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美術館 > 展覧会のご案内 > 企画展 > 1996 > 2 芸術と社会 1920年代展図録

2 芸術と社会

1 画家たちの社会意識

大正という時代は、資本主義の急成長と、中間層や労働者・農民など無産階級が幅広く政治に進出し、それを背景として、政治、社会、文化の各分野において大正デモクラシーと呼ばれる民主化が進行したことを時代の特徴としている。1918(大正7)年の夏に発生した米騒動は、約50日にわたって繰り広げられ、その勢いはl道3府38県におよんだが、これは、我が国で最大規模の民衆運動であり、大正デモクラシーを一面で象徴づける事件であった。 米騒動により寺内内閣が倒れたあと、平民出身の政友会総裁原敬が内閣総理大臣に任じられ、閣僚の大半を政友会員でかためた、憲政史上最初の政党内閣を組織した。こうした内政上の変革に加えて、ロシア革命の勃発や国際連盟の成立などが外的圧力として加わり、日本では空前の革新気分がみなぎり、大正デモクラシーは最高潮に達した。こうした風潮に押されて、普通選挙運動は全国化と大衆化を押し進め、労働組合も急速にその数を増していった。1920(大正9)年に起こった第一次世界大戦後の戦後恐慌は政府の迅速な救済措置で深刻化を免れたが、財界整理は徹底しないままに終わり、慢性化していた不況のなかで労働運動は激烈化し、農村でも小作争議が激増した。

大戦中の軍需景気による産業の発展と都市への人口集中の加速化にともない、大衆の生活に大きな変化が生まれたのもこの時代の特色である。東京をはじめとする大都会を中心に衣食住という日常面での洋風化が進んだのもこの時期であった。都市生活者を代表する.「サラリーマン」の名が定着し、洋服や洋食が日常生活のなかに入り、都市近郊には手軽で便利な文化住宅が建ち、都心には鉄筋コンクリートのビルが立ち並び、両者を結ぷ交通網が整備された。19世紀半ばに欧米で生まれた百貨店は、日本では、1904(明治37)年、東京日本橋に新装開店した三越が最初だが、この時代、人工の都市集中によってもたらされた巨大な購買力や交通機関の発達、中産階級の拡がりなどを反映して、都市文化の一翼を担うようになっていた。それまで知識人を読者層としていた雑誌にも、こうした都市化の進行によって安く軽い読み物を求める新たな購読層が生まれ、『キング』に代表されるような大衆雑誌が生まれ、『朝日』や『毎日』などの新聞が購買層を急速に拡大した。ラジオ番組が開始されたのも1925(大正14)年のことである。

こうした都市文化の成長と、それは裏腹の関係で引き起こされた社会的な矛盾とが複雑に絡み合って、芸術の革命をめざす前衛芸術運動が一気に高まり、その結果として、社会意識に根ざし、革命の芸術をめざすプロレタリア芸術運動を呼び起こすこととなった。「第2回プロレタリア美術大展覧会」ポスターは、プロレタリア芸術運動に参加した岡本唐貴のデザインになるが、1929(昭和4)年12月に開催されたこの展覧会は、この運動が日本においてもっとも盛り上がったときのものである。岡本は、この展覧会に代表作《争議団の工場襲撃》を出品している。

(山口奉弘)

2 主題としての都市

A.都市風景

急速な都市化と大衆的なモダニズム文化の流行は、1920年代の日本社会の大きな特徴ということができる。重化学工業を中心とする産業化によって国家基盤を整備してきた日本では、既に1910年代から都市部への人口集中が始まり、それと同時に都市問題の解決も大きな課題となっていた。「社会政策派」と呼ばれる内務省の若手官僚や建築家たちが中心になって1917(大正6)年に結成された都市研究会の活動は、1920年(大正9)年の都市計画法と市街地建築物法とに結実し、この2法は東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸に適用された。

