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工芸の在処をめぐって


土田 真紀

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1910年代の初頭、今和次郎は工芸図案の世界に絶望する東京美術学校図案科の一学生であった。その今にとって1920年代はバラック装飾と考現学の時代となった。周知のとおり、その間に、今は美術学校を卒業し、早稲田大学建築学科の助手となり、自茅会のメンバーとして柳田国男らとともに全国の民家調査を行っている。その成果は遺された「見聞野帖」等のスケッチ、そしてその成果をまとめ、1922年に出版した『日本の民家』を初めとする著述に見るとおりである。

民家調査を熱心に始めてからも、今のニヒルな気分が消えたわけではなかった。そのニヒルな気分のまま、今はさらに関心を広げ、関東大震災をきっかけに震災バラックの調査、バラック装飾社の設立、続いて考現学調査を始めている。川添登氏は震災以前の民家調査からすでに考現学的視点が今にあったと指摘しているが、一つの新しい「学」としての考現学の出発点は、震災後の東京であった(川添登『今和次郎 その考現学』1987年 リブロポート)。それは今和次郎の人並みはずれた好奇心に導かれたものにちがいなく、その調査対象は実に幅広く、そこには一種の遊びの精神すら感じとれるかもしれない。それが考現学を今日魅力的に感じさせる要因でもあるが、今がニヒルな気分の中で、考現学をあくまで「学」として創始した点は重要であろう。その調査は、単に好奇心に駆られて風俗の表層をなぞっているようなものでは決してなく、その本質において、社会そのものが「近代化」への決定的な節目を迎えた日本の幾つかの局面を、それを捉えるに最もふさわしい手法で捉えているのではなかろうか。さらには、工芸図案の道を志していた今が、幾つかの紆余曲折を経て、この考現学にたどり着いたということ自体、1920年代の工芸とデザインの状況をきわめて暗示的に示唆する事実となっているように思われる。1910年代から1920年代にかけて、今の関心が一挙に広がったのは、今が絶えず問題をできるかぎり包括的に、あくまでも全体として捉えようとした結果であり、以下にみるように、実際、1920年代に工芸をめぐる問題そのものが一挙に広がりをもってしまったからである。

今の関心の対象がいかに移りゆこうとも、そこに一貫していたのは倫理的な態度である。川添登氏が「学問を芸術や倫理ときりはなしてかんがえなかったように、彼にとっての美もまた、そのなかに倫理をふくみこんでいた」と指摘する点である。考現学調査は、震災後たちまちのうちに華やかさを取り戻した銀座から始まっている。「震災以前からしきりに華美に傾いた東京人の風俗を、ぜひ記録にとっておきたい」という気持ちで始めたのが銀座風俗の調査であるが、今はそれと並行して都市のひずみを露呈した深川貧民窟でも調査を行っている。この二つが近代都市の宿命ともいえる明暗の両面を覆っているのに加え、さらにそこに自ら「平民工芸」と名付けた貧しい農村の工作物への関心を加えることでバランスをとらずにいられないのが今和次郎である。山方で「アブソリュート・パターン」としてのロココを通じて装飾の意味を探求しつつ、他方で田舎家を研究する自分の態度について、今は「はなやかなるものを見つめることと、きたない田舎家の研究のようなものを並べて考えると興味があり、それらのおのおのを深く考えるうえに便宜を感ずる」と説明している(「田舎家の構造美」『民俗と建築』1927年2月号)。「つくられたるもの」すべてを今は「工芸」と呼び、平等に関心を注ごうした。すでに1910年代から、彼の態度に著しいのは常に「全体」を把捉しようとする点である。今和次郎にとってはそれだけが自らに唯一可能な倫理的態度であると感じられたのであり、そうであるがゆえに、全く対照的な2つのものに同時に関心をもつというパラドクシカルな態度を常に自分に課さざるを得なかったのであろう。今自身は、明らかに「はなやかなるもの」よりも「きたない田舎家」に共感しているにもかかわらずである。美も造形活動も人間にとって不可欠であるが、近代都市のなかでは、美の代表であるはなやかなるものは、消費の対象としてしか意味づけられない限界も彼はすでに見抜いている。「都市は現在のままでは肉体的にも、精神的にも、消費の場所となっている」ことへの危機感があった。

