このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

1910年代の日本美術


酒井 哲朗

1 明治43年(1910)

明治43年の日本の芸術界に、地殻変動のようないくつかの新しい変革の兆候が現れていた。この年4月に雑誌『白樺』が創刊された。武者小路実篤、志賀直哉、里見ク、児島喜久雄、柳宗悦、有島武郎、生馬らを同人として、文学や芸術の新しい潮流をつくろうとしたこの雑誌は、ロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、マチス、ユーゲント・シュティール、メーテルリンク、ロマン・ロランなど、さまざまな西洋の新しい芸術思潮を熱心に紹介した。とくにロダンと後期印象派が、大正期の日本美術に甚大な影響を与えたことはよく知られている。 武者小路は、『白樺』創刊号に、「『それから』に就いて」という夏目漱石論を寄せた。武者小路は、『それから』を、「自然の力と社会の力、及びふたつの力が個人に及ぽす力に就いての漱石氏の考の発表」と読む。武者小路は漱石のペシミズムに対し、社会を自然に調和させるべきだという。ここでいう自然とは自己の内部の自然であり、社会の掟に対する自然の情である。それはトルストイに傾倒した武者小路が、「霊と肉」の二元論を脱して、内なる自然の命に従う生命的一元主義、自己の内部の自然の全面的肯定を表明するマニフェストでもあった。

前年1月に『スバル』が創刊され、この年5月に『三田文学』が創刊、それぞれ自然主義に対抗して理想主義、耽美主義を掲げていたが、明治43年の『スバル』4月号に、高村光太郎が、芸術の絶対的自由を主張する「緑色の太陽」という有名な論説を発表した。高村は芸術家の個性に無限の権威を認め、ある芸術家が太陽を緑色に描いたとしても、決して非難されるべきでないという、芸術家の感情の自由、芸術の自律の主張であった。

明治43年は、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、吉井勇、長田秀雄ら『スバル』の詩人たちと芸文雑誌『方寸』に拠る石井柏亭、山本鼎、森田恒友ら画家たちが中心になり、フランスのカフェ文学運動にならって墨田川をセーヌに見立て、デカダンと異国趣味の情調を謳歌した「パンの会」が最高頂に達していた。11月20日に墨田川畔の西洋料理店三州屋で開かれた第2回「パンの会」は、『白樺』『三田文学』『新思潮』の同人も招待し、詩人、小説家、批評家、画家、彫刻家、俳優、ジャーナリストらの大集会となった。

京都でも、新帰朝の田中喜作(美術史家)や津田青楓、黒田重太郎、田中善之助、新井謹也ら関西美術院の洋画家と小野竹喬、土田麦僊、秦テルヲらの日本画家がシャ・ノワール(黒猫会)を結成し、新しい芸術運動をはじめていた。前年に京都絵画専門学校が新設され、近代的教養を身につけた新しいタイプの画家が養成されようとしていた。また同じ年、京都大学に美学美術史の講座が開設され、学者、画家、文学者らの交流が活発になっていたが、シャ・ノワールはそうした動向のひとつの現れであった。

また、この年、前年の第3回文展の山脇信徳の《停車場の朝》をめぐって、石井柏亭と高村光太郎の間に「生の芸術」論争がはじまった。永井荷風(『スバル』11月号)やバーナード・リーチ(『方寸』12月号)が、モネを引き合いに出してこの作品を誉めたのに対し、柏亭は誇張の絵であるとして反論し(『スバル』同号)、森田恒友も同じ『方寸』で「朝に対する憧憬の乏しい画」として否定した。『早稲田文学』は、荷風の『歓楽』とともに、山脇の《停車場の朝》その他の創作活動を、明治42年度の「推讃」に選んだ。

高村は、「AB HOC ET AB HAC」、ラテン語で「手当り次第に」という意味の風変わりなタイトルで、『スバル』(明治43年2月号)誌上にあらためて《停車場の朝》について論じた。この絵は、荷風やリーチのいうような印象派の絵ではなく、むしろ拙い不器用な絵だが、作者が自然にくいついて作者が見た自然の感じを出しており、他の絵にはない「天の光」を写そうとする努力が尊いという。

