このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

図版頁

1 プロローグ

明冶以降における日本美術は、すでに江戸時代後期から始まっていた西洋美術受容の姿勢を、明治政府の国家的な欧化政策の一環として、いっそう加速全面化し、近代化への道をひた走った。

その最初の組織が、1876(明治9)年、明治政府によって工部省工学寮の付属機関として開設された工部美術学校である。工部省の一組織であることが示すように、科学技術の振興をはかる実利的な政策を背景にもっているが、絵画・彫刻・建築科にはそれぞれフォンタネージ、ラグーザ、カッペレッティがイタリアから招かれ、彼らの指導により西洋美術がはじめて組織的に教育された。

一方で、急激な欧化に対して、抑圧されていた伝統的な日本画を擁護し西洋画を排除しようとする国粋主義的な運動が、1880年代に高まり、1883(明治16)年には工部美術学校も廃止されてしまう。1889(明治22)年に開校した東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)には、日本画と木彫の学科のみが置かれ、西洋画と洋風彫塑の学科が設けられなかったが、これはこの国粋主義的性格が反映された結果である。1890(明治23)年、校長になった岡倉天心は,こうした立場から日本画の近代化をはかろうとする画家たちの理論的な指導者となる。天心の主張は、西洋画の写実を技法として援用ししつも、あくまで日本美術の伝統的な性格である観念すなわち理想を表現しなければならない、というものである。その後内紛によって美術学校を追われ、1898(明治31)年に日本美術院を創立した天心のもとには、美術学校時代の門下生である横山大観,下村観山 菱田春草らが岡倉の理想を実現しようと集まる。しかし、彼らが編み出し、朦朧体と当時揶揄された新技法は、伝統的な線描をやめ、色面の濃淡で調子を整え,空気や光線を表現するというものであった。これは油彩画の技法を援用したもので、近代化=欧化という点では、洋画の動きと軌を一にするものであった。

日本美術院の革新的な動きは、伝統のより強固な京都画壇にも強い刺激を与え、菊池芳文、竹内栖鳳、山元春挙ら気鋭の日本画家に西洋画の写生に対する目を見開かせた。

明治中期の国粋主義的な風潮のなかでの洋画排撃によって一時逼塞を余儀なくされていた洋画も、浅井忠、小山正太郎、原田直次郎、五姓田義松らによる最初の洋画団体である明治美術会の結成(1889年)、黒部青輝のフランスよりの帰国(1893年)と美術学校に新設された西洋画科主任教授就任、白馬会創設(1896年)によってふたたび勢いをとりもどした。1907(明治40)年、最初の官制展覧会である文部省美術展覧会(文展)が設立されると,黒田のアカデミックな写実に印象派の色彩を加えた明るい外光主義の画風が、日本のアカデミズムとして洋画界に定着するようになる。

1910年代のプロローグとしての明治期を洋画日本画を中心に概観してみたが、この時代は、明治維新以降、国家的な規模でひたすら押し進められた近代化の大きな流れのうちに多くのものがおかれた時代であった。そこでは、むしろ個人よりも国家が優先された。1910年代は、急速な近代化が一段落し、近代化の過程で生じた矛盾や不安に人々が気づきはじめ、人間性や個人の価値を再認識する時代である。

(山口泰弘)


2 西洋の新たな発見と模索

1910年を前後して日本の美術界には新たな動きがみられた。『白樺』(1910〜)『スバル』(1909〜)『早稲田文学』(1891〜)などの文芸雑誌や諸新聞が、新帰朝者の言論を通じてヨーロッパ美術のあたらしい動向を紹介しはじめ、これらの情報は現状の美術界に不満を抱く青年画家たちを刺激した。この時期に伝えられたあたらしい美術の動きのなかでも、後期印象派やフォーヴィスムの画家ら、とくにマチス、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンについての記事がこの時期に続々と登場する。二三の例をあげておくと、早い時期では1908〈明治42)年帰国した斎藤与里は翌年2月の『日本及日本人』に「絵画の新潮流と私見」を発表、セザンヌをはじめとする新傾向を紹介し、「緑色の太陽」で知られる高村光太郎は、帰国した1909(明治42)年にマチスの「画家のノート」を翻訳*1、1910(明治43)年に帰国した有島生馬はその年の5月と6月の『白樺』に「画家ポール・セザンヌ」を発表*2するなどである。

こうした刊行物という媒体によって青年画家たちがどれだけ影響されたか、はかりしれないものがあるが、それだけではなかった。日本にいた青年画家たちはこうした情報以外にも、20世紀の美術に感化された新帰朝者の作品を見たり、彼らと親交を結ぷことによって、彼ら自身の生の感動を聞き、彼らが持ち帰った画集などを見る機会もあった。例えばゴッホについてはじめて雑誌で触れているのが森鴎外の「むく鳥通信」(『スバル』第2年5号)であったとしても、それより少し前の時期から情報を手にいれていたと考えるのが妥当であろう。

ヨーロッパの新しい美術の動きを示す上記の作家の実作品を見る機会は1910年代のはじめ頃にはまだなかった。しかし、けっして鮮明とはいえない複製図版をたよりに、1910年代前半期の作家たちはそれらの表現に共感し、理解しようとつとめ、自分の表現にとり込んでいった。若い洋画家たちは、これに先立つ時代、黒田清輝がもたらした外光派的リアリズムにある種停滞感をおぼえ、自己をここに位置づけることができなかった。そして、それまで森鴎外や久米桂一郎が紹介していた印象派絵画がこれからの時代を予感させ、すでに模索がはじまっていた。山脇信徳が第3回文部省美術展覧会に学生時代発表した《停車場の朝》は、モネを連想させる光のとらえかたと近代的風景のなかにきたるべき時代を予感させた最も早い作品で、この息づかいは《雨の夕》にもみることができる。