こうした今の関心と姿勢のなかに、1920年代に工芸とデザインをめぐって生じてきたあらゆる動きも関心も含まれているといっても過言ではない。美と倫理、工芸の位置づけ、装飾の意味、近代都市の抱える問題。阿佐ヶ谷郊外住宅地の調査や某家庭の全所持品調査など、都市と郊外の関係、生活様式と合理化という1920年代の別の重要な課題への視点、商業美術への関心もそこにはある。要するに、西洋近代を様々な次元で受け入れつつ、大衆化と消費社会へ向かう日本の工芸とデザインが抱えていたすべての問題を俯瞰するだけの広がりを少なくとも持ち得ていたのではなかろうか。

 2

さて、昨年の「20世紀日本美術再現I」において、工芸の分野では富本憲吉、バーナード・リーチ、河合卯之助、藤井達吉、津田青楓、高村豊周らを取り上げた。彼らによる工芸のアマチュアリズムの実践、そして図案における「自然」への直接的回帰の主張は、確かに工芸の世界に新しい地平を切り開いたが、1920年代にその地平の先に何が展開されたのかを、ごく一部にすぎないものの追ってみたいと思う。

まず富本、リーチから柳宗悦へという展開をみることにしたい。この展開は、従来、民芸を歴史的に取り上げた展覧会に二人が含まれている場合もある点からいえば不思議ではないが、富本、リーチこそ1910年代を特徴づける工芸における個人主義とアマチュアリズム実践の旗手であるという主張が正しいとすれば、そこから「民芸」の思想への軌跡を描くことは、それほど単純ではないはずである。また、富本は「日本民藝美術館設立趣意書」に名を連ねながら、次第に民芸から距離を置くに至ってもいる。

柳は、もともと親交の深かったリーチの作品のみでなく、正確にどの時点からかはわからないが、少なくとも1920年代初めには富本の作品を高く評価している。富本憲吉湯呑配付会の広告が掲載された『白樺』1921年5月号の推薦文が文献としては柳宗悦が富本に言及した最初である。そして柳の最初の工芸論である『陶磁器の美』の私家版では、中国や朝鮮の古作品と並んで、富本とリーチの作品が取り上げられている。「陶磁器の美」は1921年に『新潮』1月号に発表され、翌年に私家版で出版されたが、現代作家のなかで取り上げられているのはもちろんこの二人だけである。この時点でいかに柳が彼ら二人を高く評価しているかが窺われるであろう。

さて、『陶磁器の美』の中身を読むと、柳が「陶磁器の美」の本質を「楽焼」的なものに見ていることが読みとれる。陶磁器の美を「親しさ」の美であるとする柳は、「わけても宋窯が好き」というが、そこには「強さと柔らかさの結合」、「静と動の交はり」、すなわち「中庸」の性があるという。そしてこの宋窯に類する性質を持つ高麗、三島手、ペルシャの古陶器、イタリアのマジョリカ、オランダのデルフト、イギリスのスリップ・ウェアを柳は「此の世での最も美しい作」とする。1910年代に富本やリーチが手探りで楽焼を始めた頃、明らかに刺激を受けたのがここに挙げられたペルシャの古陶器、マジョリカ、デルフト、スリップ・ウェアなどであったと思われる。ここに、柳が富本とリーチを評価する理由は明確に捉えられるであろう。私家本の献辞で柳は次のように書いている。

  此書を余の友として又陶工として敬愛する富本憲吉、バーナード・リーチ両兄に贈る。言葉なき兄等の器から、是等の
  言葉の多くを學び得たことを、こゝに紀念したい。

柳がこうした美意識を獲得する過程で、古作品と同じく、あるいは古作品以前に、同時代の作家である富本とリーチの実作から影響を受けたということを素直に表明しているとみるべきであろう。

「其の國の歴史や自然が何時も陶磁器の美の方向を定めてゐる」とする柳は、こうした性質が日本においては「楽焼」に代表されるというのである。不思議なことにこの「楽焼」的なものへの関心、それら国、時代を隔てた作品に共通する美の発見は、1910年代の工芸家、批評家、そして柳に加え、濱田庄司、河井寛次郎らにも共通していた。周知のように、濱田はリーチとともにイギリスに渡り、セント・アイヴスで制作を行い、スリップ・ウェアの技術を習得して帰国した。1920年代の初頭に高島屋の個展で非常に高い評価を得、しかしながら柳には厳しい批判を受けたという河井も、すでに1910年代にリーチの作品に強い刺激を受けている(河井寛次郎「リーチと別れてから」1933年)。

