一つ一つのコルクがそこにあることを否定しきりはしない。集合と個々のコルクの存在との緊張こそが、それ/それらを、他の何ものにも還元しえない物体として現前せしめるのだ。そのかぎりで、この作品において集合と外部の境界である枠どりは、一見無限に延長できる連鎖をたまたま切りとったように見えながら、物体を表現にかろうじて転化せしめるという、きわめて重要な役割をはたしている。「わたしは日本のシュールの地平線が描いてある絵がきらいなの」と桂は述べたことがあり(28)、そこに反イリュージョナリズム的な意識の潜んでいたことがうかがえよう。


鳥海青児の『水田』(cat.no.2-2-30)は、そのタイトルと、上辺に沿って空らしき部分があるので、具体的な風景から出発したと了解することはできるのだが、画面そのものは、暗褐色の絵具を塗りたくったとしか見えまい。ただ、筆運びがほぼ水平軸に沿っている点、暗褐色の沈みこむ印象、練りの堅さ等ゆえ、筆致が勢いをもっているにもかかわらず、画面は単なる身ぶりの痕跡には終わっていない。かといって、絵になりきれなかった物としての絵具のかたまりともいいきれず、暗褐色の間にはさみこまれた、あるいはその下からのぞくかのような明るめの黄色と暗褐色との対比によって、絵具の物質性を強調するかぎりで、焦点を結ぶことのない物質のうごめきが、それ自体として、光、ひいては生命をはらむかのような感触をもたらすことになる(29)。ほぼ水平軸に沿った筆の動きは、画面にひろがりを与える一方、しかし中央下あたりでわずかにたわんでおり、そのため、長谷川三郎の『無題-青の静物』等に見た斜めに滑空する空間とはちがって、求心的にその場で溜まろうとしている。このかすかな溜まりが、物質性と光の共存を許容するのだ。けだしここでは、物質性と表現との臨界が、桂の『作品』とは別のヴェクトルで現われていると見なすことができるだろうか。


ある意味での過剰さを宿すまでに積みあげられた物質が、「地平線が描いてある」遠近法的な景観であれ、イメージの断片が浮遊する無規定なひろがりであれ、画面を構成すべき枠組みとしての空間を崩壊させてしまい、物質が物質として現前する。それが同時に、枠組みのあり方自体を主題として浮かびあがらせる。もとよりこうした事態は、本図録第2章2節cの解説で記したように、日本的なモダニズムから独立した流れをなすものではなく、またその展開の帰結というわけでもない。前衛的とされる傾向のただなかで活動していた桂と、日本近代洋画とそのフォーヴィスム的な傾向を引きついだ鳥海とでは、その出自も同じ環境とはいえまい。


他方先にふれたように、福沢一郎の30年前後の作品では(cat.no.2-2-1)、粗放な描法と相まって(30)、イメージの衝突が暴力的と形容できそうな違和感をもたらしており、そのためイメージは、何らかの情調なり理念に回収されることのないまま、即物的に放置されている(31)。また三岸好太郎の『花』(cat.no.2-2-4)において、湧きだそうとする黒の線による記号は、その下のざらざらした質感をもった不定形なかたまりや、地をひっかいた線と緊張関係にある。


とすると、物質性の露呈という様相を看取することが許されるとして、それは、30年代のモダニズムを織りなす幾本もの糸の内の幾ばくかがねじれた時、時おり間歇的に噴きだすにとどまったというべきなのだろう。さらにそうした見方自体、第二次大戦後のアンフォルメルや抽象表現主義、ミニマル・アートを経由した目によって可能になったものでしかあるまい(32)。ただ、枠どりとしての空間の崩壊をひきおこすまでに堆積された物質の過剰という相が、『黒死館殺人事件』における、ことばの過剰な連鎖によって構築された空虚な空中楼閣というあり方と、いささか強引かもしれないが、何らかの平行を認めることができるかもしれないと、考えてみたまでだった。その際、どちらかがどちらかに影響を及ぼしたはずはもとよりなく、また両者に共通の心性を反映したものということができるわけでもない。

28.針生一郎、「桂ユキ子 現代作家論」、『美術手帖』、no.193、1961.9、p.27。また、「インタヴュー 桂ゆきの40年」、『みづゑ』、no.893、1979.8、p.45。Cf.拙稿、前掲論文、pp.11-12。

