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工芸の個人主義


土田 真紀

 1

1912年に東京美術学校図案科を卒業した今和次郎は後に「明治末年に私は工芸図案を学んでニヒルにおちたのだ」と回想している。今によれば、「島田先生は、出身地金沢の加賀候の奨励に大名工芸の伝統を固守するに始終した方だったといえそうだ。それが美校創立の意図からみると先生の行き方は正道であったわけだ。しかし、明治の末期から大正にかけた、工芸界は、大名工芸から市民工芸に変わったのだ。広川松五郎、斉藤佳三などはそこで正面から反抗したものだ」。島田先生とは当時図案科の教授であった島田佳牟のことである。「私は市民社会−その場合ブルジョア階級、今日の言葉でいえばレジャー階級−その工芸というものに身を入れる心情にはなれなかった。それで工芸図案という概念をはなれた文様芸術、つまりアブストラクト・パターンというものの追求におちたわけだ」。川添登によれば、今が当時「アブソリュート・パターン」とも呼んでいたこの「アブストラクト・パターン」の模範としたのはロココであった(1)。ここに工芸図案に対して「ニヒルにおち」、しかも民家という研究対象を発見する以前の今和次郎の、一種逆説的な姿勢が窺われるように思われる。つまり工芸図案に対して何らかの責任ある意味付けを行うことを放棄し、完全に純粋なパターンの追求と見なすという態度である。


今の回想に代表される、工芸図案というものに対する一種の絶望感、無力感は、当時、美術学校図案科に学んだ心ある者すべてが恐らく共有していたものと思われる。今の回想で「正面から反抗した」と伝えられる広川松五郎や斉藤佳三は今の1級下である。鋳金科ではあるが、1915年卒業の高村豊周の回想からも同様の雰囲気が伝わってくる。そうした絶望感が直接の原因かどうか、1910年代の彼らの歩みは決して直線的とはいえない。今和次郎は、卒業後まもなく早稲田大学建築科の助手となり、この頃柳田国男らによって誕生したばかりの民俗学との接点である民家研究に力を入れるようになる。音楽学校にも学んだ斉藤佳三は、ベルリンに留学して山田耕作らと共にドイツ表現派を知り、帰国後は「シュトゥルム木版画展覧会」を開催するとともに舞台美術に力を入れている。高村や広川らが最初に開いた黒耀社の展覧会も、もともと文芸サークルに端を発しており、広川は装幀の仕事を手がけたりしていた。1910年代初頭の状況は、彼らを反アカデミズムと絶望に追いやったのみでなく、彼ら自身、工芸の分野で望むような活動を行える状況でもなかったのであろう。


しかし次の高村の回想が示すように、暗闇の中に光もまた射し始めていた。


明治45年から大正の初めにかけて、つまり私が三
年から卒業する時にかけて、日本の新しい工芸の
運動の発生といおうか、新興工芸の胎動といおう
か、全体にもやもやしていたものが、だんだん固
まるようになってきた。富本憲吉がイギリスから
帰ってきた。富本さんの帰朝は日本の新しい工芸
の啓蒙にとっても、また私に新しいものの見方を
教えてくれたことからいっても、非常に意味の深
いことであった。……富本憲吉のほかに、新興工
芸の啓蒙期に忘れられない恩人は藤井達吉と津田
青楓である(2)

宮本憲吉がイギリス留学から戻ったのは1910年6月のことである。今和次郎より3年早く、1909年に美術学校図案科を卒業する予定であった富本は、前年秋に卒業制作として「音楽家住宅」の設計案を提出、ロンドンへ出発した。数年後、「記憶より」という一文の中で、富本もやはり美術学校時代を振り返り、教師から何か課題を与えられるごとに付属の文庫に走り、外国雑誌からめぼしい作品を見つけて写し取り、若干の改変を加えて課題をこなしていたことを「寒心に耐えない」と回顧している(3)。アーツ・アンド・クラフツのコテージ建築を思わせる「音楽家住宅」設計案は、美術学校で学んだ成果というより、イギリス留学に向けての予備制作といった感じを与える。タイポグラフィーにはスコットランドの建築家マッキントッシュの影響も窺われる。恐らく雑誌『ステュディオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思われるが、世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主題であった「芸術家のための家」というモティーフを取り上げているのは、富本の留学の行方を暗示するものとして興味深い。