同年4月、荻原守衛が死んだ。

  丁度、明治四十一年春、荻原守衛氏が新たに帰朝
  して、オーギュスト・ロダンの芸術を紹介し、幾
  多の素晴らしい写真版を掲げて、あの恐ろしい生
  の芸術、狂熱的な抒情主義、熱烈なる個人主義を
  宣揚するに及び、今まで積もりに積もっていた彼
  れの熱情は一時に爆発し、多年待ち望んでいた真
  の芸術、真の指導者に邂逅した喜びで一杯になり、
  昼も夜も興奮し続けて眠ることさへ出来ない程で
  あった。殊に荻原氏が自ら齎した氏の習作《工夫》
  の胸像の、あの直截にして強烈な表現、巌の様に
  荒削りで而かも生き生きした表現は、すっかり彼
  れの感じ易い心を捉えて、根本から彼れを揺り動
  かして了った

中村彝が中原悌二郎について語った文章(「中原君を憶ふ」『東京朝日新聞』大正10年9月29日)であるが、当時荻原を慕って集まった彼らの心情をよく伝えている。荻原は、やがてひとつのピークを迎える「生の芸術」の先駆者だった。

高村光太郎は、荻原について、次のような詩を書いた。

  粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
 「頭がわるいので碌なものが出来んよ。」
  荻原守衛はもう一度いふ。
 「寸分も身動き出来んよ。追い詰め・轤黷スよ。」
  四月の夜更けに肺はやぶけた。
  新宿中村屋の壁を真っ赤にして
  荻原守衛は血の塊を一升はいた。
  彫刻家はさうして死んだ−日本の底で。

明治43年は、石川啄木が「時代閉塞の現状」を書いた年でもある(発表は没後1912年)。辛徳秋水ら無政府主義者や社会主義者を弾圧する大逆事件の検挙がはじまり、啄木は、「強権の勢力は普く国内に行亘」り、「我々青年を囲繞する空気」は少しも流動しないと感じた。日本の青年は国家については、「父兄の手に一任している」という。このような閉塞の現状を打破するためには、強権に「確執」しなければならぬ、と啄木は主張した。

しかし、1910年代の日本の青年たちは、「人類」という普遍概念に依拠し、「強権」と「確執」することはしなかった。国家よりも個人、個性の伸長こそが人類の意志に適うという武者小路のコスモポリタニズムに共鳴し、同時代の意識で西洋の新思潮を求め、新しさを追求することによって、閉塞の現状を打開しようとした。明治期の国家主義的な倫理的、実践的なエートスに対し、大正期は個人主義的、美的、観照的エートスが特徴的である。


2 生の芸術

明治44年4月に山脇信徳が高村光太郎が経営する画廊琅かん洞で個展を開き、これをめぐって再び論争がおこった。フランスから帰国したばかりの有島生馬が、『白樺』6月号で、「氏の目は極端に写実的である」といい、国民に新しい芸術を教えたと賞賛した。これに対し木下杢太郎は、『中央公論』6月号で、作家の強烈な感激を思わせるばかりで、表現の技巧に乏しい。絵画というものは、血圧計の曲線のようなものではなく、ひとつの技術であり、感激を伝えるのに、観衆を納得させる「絵画の約束」が必要であろうと批判した。

山脇は『白樺』9月号で反論し、絵画が血圧計の曲線のようなものであっても一向に構わない。官能世界は「内面気息」であって、絵画はその脈絡鼓動である。絵画とは技術以上の人格であり、人格とは「人間官能の全部的存在」を意味する。全体的な人間を無視して技術や絵などはあり得ないとして、「生の芸術」を主張した。武者小路も「自己の為の芸術」(『白樺』11月号)を書き、木下を批判し、山脇を弁護した。三者は『白樺』誌上で翌年の2月号まで、討論を繰り返したが、山脇、武者小路の主観の絶対性に対し、芸術の客観性を求める木下との議論は平行線のまま終止符が打たれた。