新しい美術の動向を知らされた洋画家たちは、すぐさま共感し、後期印象派以降の表現をとりこんでいくことになった。こうした作品がもっとも早い時期に結集したのが、1912(明治45/大正元)年のヒュウザン会である。この会は帰国した高村光太郎、斎藤与里を中心に萬鐵五郎、岸田劉生、川上涼花、木村荘八らが参加した。ここに参加した画家たちの作品を中心に1910年代初期の作品をみていくと、ゴッホならゴッホだけの描きかたを実践してみせた作品も中にはあるが、ほとんどの作品は後期印象派以降のさまぎまな作家の様式の諸要素を一枚の作品に混在させることになった。その典型的な例は川上涼花《鉄路》で、太陽の輝きをゴッホ調で表現する一方、印象派の震える光のうえにフォーヴィスムの色の整理、ナピ派の色彩感覚を同時に持ち合わせ、しかも、画面左下から流れる線路とスピード感は未来派絵画に通じている。東京美術学校の卒業制作で《裸体美人》を描き、当時の美術界に衝撃を与えた萬鐵五郎にしても、《風景(煙突のある)》のようなゴッホの表現を素直に実践した作品があるなか、《ボアの女》のように、ゴッホのうえにフォーヴ的処理を加えた作品がある。

のちに独自の写実表現を確立した大正期を代表する画家岸田劉生もこの時代フォーヴィスムなどの洗礼を受けた。外光派の団体である白馬会が解散した1911(明治44)年、20歳の岸田劉生は『白樺』と出会い、柳宗悦から見せてもらった複製図版に驚き、ゴッホをはじめとする後期印象派以降の作品から自分の作品を「感化といふより、模倣に近い程」*3変えた。《日比谷の木立》《築地居留地風景》などの作品をみても、その影響はすぐ読み取れる。やはりさまざまな作家の諸要素を混在させていてはいるが、タイナミックな筆の圧力をとくに抽出している。

太平洋画会や文展に出品を続けた中村彝も、ほぼ同時期にレンブラントの古典技法からはじまり、ルノワールの明るく柔らかなタッチを採用し、風景画では印象派絵画の光のとらえ方を、そしてセサンヌの緻密な構成を応用する。

日本画家たちにとっても、後期印象派以降のあたらしい動きに対して敏感に反応する。彼らも、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、セザンヌに魅せられた。1918(大正7)年に国画創作協会を結成した土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花らはゴーギャンやセザンヌを学ぶ。

人物を大肝でリズミカルに配置した土田麦僊の《海女》は、題材こゴーギャンの南国趣味が反映されている。そして、野長瀬晩花は1911(明治44)年の新古美術展において鮮烈な色彩を画面に活かした《被布着たる少女》を出品しているが、やはり《島の女》《初夏の流》においてゴーギャンの平面性と南国趣味をいっそうつきすすめた。 彫刻界については、絵画よりも早い時期にあらたな動きがあった。その発端は1904(明治37)年、パリ在住の荻原守衛がサロンに出品されていたロダン《考える人》と出会ったことにはじまる。彼は、その作品を前にして、自分の存在を感じることができないほどの驚きを覚え、1907年には直接ロダンに面会した。荻原はロダンのことを親交のあった高村光太郎や斎藤与里らに伝え、帰国した1908(明治41)年には《文覚》《坑夫》といった作品を発表。彼のまわりに集まった「中村屋サロン」の作家たち、戸張弧雁、中原悌二郎、中村彝もまた、ロダンの信奉者になった。

このように、ヨーロッパのあたらしい美術の動向についての情報が青年作家たちの表現方法を大きく変えてしまったわけだが、もちろん彼らはあたらしい美術の表層的な摂取だけを真似てみたわけではない。そこには自己のスタイルを確立するための模索があり、人格を形成するために、雑誌や画集の図版などからでさえ、彼らは作家の生命のリズムを感じとる。そして『白樺』などで紹介された後期印象派以降の画家やロダンについての生きざまに強い共感を憶えたのであった。


(田中善明)

*1 高村碎雨(光太郎)「HENRl−MATISSEの画論」『スバル』第9号



*2 『白樺」第l巻第2号、第3号



*3 岸田劉生「思ひ出及今度の展覧会に際して『白樺』10−4 1919年4月


3 個性主義の諸相

1 伝統の再解釈

明治維新後、近代化つまり時代の好尚にかなうような新しいスタイルヘの変化を求められたとき、日本画において最初に試みられたのは、平面的で観念的な古来のスタイルにいかにして西洋絵画のもつ立体性写実性を加えていくかであった。こうした立場から日本画の近代化をはかろうとする画家たちの理論的な指導者となったのが岡倉天心である。天心は、内紛によって東京美術学校校長のポストを追われた後、1898(明治31)年に日本美術院を創立する。美術院には、美術学校時代の門下生である横山大観,下村観山 菱田春草らが集まるが、彼らが編み出した新技法は伝統的な線描を押さえ、色彩の濃淡で調子を整え,空気や光線を表現するという、いわば西洋画法の換骨奪胎であった。しかし、結果的には、朦朧体と当時揶揄されたように、画面から骨法を奪い、雲か霞のように曖昧模糊にし、陰鬱な気分に沈んだものにした。

こうした朦朧体の限界をもっとも鋭敏に敏感に感じとっていたのは、日本美術院の第二世代ともいうべき、今村紫紅、安田靫彦、小林古径、前田青邨らであった。1907(明治40)年、茨城県五浦の日本美術院研究所を訪れた紫紅が、最初の晩に、「君は故人では誰れを学びたいですか」と天心に訊かれ、直ちに「宗達です」と答えたという同行の安田靫彦の伝えるエピソードによってもわかるが、1900(明治40)年には、東京下谷根岸で大々的な琳派展が開催されており、宗達光琳の再評価が一部の識者のあいだに広まっていた。

紫紅が同時代の若い画家たちに与えた影響の大きさについてはいまさらいうことはないが、やまと絵や琳派、南画、あるいは印象派などさまざまな分野を自由に行き来しつつきわめて大胆な絵画上の実験を行ったことは、理念的にも大きな意味をもっていた。前代の画家たちの場合、岡倉天心という理論的指導者の強力な指導のもとにひとつの目標を実現することに邁進したのに対して、紫紅は、個人の感覚や好尚によって自由に題材や表現を選び取る新たな道を切り開いたからである。それは、明治とは異なる1910年代という時代を象徴する行動であったといえる。