帰国後の富本の動きはあらゆる意味で型破りである。バーナード・リーチと共に手がけた美術新報主催展覧会の会場装飾。工芸に限らない様々な分野へのほとんど同時的な取り組み。個人展覧会の開催。陶器図案の展示。いずれをとってもほとんど前例がなく、従来の工芸家のあり方との懸隔はあまりにも大きい。富本のイギリス留学については、ウィリアム・モリスの業績やアーツ・アンド・クラフツ運動との接触、サウス・ケンジントン博物舘(現在のヴィクトリア・アンド・アルパート美術館)でのスケッチのもつ意味などについて、従来の富本論の中でもしばしば論じられてきた。しかし1910年代という本展覧会の視点からすれば、富本のイギリス留学は、帰国後の富本の活動を決定的に方向づけたばかりでなく、この時期の工芸の展開にも重大な影響を及ぼしたのではないかと思われる。以下、この点についてしばらく検討してみたい。



註記

 1.川添登「解説」『今和次郎集 9』1972年 ドメス出版 470−474頁。


 2.高村豊周『自画像』1968年 中央公論美術出版125頁。


 3.富本憲吉「記憶より」『華美』第4号1914年9月 8−10頁。

 2

富本は帰国後、坂井犀水が編集主幹を務めていた『美術新報』に幾つか文章を発表している。その一つ「工芸品に関する私記より」(4)は、留学中に見た様々な工芸品の印象について語り、感想を述べたもので、本人による工芸品のスケッチが14点添えられている。個々の感想と並んでとりわけ興味深いのは、「繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館で、その考へで列べてある列品によって、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります」という一文である。この博物館で富本は初めて純粋美術と応用美術を同列に並べるという思考に接したのである。しかしながら注意しなければならないのは、富本が「絵と更紗」ではなく、「絵と更紗の貴重さ」を同等のものとしている点で、これは単なる言葉の綾や言い回しによる相違ではないように思われる。つまり富本は決して絵と更紗のあり方が同じであると考えていたのではなく、あくまでも絵は絵として、更紗は更紗として、しかしその価値において優劣はないという考えを直観的につかみ取ったのではなかったかという点である。


富本が博物館で行ったスケッチは、彼がインド旅行から持ち帰った更紗などと共に美術新報主催の第3回展覧会で展覧もされているが、こうしたスケッチには実は先例がある。長谷部満彦氏が指摘しているように、美術学校で富本を指導した大沢三之助である。大沢は富本より早くイギリスに留学し、同じく1910年に帰国しているが、富本のイギリス留学そのものに影響を与えたのではないかと従来指摘されている。長谷部氏によれば、スケッチによる学習方法も大沢から奬められたものという(5)。実際、大沢自身がイギリスやフランスの博物館の展示品のスケッチを多数残している(Cat.no.1−8)。富本のスケッチはヨーロッパの工芸品に限らず、エジプト、ペルシャ、インド、中南米と、地域的にも、さらに年代的にも多様であるが、大沢のスケッチもほとんど同じく広範囲にわたっている。富本は同じ頃『美術新報』に「椅子の話」を書いているが、大沢も椅子を好んでスケッチしている。ただし二人のスケッチの様式には相違があり、大沢の方が対象に忠実なスケッチであるのに対し、富本のものは、簡略化が行われ、スケッチにも宮本の個性が色濃く現れている。


これらのスケッチは、留学を通じて富本が獲得した別の重要な姿勢、すなわち古今東西のあらゆる造形物を、先入見に捕らわれずに全く同列に置いて眺め、そこから自らの感覚だけを頼りに優れたものを取り出すという姿勢をも明確に示唆している。盲目的な西洋礼賛とは全く無縁であると同時に、西洋文明への拒否反応でもない、はるかに視野の広い普遍的な「ものの見方」というよりは「嗜好」に関わる姿勢の獲得である。この姿勢は、1年余りのロンドン滞在後に建築助手として経験したエジプト・インド旅行によってさらに強固なものになったと推測され、造形物のみに留まらず、後にみるような自然のモティーフやさらには子どもの絵に対するときにも敷衍されていった。


しかしこうした一種の普遍主義ともいえる視点を掴み取る一方で、自らの文化的な「根(ルーツ)」というものがもつ重要性への認識も、富本はまた留学体験を通じて獲得したのではなかったろうか。先の「工芸品に関する私記より」の中で、博物館で徳川時代の織物の標本を見出したときのことが語られているが、普遍的な視点のもと、古今東西の展示品に混じって新たに発見されたとき、日本の織物が特別な意味をもって富本の意識に上ってきた様子が見て取れる。やがて故郷の安堵村に戻った富本は、父が集めていたという「推古きれ」を取り出し、曾祖母の使った古い「手ばた」で、見様見真似で織物を始めている(6)