1923(大正12)年の関東大震災は、こうしたわが国で新しい都市計画を進める体制の準備が整った、まさにその時に起こった。震災後、帝都復興院を中心に1930(昭和5)年まで行われた震災復興事業によって、道路拡幅や公園設置、公共建築不燃化、区画整理が進み、また劣悪な住宅環境を改善する目的で郊外住宅地開発や集合住宅建設が行われた。こうして1920年代以降、特に関東大震災を契機に実施された都市計画事業を通じて近代的な都市が整備され、東京をはじめとする日本の都市景観は大きく変化することになる。

この1920年代に生まれた日本の近代都市風景は、日本画、洋画、版画、写真などジャンルを問わず多くの作家たちに取り上げられた。鉄筋コンクリート造のビル街、拡幅された道路と路面電車、ガードや鉄橋、工場街の煙突、港湾等々がこれらの作品に登場する主なモチーフであったが、それらはいずれも近代都市の象徴的な存在であった。

もちろん、それ以前においても都市風景を主題とする作品はあった。しかし、たとえば1910年代に描かれた岸田劉生《築地居留地風景》(1912年)に見られるように、そこに描き出された風景と20年代以降の都市風景との間には大きな相違がある。

いうまでもなく、20年代の都市風景は、この時期に新しく登場してきた都市景観に的を絞って描かれている。懐古趣味的な要素はほとんどない。作家たちの関心は、その当時の最新の都市景観を直視しているのである。

こうした新しい都市表現の背景には、第一次世界大戦後盛んになった画家たちの渡欧もあった。渡欧した画家たちの多くは、整備された近代都市パリに魅せられて、数多くのパリ風景を描くことになる。パリには遠く及ばないとしても、日本の都市も20年代に入ってようやくビルが林立する近代都市の様相を示し始めた。画家たちは、パリを描いたように東京や大阪の新しい風景を描き留めようとしたのである。

版画家たちも20年代以降、新しい都市風景に取材した作品を制作するようになった。しかし、版画家たちの作品-特に東京風景は、やや遅れて20年代末頃から30年代以降に作例が集中している。また、《新東京百景》のように東京の新しい風景が既に名所化されている例も少なくなく、そこには洋画家の場合とは異なる意識を認めることもできる。

写真家たちも、都市風景にレンズを向けるようになる。それまで、山岳や海岸など自然の風景が風景写真の中心主題であった。しかし、関東大震災を転機として都市風景がこれに取って代わることになる。立体派、未来派、構成主義など新来の造形思考を応用しようとした写真家たちにとって、鉄とコンクリートからなる都市風景は新しい写真表現を試みる上で絶好の対象であった。

また、三起や大丸、資生堂の宣伝ポスターやパンフレット類、あるいは東京を舞台とした谷崎潤一郎の『痴人の愛』など当時の新聞連載小説の挿絵など、当時の様々なメディアに日本の都市はその新しい姿を現している。

(毛利伊知郎)

B.関東大震災

「大地激震、続いて猛火の災厄に襲はれ、さしも繁華を誇りし帝都も、一朝にして過半焦土と化し、惨憺たる光景、只驚き且つ怖るゝの外はない。」(坂井犀水「大震火災の後に」『みづゑ』244号)

1923(大正12)年9月1日、関東大震災の日の前夜は雨風が強かった。朝になると雨は小降りになっていたが、尚も激しい風が吹き荒れていた。それにもかかわらず、この日は二科会と再興日本美術院の10周年記念展の初日で、会場の上野竹之台陳列館には9時頃から観覧者が多くつめかけていた。午前11時58分、突然襲った大地震で館内は大きく揺れ、観覧者は一斉に出口へと駆けていき、広場の桜の木の元などへ避難した。展示されていた塑像は木っ端微塵となり、額絵は斜めに傾いた。幸いほとんどの作品は無事であったが、この未曾有の大地震で両展覧会は即日中止、予定されていた帝展もその後中止を決めた。

250万人を擁する膨張都市東京をはじめ、関東一帯は焼け野原となった。惨死体は男女の区別も出来ずごろごろと横たわった。日本橋あたりでは洋風建築の残骸だけが残っていた。栗橋や荒川の鉄橋は崩れ、交通が断たれた。