この章で取り上げる画家たちは、様々な「伝統」を様々な意想で捉え、さまざまなかたちで表現している。たとえば、松岡映丘の《宇治の宮の姫君たち》は、12世紀に描かれた《源氏物語絵巻》(五島美術館・徳川美術館)以来の「源氏絵」の伝統を大画面形式によって近代に蘇らせた作品である。また、池田輝方の《絵師多賀朝潮流さる》は、江戸時代中期の絵師多賀朝湖すなわち英一蝶が逸楽遊興のかどで三宅島配流になった事件に材をとったもので、ここに描かれる人々の人情の機微は、明治の人々がある種「悪」と忌み嫌っていた前近代江戸の情調の美しさ思い起こさせるものである。冨田渓仙は、最初狩野派に学んだ後都路華香のもとで四条派を学び、さらに日本の古画や中国画を広く研究した。《淀》は、こうした彼の幅広い研究の成果を反映したもので、やまと絵の伝統的主題である淀の柳橋水車を、南画的技法を交えた独自の表現で描いて新味を出すことに成功した作品である。

(山口泰弘)


3 個性主義の諸相

2 様々な実験

後期印象派以降の動きが日本に伝わり、衝撃とともに共感したこの時代の作家は、西洋のあたらしい表現に影響されつつも自己のスタイルを求めはじめた。第2章で触れたように、日本の洋画家たちが1910年代初期にさまざまな外国作家の諸要素を抽出し、一枚の作品上にそれを活かそうとしたのも、そこから白身の視覚世界を確立しようとつとめたからである。

1910年代を生きた洋画家のなかで、自立した絵画世界をこの時期確立できた作家として岸田劉生や萬鐵五郎らがいる。

岸田劉生は、草土社を結成した時期にデューラーをはじめとする北方ルネサンス絵画に影響され、ようやくそこに自身の絵画を確立することになったが、劉生の初期の作《第2回フュウザン会油絵展覧会会場の装飾画》では、人生の収穫、嘆き、輝きといった人生に起こるすべてをこの半円形の画面におさめようとしているようである。この遠大なテーマをこの作品ではゴッホがつかった渦巻状の表現とマチスにみられるフォーヴの形態処理を組み合わせ、いかにすればつよく視覚に訴える効果的な画面が作れるかを試行している。

萬鐵五郎の《日傘の裸婦》は美術学校時代の作品で、傘をもった女性という点ではモネら印象派の画題から着想を得たようであるが、裸婦の要所をおさえた輪郭線や、人体の陰の部分を中心に使用された黄色や緑系統の色などをみると、フォーヴの手法が利用されたことがわかる。ここではこのモデルのアンバランスなプロポーションを逆に活かすための処置として「印象派の傘」や「フォーヴの色彩」を利用したようである。初期の萬鐵五郎は明快で多彩な色彩対比をみせていたが、故郷の岩手県土沢にもどった1914(大正3)年9月から褐色を基調とした暗い画面に変化した。萬は、『私の履歴書』のなかで、「この時期は随分勉強した。何も見も聞きもしない。二科会もはじまった様であったがそんなものをみたいとも思わなかった。」と回顧しているが、かれにとって自身の表現に立ち向かうとき、どうしても隔絶という手段しかほかになかったのかもしれない。隔絶した環境に身をおく結果、彼の土沢時代ではフオーヴィスム的な造形思考を放棄し、郷里の沈潜した雰囲気のなかでキュービスムの合理的実験をおこなった。そして、この時代の実験と造形思考は《木の間風景》にも十分にみてとることができる。20歳に満たないとき、未来派絵画を実践してみせた東郷青児の行為も、また「実験」と呼ぷに値する。大正アヴァンギャルドの幕開けとなる記念碑的作品《パラソルさせる女》、そしてそれにつづく《彼女のすペて》は東郷独自の未来派解釈で、その後の彼のスタイルを予感させている。

日本画家たちにおいても、やはり西洋美術のあたらしい表現を積極的に受け入れ、かつ日本の伝統美術についても顧み、自己の視覚世界につなげていった。ここに挙げられた作家をみると、幕末の風俗図《夜桜之図》を描いた村上華岳は浮世絵研究をし、杉田勇次郎は波切に取材した《海近く》で遠近法を取り入れ、北野恒富の《五月雨》は木版画的な平面性と輪郭線をこころみている。また、日本画・油絵・挿絵・意匠など枠にとらわれない制作をした竹久夢二は文人画の表現法を採用し、彼独自の軽妙なスタイルを確立した。

佐藤朝山や平櫛田中といった、木彫を主としておこなった作家たちも、この時期ロダンに影響され、《原田恭平像》や《遠き思ひ》にみられるようにモデリングの研究を実践してみせた。

(田中善明)


3 個性主義の諸相

3 創造の自覚−創作版画

この章では、版画における個性主義のあり方を検証する。日本の1910年代の版画は、「自画・自刻・自摺」を原則とする創作版画と、版画商渡辺庄三郎、橋口五葉、伊東深水、山村耕花らの画家たちが中心となって、画師・彫師・摺師の三者分業体制によって制作された新版画とに大別される

また、これとは別に独自に版画の世界を築いた作家たちがいる。1909(明治42)年、ロンドンで高村光太郎と出会ったことがきっかけで、エッチングを教えるために来日したバーナード・リーチは、ほどなく陶芸に転向することになるが、彼のエッチングは『白樺』に参加した作家たちに影響を与えた。また、リーチと交遊のあった富本憲吉は、美術学校時代の友人で、『白樺』とも関係の深かった南薫造とともに自刻自摺の木版画を制作している。

さらに、後に陶芸家として活躍する河合卯之助は、大正初期に藤井達吉とともに仕事を行い、また中井宗太郎、秦テルヲら京都の若い知識層や芸術家たちと交遊し、『白樺』同人たちとも交友を結んで、木版画も手がけた。

