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1 モダニズムと伝統の交錯

1 西洋と日本

A. 日本画家たちと西洋

西洋の絵画は、洋画のみではなく、日本画にも、あるいは日本画という呼称さえなかった江戸時代の半ばから、徐々にその影響を及ぽし始めていた。明治にはいると洋画家たちが西洋の絵画を直接学ぶために渡欧するようになる。そして1920年代は、日本画家が渡欧することによって、日本画に新しい局面が生まれた時代であった。

もちろん先例としては、竹内栖鳳が、1900(明治33)年、パリ万国博覧会出品を兼ねてヨーロッパを訪れた例はある。帰国後号をそれまでの棲鳳から西洋にあやかって栖鳳に代えたのは、その感銘の大きさをものがたるエピソードとして有名である。

1921(大正10)年10月の土田麦僊・小野竹喬・野長瀬晩花が黒田重太郎と連れだって出発したのを皮切りに、国画創作協会の画家たちが大挙して渡欧する。翌年4月には、入江波光・吹田草牧が菊池契月・中井宗太郎らとともに渡欧の途についた。

もともとフランス後期印象派に強く惹かれていた小野竹喬は、パリのルーヴル美術館やイタリア、スペインで数多くの名作に触れ、大きな感銘を受ける。《春耕》の静謐な画面からは、後期印象派の影響というよりは、むしろ初期ルネサンスに接したことの影響を読みとることができる。

竹喬に同行した土田麦僊も、ルネサンス絵画や古代口一マの壁画に強く惹かれた。ジョットをはじめとするルネサンス絵画の模写が残るのはその証左である。またとりわけ麦僊が惹かれたのは、西洋絵画のもつ稠密な質感の表現であった。帰国後に描かれた《鮭ノ図》(1924年・新潟県立近代美術館)は、その現れといえるものである。本展に出品されている杉田勇次郎の《蔬莱》はその影響のもとに現れた作品である。

西洋の絵画を規範に写実を追求するということは、とりもなおさず、日本画の伝統的な素材をいかにして近代に適合させるか、という可能性の追求でもあった。この可能性を徹底して追求した画家に速水御舟がいる。御舟の写実に対する関心が、まずかたちとなって現れたのは、1918(大正7)年の第5回院展に出品された《洛北修学院村》である。この作品では幾分情感の表現に傾いているのがみうけられるが、翌年の《比叡山》になると、比叡山の山体そのもののボリュームが主題となる。これを皮切りに、1920(大正9)年の《京の舞妓》、翌年の《茶碗と果実》など徹底した写実ぷりへと進んでいくことになる。

西欧を直接体験した小野竹喬は、のちに「結局油絵に比して日本画は、著しく平面であること、この認識を更に深く認識することによって、日本画への本質的な歩みがあるような気がしたこと、平面の上に於ける立体への思考追求といふことも重要な意味あるものであること」(小野竹喬「私の歩んだ道」『京都市美術館ニュース』64号 1969年)と語っており、かえってその体験が、日本画の本質と日本画特有の素材の限界を気づかせることになる。事情は麦僊などの場合も同様で、西洋的なリアリズムの追求はやがて終息にむかう。

(山口泰弘)

B. 日本と西洋−20年代の同時代性

1920年代、わが国へは同時代西洋の美術についての情報が、大量に伝えられるようになった。もちろん、191O年代から、後期印象派やフォーヴィスム、キュビスム、アール・ヌーボー、表現主義、また彫刻ではロダンなど、ヨーロッパの新しい美術の動向はわが国に伝えられ、多くの作家たちは雑誌や画集類を通じて最新の西洋美術情報を入手し、有島生馬、梅原龍三郎、安井曾太郎、荻原守衛、高村光太郎らのように渡仏経験を持つ青年作家たちがもたらした情報や滞欧作も日本の美術界に大きな刺激となっていた。

もっとも、渡欧経験を持つ作家は少数で、わが国でロダンやゴッホが芸術家の理想的存在として崇拝された現象からも窺えるように、この時期の西洋美術受容は、必ずしも実作品による直接体験に基づくものではなかった。