この惨状をスケッチした作家も少なくない。鹿子木孟郎と池田遙邨は震災直後上京し、特に災害のひどかった東京、横浜などをスケッチし、それぞれ《関東大震災の図(大正12年9月1日)》、《災禍の跡》を描いている。版画家平塚運一も震災跡をスケッチし、これをもとに十二景の色摺版画としてまとめた。平塚の作品は、震災の悲惨さとは別の、静謐で情趣をたたえたものとなっている。

一瞬にして廃墟と化したこの大地をながめて、若い芸術家たちは意外と冷静であった。芸術家の多くが被災地から離れた場所に住んでいたこともその要因であるだろうが、新都市東京をどのように新しく建設していくのかということについていち早く頭を切り替えたのは彼等であった。ある者は、これを機会にヨーロッパの都市構造を真似る構想をたてたり、一方で伝統回帰型の都市を考えたりした。

震災2週間後あたりから政府の指示のもと、続々とバラックは建ちはじめた。9月25日の時点で2万1800戸、その後も一週間に一万戸のぺ-スで増え続けたといわれる。こうした仮の住まいのバラックをペンキで装飾し、「バラックの芸術化」をはかったのが、今和次郎、富田謙吉、神原泰、横山潤之助らである。「バラックを美しくする仕事一切」を引き受けたバラック装飾社設立の発想は、ひとつに現代の芸術を一般市民に浸透させたいという欲求が多くの芸術家の心の底にあったことを物語っている。

1910年代の後半から、国外では様々な政治的変動があり、日本はその影響を受けた。ロシア革命(1917年)をはじめとして、第一次世界大戦終結(1918年)による慢性的な不況、朝鮮の三・一独立運動(1919年)、中国の五・四運動(1919年)での反日運動などであるが、それでも、日本は本土の体制を崩すことはなかった。この関東大震災は、単なる自然災害ではなく日本を直撃したもっとも大きい直接的な事件である。そしてその打撃は、日本の社会構造を急速に変換させただけでなく、日本人の精神的な構造をも一気に転換させる大きな要因となった。

(田中善明)

3 都市とデザイン

A.震災とバラック建築

東京の景観は、関東大震災によって明治・大正の面影をすっかり失ってしまったのだという。特に明治政府が力を注いだ銀座煉瓦街は、その後も着実に発展し続けていたにも関わらず振り出しに戻ってしまった。

震災後、人々はバラックを建てて生活を始めた。上野や日比谷に立ち並ぶバラックを、後の考現学を予測させるかのように、今和次郎や吉田謙吉がスケッチし調査している。この二人のバラック・ウォッチングが、間もなくバラック装飾社としての活動につながっていく。

バラック建築による店舗も鋭座や上野に現れ始めた。銀座では御木本真珠店の呼びかけで、11月までには店舗の約2割がバラックを建てて営業を再開した。注目するべきは、そうしたバラック建築の店舗の多くを、建築家、デザイナー、画家たちが手がけていることである。特に、画家たちの装飾面での活躍には、痛手を受けた社会に積極的に関わろうとする芸術家の意識が感じられる。同時に、本建築までの期間限定というバラック建築は、彼らにとっては自由な表現を試みる場ともなった。いずれにしても、建築家、美術家によるバラック建築は、廃墟と化した街並みに活気を取り戻すきっかけを与えたことには間違いなく、12月10日の東京日日新聞は、「復興途上にある東京は 世界に類のない 芸術的の新市街」、「美化し芸術化した新しい都としてわれわれの前に現れた」と好意的に報じている。

バラック建築の設計は、曾禰中條建築事務所などの大手以外に遠藤新や前田健二郎などの若手建築家によっても手がけられた。商店主自身による傑作さえ飛び出している。仮建築という安普請にもかかわらず、その自由なアイデアは今でも目を楽しませてくれる。