武者小路や山脇は一連の論争のなかで、ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌら「後印象派」の画家に対する熱烈な心酔を語っている。この頃『白樺』は、これらの画家たちを次々と紹介した。明治45年1月号の『白樺』で、柳宗悦は、武者小路への献辞をつけて、「革命の画家」を発表している。これはルイス・ハインドの『後期印象派』をテキストに、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、マチスらを「革命の画家」として紹介したもので、ポスト・インプレッショニズムを「後印象派」と訳し、後印象派を「表現画家」としている。

明治45年、萬鉄五郎は東京美術学校の卒業制作として、日本フォーヴィズムの記念碑的作品といわれる《裸体美人》を描いた。同年9月ヒュウザン会が結成された。岸田劉生、斎藤与里、清宮彬を発起人に、萬鐵五郎、平井為成、山下鉄之輔ら東京美術学校系のアブサント会、太平洋画会系の川上涼花、川村信雄、松村巽らの雑草会の画家たちが合流した。10月の第1回展には、高村光太郎、、木村荘八、硲伊之助、田中恭吉、バーナード・リーチ、藤井達吉ら多くの青年画家たちが出品した。翌年フュウザン会と改め、第2回展覧会を開いたが、この時は出品者は半減、作品の傾向は後期印象派もしくはフォーヴィズム一色に統一された。

文展の権威を認めない、この在野の青年画家たちの展覧会は、大きな反響を呼んだ。劉生の《外套着たる自画像》《斎藤与里像》《バーナード・リーチ像》、萬の《ボアの女》《煙突のある風景》《日傘の裸婦》、あるいはまたフュウザン会の出品画ではないが涼花の《鉄路》など、後期印象派、とりわけゴッホの感化の強い、それぞれに大胆な色彩と筆触、形体をデフォルメして強烈に作者の感情を表出した作品群であった。

フュウザン会展について、木下杢太郎は、『美術新報』誌上で「洋画に於ける非自然主義的傾向」を指摘した。伝習を否定し主観の直截的表現におもむく表現主義的傾向は、同時代の世界共通の現象であることを、1911年にミュンヘンで結成されたカンディンスキーやクレー、マルクらの「青騎士」などと比較しながら論じた。

フュウザン会展に油絵や彫刻を出品した高村光太郎は、「あんな熱っぽい運動というものは少ない。あんな猛烈な時代というものは尠いだらうと思ふ」(「回想録」『美術』昭和20年1、2月号)と回想している。同じ年10月24日から28日にかけて5回にわたって『時事新報』に「文展の彫刻」を連載した高村は、「私は生を欲する。ただ生を欲する。その余の贅疣(ぜいゆう)は全く棄てて顧みない」と断言して、文展の全彫刻を生の欠如の故に断罪した。

大正2年は、ルノワールに直接学んだ梅原良三郎が帰国し、白樺社主催により神田ヴィーナス倶楽部で滞欧作による個展を開いた。生命感情の充溢した梅原の豊潤な官能的な色彩表現は圧巻であった。その1年後の大正3年に帰国し、翌年の第2回二科展に特別陳列された安井曾太郎のセザンヌに学んだ堅固な画面構成の作品とともに、彼らが後続の画家たちに与えた影響は大きく、指標と仰がれた。


3 画壇の再編成

1910年代初頭、個性を主張し自由な制作をめざす青年画家たちが、さまざまな研究グループをつくり離合集散した。すでにフユウザン会にその例をみたが、荻原守衛を中心に斎藤与里や高村光太郎、柳敬助ら新帰朝者が新宿中村屋に集まり、やがてそのなかから中村彝、中原悌二郎、戸張孤雁ら中村屋グループが形成された。彼らもロダンやルノワール、レンプラントに心酔し、新しい芸術を模索していた。京都では、津田青楓や黒田重太郎らが土田麦僊や小野竹喬ら新進の日本画家と黒猫会や仮面会(ル・マスク)を結成した。日本画の世界でも、横山大観や今村紫紅らが先頭にたって大胆な実験を試み、紫紅を中心に速水御舟らによる赤曜会、小川芋銭や平福百穂らが珊瑚会をつくるなど、美術界は新しい芸術を求めて多様化し、流動していた。