富本における、普遍主義と文化的な「根」に対する意識の並存の最も端的な現れは、帰国後の富本が生家のある奈良の安堵村に居を定め、その室内に自ら選んだ品々を飾り、一種理想の生活を営もうとした点に見出される。『美術新報』1911年8月号掲載の「室内装飾慢言」に書かれているように、生家である伝統的な大和の民家の薄暗い室内に、シャヴァンヌの写真版複製と自らの木版と自家伝来の古い春日卓を、自らの感性に従って配するという生活空間が展開される(7)。これを「和洋折衷」と言ってしまえばそれまでであるが、富本に限らず、その「和洋折衷」あるいは「和魂洋才」の中身こそが問われなければならないにちがいない。同じ文章の中で富本は、日本家屋の中の椅子を用いる部屋について想をめぐらす一方で、その西洋風の室内装飾に茶人の優れた美意識を応用することを提案している(8)。それは「インデヴイヂアリテー」を、絵画彫刻だけでなく、応用美術すなわち室内装飾にも表現したいという意志の表れであり、一旦西洋も日本も相対化した上での「和洋折衷」なのである。こうした空間の中で、大和の民家を論じた「百姓家について」(アーツ・アンド・クラフツ運動におけるヴァナキュラー建築の発見に通じる視点)が書かれ、同時に「ウィリアム・モリスの話」や「椅子の話」が書かれている。またこの時期、古今東西を見渡して最も優れた美術作品の一つとして、富本が最も身近にある法隆寺金堂壁画を挙げていることも重要な事実の一つに思われる(9)。後で触れるが、富本が帰国直後に最も熱心に取り組んだ木版画や楽焼は、日本に昔からある技法であると同時、技法のプリミティヴな性格ゆえに文化の国境を越えて各地に同様のものが見られるという、一種の普遍性を有している。この時期、富本の中には、自ら育った環境を精神的支柱にしながら、和洋の区別を越えた普遍主義を通して、日本の工芸に全く新しい世界を開くことができるのではないかという一筋の光が見えていたと思われる。


1912年に富本が『美術新報』に2回にわたって発表した「ウィリアム・モリスの話」もまたそうした観点から捉えられるべきであろう。このテクストの中で、富本は再三再四モリスの工芸家としての姿勢に触れている。


誰もコウ云ふ事の心付かぬ時代に、只美しい良い
ものを造ると云ふだけの目的だけを見あてに今迄
の悪い習慣を打ち破つてやつた勇気と、自分を信
用して居た点だけでも賓に感服の外ありません(10)。…
當時は丁度ヴィクトリヤ初期で後から非常な勢に
なつたプレラファエライトの連中が頭を上げ出さ
ない一般の美術界が沈滞して居た時であります……
コンな厭な時代だから、充分モリスが腕を振ふ事
が出来たでしょうが、一方には新しい旗を押し立
て、悪い前からの習慣の様になつた考へを破つた
熱心には私は窃に感心して居ります(11)

富本は何よりモリスの工芸家としての姿勢に惹かれているのである。社会思想家やモリス商会の経営者である以上に、富本にとってモリスは一人の工芸家であり、作品以上にその姿勢について語ろうとしている。そして「少しの技術上の経験で自分だけの趣味一つを土壹として濁学で研究して非常に良い結果を得た」(12)モリスに恐らく倣って、富本自身、手織や更紗の制作を、古い優れた布だけを手本に全く独学でやり始めようとしていた。既成の技術に対する完璧な懐疑、否定の姿勢であると同時に自らの感覚への全幅の信頼。織物や更紗に限らず、富本は室内装飾に関わるあらゆる分野に手を染め、当時の書簡からは、水彩、油彩はもちろん、木版、更紗、家具、木彫、千代紙、カーペットのデザインなど、素材も技法も様々な分野を、誰にも頼らず、すべて手探りで試行錯誤しながら、次々と試作していた富本の姿が窺われる。