装飾は、建築家、デザイナーのほか、多くの画家によってなされた。中でも、次の二つのグループの活動が目立っている。今和次郎率いるバラック装飾社と村山知義らのマヴォである。バラック装飾社は、アクションと尖塔社のメンバーで構成され、アクションからは、中川紀元、神原泰、浅野孟府、吉田謙吉、横山潤之助、吉邨智雄、尖塔社からは大坪重周、飛鳥哲雄、遠山静雄が参加していた。日比谷公園内の開運食堂が初仕事で、その後注文が殺到。代表作は曾禰中條建築事務所設計のバラック建築〈カフェーキリン〉の外部、室内装飾である。また、マヴォの仕事は、やはり曾禰中條建築事務所設計の葵館の装飾や、バー・オララの建築などがよく知られている。

バラック建築の仕事は建築と装飾をめぐる問題提起の場でもあった。遠藤新は、『婦人之友』11月号に論文「バラック、バラック、バラック」を掲載し、今和次郎のバラック装飾社の仕事について批判的な意見を述べている。今和次郎に対しては、分離派建築会の滝沢真弓からも批判され、両者は雑誌を介して論戦を繰り広げている。また、マヴォら新興芸術家にとっては、立体構成物への関心を促すきっかけともなった。

バラック建築の仕事は、携わった者の美学が試され、その後の方向性への引導役を果たした。本建築が建てられるごとに次々と姿を消していったバラック建築。1927(昭和2)年8月には法的に取り壊しが決定。真夏の夜の夢のような時代は終わりを遂げた。

(桑名麻理)

B.都市建築と装飾

1920年代、生活、労働、娯楽などを求めて人々は都市に集中した。都市を装う都市建築も大きくその相貌を変えている。震災復興で空前の建築ブームに沸いた都市建築をここでは取り上げる。

1.1で触れたように、当時の建築界は、様式主義、構造学、そして様式主義に批判的な分離派建築会などの新しい流れで多様を極めていた。都市建築においても同様だった。
 構造面では、大正に入って佐野利器や内田祥三、内藤多仲らによって研究されていた鉄筋コンクリートがすでにいくつかのオフィスビルディングで使われるようになっていた。そして迎えた関東大震災。鉄骨構造の損害に対し、びくともしなかった鉄筋コンクリート造の耐震性・防火性が証明された。こうして鉄筋コンクリート構造がその後の都市建築の基本となった。

さて、都市を彩る建物の外観はどうだったのか。新興建築では、逓信省営繕課、竹中工務店などに代表作がみられる。当時の逓信省は岩元禄、吉田鉄郎、分離派の山田守を抱えていた。彼らの設計した電信関係の建築は表現主義的で明らかに新しい。また、竹中では分離派の石本喜久治が活躍していた。彼の代表作として東京朝日新聞社社屋が挙げられるが、後の白木屋にみられるように石本は急速にモダニズム建築へと傾いていく。ライト派も忘れてはならない。1923(大正12)年、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルが完成。ライト自身は完成を待たずしてアメリカに帰国してしまうのだが、弟子たちが彼の考え方を受け継いで活動を始めた。なかでも、遠藤新は自由学園や甲子園ホテルなどを手がけたほか、住宅作家としても傑作を多く残している。

新興建築からは疎まれた歴史様式主義ではあるが、実際には当時の商業建築の殆どが何らかの様式を取り入れていた。本来ならばその時代の思想、美学と関連付けるべき建築様式を、日本では歴史的文脈から切り離し、建物の装いとして考えたのである。例えば、三菱銀行本店なとの銀行建築の多くは古典様式を用いて権威的な雰囲気に仕上がっている。また、丸ビルなどの貸しビル、あるいは劇場や百貨店などの娯楽施設は様式を折衷しより自由に設計された。また、図書館や公会堂、学校建築など文化的な雰囲気を要する建築には、ゴシックなどの中世様式が用いられている。つまり、建物の用途に適った建築様式が建築家と施主との間で選ばれていたのであり、建築家たるもの、様々な様式を使いこなせることが必要とされていたのだ。こうしたことは、勧業銀行や興業銀行、大阪ビルなどを設計した渡辺節、高麗橋野村ビル、大阪倶楽部などの安井武雄、日比谷公会堂、早稲田大学大隈記念講堂、実業之日本社などの佐藤功一らの仕事ぶりに著しい。ちなみに、渡辺と安井は関西に事務所を構えていた建築家だが、彼らが東京でも成功を収めていたことは興味深い。