明治40年に創設された文展は、もともと新旧の対立を内包し、審査をめぐるトラブルは絶えなかったが、個性主義芸術の潮流は、国家による一元的な美術のシステムを崩壊させてしまった。大正3年に二科会、再興日本美術院があいついで設立され、それぞれに展覧会を開いた。以後、在野団体が美術革新の推進力となり、日本の近代美術が展開していくことになる。

二科会は、文展の審査に不満を抱いていた有島生馬、津田青楓、山下新太郎、斎藤豊作、石井柏亭ら新帰朝の画家たちが、日本画のような新、旧二科制を文部当局に建議したが容れられなかったため、独立したものであった。二科会は会規に文展出品禁止を定め、反文展の姿勢を明確にした。二科会は、ヨーロッパ帰りの新進画家たちを次々と会員に加え、隆盛に向かった。二科展は安井曾太郎の滞欧作の特別陳列以来、毎回新帰朝者の作品を特別陳列するのが慣行となり、これらの画家たちが二科賞の受賞者となることが多かった。二科会は、常に海外の新しい動向を積極的に受け入れたのである。のちに梅原龍三郎は、二科展を「フランス美術の出店」といったように、二科展は日本洋画のモダニズムの苗床となった。

発足当時二科展の鑑査委員に名を連ねていた小杉末醒は、大観の誘いに応じて院展に加わり、洋画部を創設した。大正2年に渡欧した未醍は、池大雅や与謝蕪村ら日本の南画を再発見している。南画の主観性を、一種の表現主義芸術と捉えたのである。未醒はヨーロッパ文明という異文化に出会ったとき、自らのアイデンティティを伝統のなかに求め、それを近代化しようとしたのであり、この点で大観と共鳴したといえよう。

岸田劉生は二科展の鑑査委員を辞退して、大正4年に草土社を興した。木村荘八、椿貞雄、中川一政、横堀角次郎、高須光治らがこれに加わった。この頃劉生は、ゴッホやセザンヌの影響を離れ、時代を逆行してデューラーやファン・アイクら北方ルネッサンスの画家たちを研究し、「内なる美」を追求する内的リアリズムに向かった。

また、フュウザン会解散後、大正3年から2年ほど故郷の岩手県土沢に帰っていた萬鐵五郎は、二科展にも院展にも出品してとくにこだわらず、形体や色彩のプリミティヴな単純化を求め、独自のキュビスム様式に到達していた。

このように後期印象派の強い感化ではじまったわが国の個性主義芸術は、決して西洋のモダニズムに追随するだけではなく、1910年代中頃には多様化し、内面化し、独自の日本絵画のアイデンティティを求めたのである。


4 日本画の新動向

明治30年代から40年代にかけて、日本画近代化の推進軸となったのは、東の横山大観と西の竹内栖鳳だったが、1910年代になると新しい世代が現れた。先頭に立ったのは今村紫紅である。紫紅が明治45年の第6回文展に出品した《近江八景》は、斬新な構図と大胆な色彩表現によってこの伝統的主題を一新した。この展覧会は、大観の《瀟湘八景》が出品され、夏目漱石が文展評でその近代性を評価したことで知られるが、紫紅の《近江八景》は、その新しさの故に賛否こもごもであった。大正3年に再興日本美術院展が創設されると、小林古径、安田靫彦、前田青邨、紫紅と速水御舟、小茂田青樹、牛田鶏村ら赤曜会の画家たち、富田渓仙、小川芋銭らが清新な感性によって自然を表現し、伝統を再解釈して新しい日本画を創造した。

