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風景の発見−日本画における風景画の成立


山口 泰弘

日本画とは、いうまでもなく日本の絵画という意味であるが、実際にこの言葉が使われるようになったのは日本の長い絵画の歴史のなかでもここ100年ばかりのごく最近のことにすぎない。

明治にはいると、西欧からさまざまな文物が移入されるようになり、それとともに西洋画が取り入れられるようになった。江戸時代にはオランダ渡来という蘭画と総称していたヨーロッパ渡りの絵画を明治になって西洋の絵画という意味で西洋画、さらに縮めて洋画と呼ぶようになった。洋画とは、以降現在まで、西洋渡来の絵画、日本で作られた西洋風絵画という両義で使われている。洋画が、このように明治になって発生し、伝統絵画に伍するまでに成長した結果、伝統絵画を洋画と区別して総称する必要が生じ、それまで様式から南画・北画に区分されたり画統から狩野派・土佐派・円山派・四条派などと細かく別れていた伝統絵画を日本画という言葉で総称するようになった。

しかし、伝統絵画は単に看板の統一だけで済まされたわけではなかった。いわば、その存否自体に大きな疑問が投げかけられたのであった。そしてそれは、伝統の基盤を維持しつつ、時代相との調和をはかるという、新来の洋画にはない重荷を背負わされての出発であった。

そのもっとも果敢な試みが、岡倉天心を理論的指導者として横山大観、菱田春草ら若手の日本画家たちによって行なわれたことはよく知られている。被らは、近代化に乗り遅れたという劣等意識から、西洋画に比べて日本画が芸術として劣るのではないかと自信を失いつつあった世の風潮に逆らって、むしろ西洋の絵画にはない独自の芸術であることを積極的に認識し、日本の古画を深く学ぶとともに西洋画も併せて研究し、日本画を近代美術としてよみがえらせようと努めた。

彼らが果敢に挑んだ新しい試みは、結局は西洋画の色彩表現の短縮的な応用に性急過ぎたあまり、日本画が本来備えるべきはずの骨法をその髄まで失ってしまい、朦朧体と揶揄される結果となった。たしかに、今日の目で見ても必ずしも成功したとはみえない。

彼らにとって西洋化は、すなわち新時代へのすり合わせであり、とりもなおさず近代化を意味していた。しかし、彼らの試みは、ある意味で表現技法上の西洋化にその目的が限定されていたようにみえる。本稿の目的は、主題の上での西洋化=近代化を、風景表現を材料にして考えてみるところにある。

日本における絵画の近代化を考えるとき、その里程のひとつとみなされるものに風景画がいつ成立したかという問題がある。

そもそも日本には、風景表現として山水画とよばれるジャンルがあり、長い伝統をもっていた。山水画は、風景画と混同されがちだが、その思想は、根本的に異なる。すなわち、風景画が自然の模倣という西洋絵画を基本理念に基盤を置き、近世に至って生まれたものであるのに対して、胸中に抱いた理想郷を山や水、あるいは樹石人物といった表現素材を組み合わせて表現したものが山水画である。もともと中国において成立したものが、日本を含めた周辺諸国に伝播したのであった。中国ではすでに六朝時代に描かれ、隋唐のころから日本へも伝来し、やまと絵へと摂取されていく。その後も、宋元画、明清画が移入されるに従い、江戸時代まで絵画の中心分野として、枢要な位置を占めていた。日本画における山水画の伝統は、明治になって近代化が始まった後も依然続いており、先にみた天心の指導による大観や春草の新しい日本画も、表現こそ西洋を採り入れた新しいものであったが、主題や様式は伝統的な山水画の域を越えるものではなかった。

西洋の風景画が透視遠近法や空気遠近法によって自然を見えるがままに画面上に再現しようとするのとは異なって、山水画は、三遠と呼ばれる独自の遠近法を用いて、空間に表現素材を理想的な比例で配置するのを特徴としている。

風景画は、一般に明治以降の欧化主義にしたがって移入されてきた大量の西洋文物のひとつと考えられがちであるが、萌芽らしきものはすでに江戸時代中期に現れている。その初発的な作品のひとつとして、秋田蘭画の小田野直武の「日本風景図」をあげることができる。この作品は、双幅で構成されており、右幅には江の島、左幅には金沢八景という、江戸近郊の名所、すなわち理想郷ではなく現実の風景が、透視遠近法で描かれている。つまり、山水画ならではの理想郷を描いたのではなく、プリミティブながらも透視遠近法を使用している点では風景画としての条件を満たしている。しかし、山水樹石人物といった山水画を特徴付ける表現素材は、画面を構成する主要な要素として依然切り離せないでいる。この画面では、風景が山水画の法則にしたがって組み直されているのである。鑑賞画としての格式を保つためのひとつの要件としてこうした操作が必要とされたのであろう。同じような操作は、明治初期の段階では日本画のみならず洋画にさえみられる。高橋由一のいくつかの江戸風景画などはその一例といえる。