都市建築を表情豊かにしていたのが、アール・デコ装飾やテラコッタである。石材に乏しい日本では焼きもののテラコッタは、外壁を覆うためというよりもその装飾性において人気を得た。テラコッタを多用した帝国ホテルに刺激を受け、震災後、テラコッタ使用は急速に普及している。渡辺、安井、佐藤も大のテラコッタ好きで、彼らの建築にはそれぞれ個性的なテラコッタ装飾が付けられている。伊賀窯業、伊奈製陶、大阪陶業が製造していたが、モダニズム建築の到来で、建築から装飾性が失われるとともにテラコッタは壁面から消えていった。

(桑名麻理)

C.商業美術とグラフィック・デザイン

1924(大正13)年7月の『マヴォ』の刊行が近代グラフィック・デザイン史上の重要な出来事であったという点は、すでに指摘されているとおりであろう。兆しはあっても、少なくとも震災前まで続いていた1910年代以来のグラフィックの流れを、『マヴォ』に代表されるロシア構成主義の影響の色濃いデザインが一つの衝撃となって断ち切り、別次元へ導いたことは確かに思われる。その一方で、初期に竹久夢二の影響が指摘される柳瀬正夢が1920年代にグラフィックの分野で行った一連の仕事は、わずか数年のうちに日本のグラフィックがいかなる劇的な変貌を遂げたかを連続的に例証しているのではなかろうか。

『マヴォ』創刊の年に手がけた『審くもの審かれるもの』の箱の原画ですら、情緒を残した精緻さを窺わせる柳瀬のスタイルは、1920年代の未に向かって急速に変化している。翌年の「小川未明選集」の広告ポスターでは、白、赤、黒という1920年代に典型的な色遣いと面の分割による、タイポグラフィー中心のデザインが採用されているが、いまだ柳瀬本来の装飾性と細部への執着が特徴的である。しかしポスター、装幀ともに次第により簡素で直截的な表現が取られ始め、1927(昭和2)年の無産者新聞のポスターには、これ以前とは全く異質なプロパガンダとしてのデザインが姿を現す。装飾性や精緻さ、雰囲気は完全に捨てられ、目を射るように画面からメッセージが力強く飛び出してくる。柳瀬とプロレタリア運動との関わりを考えるならこの変貌は当然である。しかしながら一人のデザイナーの数年の歩みとしてはあまりにも急激というほかない。柳瀬のグラフィックという点ではゲオルゲ・グロッスの影響の色濃いカリカチュアもこの時代の欠かせない要素である。

1920年代は、商業美術が確実に一つの分野を形成した時代にもあたる。1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて全24巻が刊行された『現代商業美術全集』には、同時代の欧米の多数の実例とともに、日本のデザイナーの作品が紹介されているが、伝統的な引札から構成主義まであらゆる要素が収録されている。全集発刊の中心となった濱田増治によれば、商業美術こそ最も時代を反映するという点で「真正の藝術」として位置づけられるべきであった。新興美術運動と商業美術は、この時期、時代のなかで社会的な役割を果たす美術をめざすという点で地平を共有していたのである。商業美術の隆盛は、消費社会の進展による現実的要請に由来するばかりでなく、デザイナー自身の自覚による積極的なものであったことが知られるのである。全集の発刊は1920年代の動きのいわば集大成であったが、商店界社発行の『廣告界』(1925年)、1910年代以来先駆的な役割を果たしてきた杉浦非水を中心とする七人社発行の『アフィッシュ』(1927年)など、商業美術に関する出版が相次ぎ、作品の発表や商業美術論が盛んに行われると同時に、七人社や商業美術家協会などデザイナーの団体が次々に結成され、展覧会も開催されている。杉浦非水に続く個人デザイナーが頭角を現し始め、戦後に至るまでグラフィック・デザインの第一線で活躍を続けた今竹七郎や山名文夫が、それぞれ神戸大丸、プラトン社の雑誌を舞台に活躍を始めたのもこの時期である。

