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1920年代の日本彫刻界と西洋


毛利伊知郎

1.ロダン受容のその後

第一次世界大戦中の1917年11月17日、1910年代の日本彫刻界に大きな影響を与えたロダンが死去した。彼の死は、わが国の知識人や彫刻家たちにとっても大きな事件であった。翌年1月に発行された『白樺』第9巻第1号には、ロダン追悼紀念の記事とロダン作品の写真が附録としてつけられたが、その中で尾崎喜八は、「今はぢつとこらへてロダンのことを考へませう。父の喪にゐる心地がします」と述べ、また長与善郎も「彼の死に対しては全世界、全人類が心から脆いて祈らなくてはならない。悔まなくてはならない。等しく謹慎すべき運命的事件だ」と記して、ロダンに対する最高級の賛辞とその死を悼む深い哀惜の念を表明している。

1910年代、ロダンは熱狂的にわが国に受け入れられたが、当時、日本国内にあるロダンの実作品といえば、1911年にロダン自身から『白樺』同人へ送られたブロンズ小品3点があった程度で、この時期のロダン紹介は大部分が複製品や写真、彼の言葉などによるものであった。この頃、ロダンの代表的な作品を見た目本人は、渡欧経験のあるごく一部の限られた人たちだけであった。

1920年に開催された再興第7回本美術院展覧会では、現代フランス美術展が同時開催され、彫刻4点と素描66点のロダン作品が展示されたが、これ以降わが国でロダン作品が紹介される機会は次第に増えていく。

1922年(大正11)5月に農商務省商品陳列館で開催された「彿蘭西現代美術展覧会」には、ロダンの彫亥29点と素描4点が出品された。この展覧会は、1927年(昭和2)の第6回展まで毎年開催され、第2回展以降もロダン作品は出品が続けられているので、ロダンの名を広めるのに一定の役割を果たしたものと考えられる。

ところで、中原悌二郎や戸張孤雁らは、主に荻原守衛や高村光太郎らを介したいわば間接情報によってロダンに心酔することになったが、そうしたロダン受容の在り方は『白樺』同人に代表される当時の文化人たちにも共通するものであった。守衛にしてもロダンと会ったのは一回限りであり、光太郎はロダンを訪問しながら面会がかなわなかったというから、ロダンから直接教えを受けた沼田一雅や藤川勇造は、むしろ例外的な存在であった。

その後、陶磁器彫刻制作を主とするようになった沼田一雅は別にして、1908年(明治41)に渡仏した藤川勇造は、1911年(明治44)からロダンに師事し、彼の助手もつとめて、1915年(大正4)に帰国した後、1919年(大正8)二科会彫塑部会員になり、1922年(大正11)の第9回二科展と翌年の第10回二科展に「スザンヌ」をはじめとする滞欧作を発表、以後二科展を主たる活動の場とした。

藤川は1910年代半ばに帰国しながらも、国内での制作活動が20年代以降であったこと、彼の作品がむしろ穏やかで静的なモデリングを特徴とし、ロダン流の激しい表現を伝えるものではなかったために、ロダンを中心とするフランス近代彫刻の日本への導入に果たした役割ということでは、藤川は荻原守衛や高村光太郎の陰に揺れがちである。しかし、ロダンに直接師事しながら師の模倣に終ることなく、自己のスタイルを確立した堅実な姿勢は評価されてもよいだろう。

荻原守衛や高村光太郎らによるロダンの発見によって、日本の近代彫刻は始まったといわれるが、間接的な情報に頼らざるを得なかった当時の作家たちの仕事には、ロダン様式の受容ということでは、いかにも日本的ともいえる状況を見ることができる。

たしかに、中原悌二郎が書き残したロダンについての理解は驚くほど的確であるが、彼の作品は、モデリングやポーズなど造形的な点において必ずしもロダン風とばかりはいえないだろう。戸張孤雁についても、同じことが当てはまるだろう。

1910年代以降、写実表現が主流であった官展彫刻とは別の流れをつくることになる再興日本美術院彫刻部の作家たちのフランス近代彫刻の受容は、このように間接情報を主としつつロダンを芸術家の理想像として神聖視するという特殊な様相を示しながら1910年代に始まったが、藤川勇造を嚆矢とする日本とフランスとのより直接的な接触は20年代を待たなければならなかった。