こうしたリーチ、富本、河合らが残したエッチングや木版画は、この時期の版画界での主流ではないけれども、そこには作家の内面が素直に表された独自の世界が提示されており、この時期における個性表現の一つとして忘れることができない。

ところで、作家の個性・主観・独創性といった概念が重要視され、また自身の小宇宙を作品に築くために、新しい西洋の造形表現を様々な形で作家たちが模索していたのがこの時期の大きな特徴であったと見なす基本的な立場から、本展出品作は上記のリーチら3名の作家と創作版画の作家たちの作品に限定している。

もっとも、たとえば伊東深水が1910年代に制作した数点の風景や人物版画が、戸張弧雁が制作した同種の主題の作品と近しい雰囲気を示しているように、制作過程の差異は別として、完成された作品だけをみるならば、創作版画と新版画との間に截然たる区別があるわけではない。

しかし、版元である渡辺自身が新版画を「古版画の後継者」と認識していたように、新版画では、主題の選択、制作工程、販売方法など多くの点に江戸時代の浮世絵版画のあり方が常に影を落とし、ある種復古的な要素があった。

それに対して創作版画の作家たちは、版画は単なる複製手段ではなく、版木と彫刻刀は、キャンバス・絵筆と同じもので、第三者たる彫師・摺師が作品制作に参画できるはずがない考えていた。そこには、作品は作者の全人格の表現であるという個人主義的な考え方が基本にある。

最初の創作版画運動であった『方寸』は1911(明治44)年で終刊となったが、『聖盃』(後に『暇面』と改題)、『月映』など、その後もこうした版画同人誌の刊行が相継ぎ、この時期の版画家たちにとって大きな意味を持つことになる。これら版画同人誌は、いずれも短命なものが多かったが、作家たちの肉声を多くの人々に伝えるための貴重な手段であり、若き版画家たちの作品は、掲載された詩歌や文章とともに、複雑で多感な心のうちを示している。1918(大正7)年には山本鼎、戸張弧雁、織田一磨らを中心に日本創作版画協会が結成され、1927(昭和2)年からは帝展に版画の出品が受理されるなど、1910年代後期から20年代にかけて、創作版画運動はより大きな高まりを見せるようになる。

(毛利伊知郎)


3 個性主義の諸相

4 絵画としての写真

1910年代日本の造形表現としての写真の特質を一口に言えば、アマチュア写真家たちによる風景を中心主題とした芸術写真ということになろう。1910(明治43)年、写真師として初めて小川一真が帝室技芸員に任命されたことが示しているように、実用面においても、造形表現手段の面においても、写真の地位は確実に高まりつつあった。1915(大正4)年に東京美術学校に臨時写真科が設置されたのも、時代の流れに沿ってのことであった。

次々に輪入される新しい写真機村の普及は、アマチュア写真家人口の増加につながり、写真機材を取り扱う会社が写真家を後援したこともあって、「浪華写真倶楽部」(1904年)、「ゆふつヾ社」(1904年)、「東京写真研究会」(1907年)「愛友写真倶楽部」(1911年)などのアマチュア写真団体が、東京、名古屋、大阪などの他、地方都市にも結成された。

写真に親しんでいた人々の大部分は、単なる記録や趣味のために写真を撮り、写真機材に好奇心を持った素朴な素人写真家の域を出なかったようだが、写真技法による芸術表現が一部の人々によって行われるようになった。そうしたアマチュア写真家がめざしたのが「絵画のような写真」、ピクトリアリズムの写真であった。

技術面でも、1909(明治42)年頃から東京写真研究会の秋山轍輔がゴム印画、ブロムオイル印画などピグメント印画法の本格的な研究を始め、1910年代に入ると、多くのアマチュア写真家に普及していくことになる。また、この印画法の写真は、重厚な深みのある画肌によって絵画的雰囲気を強くを持つ。しかも、ピグメント印画法は、制作過程で写真家たちに作品制作の意識を強く感じさせる手仕事的な要素が多くあることも留意されるべきだろう。また、その後のソフトフォーカス表現流行が1915(大正4)年の「ベスト・ポケット・コダック」の輸入であったことが示すように、新しいカメラの輸入も、写真表現の傾向と大きなつながりを持っていた。

それでは、彼らの写真の範となった絵画はどのようなものだったのか。1910年代に多いのは大下藤次郎や三宅克己ら水彩画家たちの当時流行した風景作品を連想させる風景写真である。明治30年代半ばから40年代前半頃(1901−10)にかけての水彩画の大流行を視野に入れると、日本の山岳地帯や海岸風景を素直な眼で見て、水彩絵具で穏やかに描き出した大下や三宅らの風景作品が多くのアマチュア写真家たちの念頭にあったと考えても大きな誤りはないと思われる。

こうして完成された作品は、絵画作品と同じように、作家好みの額縁に入れられて飾られることになる。アマチュア写真団体の作品集が「画集」と題され、作品の隅にサインが入れられることもあるように、彼らの写真はあくまでも「画」と認識されていた。

こうしたアマチュア写真界で、異彩を放つのが野島康三である。野島は、1912(明治45/大正元)年の「にごれる海」で注目を集め、その後も1920年代初頭頃まで、風景写真の他に、浮世絵版画やゴーギャンの作品との関連を予想させる裸婦像、対象の内面に迫るポートレート写真を発表した。これらの作品は、野島が親しく交遊した当時の画家たちの作品と同じ流れに属し、野島の写真と絵画双方への深くて広い関心のあり方を見ることができる。

(毛利伊知郎)


3 個性主義の諸相

5 工芸の個人主義

1912(明治45)年に東京美術学校図案科を卒業した今和次郎は、後に当時を振り返り、工芸界が「大名工芸」から「市民社会の工芸」へと転換した「明治末年に私は工芸図案を学んでニヒルにおちたのだ」という回想を残している。そうした状況から、今、広川松五郎、斉藤佳三、高村豊周らは様々な模索を経て、1919(大正8)年に「芸術品を製作発表し、従来の所謂工芸美術品の品位を高めその帰趨を示す事」を目的に装飾美術家協会を設立するに至っている。

