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萬鐵五郎と岸田劉生にみられるデフォルマションの特色について


田中 善明

フランス語のデフォルマション(deformation)は「変形」や「歪曲」と訳される。何を基準にしての「変形」や「歪曲」かといえば、「解剖学の世界」や「科学的遠近法」などが一応の基準になっている。芸術家が作品にデフォルマションを加えるのは、当然それ相応の意図がはたらいてのことである。形態を意図的に変形させるという行為は古今東西どの時代にも見受けられ、その方法は作家の個性につながっている。

さて、日本に油絵の技法が本格的に導入された幕末から明治初期の洋画について振り返ってみると、この草創期は科学的遠近法や明暗法など「まるでものがそこに存在するかのような」写実表現がそれまでの日本美術になかったことから、制作するうえでの形態把握の方法はデフォルマションを加えないことで達成されていたといってよい。それに続く明治中期は、近代洋画の父とよばれる黒田清輝が外・派の表現を定着させた。彼は日本の絵画に大きな改革をもたらした画家として知られ、紫派と呼ばれたように、視覚的に画面をいっそう明るいものとした。ただ、黒田が実践してみせた印象派絵画は、光にたいして受ける感覚が重要な問題だったので、美術解剖学的基準から逸脱した不自然な形態をつくる表現はそれほどみられない。あえて彼がおこなった「変形」をあげるとすれば、寓意的画題をつけた《智感情》などの構想画であろう。この《智感情》は日本人女性をモデルにしながら、三人の女性とも7等身という理想体型をつくりだしている。しかし、この操作は構想上の必要性から自然に生まれたものだろうから、古代ギリシア美術の理想美がデフォルマションと呼ばれないのと同様、その範疇には入らないだろう。 デフォルマションと呼べるものが日本の洋画史上あきらかに見て取れるのは1910年代になってからのことであろう。というのも、この時期には後期印象派、立体派、未来派、ドイツ表現派などデフォルマションを表現上の一効果としてもちいる西洋の主観芸術が次々と伝えられたからで、画家の意識も外光派絵画にみられる「自然から受けた感じ」を表現するところから一歩踏み出し、形や色を自己のスタイル形成のために役立てた。ここでは萬鐵五郎と岸田劉生という、大正期を代表する二人の画家に焦点を絞り、あくまでも表現手段の一要素でしかないデフォルマションであることを認めつつも、彼らの造形表現に如何に現われているのかを考察してみたい。

萬鐵五郎のデフォルマション

1912年、東京美術学校卒業制作のために描かれ、日本近代洋画史上の記念碑的作品となった萬鐵五郎の《裸体美人》は、本人自らが「ゴッホやマチスの感化」(1)を認めている。たしかに、点在するヒトデのような草や、人体の隈取り部分にゴッホの影響がみてとれる。とくに女性の足の部分に注目すると、直接的な木彫のような隈取りは、ゴッホが試した「線的な抽象のもつ表現力」を追試する。一方、背景の木をみると、先端に近づいても変わらない枝ぶりや、円く単純化された葉のかたまりは、マチスの《Vue de Collioure et lamer》に見られるような形態の意図的な変形がおこなわれている。


前年1月に『スバル』が創刊され、この年5月に『三田文学』が創刊、それぞれ自然主義に対抗して理想主義、耽美主義を掲げていたが、明治43年の『スバル』4月号に、高村光太郎が、芸術の絶対的自由を主張する「緑色の太陽」という有名な論説を発表した。高村は芸術家の個性に無限の権威を認め、ある芸術家が太陽を緑色に描いたとしても、決して非難されるべきでないという、芸術家の感情の自由、芸術の自律の主張であった。


ゴッホやマチスに「感化」され、ゴーギャンのタヒチの時代の作品から着想を得たのではないかといわれるこの作品は(2)、これらの画家の表現方法を抽出しながら模倣したといえる。模倣という事について萬鐵五郎は「鐵人独語」でつぎのように語っている。