さて、1910年代から、こうした時代の美意識とでもいうべきものが陶磁器を中心に出てきていた一方で、これらをめぐる言葉のなかにも、明らかな傾向がみられ、キーワードが登場している。次の言葉はやはり『陶磁器の美』の一節である。

  単純とか率直とか、ここに美の密意がある。それ
  は屡々幼稚とか平凡とかの意に誤認される。併し
  無心は無知ではなく、素朴は粗雑ではない。作為
  を少なく有つとは、自然を最も多く有つとの意で
  ある。自らを忘れる刹那が、自然を知る刹那である。

濱田庄司、河井寛次郎をめぐって、ちょうど1920年代、「健康」、「素朴」、「単純」、「自然」という言説が特徴的に行われたことがすでに指摘されている(長田謙一「濱田庄司と象徴としての益子」『濱田庄司展』図録 1995年、吉竹彩子「陶磁器における自然」『第2回全国学生交流フォーラム論文集』1995年他)。これらの言葉は柳が民芸運動を創始後に用いたキーワードでもあった。ここで注意したいのは、1910年代から1920年代にかけての工芸をめぐる言説のなかで、一貫して「自然」という言葉がキーワードになりながら、1910年代と1920年代とでは、明らかにその内容が異なっているように思われる点である。筆者は1910年代の工芸に関する小論のなかで、1910年代の工芸家たちが、工芸図案に関して直接「自然」に還ること、すなわち過去の文様をアレンジするのではなく、直接自然のモティーフに源泉を求めることを主張した点において、アール・ヌーヴォーの工芸家たちと共通する態度を持っていたことを述べた(『ひる・ういんど』53号 1996年 三重県立美術館)。この場合の自然はきわめて具体的なもの、すなわち個々の植物や風景を指していた。ところがここに引用した柳のいう「自然」が、そうした具体的な「自然」というより、ひとつの抽象的な、しかも理想化されたある性質を指していることは明らかである。この場合の「自然」が、柳が1910年代にロダンやセザンヌら、「後印象派」を語る際に用いたそれと同一であるという指摘がすでに吉竹氏の論文でなされているが、この点は重要であろう。1910年代の工芸家たちが実践したアマチュアリズム、プリミティヴィズム、装飾における具体的な自然への回帰が、この抽象的な「自然」という一語に集約されてきているのである。柳宗悦に対して李朝白磁への導き手の役割を果たした浅川伯教やさらには河井寛次郎も、『白樺』によるロダン紹介に強く惹かれていたという事実は、『白樺』の影響力を物語るとともに、民芸運動に代表されるはっきりと「反モダニズム」「反西洋」を志向したところのものが、実は1910年代の「近代」の延長上に現れたことが見て取れる。

1910年代から1920年代にかけて、工芸の文脈において「自然」の意味がこのように変遷していったことによって、同時に、工芸の問題が装飾や図案の問題からさらに工芸そのもののあり方にスライドしたことが知られるのである。1910年代の「個人主義」が従来の工芸のあり方をあらゆる面で否定したことにより、1920年代には工芸そのものに対して意識的にならざるを得なくなったということである。そして、この「自然」が明らかに一つの価値観であるように、1920年代には、工芸そのものの美の在処が問われ始める。そしてさらには、工芸の社会性、倫理性が問題とされる。その一つの現れが今和次郎であったとすれば、もう一つの現れがこの「陶磁器の美」以降の柳宗悦の工芸を中心とする思想である。

周知のように、柳宗悦は民芸運動を始める以前、「陶磁器の美」の執筆と前後する頃に朝鮮民族美術館の設立を企てている。その際に書かれた多くの文章は、実は李朝の工芸作品の美を説きながら、決して単なる李朝工芸論ではなく、日本政府によって弾圧を受けている朝鮮に対する日本人の関心を掻き立てようとする一種のアジテーションともいえる性質を有していた。ここで注意すべきは、柳宗悦がアジテーションのために李朝の美を利用しているのではなく、李朝の美を絶対のものとして確かに捉えた柳宗悦の眼こそが一種の政治的行動へと彼を駆り立てたという点である。この時点の柳宗悦にとってその二つは別ではあり得なかったし、あってはならなかった。そして政治性こそないものの、こうした姿勢はそのまま日本民芸美術館の設立運動に始まる民芸運動のあり方につながっていったと考えられる。そのとき『白樺』の人道主義に加え、何ものかが美と倫理、美と政治的行動、美と社会的運動を結びつけざるを得ないところへ柳を向かわせたのである。