大正初年に『白樺』などを通じてもたらされた芸術の表現主義的傾向は、日本画にも及んだが、そのひとつは「新南画」といわれるものであった。大正5年に紫紅が亡くなったとき、御舟は次のように追想している(『中央美術』大正5年4月号)。

  氏が南画を愛好されたのは、其表面的な技巧など
  ではなく、もっと深いところにまで入っていた。
  南画と印象派は一致したものであるとは、五六年
  も前氏の言って居られたところである。氏は寧ろ
  南画の方が印象派などより進んだものと見て居ら
  れた。

紫紅は南画の主観性とフォルムの単純化に注目したが、これは南画の表現主義的解釈といえる。線や色彩を感情の等価物とみている点では、印象派というより後期印象派というべきであろう。紫紅は富岡鉄斎の近代性をいちはやく評価し、石涛、八大山人、襲賢、呂半隠ら中国清代の文人画家に共感し、西洋絵画よりもさらに高次の精神性を求めた。渓仙や芋銭らは、この方向を独自に深化させたといえよう。御舟は、新南画様式からリアリズムの追求に向かい、のちさらに象徴的な装飾性に至った。一方、古径、靫彦、青邨らは大和絵の伝統に立脚し、それぞれの近代的感性によって、その形体や色彩を純化して近代日本画を創造する道をめざした。

官展内部にも、個性主義芸術の影響は浸透していた。大正5年に鏑木清方、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘、結城素明らが創設した研究団体「金鈴社」は、その実例であり、成果であった。金鈴社の同人は、それぞれに深い学識とすぐれた技術をもつ画家たちであったが、真摯に古典や自然を研究し、展覧会や講演会を開いた。近代日本画の歴史のなかで、この小さな結社の重要な役割は見逃すことことができない。

京都では、明治42年に創設された京都絵画専門学校に第1期生として入学した小野竹喬、土田麦僊、野長瀬晩花、村上華岳、榊原紫峰、入江波光ら、図画創作協会の創立メンバーが先頭に立って活躍した。明治44年の彼らの卒業制作、たとえば麦僊の《髪》、華岳の《二月の頃》、波光の《北野の裏の梅》などには、従来の京都の日本画にみられない新鮮な感受性が画面の隅々まで浸透している。彼らは、旧来の絵画の伝習のシステムから自由な、近代的教養を身につけた新しいタイプの画家たちだった。

後年自然詩人といわれた竹喬は、新南画的様式のうちに、濃密な近代的感情を表現しようとした。竹喬の自然が風景を主題としたのに対し、紫峰の自然は花鳥であった。1910年代の紫峰はこの伝統的主題を、自然の深い観察と洋画的リアリズム、音楽的階調によって表現した。やがて紫峰は中国宋元の花鳥画の世界に接近していく。

この頃、もっとも大胆な日本画革新の実験をすすめていたのは麦僊である。《島の女》は、日本画におけるタヒチのゴーギャンであった。麦僊はゴーギャンの装飾性やセザンヌの構成を学び、日本の自然や風俗、古典を様式化して、新しい日本画の世界をつくった。華岳は近世初期風俗画や浮世絵、あるいは中国古典の新解釈による《夜桜図》《列仙伝》、波光も《振袖火事》などを描いたが、ジオットやフラ・アンジェリコなど初期ルネッサンス絵画やブレークに関心をもち、1910年代初期の官能的表現から内面的な精神性を重視する作風に移っていった。