2.プールデル、マイヨールと日本人彫刻家

1921年(大正10)、保田龍門がパリに到着してアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールでブールデルに師事したのを皮切りに、以後渡仏してブールデルに師事する日本人彫刻家が相次いだ。この時期、保田以外では木内克(1922年渡仏)、金子九平次(1922年渡仏)、佐藤朝山(1922年渡仏)、清水多嘉示(1923年渡仏)、武井直也(1924年渡仏)らがブールデルに学んだ。

ブールデルは、1893年にロダンの助手となり、1900年にはデボワとともに彫刻家養成の教室「アカデミー・ロダン」の開設に参加するなどロダンを助けて、ロダンが道を開いたフランス近代彫刻を更に展開した作家として位置付けられ、ロダン没後に渡仏した日本人作家がこの彫刻家に師事したのは当然のことでもあった。ブールデルはこの頃既に60歳を越え、1928年には67歳の生涯を終えることになるが、彼は1909年から亡くなるまでアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールで青年たちの教育に当たった。当時、この研究所には日本人以外にも多くの外国人生徒が集まっていたが、ブールデルは自身の彫刻のスタイルを生徒たちに押しつけることはせず、生徒たちの自主性を尊重した教育を行ったようだ。

また、1924年(大正13)に渡仏した山本豊市はマイヨールに師事することになる。ブールデルと異なって、マイヨールは弟子をとることを好まなかったというが、渡仏前からこの彫刻家を尊敬していた山本は、パリ到着後半年ほどして、幸運にもマイヨールのアトリエに通うことを許された。

わが国にロダンを伝えた荻原守衛、高村光太郎を第一世代とし、彼らに感化されて1910年代から日本美術院を舞台に活動を始めていた中原悌二郎、戸張孤雁、石井鶴三らを第二世代とすれば、渡仏してプールデルに師事した日本人作家たちは、いわば第三世代の新人たちということができる。彼らはブールデルやマイヨールに学んで何を日本に伝えたのだろうか。

保田龍門の「クリスティーヌの首」(1923年)、金子九平次の「C嬢の首」(1925年)、武井直也の「女の首」(1925年)、清水多嘉示の「マルセル」(1927年)などの滞欧作は、いずれもブールデル調の構築的な立体構成を示していて、そこにロダン的な情念の表出や動勢はほとんど認められない。彼らは、ブールデルに対して強い尊敬の念を抱き、帰国後も師風を継承した作品の制作を続けている。

また、1935年(昭和10)に帰国するまで10年以上の歳月をヨーロッパで過ごした木内克は、最初の一年ほどはブールデルの指導を受けたが、一方で古代ギリシアのアルカイック彫刻に心酔し、テラコッタ技法も習得して、大らかな雰囲気漂う独自のスタイルをつくり上げた。

日本美術院創立二十五周年記念事業の一環としてヨーロッパに派遣された佐藤朝山は、もともと木彫家として出発した経歴の持ち主で、東洋の造形にも強い関心を抱いていたが、「田中氏像」(1928年)のような塑造作品と同時に、古代エジプト彫刻との関連をうかがわせる木彫作品「牝猫」(1928年)を発表するなどして、和洋の統合に腐心していた。

このように、1920年代にヨーロッパに滞在した日本人彫刻家たちは、ブールデルを師と仰いで彼のスタイルを継承しながらも、それに束縛されることなく、西洋古代美術や東洋美術にも眼を向けて、広い視野を持ちながら自己の造形世界を築いていった。1910年代に見られた熱狂的ともいえるロダン賛美は、20年代に至って姿を消したといってよいだろう。この時期、高村光太郎や岸田劉生らがロダンの作品に対する疑問を呈した文章を記しているのも、いわばロダン・フィーバーが沈静化してきた現れといえるだろう。

3.二科会、新興美術運動の彫刻

先にもあげた1922年(大正11)以降毎年開催された「佛蘭西現代美術展覧会」には、ロダンとともにブールデル作品が第1回展から出品されており、日本人作家の渡欧とほぼ同時期に、わが国へもブールデルの実作品がもたらされていたことを知ることができる。

この展覧会には、ロダン、ブールデル以外にも、クローデル、ダルー、ベルナールら多くのフランス人彫刻家の作品が出品されていたが、ロダン、ブールデル、マイヨール以外の作家でこの国に定着していった作家は皆無といってもよい。

ところで、1920年代に行われた同時代西洋の彫刻の紹介ということでは、二科展に出品したザッキンの例がある。1890年、ロシアのヴィテブスクに生まれたこの彫刻家は、1921年にはフランスに帰化し、翌年には東京の文化学院で個展が開催されている。また、1923年(大正12)の第10回二科展に彫刻4点と水彩5点が出品されたのを皮切りに、以後1936年(昭和11)までの間に10回ほど作品が展示された。