従来のように、工芸を自明のものとして捉えているだけではすまないような状況は、もちろん工芸家自身にも切実であった。柳宗悦とともに民芸運動を進めた河井寛次郎、濱田庄司、黒田辰秋らのそれぞれの1920年代については残念ながらここで触れることができなかったが、3人の作家のいずれもが、1910年代の『白樺』の芸術観や富本、リーチの活動に何らかの刺激を受けていること、それが1920年代に彼らが出会う共通の基盤を、彼ら自身気付かぬうちに用意していたということを確認しておきたい。

 3

工芸のあり方をめぐって、さらに別の1910年代から1920年代への軌跡を、高村豊周を中心に見ることにしたい。1910年代の工芸について論じた際、今和次郎のみでなく、高村豊周、広川松五郎、斎藤佳三ら、東京美術学校図案科、あるいは金工科に在学していたグループが、既成の工芸に対するニヒリズムを共有していたことを述べた。しかしながら、富本憲吉やバーナード・リーチが現れ、高村豊周が『自画像』で語っているように、明確な方向は得られないまでも様々な模索が続けられ、黒耀社等を経て1919年に装飾美術家協会が結成されるに至っている。装飾美術家協会は1910年代と1920年代をつなぐ一つの重要な輪であり、高村、広川、今、斎藤のほか、西村敏彦、渡辺素舟も参加していた。1910年代から1920年代にかけて、「美術」として確立された「絵画」や「彫刻」に対していかに「工芸」の位置を探るかという問題意識を最も強く持ち続けたのは、これらのメンバーであろう。なかでも工芸家の立場から、おりおりにこの問題に答えを出し続けたのは高村豊周である。父に高村光雲、兄に高村光太郎をもつ高村豊周がこの問題に最も心を砕いたのも、ある意味で当然であったかもしれない。

批評家としても優れた目をもち、常に明晰かつ論理的な工芸論を展開した高村豊周の文章を1920年代に追っていくと、その中心テーマが次第に装飾論から工芸そのものをめぐる議論へと展開していることが読みとれる。彼の『自画像』によれば、装飾美術家協会の展覧会が2回かぎりで終わった後、その周辺で関心の的となったのは、まずは帝展への工芸郡設置運動より、むしろ「美術工芸の運動も結構だけれども、もう一つ考え直すと、普段の日常生活に使っている皿や茶碗などに美を投入しなければいけないのではないか」、「一般社会の美の標準をだんだんと上げてゆく運動が、同時に必要なのではないか」という点であった。それへの取り組みとして1922年11月に『工藝通信』を創刊した。後にアルスから刊行した『工藝時代』とは異なり、頁数も8頁程度のパンフレットに近いものである。すなわち工芸の社会への普及をまずは目的としたのである。またこの年の4月に『中央美術』に書かれた「工房手記」にみるように、この時期の高村は装飾の意義を説いている。「装飾は精神の糧であり、魂への日用品、実用品である」として。そして「実用と装飾とは、どこまでも先を手繰つて考へると、結局境界がつかなくなる」として装飾のなかにむしろ実用性を探ろうとしている。

次に1924年2月に『国民美術』に書かれた「工芸家の近況を知らせる手紙」では、「巴里の工芸博覧会も結構ですし、又帝展の工芸編入も何よりですが、実際に民衆生活に直接する実用品に対する考慮や、農民を如何に良く産業工芸の顧問たらしめるか、大デパアトメントストアの美術部を如何に眼覚まさせればいゝかなどの問題にも聡明な頭をしぼつて頂きたいのです」という。また同じ頃、可志和会と白木屋による工芸家の実用品への新しい試みを高く評価している。しかし、无型設立の年にあたる1926年末には「純粋工芸は、即ち工芸美術は絵や彫刻と同じ意味での鑑賞を旨とするものである」とはっきりと「純粋工芸」を掲げ、むしろ産業工芸との区別を際だたせようとする趣旨がみえる。もちろん、彼は初めからその二つが工芸の両輪であり、実用品の質の向上のためにも、工芸美術が指導的役割を果たすべきことは説き続けていた。しかしここで明らかに力点が「純粋工芸」の問題に移り始めている。この年、《挿花のための構成》が制作され、无型結成直後に開かれた第1回聖徳太子奉賛美術展に出品されている。