西欧の裸体絵画が、画面から受ける印象が神的理想像であれエロティックであれ、建て前としてともかくも女神を描いたものでなければならなかったのとおなじように、因習がこうした操作を要求したのであろう。

ところで、明治に入って洋画というものがジャンルとして成立するとそれに対応する用語として、それまでの伝統的な日本の絵画を区別して呼ぶ必要が生じ、日本画ということばが生まれたと最初に述べたが、明治に入って近代になったとはいっても、日本画の取り上げる風景表現は、伝統を受け継ぐという意味で、その本筋はあくまで山水画でなければならなかったようだ。横山大観や菱田春草らが西洋画法をまねて明治期に描いた、いわゆる朦朧体の風景表現をみても、たしかに風景画であると断定できるものは、意外なことに無い。やはり山水画の結構が絵組みの基礎をなしている現状をその多くの作品は、示しているのである。

横山大観の「瀟湘八景図」は、近代日本画の名作として知られる。瀟湘八景とは、中国、瀟水と湘水の合流する辺りを含めた洞庭湖一帯の水景の地のうち八つの名勝を選んで称されている。一帯は、広大な江湖、沼潟、山願といったピクトレスクな景観に恵まれ、さらに水湿の多い大気が気象のたえまない変化に応じて景観に多彩な表情を与えていたという。しかし、この八つの画題は、特定の名勝の景観を事実に則して描写するために選ばれたわけではてく、湿潤な大気のなかに展開される四季四時気象光陰の絶え間ない変化のうちにさまざまにみせる山水の表情のヴァリエーションに対する興味に負うところが大きく、水墨画、特にはつ墨の多彩な技法を駆使するうえでの好素材として描かれた。日本でも、室町時代から江戸時代にかけて、山水画の枢要な画題のひとつとして、やはり、水墨と密接なかかわりを保ちながら描き継がれた。

横山大観・寺崎広業は山岡米華ともども、1910年に中国旅行を行っている。この旅行が「瀟湘八景」制作の動機のひとつになったと推測されているが、横山大観は、「寺崎君は何のために中国へ行つたのか、行つたときの景色は一つもなく、中国人の描いた絵をそのまま写してゐるとは‥‥‥」と、寺崎広業のこの文展出品作品に対する所感を後に述べている。広業の作品が残っていないので推断でしかないが、瀟湘八景の標準からみれば、むしろ広業のほうが正統を継ぐものであったはずである。それが横山大観と並んだとき著しく古様にみえたのは、明治という時代のせいである。この展観を訪れた夏目漱石は、よく知られているように、美術批評「文展と芸術」のなかでふたりの競作をとりあげ、横山大観の個性的な作風が伝統的な瀟湘八景から隔絶して、「どうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるという感じが出て来る。」と賞している。この作品が漱石のいうように「明治」の画であるとしたら、それは、大観が、本来水墨で描くべきこの主題に、それまで誰も考えなかった色彩を取り入れた画期的なところにあったといえる。さらに、風俗画の要素を取り入れるという大胆な試みを加えてもよい。たしかに、このように瀟湘八景という画題を自由にあつかったところは明治=近代的な革新的であったが、しかし、決して瀟湘八景という伝統的画題から離れたわけではなかったことは、逆に山水画の伝統を継いでいるという点で留意しておかなければならないことである。

今村紫紅の「近江八景」は、大観に比べても表現の革新をさらにいっそう大胆に押し進めたものであり、そうしたことが異才紫紅の名を一躍世に知らしめることになった。近江八景は、瀟湘八景に倣って定められ、古くは日吉山王祭礼図にその一部が描かれる。17世紀半ばころの京都市勧修寺書院の襖絵や久隅守景の作品が残るが、江戸後期になると街道の発達とともに浮世絵に盛んに描かれるようになり、歌川広重の名作を生んだ。しかし、紫紅の空間の大胆な扱い方、色彩の強烈さはやはり、過去にも類例のなかったものである。この作品は、1912年11月の第6回文展に出品され二等賞を得たが、保守的な人々のなかには酷評を加えるものも少なからずあった。毀誉褒貶渦巻く中、岡倉天心はこの作品を激賞し、色に対する資質がすぐれているので印象派風のものに進むとよいと述べている。当時『白樺』などにより印象派が盛んに紹介されており、紫紅が彼らの作品に強くひかれたとしても不思議はない。たしかに、この八幅には印象派の手法が色濃く影を落としている。しかし、これほどまでに表現、とりわけ色彩に独自の世界を開発したにもかかわらず、大観と同じように、伝統的な山水画の画題を選んでおり、そこに伝統のくびきの重さがしのばれる。

1914年12月、今村紫紅を中心として結成された日本画研究団体赤曜会において、紫紅に強い影響を受けたひとりに小茂田青樹がいるが、青樹の描いた「乙艫帰帆」もその名が示すとおり、瀟湘八景の一変種とみられるものである(Cat.No.3−11)。ここにみられる単純化された景物の形態と南画風の柔らかな描線は、古画の研究を推奨した紫紅の影響をうかがわせる。しかし、静寂感の漂うのどかな田園風景は、実景の模倣というよりは、やはり理想郷としてのそれであり、山水画ではあるが風景画とはいえない。