 4.富本憲吉「工芸品に関する私記より(上)」『美術新報』11巻6号(明治45年4月)8−14頁。


 5.長谷部満彦「富本憲吉の陶芸」『富本憲吉展図録』1991年 東京国立近代美術館工芸館11頁。


 6.富本憲吉 前掲12−13頁。


 7.富本憲吉「室内装飾慢言」『美術新報』10巻10号(明治44年8月)28頁。


 8.富本憲吉「室内装飾慢言」『美術新報』10巻11号(明治44年9月)23頁。


 9.富本憲吉「法隆寺金堂内の璧畫」『美術新報』10巻11号(明治44年9月)15頁。


10.富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』11巻4号(明治45年2月)16頁。


11.同上18頁。


12.同上19頁。

 3

こうした富本の姿は、富本やリーチが個人展覧会を開催した三笠美術店が発行していた雑誌『藝美』の第4号に津田青楓が発表した「職人主義の図案家を排す」という一文の中で、津田が「職人主義の図案家」に代わって登場すべきだとしている「藝術的図案家」のあり方そのものである(13)。冒頭、津田は「自分は今日我々の日常生活に觸目する、一切の工藝品や、或はいろいろの工藝品に付いてゐる模様に不快を感じない事がない」と喝破している。そうした「雑駁な、性格のない、剽窃と模倣に富んだ工藝品の図案や模様」を「藝術的」にする方法として、第1に作者の独創でないものの制作を禁ずること、第2に需用者の趣味の改革をはかること、第3に表題でもある、「図案家の職人主義」を排すことを挙げている。津田によれば「職人」とは「自己を持たない人」、「自己は持ってゐるかも知れないが、それを表現する必要のない人」、「他人を標準にして仕事をする人」、「自己の意思によつて図案をこさへない人」である。彼らの作るものは「個性なく獨創が無い」。この「職人主義」を排した結果、彼は「図案界を今日の文藝界の様に」し、「図案を以て自己を語るアートにし度い」という。


この一文には「小宮豊隆君に読んで貰ふ爲めに」という副題が付いているが、青楓の友人小宮豊隆は同じ年の10月号の『文章世界』に「図案の藝術化」を書いている(14)。小宮は古代エジプト芸術とロシアの農民芸術を引き合いに出し、一見装飾的で平面的なエジプト芸術は、実は「自然」を源泉とし、「自然」を生かすことによってこそ躍動しており、またロシア農民芸術のうち特に刺繍の模様は、直接「自然」から得た材料に負っているからこそ優れているとする。小宮は光琳もまた「自然主義」の芸術家であるがゆえに優秀な芸術を創り得たという。これに対して次に例に挙げているのは浅井忠であるが、小宮は浅井を評価しつつも、光琳のような自由で率直な感じが欠けているという。理由は図案において「自然」を捉えることによって「自己」を十分に表現していない折衷様式であるからである。こうして小宮は在来の「型」にはまった図案に対し、「自然」を凝視し「自己」を十分に表現した図案の出現を説いている。こうした議論は、「様式」としてではなく、既存の装飾芸術に反抗し、直接自然に装飾モティーフの源泉を求めようとした「態度」としてのアール・ヌーヴォーを想起させる。工芸への新しい姿勢として、アール・ヌーヴォーと同質のものが日本に登場したことを告げる津田と小宮の2つの文章は、1910年代の工芸論を代表するものであり、重要な位置づけを与えられるべきであろう。


現存する作品が今のところきわめて乏しいのが非常に残念であるが、津田青楓自身、1910年代の工芸を代表する作家の一人と言ってまちがいない。もちろんそれぞれの違いはあり、津田の場合、本人は絵画に力点を置いていたようではあるものの、1910年代の津田の歩みは富本とかなり重なっているように思われる。事実、1913年というかなり早い時期に大阪の三越呉服店で富本・津田2人による工芸作品展が開催されており、当時『美術新報』では共に「工芸界のポストアンプレショニスト」という呼び方をされ(15)、また『大阪日報』では、二人の気質の違いに注目しながらも、「その方針はほぼ一致している」と書かれている(16)。この前年には、津田や兄の挿花家西川一草亭が開催した独自の観点による展覧会に富本も出品しており、直接の交流も行われていた。