「画家は模倣という概念を恐れてはいけない。自分の画が、ある人の絵に似てくる事を心配しなくともよい。それから逃れようとあせってはいけない。尚益々忠実ならん事を期すべきである。人は外面的に模倣だと云い去る事が多い。此れは考えなくてはならない処だ。模倣と見える事が、往々にして独創である場合が多い(3)。」


この作品の空には、赤味がかった大きな雲がある。方向としては少し左上りであるが、この雲の配置とかたちを決めるために、かなり気をつかって描いているようだ。というのも、女のつま先から頭にかけての動きをみると、ジクザグと鋸歯状のリズムがつくりだされており、その流れの延長上にこの雲が位置しているからで、右手にある倒れかかったような木の角度もこの流れに呼応させるため、こういう変形が必要であったのだろう。画面を綿密に計画していたことは、岩手県立博物館に残されている本作品の下図(木炭画)を見てもあきらかである。この下図には、方眼の線とともに、斜めの線が人体部を中心に引かれている。《裸体美人》にみられる、画面をつらぬく鋸歯状の流れは、このひとつひとつの斜線を一単位とし、それらが統合された結果生まれたものと考えると、マチスやゴッホのスタイルを借りながらも萬の意識するリズムでひとつの統制がなされているようだ。


さて、この《裸体美人》を描いた頃の萬はゴッホやマチスの感化による作品以外にもさまざまな手法を試みる。例えば《風船をもつ女》(Cat.No.3−24)は、そう若くもなさそうな婦人がまじめな顔をして風船をもつという、こっけいな設定のもと、人物と非実体的な背景とを鋭利な形で組み立てた(4)。ここでのデフォルマション、婦人の顔右部にある輪郭部の凹みや、歪みを生じた照明は、立体物の新たな把握方法を追求すると同時に、背景と人物を同化させ、統一感をもたせるための必要な処理であったのだろう。また、この時期頃の作品と推定される、版木の裏面に描かれた《飛び込み》のような、モデルを使わないで全くの想像だけで描かれたものに、著しいデフォルマションが見られることも注目に値する。


1914年(大正3)夏からの約1年半の間、萬は郷里土沢へ戻って制作を続けた。陰里鉄郎氏が述べるように、この時期の萬は「光によってできる明暗の印象派的処理」を放棄し、「フォーヴィスム的絵画思考」を一時的に放棄した(5)。色数も減り、渋みが増したこれらの作品は、それこそ土着的な色となったが、形態処理に対する関心がより強くなったという方が適当かもしれない。1915年の《自画像》(Cat.No.4−6)は、わずかに明暗が意識されつつも解剖学的人体表現から大きく形がずれている。ずれるというか、多角的視点から自己を観察した結果、かたちに歪みが生じたのだろう。いろんな角度から物体を把握し、画面上に再構築する手法は立体派の手法であり、その試みが《もたれて立つ人》に結実する。そして、この視点を保ちながら、デフォルマションによる形態のリズムを握んだのが《薬罐と茶道具のある静物》(Cat.No.4−28)などの静物である。

註記

1. 萬鐵五郎「私の履歴書」、『中央美術』1925年11月号


2. ゴーガン的な着想については、田中淳氏による萬鐵五郎《裸体美人》の作品解説(『フォーヴィスムと日本近代洋画』展図録 p.156)による。


3. 萬鐵五郎「鐵人独語」『現代日本美術全集2 萬鐵五郎画集』細川書店 1954年


4. 浅野徹氏は「立体派、未来派と大正期の洋画」(『東京国立近代美術館年報昭和51年度』1978年発行、95-96頁)の中で萬鐵五郎の《風船をもつ女》と《赤い目の自画像》に触れ、この作品が分析的立体派の手法よりも、立体派に先立ち日本に紹介された未来派絵画の影響を指摘している。


5. 陰里鉄郎「萬鉄五郎−その生と芸術」『生誕百年記念 萬鐵五郎展』図録 1985年(昭和60)