美術学校で今の先輩にあたる富本憲吉も、外国工芸雑誌の模倣に努めた学校時代を「寒心に耐えない」と回顧している。富本は1908(明治41)年にロンドンに留学、約1年の滞在後、建築調査の助手としてエジプト・インドを経て1910(明治43)年に帰国した。ウィリアム・モリスを中心とするイギリスの工芸運動やサウス・ケンジントン博物館ほか各地の美術館・博物館の展示、インドやエジプトでの経験から、「絵と更紗の貴重さを同等のものと云う」考えや工芸家としての姿勢、西洋に限らず世界中の造形物の中から優れたものを捉える普遍的な視点などを獲得、帰国後の彼の活動の骨格は留学中に形成された。この富本に加え、同じく留学を経て幅広い活動を展開した津田青楓、藤井達吉、清水五条坂に生まれながら一旦は絵画を学び、新しい空気を吸った河合卯之助、工芸による東洋と西洋の融合という考えを抱いていたバーナード・リーチといった人々こそ、明治末の工芸界の一種の閉塞状況に風穴を開けた最初の人々といえる。

富本は帰国後すぐに、すさまじい勢いで工芸に限らず様々な造形のジャンルに取り組んだが、その最初の試みが世に出たのが1911(明治44)年4月に開催された美術新報主催の展覧会であった。そこに当時リーチと富本を夢中にさせていた楽焼や版画を出品したのに加え、二人で会場内の装飾まで手がけている。これらは、まだまだ試みの端緒にすぎなかったが、間違いなく当時の常識を越えた斬新さを示していた。この頃、津田青楓もまた独自の視点による展覧会を開催、藤井達吉も最初の作品発表を行っている。

彼らの活動は若い工芸家に影響を与えずにおかなかった。たとえば、高村豊周は、「明治45年から大正の初めにかけて、……日本の新しい工芸の運動の発生といおうか、新興工芸の胎動といおうか、全体にもやもやしていたものが、だんだん固まるようになってきた。富本寒吉がイギリスから帰ってきた。富本さんの帰朝は日本の新しい工芸の啓蒙にとっても、また私に新しいものの見方を教えてくれたことからいっても、非常に意味の深いことであった」「富本憲吉のほかに、新興工芸の啓蒙期に忘れられない恩人は藤井達吉と津田青楓である」と語っている。明治末にはすでに図案の改革は盛んにいわれ、京都の浅井忠らを中心にした遊陶園、京漆園の活動は良質の作品を生み出していた。しかし富本、リーチ、津田、藤井らは、既成の枠組とは全く違う地平から工芸の世界を造形活動の一つと捉え、明治以来の輸出工芸の流れにはっきりと訣別を示したのである。日常的な小芸術品への志向、積極的な意味でのアマチュアリズムからくる実験的精神、直接自然のモティーフを観察することにより、自ら模様を創造する姿勢など、前の世代とは一種の断絶すら感じさせる新鮮な装飾美術を創り出していった。

1914(大正3)年に小宮豊隆は「図案の芸術化」という論文の中で、図案における「自己」と「自然」の表現をうたい、津田青楓は小宮に答えて「職人主義の図案家を排す」という一文を書いた。『美術新報』で富本と津田が「工芸界のポストアンプレショニスト」と評されているのも、従来の工芸からきわめて自由な「工芸の個人主義」ともいうべき彼らの活動を指してのことであろう。

(土田真紀)


4 内的生命の表出

本展が取り扱う1910年代の大部分は、大正時・繧ニ重なることになる。この時代についての最も一般的なイメージとして、大正デモクラシーという言葉がある。西洋の新しい文化や思想が盛んに紹介されて、平和で明るく民主主義的な雰囲気が社会に広がった時代というわけである。

はたして本当にそうなのかという疑問も既に提起されている。造形作品の分野で、様式的な見方以外に、ジャンルを超えてこの時代を特徴づける何かを探ろうとするのが本章の目的である。そこで、私たちが立てたキーワードが内的生命の表現ということである。それは、1910年代日本の作家たちの多くに共通する一つの特徴として、人間の内的なものへの関心をあげることができるのではないかという発想に基づいている。

内的なものと一口にいっても、その中身は複雑で、自我、人間や事物の存在の本質、宗教的感情、人知を超えた神秘、心の中にひそむ性的意識、エロティシズム等々の言葉が思い浮かぶ。これは、私たち心の底にわだかまっている言葉にならない感情、あるいは私たちの周囲の様々な事物の存在の本質を探ろうとする意識というべきかもしれない。

この章には、こうした雰囲気の作品を主題やジャンル等を考慮しながら配列してみた。もとより、恣意的との謗りは免れないだろうが、この時代の作品を各々におおよそながら共通する雰囲気・感情によってくくることによって、共通する何かが見えてくることを期待している。

まず、最初に来るのが自画像である。いうまでもなく、わが国における自画像は、明治時代以降数多く描かれ続けてきており、この1910年代固有の主題ということではない。しかし、1910年代は、おそらくその前後と比較してむしろ多くの自画像が描かれた時期といって大きな誤りはなかろうし、また本展に出品されているいくつかの自画像だけを見ても、この時期の自画像特有の特徴−自身の内部をえぐるように見つめる画家の眼−もおぼろげながら見えてくる。

岸田劉生、萬鐵五郎、中村彝は、当時の画家たちの中でも多くの自画像を残した。劉生は、「首狩り」と言われるほどに多くの自画像や肖像を1910年代の半ばを中心とする時期に描き、萬も果敢な実験の跡を示す数多くの自画像を描いている。中村彝も、素描を入れれば10点以上の自画像を残した。彼らは何故にそれほどの自画像を描いたのか。

また、夭折した関根正二や村山槐多の自画像の人の心を射るような視線は何を物語るのだろうか。さらに、京都の革新的な日本画の世界に身を投じていた宇田荻邨の病後のやつれた姿を描いたある種退廃的な雰囲気の自画像の背後には何があるのだろうか。