1920年代末になると高村豊周は鑑賞と実用をめぐって次のような議論を展開する(「作る者から観る者へ」『アトリエ』1929年6月号)。「装飾的分子が侵入してくるまでは、実用が主であるが、作家の頭が進化してくると、美の表現が主体になつて了ふことになります。私の考へでは、工藝美術品といふものはこういふものであると思ひます」。実際にものを作る過程の中で、実用という当初の目的に、美しいものを作ろうとする意欲が次第に取って替わるという。「工藝美術品」は実用品の形を借りてはいるが、「実用は第2で鑑賞が主」という点で、「生産工藝品と根本的に立脚点が違ふ」。絵画や彫刻と同一に扱われるべきであるが、しかし「工藝美術の美は、他に類がないもの」で「絵でも彫刻でも現はし切れない美があると思ふ」。また工芸美術家が生産工芸品の産出を指揮する役に当たるのはいいが、安い日常品を作るのは的はずれであるとする。

このように見ていると、高村豊周の工芸をめぐる議論は、1926年を境に大きく方向転換したといえるのではないだろうか。とすれば、前年末に津田信夫が帰国し、无型が結成されたこと、そして翌27年に帝展に第4部が設置されたこととの関連が想起される。この時、高村は工芸に絵画や彫刻と対等な位置づけを要求し、日常的な「生産工藝品」と「工藝美術品」との断固たる差異を主張するに至っている。実用を主とする前者を後者から切り離し、工芸のアイデンティティーを「実用」ではなく、「他に類がない」工芸独自の美に求めることで、農展発足以来の課題に決着をつけようとしているのである。実際に多くの工芸作品は壷や鉢の形をとりながら鑑賞用以外の何ものでもなかったが、「无型は無型、型ナシだ」という宣言を一種の呪文として、既成の一切の形式の呪縛を解き放つと同時に、《挿花のための構成》にみる構成主義を思わせる形式を通じて、慣習でしかない壷や鉢という形式としての「実用性」に決別したことは明らかである。《挿花のための構成》は連続的な展開の上にではなく、全く突如として出現したような感を受ける。この作品や杉田禾堂の《用途を予期せね工芸》は、その時点での彼らに可能なかぎりのラディカルな表現であったことは確かであるが、それゆえにこそ孤立感と無縁ではない。

明治以来の「美術」という概念の制度化をめぐる矛盾、歪みが、最終的に工芸において決着をつけざるを得なくなった結果が、「純粋工芸」というある意味で奇妙な造語に集約されている。しかし、同じ頃、高村より1世代下の信田洋は柳宗悦をも援用して、「一つの工芸制作に於いて、それが用いられるべき器具への与えられた造型であり構成であれば、そこに出現した形態は機能的に活躍する限りに於いて、客観的に美を持つという事が現代の工藝のイデオロギーと言えるものであろう」と、ちょうど高村の議論を全く逆転させたようないわゆる「機能主義の美学」に近いものをすでに主張している。周知のように、柳宗悦もまた最初の本格的な工芸論である『工藝の道』で美と用に関する議論を展開している。ただし、柳は「工芸」を「美術」とは全く別の性質を有するものとしてこそ位置づけようとしている。工芸の美は固有のものであり、その固有性は「用」と同時に、「無名性」にあるとする。無名の人々の手になる工芸品の美は、富本の「民間芸術」、リーチの「農民芸術」として、さらには津田青楓らによってすでに1910年代に見出されていたものである。その美を柳は発見するに留まらず、そこにこそ「工芸」そのもののあるべき姿を見、理論化していったのである。その柳宗悦の帝展批判に対して杉田禾堂が反論したことは周知のとおりである。