しかし、1918(大正7)年の第一次世界大戦終結は、日本の美術界に新しい段階をもたらした。大戦終結によって、堰を切ったように画家や彫刻家たちがヨーロッパに渡るようになったのである。

いうまでもなく、画家や彫刻家たちが最も多く集まったのはパリである。第一次世界大戦開戦によってヨーロッパ滞在中であった日本人の大部分は帰国し、大戦中パリに滞在していた画家は藤田嗣治ら数名のみであった。しかし、終戦とともに渡航は盛んになり、20年代後半には百人単位で数えられるほどの日本人画家が帯在していたという。渡欧に必要な経費は小さくなかったが、支援者を見つけ、あるいは画会等によって渡航資金を稼いで、画家たちは次々に旅立っていった。

この時期、パリの日本人画家の代表は1913(大正2)年の渡仏以来、第一次大戦中もパリに留まった藤田嗣治であろう。彼は、1921(大正10)年以降、乳白色の下地と細い線描による裸婦像や自画像をサロン・ドートンヌに出品して、パリの実術界で注目を集めるようになった。

前田寛治が子豚にたとえて「パリの豚児」と名づけたように、パリに滞在した多くの青年画家たちは互いに交遊しながらパリの良き時代の空気を呼吸していたが、里見勝蔵や佐伯祐三らはヴラマンクの強い影響を示すフォーヴィスムの作品を描き、また坂田一男はキュビスム的抽象作品を残すなど、画家たちはそれぞれの個性に基づく世界を築くことに腐心していた。1910年代に日本の画家たちが、粗悪な作品写真を見ながらゴッホやセザンヌへの想いをかき立てていた頃とは、状況は一変した。日本人画家たちは、フランスの画家たちの肉声に接し、大量の作品を実際に見て自らの血肉とすることができるようになったのである。

彫刻家の場合も状況は同じである。1910年代以前に渡仏して新しいフランス近代彫刻を学んだのは、1908(明治41)年に渡仏して1912年から3年ほどロダンに師事した藤川勇造の例がある程度である。しかし、1920年代にはいると、21年に保田龍門、木内克、22年には金子九平次、佐藤朝山、23年に清水多嘉示がパリに到着してブールデルに師事し、24年には山本豊市がマイヨールに入門し、それぞれ師風を伝えている。

ところで、1920年代に日本人作家が留学したのは、フランスだけではなかった。少数ではあるが他の国に滞在した例もある。たとえば、1919(大正8)年に神戸を出発した須田国太郎はスペインに、村山知義、仲田定之助、和達知男らはベルリンに、東郷青児は短期間ではあるがイタリアにも滞在していた。また、清水登之、野田英夫、北川民次らのようにアメリカやメキシコに向かった画家たちもいた。この時期、日本の美術界は国際的な広がりを持ち始めていたということができよう。

先に、村山知義、仲田定之助、和達知男らの名をあげたが、彼らがその主要メンバーであった新興実術運動は、1920年代における日本と西洋との同時代的関係という観点からもとらえられるだろう。新興美術運動は、20年代に次々に結成された「未来派美術協会」、「アクション」、「マヴォ」、「三科」、「造型」などの諸グループによって展開されたが、この運動は同時代のイタリア未来派やロシア未来派、ロシア構成主義との直接的な関係を抜きには成立し難かった。

1920(大正9)年10月に来日したロシア未来派の画家ブルリュークとパリモフは、普門暁を中心に結成された未来派美術協会と関係を結び、未来派美術協会の会員や周辺の作家たちに大きな影響を与えることになる。また、未来派美術協会には参加しなかったが、1910年代半ば頃から作曲していた東郷青児は、1921(大正10)年の渡欧後はイタリア未来派の運動に参加していった。

また、1922(大正11)年6月にロシアの女性画家ブブノワは、二科展や三科インデペンデント展等に出品し、またロシア構成主義の理論を紹介して、新興美術運動に少なからぬ影響を与えた。ブブノワから強い影響を受けることになる村山知義は、哲学研究の目的で留学したベルリンで進路を変え、画廊「シュトゥルム」に出入りして、イタリア未来派や表現主義、ロシア構成主義など当時の先進的な美術と深く関わっていた。