津田の工芸作品については、本展覧会では装幀から窺うしかない。「私は趣味で本の装幀をしたのではありません」と後に自ら語っているように、装幀は津田にとって収入を得る手段にはちがいなかった(17)。しかし彼の装幀を見る限り、理由の如何に関わらず、津田は全力を挙げて装幀に取り組んだという印象を受ける。確かに装幀の仕事は全く津田個人のものというわけにいかず、必ず他人の手を通さなければならないという部分もあったが、それらは「装幀の時代」と言っていい1910年代の中でも特に質の高いものであり、この時期を代表していると思われる。津田の前に夏目漱石の著書の装幀を手がけ、やはり代表的な装幀家として一時代を画した橋口五葉のような華やかさはないが、『美術新報』の装幀特集記事の中で、中沢弘光が富本のものと共に「象徴的に渋い」と評している通りである(18)。油彩、日本画、染織、版画など、津田が手がけたあらゆる分野の手法が時に応じて用いられているが、津田の装幀に一貫しているのは工芸的な装飾性であり、その最良の部分がこれらのうちに体現されている。富本や津田は「工芸的な装飾性」が時代の「前衛」と結び付くことのできた最後の世代であったのかもしれない。日本の工芸品に対する津田の造詣の深さ、研ぎ澄まされた美意識は『美術新報』に書かれた「織物の話」の中に窺われる。この中で津田は、その世界でももはや1人か2人の古老しか知らない無名の職人の仕事について語っている。一見近代とはかけ離れたかに思われる世界である。しかしそれに関連して津田は次のような見解を語っている。


大抵の藝術の革命が起る時は其技巧は甚だ幼稚な
ものですが、其幼稚な技巧の内に盛られた内生命
の方が反つて溢れる様な力を以つてゐるものです、
それが段々時日が推移して行くに従つて内に盛ら
れたものがいつの間にか消えて技巧ばかりが段々
精巧に成つて行くのが常態の様です(19)

ここで静かに語られている、芸術における生命感とアマチュアリズム、プリミティヴなものの結び付きへの着眼こそ、富本や津田のこの時期の制作を支えていた直観であったのではなかろうか。この最も象徴的な例として、リーチや富本による楽焼への取り組みが挙げられる。リーチの楽焼との出会いがある集まりでの余興であったように、もともと焼き物の中でも楽焼は最もアマチュアリズムと結び付いている。これをきっかけに、楽焼を学ぶためリーチは6世尾形乾山に入門することになるが、富本はその通訳をつとめ、自ら楽焼の魅力に取り付かれることになった。結果的に、陶芸家としての富本、リーチの出発点となった楽焼との出会いは、しかしこの時点においては、ある種の必然を感じさせる別の意味合いをもっていたのではなかろうか。


現在、富本の作品群の中で初期の楽焼の作品に対する評価は一般に低い。評価の対象外でさえある。後の技術的に完成され、意匠の点でも洗練された磁器の作品群に比べれば、あまりにも稚拙で素人臭く感じられるためであろう。しかしすでに津田の言葉が示しているように、実はこのプリミティヴィズムとアマチュアリズムこそ、この時期の工芸を解く一つの鍵であったように思われる。少なくとも同時代には、それらをきわめて正当に評価しようとする感性を備えた人々がわずかながら確かにいた。たとえば富本が本焼の作品の発表を始めた1915年、『美術新報』の「十五日會々員新作」展の評で「富本憲吉氏の陶磁は技巧漸く黒人らしさを加へて来た」としつつも「併し氏の作品の興味はやはり楽焼の方にありはしないか」と書かれている(20)。大きくいえばこのアマチュアリズムは、明治期の産業振興、輸出振興のなかで極端に歪んだ形で現れた技術偏重主義、市場論理の支配に対する、また旧態依然とした美術学校の教育に対するアンチテーゼとして出てきたものといえる。しかし富本やリーチ自身は、楽焼を通じてむしろ積極的にアマチュアリズムを実践しようとしていたように思われる。


楽焼には技法としてプリミティヴであるがゆえの一種普遍的な性格がある。富本やリーチの楽焼の中には、南欧のマジョリカ、オランダのデルフト、イギリスのトフトウェア、ペルシャ陶器など、これに近い性格をもつあらゆる焼き物の要素が明確な区別なしに混じり合っているように感じられる。富本やリーチの初期の楽焼の中にこれらの影響を個々に指摘することはむしろ容易であろうが、模倣を云々する以上に重要に思われるのは、彼らを引き付けたのが、楽焼のプリミティヴな性格に内包されていたこの普遍的性格ではないかという点である。



13.津田青楓「職人主義の図案家を排す」『藝美』第4号 1914年9月 1−7頁。


14.小宮豊隆「図案の藝術化」『文章世界』1914年10月号 253−262頁。


15.「展覧会」『美術新報』1913年6月号 31頁。


16.市川真一『1910年代の三越の美術展覧会』(未発表資料集成)1995年による。


17.金子量垂「青楓装幀本渉猟」『季刊銀花』第40号 1979年 61頁。


18.中沢弘光「時代の匂を要する」『美術新報』12巻5号(大正2年3月)13頁。


19.津田青楓「織物の話」『美術新報』14巻2号(大正3年12月)9頁。


20.雪堂「初冬の諸展覧会」『美術新報』15巻2号(大正4年12月)34頁。

 4

1910年代の工芸を代表するものとして、富本、リーチ、津田のこうした仕事に藤井達吉や河合卯之助、やや遅れるが新井謹也を加えなけれはならない。藤井達吉の仕事が当時もたらしたものについてはやはり高村豊周の回想が最もよく伝えてくれる。比較的早い1927年に『工芸通信』に書いた文章ではこの頃の藤井の仕事について次のように回顧している。