 4

1910年代、美術と産業の間で宙づりになっていた工芸に、富本、リーチらは個人作家として、絵画・彫刻と同じ芸術の可能性の地平をもたらした。その地平を前提としつつ、社会が大きく変貌し、ものをつくることの意味も技術の体系も大きく変わっていく中で、工芸をどこに位置づけるかが、様々な形で探られたのが1920年代である。今和次郎、柳宗悦、高村豊周らは、最も真摯にその解答を探り続けた人々であろう。それぞれの関心のあり方、問題意識、考え方の相違は実に幅がある。そのため、彼らが実は同じ問題に直面していたということは見過ごされがちであったように思われる。そしてここにさらに、工芸の個人主義の先駆者として、民芸や図画会工芸部の設立に関わりながら、基本的に一人で歩むことを続けた富本憲吉の1920年代をつけ加えたい。富本の1920年代は、1910年代以来の模様の探求や白磁の研究を続けながら、「陶板」を考案し、新しい日常用食器を制作し、さらに信楽等で量産の絵付けを試みるなど、新しい現代の陶芸を生み出すことへの多様な探求に向けられていた。1926年の文章で富本は「趣味という語で現わす都合のよい温暖郷の殻を破るために幾度自分自身を狂気のようにしてきたか」と、自らの1910年代を乗り越えようとする姿勢を表明している(「陶工として思ふ」『みずえ』1926年3月号)。「趣味」という名のもとに過去の作品を偏重する一般の工芸観に対し、現代の陶工として切実な危機感を抱いた富本は、日本の陶器は「これが最後だ」とさえ言う(「窯辺雑記」『窯辺雑記』1930年)。彼の鋭い時代感覚ゆえであろう。こうした富本の1920年代も、1910年代以後、工芸が抱え込んだ問題の広がりと複雑さを物語っていよう。

ところで、こうした工芸をめぐる状況は、ヨーロッパにおいて、様式の混乱からウィリアム・モリスらの工芸運動が始まり、装飾の意味が問われ、新しい空間の秩序付けが必要とされた状況と対応しているとみることができる。ただこうした状況をもたらした社会的要因はかなり共通していても、状況そのものも、またそれに対する対応のし方も当然異なっていた。とりわけヨーロッパにおける様式の崩壊と装飾の意味の問い直しが、建築から工芸・デザインまでも含めた全体の問題であり、主として建築家による総合芸術としての空間造形の試みのなかで、近代デザイン運動が進展していったのに対し、日本では、建築家の側でも武田五一、藤井厚二、堀口捨己らの総合的な試みがあったものの、工芸をも巻き込むような広がりはなかったという点は大きな相違である。元来建築を頂点とするヒエラルキーの中に工芸が位置づけられたヨーロッパとは両者の関係が全く異なっていたからといえよう。

住宅のインテリアという、市民社会の発展に伴ってクローズアップされてきたプライヴェートな空間の問題は、日本でも1920年代には大きな関心事であった。日本の場合、このプライヴェートな空間そのものが、ごく短期間に出現したものである。個人の趣味に立脚したその典型を、たとえばイギリス留学から帰国直後の富本意吉の大和の生家の一室にみることができよう。また家族中心の生活の原型を新宮の西村伊作邸に探ることができる。富本にせよ、西村にせよ、それ以前にはない個人に立脚した生活空間の問題を意識した最初の人々であったといえる。しかし一般には、洋式の生活をいかに取り入れ、生活の合理化をはかるかという、空間の質を問う以前の問題が大部分を占めてしまったのも、やむを得ない事情であった。そのため、この問題を一挙に飛び越え、空間の質を問題にした斎藤佳三や森谷延雄の試みは、あまりにも突出したものとして孤立せざるを得なかった。1910年代に芽生えた「生活と芸術」への関心は、総合芸術の試みというよりは、個々の工芸品の実用性への関心と工芸と社会の問題へと広がったのである。すなわち、日本においてモリスの工芸運動への理辟がかなり広く深いものであったのに対し、1900年前後に総合芸術の試みとして、工芸品を含めたインテリアの問題に取り組んだヴァン・ド・ヴェルド、マッキントッシュ、ホフマンらの仕事は1920年代の日本の工芸家の関心の範囲外であったのである。ヴァン・ド・ヴェルドらにおいて、新しい工芸、デザインはインテリアの秩序のなかに意味を見出していったが、日本では、工芸のアイデンティティーは、工芸自身のうちに(高村豊周)、あるいは工芸と社会、工芸の倫理性のうちに(今和次郎、柳宗悦)求められたのである。