以上のように、1920年代に入って当時の日本の青年作家たちの多くは、様々な場面で積極的に同時代西洋と交渉を持ち、最新の造形思潮やスタイルが10年代とは比較にならぬ広さと奥行きをもって日本に導入されることになった。

しかし、すべての日本人作家が西洋の新しい造形表現を肯定的に受けとめたわけではなかった。また、渡欧することなく日本の風土の中で自己の世界を深めていった作家たちもいた。

たとえば、1921(大正10)年から翌年にかけて渡欧した小出楢重にとって、渡欧は作風展開の上で一つの転機になったけれども、彼自身はパリの美術界に対して否定的な見解を抱き、ヨーロッパの画家たちから直接的な影響を受けることなく、自己のスタイルを確立していった。

また、1910年代にゴッホ、続いてデューラーに心酔していた岸田劉生は、1920年代に入ると麗子像の連作や日本画を多数制作して、肉筆浮世絵や中国宋元画への関心を示すようになっていた。1912年に、力強いフォーヴィスムの作品《裸体美人》で出発した萬鐵五郎は、20年代以降、日本画(水墨画)制作と南画研究を行い、油彩画においても土着的性格の濃いキュビスム的作品を発表していた。さらに、レンブラントやルノワール、セザンヌへの傾倒を示す作品を描いてきた中村彝は、《カルピスの包み紙のある静物》(1923年)や「髑髏を持てる自画像」(1923−24年)などの作品で、セザンヌ風を基本としながらも独自の新しい試みを提示したが、既に10年代に制作活動を行っていた岸田、萬、中村の三人は、結局渡欧することなく20年代にこの世を去ることになった。

彫刻においても、石井鶴三、橋本平八、佐藤朝山、高村光太郎らは、一方で西洋の造形表現に強い関心を示しながらも、彼らの木彫作品に端的に示されるように、日本東洋の伝統的造形を意識した作品を制作していた。

このように、西洋世界との間に太いパイプを築いた1920年代日本の美術界には、日本東洋の伝統へ回帰する動きが同時に存在した。そして、この東西両洋の造形をいかに統合するかという大きな課題は、30年代の美術界へと引き継がれていくことになるのである。

(毛利伊知郎)

C.新興の建築

我々は起つ。過去の建築圏より分離し、總の建築をして眞に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。」 この意気揚々としたフレーズは、1920(大正9)年、東京帝国大学建築学科卒業の6人組が分離派建築会を結成したときの宣言の一部である。二十歳をわずかに越えたばかりの若者たちが、「過去の建築圏」から離脱しようと反旗を翻したのであった。「過去の建築圏」とは、また、彼らの「新建築圏」とは何であったのか。

「過去」、すなわち分離派建築会誕生以前の日本の建築界は公的な建築の設計を重視していた。富国強兵を象徴するような大きな建物を設計することが建築家としての夢でもあった。そうしたモニュメンタルな建築は西洋建築に倣ったものであり、そこには西洋の建築様式が駆使されていた。建築を学ぶ学生にとってもルネサンス様式、ゴシック様式などの様々な建築様式を習得することが必須の条件だった。

様式の重視に加えて、大正期には構造に関する本格的な研究が始った。耐震構造学の基礎を築いた佐野利器、弟子の内田祥三、内藤多仲らがその中心だった。構造学は、鉄筋コンクリートの新たな導入と耐震・防火面の強化の必要性から、瞬く間に建築学の主軸となった。1915(大正4)年、佐野、内田に指導を受けた野田俊彦の卒業論文「建築非芸術論」は、建築の美は余計であり力学的な問題こそが建築の本質、と論じている。まさに、構造学の決定打であった。1920年当時の東京帝大建築学科は、佐里−内田の構造学が優勢で学風の傾向を決めていた。分離派建築会の旗揚げは、こうした厳しい状況下でなされたのである。実際、伊藤忠太の弁護がなければ彼らの卒業は危うかったという(分離派という名前も伊藤忠大の講義にヒントを得ている)。堀口捨己、滝沢真弓、石本喜久治、山田守、矢田茂、森田慶一の6人は、卒業間近の2月、大学構内の学生集会所で習作展を行い、同年7月に日本橋の白木屋において第一回展覧会を開催した。