すでに1910年代からデザイン活動に力を入れ始めていた三越や資生堂、森永製菓は、消費を中心とする都市文化をさらに意識したデザインを展開している。いわばファッションブックの先駆けのようなPR紙の口絵をとおして、百貨店を舞台とする新しい消費の対象としての商品のイメージを宣伝し始めた三越、ポスターや新聞広告はいうに及ばず、製品のパッケージから印刷物、店舗に至るまで、徹底した総合的デザイン活動によってイメージを作り上げた資生堂、いち早く写真をポスターに取り入れるなど、常に積極的な時代の先取りを行った森永、それぞれに特色を出している。

(土田真紀)

D.工芸からデザインヘ

今和次郎は銀座で風俗調査を始めた動機を「震災以前からしきりに華美に傾いた東京人の風俗を、記録しておきたか」ったのだとしている。1920年代はいわゆるモボ・モガの時代であり、当時の婦人雑誌等でしばしば「モダン・ガール」が話題に取り上げられている。モガといえば断髪に洋装を思い浮かべるが、1925(大正14)年に今が行った銀座の調査では、洋装が半数以上を占める男性に対し、女性の洋装は和装99に対したった1であった。常に時代を先取りしていた三越呉服店においても、1920年代前半にはまずバッグやパラソルなど洋装の小物を売り出し、次いで後半になってようやく積極的に洋服が売り出されている。杉甫非水、竹久夢二、矢部季などを起用し、ファッションブックの要素を取り入れたPR誌『三越』の口絵でも、主流を占めているのは和装である。したがって、ここに取り上げた御木本製の髪飾りや帯留、そして着物は、192O年代には、最先端のファッション、すなわち消費空間としての都市を舞台に展開される最も華やかなデザインの担い手であった。それらは、慣習が支配的であった地味好みの明治と、「贅沢は敵」がスローガンとなった時代の狭間のほんのひととき、近代都市文化を彩ったのである。

1910年代にアール・ヌーヴォー、セセッションを巧みに取り入れ、優雅で繊細な曲線を中心とする洗練されたデザインを生み出した御木本では、1920年代になると、アール・デコ風の直線的なデザインが顕著になり、構成主義を思わせる斬新なデザインの帯留も登場する。同時に伝統的な花鳥モティーフを源泉に、洋風にアレンジした御木本特有の和洋折衷様式が完成している。こうしたデザイン上の冒険、オリジナリティーの確立とともに、芥子珠と呼ばれる天然の小粒真珠に用いられたミル留めの技法やカリブルと呼ばれる角形カット石をはめ込む技術など、御木本が得意とした技術の水準の高さも特筆すべきであろう。

ジュエリーという新分野にも、工芸を担ってきた優れた職人技の系譜が生かされている一方で、最も伝統的な分野の一つ染織では、この時期、一部で技術のあり方に変化が生じ、全体のデザイン的効果が、技術の高さ、職人技以上に重視されるような場合も出てきている。一例として、不規則な絞染による効果がデザインに生かされた着物が挙げられる。大きさの揃った正確な鹿の子が要求される京鹿の子絞りなどとは全く異なるやり方であるが、技術としては不完全なものが全体の卓抜なデザインの中で見事に生かされている。従来のように技術を絶対視するのではなく、技術の高さ以上に自由なデザインの発想を優先させる、この技術とデザインの関係が逆転するまさにその瞬間、両者が見事なバランスを保ち、かつてない着物が生まれるのである。もちろん、全体として技術は高水準を保っており、染織の分野でも、新しい時代に対応するべく、さらに様々な新しい技術が熱心に試みられていた。織りによる地紋のデザインと、その上に施される染めのデザインの関係が心憎いほど考えられたこの時期の着物は極度に洗練された感覚の産物である。あらゆる面で大衆化が進むなか、この時期まで、技術とデザインの見事なコンビネーションは生き続けていたのである。