小林古径の「旅路」は、東海道らしき並木道の上に富士が聳える。一見風景画にみえるが、馬上の人物を仔細に見ると平安時代風俗の女性と子供がふたり。なんらかの古典物語に取材したものであることを推測させ、物語にシチュエーションを与える舞台装置として風景が描かれており、純粋な風景画とは呼びがたい。

紫紅の「潮見坂」は、『東海道中膝栗毛』に「此宿をうちすぎ、程なく汐見坂にさしかかるに、是なん北は山つづきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」とたたえられる東海道の名勝として江戸時代、知られた。実見した感動を率直に描きとめたかにみえるこの作品も、やはり伝統の名所絵的要素を引きずっているといえる。

速水御舟の「隠岐の海」も主題こそ風景画的であるが、その内容はみてのとおり風俗画に近い。牛田鶏村の「塩浜」も、表現こそ紫紅ゆずりの印象派風であるが、古来の名所(などころ)塩竃の伝統をひく一種の名所絵であり、風景画と呼べるものではない。

1909年、第三回文展に出品された菱田春草の「落葉」は、自宅附近の代々木練兵場のくぬぎ林に取材したものといわれ、くぬぎや、ならの幹を写実技法を駆使して描く。地面にはいっぱいに落ち葉が散りしかれ、小鳥が遊ぶ、秋深い林の静寂な気分が見事に表されている。当時絶賛を浴びたが、いっぽうで、保守派の審査員たちは、これは日本画ではないと難じたという。朦朧体ほどではないにしても骨法相筆を欠く点に問題があったのと同時に、洋画風の奥行きのある空間表現が、審査員の脳裏にこびりついて離れない日本画の常識からかけ離れたものであったことにさらに大きな問題があったからである。

この作品が発表された頃、琳派を見直すうごきが流行をみせており、この作品も琳派に負うところが少なくない。酒井抱一につながる江戸琳派の画人のひとり池田孤邨に「檜林図」と呼はれる屏風があるが、この作品は、従来の琳派で当然とされていた平面描写から、下草を林のあいだに配することによって、琳派にはなかった奥行きのある空間が指向される、という新たな展開をみせている。この屏風は、琳派の平面表現から春草の立体表現への橋渡しとしてきわめて重要な存在意義をもつ。「檜林図」は、宗達以来の花木図の系脈を継いでいる。さらにその系脈を継ぐ「落葉」は、近代絵画のジャンル区分では、風景画にいれることになるのかもしれないが、スパンを近世にまで広げるなら、花木図の系統を継ぐものと考えるべきもので、やはり純粋の風景画と呼ぶには問題がある。

明治に入って近代化が進むなか、日本画では、依然風景画と呼べるものは少なく、山水画に西洋画の表現技法を移植するかたちで近代化が推し進められた。そうしたなか、ようやく日本画に風景画と呼ぶにふさわしいものが登場するのが、1910年代のことである。

小野竹喬も、1910年代前期の風景表現には、紫紅らと同じような印象派風山水画の傾向がみられるが、1918年の国画創作協会の記念すべき第一回展に出品した「波切村」になると、山水画を構成する表現素材があまり目立たなくなる。

波切というのは、三重県志摩郡にある漁村で、明治末に、伊勢神宮参拝客を志摩地方に誘う目的で、参宮鉄道を伊勢から鳥羽まで延ばした結果、訪れやすくなり、多くの観光客を迎えることになった。それにともなって、波に洗われた波切近くの大王崎や漁村風景が絵はがきになった。また、当時都会の人には珍しかった海女も志摩の風物として絵はがきに登場するようになる。土田麦僊は1913年、この波切を訪れ、取材した海女をもとにして代表作のひとつ「海女」を作っている。

「波切村」の前年、1917年に発表した「郷土風景」は、入り江に浮かぶ舟にはなにかとってつけたような印象が残るが、全体として山水画の表現素材は極力控えられており、その名が示すように風景画と呼べるものに近づいている。しかし、その翌々年つまり「波切村」の翌年、第2回国画展に出品した「夏の五箇山」では、「波切村」の傾向はいっそう徹底する。山水画を構成する定番の表現素材に代わって現実の光景が画面のほとんどすべてを埋めるようになってきているのである。

日本画における風景画の成立については、もちろんその担い手を竹喬ひとりに帰するわけではない。たとえば、結城素明の「夏山三趣」などは、眼前にした山自体に対する視覚的感動が絵となったもので、すでに山水画とは呼びがたいものとなっている。また、尾竹竹坡の「廃寺」(Cat.No.4−41)は、作者自身の内面に宿る何等かの心象を、敗れ朽ちていくものに仮託したかのような風景画である。1910年代は、日本画における風景画の成立に画期を定めた時代ではないかと思われる。

(三重県立美術館学芸員)

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