二科展には、回数は少ないながらザッキン以外にも外国人作家が出品していて、彫刻ではマイヨール、アルキペンコ、デスピオらの作品が展示されたことがある。継続して作品を送ったザッキン、あるいはブールデルとともに当時のフランスを代表する作家であったマイヨールの作品は、当時の青年作家に少なからぬ刺激を与えたが、二科展に出品した外国人作家甲影響は必ずしも大きくはなかったようで、二科展彫塑部では創立会員である藤川勇造の影響力が群を抜いていた。

ここで、同時期の立体造形ということで、いわゆる新興美術運動に参加した作家たちの手になる作品についても触れておこう。東京美術学校彫刻科で北村西望に学んだ経歴を持つ浅野孟府は、1921年(大正10)の第2回未来派美術協会展に浅野草之助の名で「受胎に起因する羞恥力」を出品、また翌年には三科インデペンデント展に出品した後、二科展に出品していた作家たちが中心になって結成された「アクション」に参加し、以後1924年(大正13)には三科結成に参加、20年代未からはプロレタリア美術運動へ傾斜していった。また、彼は1922年(大正11)の第9回院展や翌年の二科展にも出品し、関東大震災後は、神戸に移ってダダ的な構成的作品を制作して三科会員作品展に出品していた。

1920年代の浅野の現存作品としては、テラコッタの「裸婦」(1925年)、パラフィンと石膏を素材とした「首(マヴォイスト)」(1926年)、「卵型の顔」(制作時期不詳)が知られているだけである。いずれも具象的な作品であるが、大きく見開いた杏仁形の眼をもつプリミティヴな力を示す頭像は、当時の具象作家たちとの作品とは異質のものといえる。

また、後年美術評論家として活動する仲田定之助は、1922年から24年にかけてドイツに留学してバウハウスについて研究し、1925年(大正14)の第2回三科展にダダ風のオブジェ「ブーベンコップのヴィナス」を出品して三科賞を受賞した。現存する1924年作の「首」と「女の首」はキュビスム的作品で、わが国における最も早い時期の抽象彫刻の作例である。未来派美術協会結成の中心であった普門暁にも、曲線による構成を特徴とした石彫の「トルソ試作」(1918年)と針金を素材とした「化粧」(同年)という抽象的な立体作品が現存している。

村山知義らマヴォに参加した作家たち、あるいは三科の作家たちが手がけた構成物はいずれも現存しないが、この時代における最も先鋭的な立体造形作品であった。しかし、それらはあたかも20年代という夜空に束の間の輝きを放った花火のように、相前後する時期の立体造形作品からは孤絶した存在であり、わが国における抽象彫刻の確立は大きな課題として1930年代以降の作家たちに引き継がれたといってよい。

4.彫刻における西洋と日本東洋

このように、1920年代には、表現主義、未来派、キュビスム、フォーヴィスム、アール・デコ、構成主義、ダダなど様々な新しい造形表現がほとんど同時にわが国へ伝えられた。少数の彫刻家は、表現主義、未来派、キュビスム、構成主義的作品を試みたけれども、それらは日本の彫刻界に定着するまでには至らなかった。

1910年代以来の写実表現を基本としていた帝展の彫刻は別にして、先述したように20年代の在野の彫刻界はロダンに続いて伝えられたブールデル、マイヨールの作風へと傾斜していくことになったが、こうした西洋からの新しい刺激に対して、日本人作家たち−特に伝統的な日本東洋の彫刻を基盤に持つ作家たちははどのように反応したのだろうか。

先ず、ブールデルに直接師事した彫刻家の一人である佐藤朝山の場合を見ることにしよう。日本美術院から派遣された佐藤朝山は、仏師・宮彫師の家の出身で、幼い頃から木彫の手ほどきを受け、山崎朝雲に師事したこともあり、院展に参加してからも木彫による東洋的な主題の作品を多く制作していた。

しかし、朝山は木彫だけでなく、中原悌二郎らから影響を受けて塑造も手がけて、西洋と東洋との差異をいかに考えるか腐心していた。渡欧した朝山は、ブールデルの代表作の一つ「アルヴェアル将軍像」を見てからブールデルに師事して、帰国後は塑造作品を院展に出品する一方で、牛や猫を主題とした木彫も制作するなど、独自に和洋の造形の統合を進めた。渡欧後も彼は西洋一辺倒にならず、日本の古仏や古代エジプトやメソポタミア、インド彫刻も研究するなど、当時としては東西両洋にわたる幅広い視野を持った、院展の中でも異色の彫刻家であった。