工芸を支えてきた職人的伝統が生かされながら、都市という消費空間のなかで自由な技法とデザインが試みられた御木本のジュエリーや着物は、工芸思想や個人作家を云々する工芸史の観点からは看過されてきたが、従来の工芸的伝統を引き継ぎながら、自由なデザインの可能性を示し得た貴重な作品群であると思われる。

(土田真紀)

4 生活様式の変革

1910年代の半ば、文化学院の創設者西村伊作が自ら設計した和歌山県新宮の自宅で自己流に実践した洋風を取り入れた生活様式は、1920年代には、東京あるいは京阪神の郊外に次々と形成された住宅地に建てられた文化住宅において、次第に一般化していくことになる。中流以上の家庭に限られていたとはいえ、日本人一般の生活様式、しかもプライヴェートな領域への「洋」の浸透が始まったのである。ここで取り上げるのは主として家具、そしてインテリアの問題であるが、ちょうどこの時期、たとえば家庭料理にも洋風料理が登場し、「第1次家電時代」とも呼ばれるほど、扇風機、電気ストーヴ、洗濯機などの家電製品やガス器具も一部には登場し始めている。生活の様々な場面に生じてきた変革のうち、その後の日本人の生活を大きく変えたものの一つは椅子の登場であろう。

1920年に結成された生活改善同盟は、「住宅改善の方針」という6項目の提案の冒頭に「住宅は暫時椅子式に改めること」を挙げた。椅子は洋風の生活の象徴であるとともに、当時、日本人の生活の近代化、合理化をめざした運動にとっての象徴でもあった。同時に椅子の登場は、住居における間取りや室内空間の変化をも必然的に意味していた。

この時期、こうした家具およびインテリアの問題に最も熱心に関わった人物が木檜恕一であり、森谷延雄である。二人は1918(大正7)年11月に家具研究団体の樫葉会を設立し、1919(大正8)年3月からは機関誌『木工と装飾』(後『木材工藝』と改称)を発刊している。ともに1920年代初頭に欧米に留学して研究を進め、帰国後はさらに啓蒙的な役割を積極的に担っていった。しかしながら、柏木博氏が指摘するように、ともに洋風化を通して日本人の生活様式の変革を試みながら、二人の方向は微妙に異なっていた。1920年に結成された生活改善同盟の委員であった木檜恕一は、室内装飾の重要性を認めつつも、あくまで生活の合理化に重点を置き、間取りや設備、経済性といった問題にとりわけ注意を払っている。一方森谷廷雄は、木檜同様啓蒙的役割を担いながら、1925(大正14)年の国民美術展に「ねむり姫の寝室」を出品するなど、やや現実生活から遊離した感も否めない詩的なインテリアをも手がけている。「私の一生は家具界の革命であるのです。森谷式を作る事であるのです」と日記に記すほど高い理想を掲げた森谷は、1926(大正15/昭和元)年に木のめ舎を結成するが、第一回展の直前に他界し、嘱望されながら十分に才能を開花させるに至らなかった。

もう一人、この時期のインテリアに大きな問題を投げかけた一人は斎藤佳三である。美術、音楽、演劇、舞踏などあらゆる芸術分野に通じた斎藤佳三は、総合芸術の観点から彼自身のいう「生活芸術」あるいは「組織工芸」としてのインテリアに取り組み、帝展に第四部が設置された1927(昭和2)年から1932(昭和7)年まで毎回出品、そのたびに論争を喚起した。「一つのモーテイヴを以て全体の空間を占領」する斎藤の先鋭的なインテリアは、藤井達吉から中にいると「発狂しそう」という批判すら受けた。インテリアを一つの芸術作品として捉えたヨーロッパの世紀末以来の空間造形の試みに匹敵するものを実現しようとしたその試みは、あまりにも性急に映ったのである。