秦テルヲは異端的存在であった。秦はシャ・ノワールの一員だったが、麦僊らの作品本位に対し、作家本位の立場を主張して麦僊らと袂別した。芸術よりも人生に重きを置き、もっぱら個展によって作品を発表し、最下層の売春婦などをテーマに、デカダンの相貌をとりつつヒューマンな感情を表現した。秦は、大正2年に文展会場前の天幕張りのカフェ・タワーで、晩花と2人展を開いている。晩花もまた、反文展、反伝統の立場を明確にし、個展を通じて作品を世に問うた。竹久夢二の影響を受け、アールヌーボー風の洋画的な大胆な色彩表現によって、異国趣味や官能性を表現した。大正4年頃同人雑誌『黙鐘』『光茫』などを通じて華岳らと近かったようであるが、翌年頃から麦僊らと急速に接近し、国画創作協会の創立に加わった。大正7年第1回国展に出品された《初夏の流れ》は、日本画の洋画化を極限まですすめた作例であった。

大正7年1月20日に発表された国画創作協会の宣言書は、時代精神を見事に表現しているため、その一部を引用する。土田杏村の原文を、麦僊、竹喬、華岳、紫峰、晩花らの会員と鑑査顧問の栖鳳と中井宗太郎が検討して成ったものだという。

  生ルルモノハ芸術ナリ。機構ニヨッテ成ルニアラ
  ズ。此レヲ霊性ノ奥ニ深メテ人間ノ真実ヲ発揮シ、
  此レヲ感覚ノ彩ニ潜メテ生命ノ流動ニ透徹ス。実
  ニ芸術家ハ、自己ヲ深メテ漸クニ作品ヲ渾成シ、
  作品ヲ渾成シテ始メテ自己ノ生長ヲ見ルナリ。此
  ノ信念ニ生クルモノハ即チ我々ノ友タル可シ。我々
  ハ茲ニ国画創作協会ヲ創立シテ、諸種の施設ヲ為
  シ、同志の作品ヲ公表シテ些サカ日本画ノ発達ニ
  資スルトコロアラントス

平たくいえば、個性の尊重と自由な創作であるが、「霊性」「生命ノ流動」「自己ノ生長」「我々ノ友」などの用語は、『白樺』のタームと共鳴し、時代の情調を歌い上げている。この宣言はまた、芸術と人生、あるいは芸術と社会という対立項に対して、芸術の優位を示すものであった。

国展には、京都の新進画家たちが後続した。杉田勇次郎や稲垣仲静らの日本画のリアリズム、岡本神草や甲斐荘楠音らの仮借のない人間観察に基づくエロティシズム、粥川伸二の紅毛風エキゾティズム、酒井三良や小松均らの土俗的人間像など、この小さな短期間の同志的結合は実に創造的であった。


5 マイナー・アート

『夢二画集 春の巻」が刊行されたのは、明治42年12月竹久夢二26才の冬だった。この画集は、夢二がそれまで発表してきたコマ絵の版木を利用して単行本として出版されたものだったが、それが爆発的な売れ行きをみせ版を重ねた。翌43年の「夏の巻」も大ヒットし、春、夏、花、旅、秋、冬と出版された『夢二画集』は、ことごとくベストセラーとなって、夢二は時代の寵児となった。

「春の巻」を手にとった中学生の恩地孝四郎は、その感動を未知の夢二に書き送った。「私は何だかあなたがなつかしいのです。私はこの画集を得たのを心から嬉しく思っているのです」とその心情をのべ、「詩のような画という点に於て貴兄の価値を認め、懐かしく思ったのです」と書いた。恩地がいうように、「詩のような画」という夢二の作品の詩情と作品が喚起する「懐かしさ」という感情、それらが多くの人々の心情に訴え、共感を呼んだのであった。夢二の芸術は、日常生活のなかでだれもが経験する喜怒哀楽の感情、このきわめて親しい人間的感情に抒情的形式を与えたものといえるだろう。

夢二はマルチ・メディアの芸術家であった。日本画、油絵、水彩画、ペン画、木版画、絵本、カード、詩集、楽譜、ポスター、人形、千代紙、半襟、浴衣、絵日傘など制作の領域は広い。夢二が大正3年に日本橋呉服町に開いた港屋絵草紙店には、彼のデザインによる商品が陳列され、人気を集めた。夢二は、いわば生活の芸術化をめざしたといえるのであろうが、夢二自身はその画業を、正規の美術教育を受け、帝展などの出品する「本道」に対し「裏道」といった。しかし、恩地をはじめとして夢二の周辺には、「裏道」を求める若い芸術家たちが集まり、「夢二学校」などと呼んでいた。