洗ひざらしのメリケン袋みたいな布へ竹の皮なん
ぞを切り抜いて貼りつけ、それへ凧糸で縁取りを
して、刺繍壁掛なんて云ふのが、今から思へば人
を喰ったものだが、その時分はただもううれしかっ
た。静かな古池のような当時の工芸界にあっては、
藤井君のかうした試みは実に晴天の霹靂とも言ふ
べきであった(21)

とりわけ藤井は素材の上で従来の工芸の枠を木っ端みじんにするような様々な造形上の冒険を行っていたようである。今回の出品作もすべてそうした試みを示している。富本と異なり、藤井には西洋の影響は全く考えられないと高村は述べている。この点の是非はここではおくとして、専門家集団に属さず、美術学校の卒業でもない藤井が、彗星のごとく登場し、ほとんど先例のない仕事を次々とやり遂げた背後には、服部七宝店に勤めていた1904−5年、セントルイス博覧会への出品に際してアメリカに行った経験が無関係ではなかったと考えられる。


一方、清水五条坂に生まれた河合卯之助は、一方で父が始めた家業としての陶芸に兄弟で従事しながら、京都市立絵画専門学校で日本画を専攻、1910年代には、染織のデザインやショーウインドーのディスプレーも手がけるなど、伝統に縛られた陶芸以外の世界を求めてやはり様々な分野に手を伸ばしている。また子息河合紀氏の回想にもあるように、大変なハイカラ趣味であった河合は、実現はされなかったものの、ヨーロッパヘの留学を実行に移そうとしたこともあった(22)。富本や津田に相通じる部分の持ち主であったことが窺われる。陶芸に関しては最初から素人ではなかったはずの河合であるが、自らの玄人性を否定するかのように、枠にはまらない様々な技法を試み、またスケッチ帳(Cat.no.3−154)に見るように、図案においても富本やリーチとほぼ同じ地平に立って自由な試みを行っている。


三重県鳥羽市出身の新井謹也はもともと浅井忠門下の洋画家として出発し、1910年代には大阪の三越呉服店意匠部に勤務、陶芸を始めたのは1920年の中国・朝鮮旅行後のことである。しかし、その弟で1910年代初頭に早逝した新井昌夫ともども、富本らの1910年代の工芸に連なる作品を残している。


彼らに加え、1910年代の工芸を語るにあたり、バーナード・リーチの存在を改めて強調する必要があるだろう。富本との関係についてここで詳しく述べる余裕はないが、富本のみでなく、今回取り上げた人々のほとんどにリーチは何らかの影響を及ぽしていると考えられる。これまで白樺派とリーチとの交流については詳しく語られてきたが、今後、1910年代における工芸家たちとリーチとの交流についてももっと語られるべきであろう。たとえば藤井達吉は上野桜木町でリーチの家の近くに暮らしていた時期があり、しばしば訪問していたようである。また1919年にリーチが神田の流逸荘で発表した家具は、今和次郎や広川松五郎らにも深い影響を与えているのである。今は「僕最近に於て最も明確に工藝術品としての本當の力を教へらる、悦びを持つ事の出來たのが、この夏のリーチ氏の展覧會からであつた。……あの家具の力作がはつきり僕に工藝術品としての意味を教へてくれた」と書いている(23)。偶然であるにしても、1909年に来日し、途中一時北京に移った時期はあるものの、1920年に帰国するまで、まさに1910年代を日本で過ごしたリーチが、工芸の展開の中で一種の触媒として果たした役割は測り知れないものがあるといっても過言ではない。1911年10月号の『美術新報』に、リーチは「保存すべき日本古代藝術の特色」と題した一文を寄せ、「横浜物」に代表される輸出向けの工芸品を激しく批判しつつ、装飾芸術の運動を起こす必要を説いている。その目的は、ヨーロッパに限らず世界各国の装飾芸術を研究すること、またそうした新しい知識を「日本の装飾的手段及技巧」と結合し応用することを研究することとしている(24)。これは富本はじめ、今回の展覧会に取り上げた人々がそれぞれに取り組みつつあったことであった。