一口で言うならば、自我への関心ということになるだろうが、自分自身が現在生きていることへの問題意識、生きているが故に一刻一刻変わり行く自らの容貌の背後にある変わらざる部分を表現する意欲、それが彼らにそうした自画像を描かしめたということはできるだろう。

そうした意味では、当時の人物像についても似通ったことがいえるだろう。特に、劉生が1910年代半ば以降に描いた人物像や劉生周辺にいた画家たちの人物像くたとえば木村荘八の《壺を持つ女》などにには、そうした人間存在の本質部分への指向があるということができよう。

こうしたことは、戸張弧雁、中原悌二郎ら院展系の彫刻家たちの作品についてもいうことができよう。弧雁、悌二郎、石井観三ら日本美術院彫刻部に学んでいた若い彫刻家たちは、互いにモデルとなって制作したが、たとえば中原の《石井氏像》には、単に親しい友人の外形を写すことに終わらない人間存在の内面に対する深い観察を見ることができよう。

ところで劉生の《画家の妻》からはある種の宗教的な雰囲気が伝わってくるし、木村荘八の《壺を持つ女》などにも、何か霊的な雰囲気がある。劉生は、父の影響もあって少年時代には熱心なクリスチャンであり、このことが彼の画家としての資質に大きな影響を与えていたことは容易に想像できる。こうした劉生の場合はむしろ例外かもしれないが、そうした画家自身が信仰心を持っていたか否か、あるいは宗教的な主題か否かは別にしても、この時期には宗教的あるいは霊的な雰囲気を持った作品が少なくない。

たとえば、洋画では村山槐多の《尿する裸憎》や関根正二の《信仰の悲しみ》、《神の祈り》など一連の作品に見られる、青年画家の屈折した心理と葛藤が宗教的なモチーフと結びついた作品がある。日本画では入江波光の《彼岸≫《降魔》、秦テルヲの《血の池》、村上華岳《阿弥陀之図》などに、あきらかに地獄極楽信仰、浄土信仰などの影響を見て取ることができよう。さらに石井鶴三の「荒川嶽」には、山岳信仰ともかかわる宗教的幻想が現れている。

このように、宗教的な雰囲気が色濃く認められる作品を列挙することは難しいことではない。各作家たちの宗教経験も作品の雰囲気も様々であるけれども、これらの作品の背後には、幻視や幻影体験と、神秘思想、キリスト教、仏教など様々な宗教経験の複雑な混交があるということはできるだろう。

また、少し年代は下がるが、中村彝の《髑髏を持てる自画像》(1923−24年)や《髑髏のある静物》(1923年)、後者とともに髑髏をモチーフとした堺時雄の写真《哲学》(1920年)などからは、明らかに死のイメージを読み取ることができる。1922(大正11)年に東京美術学校写真科を卒業した堺時雄が、在校中に髑髏や修道僧など宗教的な生と死に関わる主題の作品を制作していたことは、時代の雰囲気を知る上で示唆的である。

もう一つ、宗教的雰囲気とともにこの時期の造形作品に顕著な雰囲気として、性的な感情およびエロティシズムをあげることができよう。たとえば、『月映』に参加した田中恭吉や恩地孝四郎、藤森静雄の作品群には、孤独な青年の癒されぬ性への葛藤が強く表されているが、それは村山槐多、関根正二らの作品とも相通じるものでもある。

また、それぞれが独自の絵画世界を築こうとしていた京都の日本画界の若い画家たちの作品には、デカダンスとエロティシズムが濃厚に漂っている。甲斐荘楠音、岡本神草、稲垣仲静らの作品は、江戸時代の美人画や浮世絵版画を発想の源にしながらも、近代的な自我を持った青年固有の性意識に裏付けらている。

個人主義を基本とする思潮の中で、国家や社会といった全体的な問題よりも、個々の人間のあり方が問題とされるようになった1910年代の人々は、すぐれて個人的な営みに属する宗教、生死、性といった問題に直面した。そうした当時の人々が直面した内面にかかわる問題は、造形作品−特に当時の青年作家たちのそれにも強い影を落としているということができよう。

(毛利伊知郎)


5 芸術と社会

1 生活と芸術

1910年代に理想の生活の姿を具体的に描き、それを単なる空想に終わらせずに実現に努め、ある程度まで成し遂げた人物として西村伊作を挙げることができる。文化学院の創設者として知られ、大正期には建築家としても活躍した西村は、あらゆる分野についてほとんど独学で学び、住居から生活の細部に至るまでを自らの理想に治って作り上げていった。和歌山県新宮市に、現在も西村記念館として創建当時の姿を止めている西村の自邸は、彼の最初の本格的な住宅建築で、1915(大正4)年に完成した。叔父の勧めで建てた小さな「バンガロー」以来、西村は建築に関しても本などを通じてほとんど独学し、地元の大工に工法から内部の設備に関するまで、事細かな指図を与えて完成したという。

結婚後、西洋風の知識の全くない妻に、西洋の生活様式を実践するための様々な知識を与えた西村は、この自邸で、実用的な設備はもちろん、スケッチブックにみられるように、家具、食器、室内装飾品、洋服、おもちゃなど生活に必要な品々のデザインを自ら手がけ、また実際に制作も行っている。家具は現在も残されているが、箱形を基本に装飾を排した非常に単純なデザインである。新宮では窯を築いて陶器の制作にも熱心に取り組んでいる。

さらに西村の理想は「もの」のデザインの段階に終わらず、「芸術」をキーワードとして生活そのものが理想に近づけられていった。与謝野鉄幹、晶子夫妻、石井柏亭、富本憲吉、沖野岩三郎ら芸術家や知識人との交友、また子どもの教育といった面である。富本憲吉の「葡萄文タイル」は、富本が家族とともに西村家に滞在した際の作品で、居間の暖炉部分に敷くために制作された。長女あや作の絵入の『ピノチヨ』は、新宮生まれの佐藤春夫が西村に貸した英語版をもとに西村の勧めであやが制作したものであり、芸術を核にした彼の教育観を物語るが、それがやがて1921(大正10)年の文化学院創設にまでつながっていくことになる。新宮の家の裏山には、西村が特別に子供たちのために設計した小さな家まであったという。またこの頃、西村は「西村芸術研究所」設立の構想を抱いており、『生活を芸術として』という著書のタイトルが示す西村の「ユートピア」は、個人の生活のレヴェルからさらに大きな構想へと進められていった。