彼らの目指した「新建築圏」とは、分離派建築会刊行『分離派建築会宣言と作品』に掲載された石本喜久治の論文「建築還元論」中の言葉に見い出せる。「−建築も芸術であることを認めて下さい−」。構造重視の建築に対して、建築家個人の表現の表出、その芸術性を訴えたのだった。

様式美や構造ばかりにこだわる建築観に批判的だったのは、実際には分離派が最初ではない。彼らの先輩格である後藤慶二、遠藤新、岩元禄、吉田鉄郎らがすでに表現主義的な設計を行っている。ただ、後藤慶二、岩元禄は夭逝し、遠藤新もライトに師事し渡米してしまっていたなかで、分離派の若者たちの積極的な行動が、新しい建築のあり方を初めて世間に示したのである。

1920年代の建築界は、分離派建築会に刺激されたかのように次々と新興建築の団体を生み出している。岡村蚊象率いる創宇社(1923年)、今井兼次、佐藤武夫らのメテオール(1924年)、岸田日出刀らのラトー(1925年)、上野伊三郎、本野精吾らの日本インターナショナル建築会(1927年)などである。分離派建築会が発火点となり、日本の建築界はモダニスムへと歩み始めたのである。

(桑名麻理)

2 東洋の再発見

1917(大正6)年、東洋美術史家田中豊蔵は、『国華』330号に掲載した「所謂南画的新傾向に就て」の中で、「この新傾向の根底を組み立てる基礎を、近代西洋芸術に於ける非写実的なる新運動と一致させて考へたい。」と述べ、当時再認識されつつあった南画を“近代西洋芸術に於ける非写実的なる新運動”と同一視する考えを示した。ここでいう新運動とは、いわゆる表現主義と考えられる。洋画家萬鉄五郎も、1926(大正15)年、アルス美術叢書の一冊として出版した『文晁』のなかで、「東洋画を接ずるに、その内容は或る種類の表現主義、其の手段としては構成主義である。天然を一度嚥下して筆墨の骨力に還元し、宇宙的構成に於て顕示する処に醍醐味を置くのである。」と、東洋画を表現主義に重ね合わせて語っている。ここでいう表現主義とは、いうまでもなく、自然主義、アカデミズム、印象主義といった19世紀の芸術に対する反動として、20世紀初頭以来ドイツに興った芸術運動をさすが、このふたつを結びつけたのは、“人格”を表現する南画と、自然を描くのではなく、心的過柱・精神的体験に支えられた物の意味・本質を直接表現することを目指した表現主義の思想に−見みられる共通性であった。

これらの発言は、朦朧派の行き過ぎた西洋化に対する反省として述べられている。萬のいうところでは、当時の日本画は、“洋画の濃麗なる色彩に眩惑され”、見た目に美しいだけの皮相なものに堕していた。東洋画が、その骨法用筆、つまり筆描の遅速や肥痩の多様性のなかに本質的に内包する精神性のようなものが、色彩の濃淡で調子を整え,空気や光線を表現するという朦朧派の洋画風の描法によって、損なわれてしまったと考えたのである。

東洋画を西欧近代の美術理論に適用させ、近代芸術として蘇生を促そうとする新思考は、西欧の思考的枠組みに捉われ、近代化そのものにある種無限の可能性を信じていた前代の画家と異なって、東洋的な表現に、行き詰まりをみせる西欧化を打開する何かがあると感じ始めていたこの時代の画家や美術史家のあいだで新たな模索の方法論として採用された感がある。それは、1920年代という、いわば個性主義の時代に相応しい“再発見”の手段であった。