異邦人であるリーチが、同時代の日本の工芸家たちと問題を共有し得たのは、1914年、北京に去る以前に刊行した A Review(『回顧』)の中で自ら語っているように、東洋の芸術を求めて日本にやってきたリーチが、一旦それが完全に失われたことに気付き、まさに富本や津田と同じ地平に立って、しばらくの間むしろ西洋の新しい美術を学ぶことに専心し、その上で再び東洋に戻ったという点に求められるのかもしれない(25)。リーチ自身が坂井犀水の求めに応じて書いた「『アイノコ』の真意義」という評論における、次のような富本憲吉論こそがこのことを証している。リーチは「アイノコ」という言葉が一般に軽蔑的に用いられることを承知の上で


富本君の装飾的美に於ける、理解と鋭敏な感受力
といふものが、丁度私の云つた『アイノコ』の性質
と云ふものと、同じ意味のものであるからで、彼
は大なる極端の上に、叉はそれを超越したる處に
存する美を、よく理解はし、且つその美を、彼の
作品の上に現す處の力を持つて居るからである。
彼の最も善き圖案、繪画、陶器等は、確かに相異
なつて居る處の、英國、或は埃及、或いは波斯、
或は印度、或は支那、或は朝鮮と日本との要素を
眞に能く結合して、或一個の新しき創作物として
居るのである(26)

と述べている。また


私は彼を、曾て海外に遊びて帰り来つた日本の藝
術家の中で、其製作に、新しい眼を以て見られた
る古い日本の生活及び藝術からの健全なる刺激を
發揮し居る、唯一の若き藝術家であると認める。
これは彼が東京を嫌つて、大和の村落に百姓とし
ての生涯を好んで居る理由の一つであらう(27)

リーチの富本に対するこれらの言葉は正しく的を射ていると同時に、そのままリーチ自身にもあてはまる。リーチは1919年の流逸荘での個展にテーブル、椅子、机、本箱、ランプ、ストーヴ、ソファ、染織物などを出品した。「日本趣味に会ひ、生活の現代條件に適した家具を設計し、製作しやうとする私の初めての試み」と自ら位置づけ、「装飾美術に関する欧洲の意向(アイディア)と東洋の意向とを結びつけること」を目標としていた(28)。リーチはこの富本論を書いた1915年以降、陶器はじめ、装飾芸術における東洋と西洋の結合をしきりに説いている。



21.山田光春『藤井達吉の生涯』1974年 風媒社 60頁に引用。


22.河合紀「河合卯之助の世界」『河合卯之助の世界』1982年 求龍堂。


23.今和次郎「立派な工藝術品を欲しい」『装飾美術家協会 第1回製作品発表会目録』1919年 39頁。


24.バーナード・リーチ「保存すべき日本古代藝術の特色」『美術新報』10巻12号(明治44年10月)14頁。


25.バーナード・リーチ「緒言」『回顧1909年−1914年』1914年 4−5頁。


26.バーナード・リーチ「『アイノコ』の真意義」式場隆三郎編『バーナード・リーチ』1934年 建設社 98頁。


27.同上 99頁。


28.バーナード・リーチ「家具試作に就て」式場隆三郎編『バーナード・リーチ』1934年159頁。

 5

1910年代は作品と並んで図案の下絵やスケッチが魅力的な時代でもあった。富本は初期の展覧会に必ず陶器図案を展示している。また富本と河合卯之助が相前後して行った木版による模様集の出版も、注目すべき出来事であるといえよう。1923年に富本は、野島康三の写真による3冊からなるきわめて重要な意味をもつ模様集を20部限定で制作し、親しい人々に配っている。この模様集のうち、1912年から1919年までの50点をまとめた第1冊の原画18点が本展覧会に出品されている(Cat.no.3−119)。これらは田中屋から出された木版の模様集のもとにもなっている。この時期富本は数千点にも上るスケッチを行っていたという。楽焼にみられる、様々な要素を融合させた一種無国籍な普適性は、この簡潔で線の魅力に満ちた模様集の原画にも共通している。風景も草花も、確かに日本の風景であり、土着の草花でありながら、どこかバタ臭く、かといって直接に外国の影響が現れているわけでもない。しかも、技法上の制約から開放され、陶器以上に彼の目指していた工芸の方向を明確に示し、最も富本らしい性格に溢れているようにすら思われる。