西村はウィリアム・モリスの影響を受けているとされるが、富本憲吉もイギリス留学でモリスの工芸家としての姿勢に強い刺激を受け、帰国後、室内空間を意識した工芸の制作を目指し、様々な分野に西村同様ほとんど独学で取り組んでいる。1919(大正8)年に流逸荘で家具を初めとする室内装飾品の展覧会を開いたバーナード・リーチも、日本の生活の中の工芸という課題を明確に抱いていた。19世紀末からZO世紀にかけて、ヨーロッパで展開された建築家、工芸家による総合芸術的な試みは、日本においても独自に展開されつつあったといえる。

1910年代の末から日本でも田園都市計画が着手され、住宅改造博覧会が開かれるなど、住宅の夢は一般大衆にも広がり始めた。高級文化としての西洋文化の大衆化が始まり、「文化住宅」はじめ、関東大震災の前後から「文化」を冠した言葉が流行を始める。そこでは様々な形での「和洋折衷」が展開されている。しかしながら、1910年代においてむしろ興味深いのは、富本はもちろん、一見徹底して西洋風のスタイルを追求したかに見える西村の場合も、著書にみるように、民衆文化のレヴェルでの土地固有の(ヴァナキュラーな)文化的伝統への視点がきわめて重要な役割を果たしていたという点である。

(土田真紀)


5 芸術と社会

2 「デザイナー」の誕生

1910年代には「デザイナー」という肩書きは文献上は恐らく登場していない。今日のデザインに相当する言葉としては、明治以来、図案や意匠が用いられており、輸出産業としての伝統的な工芸の分野を中心に図案の重要性への認識が次第に高まってきていたが、その中で中心的な役割を担ったのはむしろ日本画家や洋画家であり、図案家という職分は未だ確立していなかった。しかし1910年代に入る頃から、工芸図案においても新しい動きが起こり、同時に従来とはやや異なる文脈から今日のデザイナーに相当する人材が現れてきた。

その一人は竹久夢二である。雑誌のコマ絵、絵はがき、著作など、出版文化を通じて強烈な個性でまず世に登場した夢二は、1914(大正3)年には呉服橋に港屋を開店、「夢二式」を、千代紙、封筒、半襟、手拭いなど、生活(とりわけ少女の)を彩る細々した品へと展開させた。専門的な教育とは無縁の夢二は、感性の点で「近代」を経験しつつあった当時の若者特有の感情を、「和」と「洋」を絶妙に組合せたスタイルで表現し、見事に捕らえていった。たとえば女性と共に夢二的世界を形成した子どもを主題に、「前近代」と「ハイカラ」を使い分け、近代特有の可憐な子ども像を創っている。また装幀では、この時期、洋装本の世界でまだ重要な役割を果たしていた木版という伝統的手法や着物の意匠を思わせる装飾性を駆使しつつ、ヨーロッパの世紀末スタイルを巧みに織り込んでいる。この両極の間の自由な行き来に夢二の人気の秘密は隠されていたのではないか。

日本最初のグラフィック・デザイナーといわれる杉浦非水は、日本画の素養に外国雑誌を通じて学んだアール・ヌーヴォーの様式を融合し、1910年代のグラフィック・デザインを作り上げた。非水ももともと博文館の『少年世界』の表紙や挿絵など出版界、また子どもの世界から出発し、1911(明治44)年1月に三越呉服店図案部主任に就任、1910年代には三越のPR誌の表絶やポスターを中心に活躍している。グラフィック・デザイナーとしての非水は、実はちょうどこの頃、呉服店から百貨店へ、近代型消費社会を先取りしつつあった三越の展開の中から誕生してきたのである。三越にとっても、展覧会を中心とする美術部の活動と非水を核とするデザイン活動とは企業戦略として最も重要な分野であった。有識者を中心とする「流行会」の結成、1909(明治43)年に第1回が開かれた児童博覧会など、三越の先見性の一例である。非水は1914(大正3)年に装幀の個人展覧会を開くなど、個人デザイナーの草分けでもあった。

1910年代における「デザイナー」誕生のさらに一例として真珠の養殖で知られる御木本真珠店の場合がある。ジュエリーは洋装と共に日本に導入され、そのデザインは全く新しい分野であったが、その重要性に気付いていた御木本では早い時期に図案部を設置し、東京高等工業学校、高岡高等工業学校の出身者を中心に優秀な人材の確保に努めると同時に、1908(明治41)年からはカタログ『真珠』を発行してデザイン普及の媒体をつくり、またその表紙も美しいデザインで飾った。西洋のジュエリー・デザインの模倣から始まった御木本のデザインは次第に独自のスタイルを作り上げ、1917−18(大正6−7)年頃には一つの頂点を迎えている。それらは、アール・ヌーヴォーや分離派のデザインを参照しながらも、日本の工芸の平面デザインに見られる織細な線的要素を巧みに取り入れ、洗練されたデザインを生み出している。

1910年代には、近代デザイン運動の文脈からは明らかにずれた、日本の都市における消費型文化の発生の場に、「デザイナー」と呼び得る人材が登場してきたが、彼らの役割はむしろ今日のデザイナーを先取りしていたといえる。

(土田真紀)