29.cf.土方定一、『日本の近代美術』、岩波書店(岩波新書)、1966、pp.182-183。

30.cf.速水、前掲論文、1991、p.41。大谷、前掲論文、pp.65-66。

31.cf.大谷、前掲論文、pp.61-63。

32.〈空間の崩壊〉の語は、おもに抽象表現主義とその後の展開をめぐって、藤枝晃雄が用いたもの。たとえば、藤枝晃雄、『現代美術の展開』、美術出版社、1986、pp.54、91、93など。


最後に、『新青年』連載当時、松野一夫によって付された『黒死館』の挿絵にふれておこう(cat.no.3-4-90)。本体ぬきで装飾のみからなりたつかのような『黒死館』のあり方は、先に見た空間の崩壊/物質の現前という構造をみたしつつ、表面的にも近似しているものとして、たとえば、『ユピテルとセメレー』(1895)のような、ギュスターヴ・モロー晩年の〈宝石細工〉を過剰なまでに増殖させた作品、あるいはモンス・デジデリオのやはり晩年のものと推定される作品群、さらに郵便夫シュヴァルの理想宮などを連想させる。流動的なエネルギーを感じさせるとはいえ、谷中安規の『青春の墓標』(cat.no.2-2-28)も、これに加えることができるかもしれない。


これらに比べれば松野の挿絵は、ペダントリーの過剰さをそのまま写しとろうとするものではないが、漆黒の闇の中から、粗放かつ生硬な白い線によってイメージが浮かびあがり、あるいは消えいろうとするさまは、小説の雰囲気の一端をある程度まで伝ええている。過剰さは、モティーフの累積ではなく、黒の充満に置き換えられているとでもいえるだろうか。これらの挿絵は、「紙にポスターカラーのホワイトを塗り、その上に墨汁を塗る。先を削った割り箸や竹箸、ペン先でそれを引っ掻き、銅版画の様な風合いを出す」という技法によって描かれた(33)。厚みのある黒を削りおとすというよりは、削りおとすことで黒に厚みが生じる。厚みという以上それは、視覚的なイリュージョンから生じるふくらみではなく、触覚的で密度のある物質にほかならない。物質を裂開することでイメージがひきだされながら、それはあくまで、現前する物質の内部でひきおこされたのだ(34)


そしてここに、『黒死館』における意味をはじき飛ばすことばの連鎖や、桂や鳥海における空間の崩壊との、何らかの照応を見ようとするのは、しかし、こじつけにすぎるだろうか。とまれ、「その黒ベタに白ヌキで描かれた陰画のような挿絵は、国際経済の破綻前夜を思わせる昨今の世相と妙に同調し、豊饒から破滅に至る、漠とした不安を駆り立てずにはおかない」という、本挿絵についての気谷誠のことばを引いて(35)、幕を閉じることとしよう。


(三重県立美術館学芸員)

33.『「新青年」の挿絵画家 松野一夫展 ~昭和モダン・ボーイズ グラフィティ~』解説書、1998、p.11(+訂正表)。また、「最初は、油絵のホワイトを使っていたが、それでは紙に油が滲んでしまい、うまくいかなかったのでポスターカラーに変えたという」、同上。

34.本挿絵にはしばしば、〈銅版画〉風との形容があてられるが、荒々しい形態の切りだし、闇の遍在、加えて物語性は、社会性の有無という点で主題の向きがほとんど正反対であるにもかかわらず、木版画の特性を活かし、木とそれを刻む彫刻刀の存在を強く感じさせる、小野忠重の『三代の死』(cat.no.4-1-21)との類縁を認めさせなくもない。ちなみに荒俣宏は、乱歩とプロレタリア文学との類似を指摘したことがある。荒俣宏、「機械への嗜好性-乱歩とプロレタリア文学」、『別冊太陽 no.88 乱歩の時代 昭和エロ・グロ・ナンセンス』、1994冬。同、『ホラー小説講義』、角川書店、1999、pp.131-138。

35.気谷誠、「『黒死館殺人事件』」、『本の都』、no.66、1998.11(特集 松野一夫)、p.9。

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