東洋はさまざまなかたちで“再発見”される。しかし、この時代、現象として顕著だったのは、洋画家たちの日本画への偏向であった。本稿でその発言を取り上げた萬鉄五郎や岸田劉生はその代表的な存在といえよう。さらに1929(昭和4)年に号を放菴に替えて水墨の世界に親しむようになった洋画家小杉未醒、あるいは、洋画家であり書家としても知られる中村不折の南画もこの展覧会では取り上げている。

吉川霊華は、狩野派や土佐派を学び、やがて冷泉為恭に傾倒するようになり、やまと絵に深く通暁するようになる。《羅浮僊女》はその代表作のひとつで、得意とした白描画風の表現がその作風を特徴づけている。小川芋銭は、、1896(明治29)年以降、茨茨城県牛久沼畔に隠棲して、農耕に従うかたわら水墨画を描き、自娯の境涯に生きる南画のひとつの典型を示した。菊池契月は、四条派にやまと絵の技法を取り入れ、清浄典雅な作風を築き上げた。

(山口泰弘)

3 写真のモダニズム

1910年代、わが国のアマチュア写真界では、ピグメント印画法による詩情豊かな絵画主義(ピクトリアリズム)的風景写真が大流行したが、1920年代、特に関東大震災以降が起こった1923(大正12)年以降は、大きな変化が見られるようになる。

当時、写真を手がけていたアマチュア写真家たちの多くは経済的に富裕な階層で、欧米の先進的な技術や文化に対して強い好奇心を抱いていた人々であったから、彼らが1920年代以降の都市を中心としたモダニズム文化の急速な進展に直面した時、自然風景から眼を転じて、目新しい都市風景、都市文化と都市生活を主題として取り上げたのは、むしろ当然であった。1920年代半ば一特に関東大震災を境界に、写真の主題は山岳や海岸、あるいは農村などの自然風景中心から、都市風景、静物、人物中心へと変化した。
 一方、『アサヒカメラ』『フォトタイムス』『白陽』など当時の写真雑誌に、村山知義、神原泰、仲田定之助、岡本唐貴ら新興美術運動の作家たちは、リシツキー、マン・レイ、モホリ・ナギらの写真理論や作品を紹介した。こうした紹介記事を通じて西洋の先進的な写真芸術を日本の写真家たちがどのように理解したか、その実態は必ずしも明らかではないけれども、新興美術運動が当時の写真家たちに与えた影響は決して小さくなかったようだ。

1910年代の絵画主義的な写真にあっては、主題と表現双方において「自然」が中心的位置を占めていた。作家個人による様式の違いはあっても、穏やかで優しい、日本の自然をいかに実在感をもって表現するかに写真家たちは腐心した。

しかし、20年代半ば以降の写真家たちの主たる関心は、彼らの周囲にある都市風景や人物、静物を、キュピスム、表現主義、未来派、構成主義など西洋から新しく紹介された造形思潮を利用しながら、写真独特の光の明暗の対比効果を活かして表現することにあったといえるだろう。そうした効果をより高めるために、彼らはトリミングやぼかし、粒子が目立つ焼付けやデフォルメなどを多用した。その結果、彼らの作品は幾何学的、抽象的な画面構成を示すことになる。

モダニズムを基調とした都市文化との関わりの中から生まれてきた、こうした幾何学的、抽象的画面構成を主調とする作品が多い当時の写真界で、野島康三と福原信三は独自の活動を続けていた。1910年代から活動を始めていた野島康三の20年代の仕事を特徴づけているのは、ゴム印画による肖像写真である。それらの多くは、柳宗悦や富本憲吉、中川一政らをモデルとした作品だが、そこには人物の内面に肉薄しようとする性格描写的な特徴が強く認められ、20年代の他の作家たちによる人物写真とは異なる独自の世界を見ることができる。