5 芸術と社会

3 装幀の時代

明治初期に本の世界に導入された洋装本は、出版の世界に次第に浸透し、和装本に取って替わった。それと共に洋装本のデザインに光があたるようになり、1901(明治34)年には藤島武二による与謝野晶子の歌集『みだれ髪』のアール・ヌーヴォー様式として名高い表紙も登場している。『みだれ髪』はその細長い瀟洒な判型と相俟って成功を収めたが、あくまでも表紙の図案に留まっている。これに対して、本全体を一種のトータル・デザインとして捉え、表紙、背表紙、裏表紙を連続した一つの平面として扱い、加えて見返し、扉、本文ページの装飾モティーフ、函、カヴァーに至るまで、徹底して細心のデザインを行ったのが橋口五葉であり、なかでも『吾輩ハ猫デアル』(1905年)を初めとする夏目漱石の著書の仕事であった。従来指摘されているように、五葉の装幀の基調を成しているのは、アール・ヌーヴォー的な曲線的な植物モティーフであるが、浮世絵に造詣の深い五葉の江戸趣味も顔を覗かせている。

一時代を画したとされる五葉の装幀に続き、1910(明治43)年前後から、竹久夢二、富本憲吉、津田青楓らによる、それぞれ装幀者の個性を明確に示す装幀が次々に現れてくる。竹久夢二も五葉同様トータル・デザインを行っているが、アール・ヌーヴォーなどを取り入れながら、全体の装飾感覚にはむしろ和服の取り合わせに通じる部分が感じ取れる。五葉の装幀の中にも、グラフィック・デザインとしての要素が強いものと、質感を重視した工芸的性格の強いものがあり、漆引きを用いた漱石の『草合』などが後者の代表であった。夢二の場合、1910年代初頭のグラフィックな『夢二画集』シリーズの頃に比ペると、『三味線草』や長田幹彦の『鴨川情話』に代表される10年代半ばの装幀には工芸的な装飾性が顕著である。

さらに、こうした工芸的性格は、富本憲吉、津田青楓、藤井達吉など、工芸の分野でも活躍した作家による装幀本にそれぞれ独自の成果を上げ、1910年代の装幀の特質と質の高さを示しているように思われる。富本憲吉が1912(明治45/大正元)年に装幀を手がけた木下杢太郎の『和泉屋染物店』は、当時彼が盛んに試作を行っていた更紗の技法の一つ、木版更紗の技法を装幀に応用したもので、富本自作の木版による摺り見本をもとに、この前後の装幀の世界で並々ならぬ重要な役割を果たした彫師伊上凡骨が彫ったと推定されている。アール・ヌーヴォー風や五葉とも異なる新鮮な装幀である。

しかし夢二と共に、最も1910年代を代表する装幀家は津田青楓であろう。五葉に続いて漱石の著書を手がけた津田の装幀は多様で、油絵、日本画、更紗、創作版画、刺繍など、要するに津田が手がけたあらゆる分野の感覚が持ち込まれつつ、いずれも独自の工芸的、装飾的な特色を発揮しており、自身装幀を多く手がけた中沢弘光が、富本のものとともに「象徴的に渋い」と評している。五葉のような華やかさには欠けるものの、その分、津田の装幀には、日本の工芸品の厚みのある歴史の中から津田が鋭い美意識で学びとった成果が示されているといえよう。同じことは数としては少ないものの、藤井達吉にもあてはまる。

また、自装本として『こころ』のある漱石に加え、北原白秋、木下杢太郎らによる著者自身の鋭い美意識を反映した装幀本、岸田劉生を中心とした白樺派の装幀も1910年代を代表している。このほか、装幀は雑誌においてもその性格や主義主張を端的に示す有力な媒体として重視され、様々なタイブの表紙が登場している。さらに1910年代は、子どもの本の世界においても歴史的な傑作が生み出きれた装幀の全盛期であった。

(土田真紀)


5 芸術と社会

4 展覧会のデザイン

1911(明治44)年4月号の『美術新報』には、同誌が主催で開催することになった新進作家の展覧会について、次のような予告が掲載された。

展覧会に海老茶の幕も餘り有り來りになつて來たから、此度はズックの幕を用ひ、そして其
上部に極くプリミチヴな模様をステンシルでやる。此模様の考案もステンシルもリーチ君の
手になる。それから會塲に用ふる椅子は特に今度の會の爲めに新調したのもので、富本君の
意匠になる。富本君は近頃海外から来朝した建築装飾の青年美術家である。入場券としては
唯の切符は藝がないから、極く凝つた、又洒灑た「枝折り」にする。意匠はリーチ君と太田三
郎君である。
繪の展覧会であるから無論陳列作品本位であるが、吾々の望みは作品と同時に展覧會其物を
も観て頂きたいのである。経費の点でトテも十分なことは出來ぬが、其積りで會塲装飾にも
腐心してる。

恐らくこれは、この種の展覧会において、展覧会全体を一つの展示作品として観覧者の前に提示した最初の例ではなかろうか。バーナード・リーチの幕は、『美術新報』の5月号に掲載された写真によれば、目の粗い「ズック」地にアーツ・アンド・クラフツ風の模様をステンシルで置いたもので、日本においてこの種のものは初めてであったと思われる。富本憲吉の椅子は縄を巻いて作った(高村豊周の回想による)簡潔なデザイン、富本、リーチ、太田の3人による栞の入場券は、細長い紙にそれぞれのスタイルでグラフィックなデザインが印刷された洒落たものである。着想そのものが当時の日本では前例がなかったと考えられ、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動及びグラスゴー派、ウィーン分離派などが手がけた様々な試みあたりから示唆を受けたものではなかったかと推測される。

この2年後に開かれたフュウザン会の第2回展覧会では岸田劉生と斉藤与里が会場の装飾画を手がけているが、こうした装飾画も、ウィーン分離派が分離派展の会場について行った様々な総合的空間デザインの試みなどを思わせる。この他、フュウザン会展のポスターや目録、草土社展のポスターや目録、また竹久夢この展覧会ポスターなども含め、作品そのものに加え、作品が展示される展覧会に関わる様々な要素をトータルにデザインすることで、全体として作家やグループの主張をより明確に示す試みが1910年代に盛んになったといえよう。これは、展覧会が作家やグループによる芸術運動の一環として、主義主張を明確に示すための重要な表現手段として意識され始めたことを示していると思われる。これらのデザインは作家自身やクループ初メンバーによって手がけられ、その個性を通じて、彼らの主張が視覚的にアピールされていったのである。

(土田真紀)


ページのトップへ戻る