6. 岸田劉生「思い出及今度の展覧会に際して」、『白樺』第10年4月号、1919年(大正8)4月


7. 匠秀夫「岸田劉生−激情の生涯」『岸田劉生“激情の生涯”展』図録 1985年

岸田劉生のデフォルマション

岸田劉生といえば、草土社時代にみせた北欧ルネサンス調の擬古的な写実作品や麗子像をはじめとする著しいデフォルマションによる人物像を想起するが、劉生二十歳台前半にあたる1910年代初頭の作品はどのようであったのか。


彼がはじめて後期印象派以降の西洋美術と接するのは1911年(明治44)、雑誌『白樺』との出会いからである。この出会いによって彼の画風は「後期印象派の感化といふより、模倣に近い程変つた」(6)と、やはり萬の場合と同じくその頃に後期印象派以降の西洋美術に影響されたことを認めている。それ以前の劉生は、1908年から白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び(ちなみに、萬鐵五郎は白馬会第二洋画研究所に通い長原孝太郎のはじまったときのことを彼が「第二の誕生」と位置づけたように、作風は主観的な表現に一変する。この時期、「色彩や形の単化」をこころみたことは《築地居留地風景》(Cat.No.2−6)を見ても納得のいくところであるが、麗子像のデフォルマションに行きつくまでの作品についても「内的な必然性からとらえた生命感の表現によって、対象の実相(7)を把握するため、かたちは操作されている。彼がマチスから得たものは、平面的、簡略的な描き方によって画面を強調する効果の他に、この「かたちの操作」による効果も含まれる。


1913年(大正2)、フュウザン会最後の展覧会となった会場を飾るために制作された半円形の油絵(Cat.No.3−23)は、マチスとゴッホの影響が混在する。この作品の丘陵(山?)は、上空のゴッホ風の渦巻に呼応して、シンメトリックな構造で強引にかたちづくられている。また、中央にいる悲しむ二人は、この丘陵に閉じ込められることで抑圧されたイメージをさらに強くする。しかも、丘陵の線に規定されたこれらの人物は不自然なポーズと不釣合なプロポーションとなっている。この装飾画は劉生の作品の中でも、きわめて特殊だといわねばならないが、労働や悲しみなどといった人生の縮図的なものをこの半円形の画面に収めるために、このような形態の大胆な実験を試みたと思われる。


1913年(大正2)あたりの劉生は、肖像画や自画像を生涯の中でもっとも多く描いた。1912年に描いた《外套着たる自画像》と、1913、14年あたりの、いわゆる「首狩り」時代の作品を比べてみると、輪郭線は消え、筆のストロークは短かくなっている。


《裸婦》(Cat.No.2−7)もこの時期に描かれた作品のひとつで、この作品にはまだ表現主義的な形の歪みが残っている。しかし、対象物を大きく捉えながらも、その後の写実的細密表現に向かう意志はすでに読みとることができる。


彼が麗子像へとつながる形態の誇張表現を意識しだしたのはおそらく北欧ルネサンス絵画などに感化された1914年からのことであろう。この時点で劉生が何から直接のヒントを得たのか私にはわからない。ただ、存在に迫る、深みある表現をめざした彼が、写実の中に「装飾性」と「神秘性」が宿ることを発見したことで、この誇張表現は確固たるものとなった。


以上、二三の作品例を挙げながら、萬鐵五郎と岸田劉生について考察した。二人はともに10歳代で宗教(萬は禅宗、劉生はキリスト教)に目覚め、20代で後期印象派以降の新しい視覚表現に感化され、その後南画にお手を染めるといった似通った経歴をもっている。しかし、彼らそれぞれが確立したデフォルマションの方法はあきらかに違っている。萬の場合は、立体派などの新しい西洋美術の視覚を応用し、劉生は写実的実現を追求していったが、こうした経験が独自のスタイル形成に大きく関わっているように思われる。


(三重県立美術館学芸員)

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