また、1910年代から制作活動を始めていた日本美術院の作家では、石井鶴三が佐藤朝山と似通う特質を示している。石井は彫刻だけでなく洋画や版画も手がけたが、東京美術学校彫刻科卒業後院展に参加し、佐藤と同じく木彫と塑造作品を同時に制作するようになる。裸婦など西洋的な主題のものであっても、石井の作品には常に日本的な雰囲気が漂っていて、日本の造形を基盤としながら西洋の造形をどのように受け入れるべきかという問題に対する、石井なりの姿勢をうかがうことができる。

朝山の内弟子であった橋本平八は木彫に専心した作家であるが、20年代前半には解剖学的な正確さを保ちながら、生命観の表出を追求した塑造の「猫」なども制作していた。その後、20年代半ば以降、平八は主に東洋的な主題の作品を制作したが、日本の一木彫成像を連想させる「成女身」、古代エジプト彫刻との関連をうかがわせる「裸形少年像」、あるいは見方によってはオブジェ的ともいえる「石に就いて」などの作品に、木彫表現の新しい可能性を提示していった。

このように、熱狂的にロダンが受け入れられた1910年代から、ブールデルやマイヨールらの作風が伝えられてフランス近代彫刻の造形言語の移植が新たな段階に入った1920年代にかけて、西洋の波に押し流されまいとする彫刻家たちにとって、わが国固有の歴史を持つ木彫は一つの拠りどころになりえた。

ここで、西洋と日本との関わりという観点から、高村光太郎が20年代に制作した木彫作品に触れておこう。光太郎は、1910年代以降『ロダンの言葉』を刊行するなどわが国へのロダン紹介に大きな役割を果たし、自らもロダン風の力強い表現を特徴とする「腕」や「手」等の作品を制作していた。

光太郎自身、幼い頃から父光雲に木彫の手ほどきを受けた経験を持っていたが、20年代半ば頃から30年代にかけて、生活資金獲得を目的とする頒布会のために「魴ぼう」「蝉」「柘榴」「鯰」「桃」など一連の木彫小品を制作するようになる。

いわゆる伝統的な木彫とは全く別種のこうした作品には、数少ない整づかいによって対象の本質的な姿が単純なフォルムの中に凝縮されていて、作者の達者な彫技と飾り気のない姿を見ることができる。

雑誌『ステュディオ』で「考える人」を見たのがきっかけとなってロダンに傾斜し、アメリカやフランスでロダンの実作品に触れた経験を持つ光太郎は、代表作「手」が仏像の施無畏印から発想されたように、一方では日本東洋の伝統的な彫刻にも常に目を向けていた。1924年以降の木彫小品は、作品の性格からいって日本の伝統を強く意識してつくられたわけではないけれども、それ故にかえってわが国の木彫の流れに新しい世界を開くこととなった。

以上のように、フランス近代彫刻の導入が新しい段階に入ったと考えられる1920年代は、一方では日本の伝統的な彫刻技法の見直しが行われた時期でもあった。また、やや後のことになるが、マイヨールに入門して1928年(昭和3)に帰国した山本豊市は、帰国後は日本の古仏に眼を向け、特に乾漆技法を研究して、乾漆の柔らかな味のある質感を清かした女性像を制作した。

さらに、ブールデルの影響が過大になるのを畏れてテラコッタの技法を研究して、独自の境地を開こうとした木内克のように、留学中の恵まれた環境を活かして西洋の古代・中世の造形研究に向かう作家もいた。

留学した洋画家たちが、帰国後は西洋で習得した本場の技術とスタイルを日本化することに腐心し、また西洋に渡った日本画家たちが改めて伝統的な日本東洋絵画を見直していったように、彫刻家たちも単なる模倣に終らず、西洋彫刻の造形言語を日本に根づかせるために、日本東洋の伝統的な彫刻の表現と技法、あるいは古代中世の西洋彫刻に改めて眼を向けていった。

荻原守衛や高村光太郎らを介してロダンに心酔した中原悌二郎、戸張孤雁らの作品は、彼らがロダンの単なる模倣者でなかったことを示しているが、彼らの後に続いた20年代の青年作家たちは、同時代西洋の彫刻表現についてのより深い理解の上に立ちながら、この間題に立ち向かっていったということができよう。

(三重県立美術館学芸課長)

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