1928(昭和3)年には、生活の合理化の次の段階といえる家具やインテリアの規格化、標準化をめざした形而工房が設立されている。形而工房の理念、およびその本格的な活動は1920年代よりも1930年代に属しているにしても、この頃にはすでにパウハウスの活動や金属家具などがかなり紹介されていた。1910年代に萌芽としてあった生活様式の問題は、1920年代に一挙に広がり、「洋」をどう取り込むかに加え、ヨーロッパ近代デザイン史の数十年分の展開の紹介が集中的に行われるような状況を作り出したのである。

(土田真紀)

*      *      *


洋室と和室からなる日本人の中流住宅。この和洋折衷住宅の原点は1920年代にある。確かに、明治の頃から「洋館」は存在していた。しかし、それは上流階級のシンボルであり、接客時に使用されるだけだった。日常生活は隣接する純日本家屋で営まれ、奇妙な「二重生活」が行われていたのである。ところが、大正期、新しい中間層が台頭し始めると、都市の人口が急増して深刻な住宅不足を引き起こした。さらには、西欧文化の本格的な流入による刺激も手伝って、彼らの間で生活改善の意識が高まっていった。こうして〈中流家庭の持ち家〉を念頭に置いた住宅改良が始まった。

住宅改良は、政界や財界と絡んだ大きな運動であった。1915(大正4)年、時の総理大臣大隈重信をはじめとする政界、財界の名士、京都帝国大学教授の武田五一ら建築専門家たちで住宅改良会が発足する。発起人は橋口信助。商品住宅をアメリカから輸入し販売する会社、あめりか屋の創立者である。また、住宅改良会からは雑誌『住宅』も発行された。そして1920(大正9)年、今度は文部省の外郭団体生活改善同盟会が発足。ここには佐野利器や今和次郎が加わっている。中間層に持ち家を提供することは、今や社会の夢であった。

1922(大正11年)、その夢がひとまずの結実を見る。東京上野で開かれた平和記念東京博覧会で、実物大の住宅モデル、14棟が展示されたのである。住宅モデルには、・建坪およそ20坪、坪単価は200円以下、・風雨、盗難に耐える開口部であること、・居間、客間、食堂は椅子座式であることなど中流家庭の住宅を前提とするいくつかの規定が設けられている。この住宅展示場は「文化村」と名付けられ、以後文化村の名称が新興住宅地で使われるようになった。また、平和博から半年後には、大阪、箕面でも日本建築協会主催の住宅改造博覧会が催された。住宅25棟が並び、展示だけでなく販売も行われ、より生活に即した現実的な住宅の提案がなされている。

住宅不足のもう一つの突破口が郊外住宅地の開発である。田園調布などの田園都市、あるいは学園都市などが計画されている。そのほかにも三菱の岩崎弥太郎が、駒込の広大な所有地を売却し、佐野利器に計画を依頼して大和郷をつ〈り、堤康次郎が目白文化村をつくるなど多くの新興住宅地が生まれている。

住宅に関心を抱く建築家も現れた。住宅作家の登場である。数多くの著作を残した保岡勝也、あめりか屋で活躍した山本拙郎のほか、遠藤新も住宅作家として名高い。また、あとに述べる藤井厚二と同じような観点から健康のために理想的な住宅を追求した山田醇もいる。彼らの共通のテーマといえば、いかにして和洋を折衷して中流住宅を設計するかということだった。なかでも藤井厚二は、和洋折衷の間題を日本の気候、風土、生活習慣にまで掘り下げ、独自の世界を築いた最初の建築家の一人である。藤井が京都の大山崎に購入した1万坪の土地で4回にわたって建てた自邸は、こうした環境観測の場でもあり、その名も〈実験住宅〉と名付けられている。度重なる実験結果の集大成である最後の《実験住宅(聴竹居)》は、藤井の住宅に関する結論として、従来の和洋折衷とは一線を画す空間に仕上がっている。

(桑名麻理)

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