また、1922(大正11)年頃から「光線の強弱に由つて生ずる濃淡の調子」を写真表現の第一義とする「光と其階調」論を唱えた福原信三は、ピグメント印画技法による絵画主義的写真を批判して、滞欧作の作品集『巴里とセイヌ』(1922年)、作品と自作解説とで構成された『福原信三写真画集光と其階調』(1923年)等を通じて、独自の写真世界を築いた。1920年代日本の写真表現は、前代からの仕事を展開させながら独自の道を進む野島、福原という二人と、20年代に急速に進展した都市文化を背景とし、西洋の新しい造形思考に急速に傾倒していった数多くの写真家たちとによって新しい世界がつくられ、やがて30年代の「新興写真」へと引き継がれることになる。

(毛利伊知郎)

4 工芸のモダニズムと反モダニズム

1920年代には、夥しい数の工芸論、工芸批評が美術雑誌や創刊されたばかりの工芸雑誌を舞台に登場している。ときには新聞や雑誌が工芸をめぐる議論の応酬の場となることもあった。工芸のあるべき姿について意識的に思考し、発言し、工芸なるものをあらためて定義することが、作品を通じてそれを提示することと同等の重要性を持ち始めたのである。このいわば工芸のアイデンティティー探しは、徹底した個人主義によって従来の工芸のあり方をあらゆる面で否定した1910年代に続く時代に課された切実な課題であった。少なくとも、意識されないからこそ自明であり得た「工芸」に異議が申し立てられたことによって、工芸家自身がある種の自覚を促されたのは事実である。

1910年代において問題とされたのが「図案家の職人主義」(津田青楓)、図案における「自然」あるいは「図案の芸術化」(小宮豊隆)であり、「工芸」という言葉がそれほど意識されて登場していないとすれば、1920年代には議論が次第に「工芸」そのものに集中し始め、その数も1920年代とは比較にならない。工芸に別の語を冠した「美術工芸」、「産業工芸」、「生産工芸」、「民衆的工芸」、さらには今和次郎の「平民工芸」と、様々な造語がこの時期に登場していることも一つの特徴で、工芸観の多様化は、急激に変化していく日本の社会の中で、工芸がいかなる役割を果たすべきかが問われ始めたことを示している。明治以降の制度化の中で登場した「工芸」という言葉の実質が、ものづくりや技術が近代化によって大きく変化していく中で初めて問われたのがこの時代といえよう。このとき、美術として確立された絵画、彫刻に対する工芸の位置づけ、個人作家の役割、機械の可能性、用と美の関係など、あらゆる問題が一挙に意識され始めたのである。

そのなかで特に注目されるのは、1910年代における工芸の個人主義の旗手であった富本憲吉、バーナード・リーチらに大きな刺激と鼓舞を受けた人々が、1920年代半ばにモダニズムと反モダニズムヘと大きく分かれていった事実である。前者は高村豊周、広川松五郎、西村敏彦ら1910年代未に結成された装飾美術家協会のメンバーに、杉田禾堂、山崎覚太郎らが加わって1926(大正15/昭和元)年に結成された无型に代表され、後者は柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らによって同じ頃に出発した民芸運動に代表される。構成主義、アール・デコなど同時代の西洋美術に対して東洋の伝統的工芸と、関心を向けた対象も対照的であれば、その工芸観も対立している。金工家中心の无型に対して陶芸家中心の民芸というジャンルのずれを考慮しても、作品そのものに現れた対照性は確かに明白である。しかしながら、両者ともに1910年代の工芸の個人主義を出発点としていること、また個人作家とその社会的な役割についての意識を共有し、无型の作家にとっても実用的な工芸が一方で大きな関心となっていた点など、共通の地平の存在もあらためて確認すべきであろう。1910年代の富本憲吉やバーナード・リーチの活動のなかに、すでに民衆的な工芸への視点も含まれていた。しかし、1920年代の進展とともに両者の開きが避けがたいものになっていったのは事実である。さらには当の富本憲吉自身、1920年代には新しい現代の陶芸の創造を志向し、模様の探求や白磁の研究をさらに進めると同時に、陶板という新しい形式の考案や新しい日常用食器の制作、信楽等における量産の試みなど、決して一様ではない模索を行っている。工芸の近代が抱えた問題の複雑さを物語っているのではなかろうか。

(土田真紀)

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