さらにこれらの下絵から、1910年代の図案のイコノロジーというものも浮かび上がってくるように思われる。「自然」にモティーフを求める態度はほぼ全員に共通している。長い工芸の歴史が蓄積してきた、それだけに手垢の付いた文様を嫌った彼らは、あざみに代表される素朴な野草を好んだ。すなわち名高い富本の「模様から模様をつくらず」という言葉は、1910年代には富本に限らず幾人かの工芸家がもち始めていた意識であり、その結果として「自然」に彼らの真摯な眼が向けられていった。表現は全く異なっているが、態度としては、やはり植物モティーフに最も原初的な「生命力」を発見したアール・ヌーヴォーときわめて似ている。「出来れば模様を繪や彫刻と同じ様に自分のライフと結び付けて考えてみたい」といったのは富本であった(29)


しかし彼らが学んだのは決して自然のみでなかったのはすでに見た通りである。とりわけ眼をひくのは更紗や唐草で、そのあたりの選択にも一種独特の彼らによる好き嫌いの感覚が働いているように思われる。楽焼や木版同様、広い地域にわたって昔から伝えられてきた更紗や唐草には、普遍性、一種の無国籍性がある。加えて自然のモティーフと同様の生命力、北原白秋や木下杢太郎に通じる南蛮趣味など、1910年代を代表する性格を充分に備えているのである。その更紗や唐草を決して「写し」の形で取り入れるのではなく、それらを土台に新たな装飾性を模索する様子は、富本の装幀や河合の図案が示す通りである。



29.富本意吉「半農芸術家より」『美術新報』12巻6号(大正2年4月)。

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富本、津田、藤井、河合らは真の意味での個人主義の工芸家であったと結論づけられるように思う。彼らは決して一元的に「個性」を標榜したのでもなければ、賛美したわけでもない。たとえば津田青楓は決して工芸の個人主義を全面的に肯定しているわけではなく、すでに見たように無名の職人の仕事をむしろ評価している。富本のいう「民間芸術」、リーチのいう「農民芸術」もそうした仕事への彼らの積極的な関心を示すものである。にもかかわらず、富本のいう「趣味」、津田のいう「感覚」は、個人以外の何物にも属していないし、属することもできないのである。既成の枠組を捨て去った彼らの拠るべき処としては、結局のところ、自らの感覚以外に考えられなかったということになろう。彼らの工芸はそれ以前にないものというだけでなく、それ以後にもなく、相互に共通点はあっても様式上のそれではない。富本も津田も藤井も、結果として工芸の近代化に寄与しながら、最終的に何らかのグループに属するということがなかったように思われるのはそうした理由によるのではなかろうか。普遍的なものへの志向と個性は彼らにおいては奇妙に共存していた。富本は「好き嫌いの程度をモット強めて、嫌ひだが我慢をすると云ふ風でなく、必然的な何う考へなほしても嫌ひと云ふ風に考へたいものです」と語っている(30)


1919年に高村豊周、今和次郎、広川松五郎らに岡田三郎助や長原孝太郎も加わって「藝術品(OBJETD’ART)を製作發表し、従來の所謂工藝美術品の品位を高め其帰趨を示す事」を目的に結成した装飾美術家協会は、こうした工芸における個人主義の申し子であり、「工藝を作る人は、創られたいのちの所有者である、いのちが獨立に具現されてる以上は、工藝は獨存體たる價値を持つ」(波邊素舟)という言葉にみるように(31)、典型的に1910年代の意識を示しながら、1920年代を予告する「工芸運動」としての性格を持ち始めている。


1918年に始まった官展への工芸部の設置運動は、20年代にはますます高まりを見せ、同時に20年代に入ると高村、広川らによる「无型」など、次々に工芸団体が結成され、高らかに宣言文をうたっている。こうして工芸を美術の一分野と認めさせるべく努力が行われていく一方で、20年代の半ばには「民芸」が明確な宣言文とともに一つの運動として出発を遂げている。それぞれ個人作家による工芸と無名の工人による工芸を工芸のあるべき姿と考える、全く対照的なこの二つの工芸観は、富本が「絵と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事」に気付いた時点では、まだ一つに混じり合っていたのであった。しかしその富本自身に1910年代初頭と末では大きなずれが見られ、そのずれは楽焼から本焼、さらに磁器へという作品における変化以上に、モリス的工芸家から求道的陶芸家へという彼自身の生き方に関わる変貌であったように思われる。

(三重県立美術館学芸員)



30.富本意吉「工芸品に関する私記より(上)」9頁。


31.渡辺素舟「偶感」前掲目録 14頁。

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