森谷延雄や斎藤佳三には、確かにモリスおよびアーツ・アンド・クラフツに始まり、世紀末のマッキントッシュやヴァン・ド・ヴェルド、ベーレンスに至る芸術作品としてのインテリアの系譜に属するものを追求しようとしする意識があった。とりわけ斎藤佳三による装飾によって感情、気分を喚起するインテリアは、ヴァン・ド・ヴェルドが展開した線の装飾論を想起させるが、あまりにも突出していたがゆえに論争を喚起したのみに終わった。また今和次郎や柳宗悦にも総合的空間への視点はあったが、それぞれに独自のものであった。

工芸をめぐる論争が最も活発に行われたのは1930年前後である。主として1920年代に徐々にはっきりしてきた工芸をめぐる見解の相違がこの時期に尖鋭化したのである。そのなかで、1931年の北大路魯山人による柳宗悦批判は、他の論争と異なり、論争になりようのないほどに両者の立脚点のちがいを示しているように思われる。古陶磁や工芸作品を「食文化」の中に位置づけ、趣味と美意識の問題として捉える魯山人にとって、工芸と社会の問題など眼中になかったにちがいない。魯山人にとってはひたすら個々の工芸品の質、食器として適うかどうかが問題であり、「工芸」という抽象的な存在などどうでもよかったはずである。「目利き」という点で柳宗悦と魯山人が比較されるにしても、その生きる次元は全く違っていたといわざるを得ない。

工芸史は個々の工芸作品なくして成立しないのであろうが、1920年代の工芸の全体を考えるとき、工芸家以上に、思想家、あるいは学者であった柳宗悦と今和次郎の存在が大きく浮かび上がってしまうように思われる。工芸を通して美と倫理の問題を徹底して思考したのがその両者である。それは畢竟、否応なく大衆化へ向かう近代社会のなかで、美がどう生き残っていけるのかに対する答えを探ることであった。工芸についても、個々の作品の質のみでなく、「工芸」という抽象的な概念を問題にせざるを得ない時代が訪れたのである。

 5

さて、最後に、こうした工芸をめぐる思想や議論とは無縁であった世界、しかし当時はまだある意味で最も社会と密接な工芸の分野であった着物の世界に触れておきたい。今のいう「しきりに華美に傾いた」都会人の風俗の典型、すなわちすでに触れた「はなやかなるもの」の典型であり、今が一方で関心の対象としたロココの「アブソリュート・パターン」にも該当する性質をもつものである。「アブソリュート・パターン」とは、装飾そのものが純化されてもの自体から自立するほどに至ったもののことである。確かにロココの装飾がそうであるように、これら着物は、何の倫理性も現実に対する批評性ももたない最も表層的な存在であるが、少なくとも日本の染織文化の行きついたところを非常に洗練された形で示している。見方によっては、ここにこそ生活と結び付いた最も豊穣な工芸とデザインの世界をみることができるといっても過言ではない。近代の文化をめぐるもう一つの複雑な問題がここにある。

ある種の核をもちつつ、長い時間をかけて洗練の度合いを深めてきたものの精髄を文化と呼ぶならこれらこそ文化そのものであろう。ところが、美や工芸の倫理やアイデンティティーを問わずにいられないのが近代である。倫理やアイデンティティーを問われたとき、真っ先に消えていくのはこれら着物であろう。実際には倫理やアイデンティティーを問われるまでもなく着物が姿を消してしまったのは周知のとおりである。社会と最も密接な関係にある着物は、「贅沢は敵」のスローガンのもとで最初の打撃を受け、次に戦後の洋装化の波が決定的な打撃を与えた。戦後の女性にとって着物は、女性が様々な制度に縛られていた時代の象徴として、その自由な活動を妨げるきわめて不便な衣服でしかなくなった。しかしながら、1920年代前後の着物のうちに、生活の中に根付き、しかも高度に洗練された感覚の共有を前提に、自由に技法とデザインを駆使した、個人作家によるものではない、近代の工芸の別の姿があったことを今一度思い起こしてみたいのである。

(三重県立美術館学芸員)

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