明治45年11月に、夢二は京都岡崎の図書館で個展を開いた。ちょうど文展の京都展の会期中であり、文展の目の前でこれに対抗するかたちで開いたわけであるが、これは明らかに夢二の戦略であり、「裏道」のマイナー・アートの「本道」の大芸術に対する挑戦であった。会場に感想ノートを置いたり、こどものための部屋を設けるなど夢二らしい工夫が加えられ、青年層に反響を呼び、展覧会は大成功に終わった。また、夢二に共感する晩花や秦ら、京都の若い芸術家との親交もはじまり、影響を与えた。

大正3年9月、「夢二学校」の恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄の3人が詩と版画の雑誌『月映』を刊行した。彼らは夢二の芸術の甘美な外貌の底にある生の憂愁や倦怠に共感したが、ほどなく夢二式抒情から離脱する。彼らは『白樺』などを通じて、後期印象派やビアズレー、ブレーク、シュトック、ロートレック、フォーゲラー、ムンクなどを知り、木版画という内向的、抽象的なメディアの特性に魅せられていった。大正3年3月に日比谷美術館で開かれたシュトルム社主催の木版画展に、カンディンスキー、マルク、ペヒシュタイン、ココシュカらドイツ表現主義の作品や未来派、立体派などの作品が展示され、『月映』の画家たち、とくに恩地に強い影響を与えた。『月映』は大正4年11月までに7冊刊行し、田中の死によって終った。

わずか1年足らずの間に、無名の小さなグループのなかから、これほどの純度の高い作品が創られたのは希有のことである。それは恩地と藤森が、結核で死期の迫った田中とその生と死を共有することによって生じた現象であろう。詩集『月に吠える』を田中の画で飾ることを望んだ萩原朔太郎は、「思ふに恭吉氏の芸術は『傷める生命』そのもののやるせない絶叫であった。実に氏の芸術は語るといふのではなくして、殆ど『絶叫』に近いほどに張りつめた生命の苦喚の声であった。私は日本人の手に成ったあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことがない」と著書の「あとがき」でのべている。田中は彼自身を「傷める芽」と呼んだが、それは田中ひとりに向けられたものではなく、彼らの青春の自己規定でもあった。

「傷める芽」といえば、この時代に忘れることのでない「夭折の天才」がいる。村山槐多と関根正二である。これらの画家をマイナー・アートと呼ぶのは適当でないかも知れないが、少なくとも巨匠ではなく弱小であったことは間違いないから、ここでふれておく。

槐多は詩と絵に早熱の天才振りを発揮し、短い生涯にその生命感情を燃焼させて、全力疾走で駆け抜けた。田中の蝕まれた肉体というネガティブな、しかしコズミックな身体表現と対照的に、村山は原始的身体性とでもいうべきヴァイタルな生命感情を表出した。関根は貧窮のなかでプリミティヴな情念を絵画に昇華させ、その作品世界では、少年も少女も草花も生命の輝きを帯びて、イコンのように聖化されてみえる。「夭折」といい「天才」といい、1910年代の生命主義の思潮が生んだ芸術概念であり人間像である。1910年代を振り返ると、荻原守衛、中原悌二郎、田中恭吉、村山槐多、関根正二ら「夭折の天才」たちの死屍が点々と並び、その上に美しい花が咲く光景がみえる。


6 拡大する芸術

個性主義芸術の波は、「実用芸術」や「応用芸術」といわれる分野にも及んだ。工芸は職人的技術の伝承ではなく、新しい芸術として再生しようとした。バーナード・リーチは『白樺』や「フュウザン会」に加わり、版画や陶芸に熱中して、東西文化の融合をめざした。富本憲吉はイギリスでウィリアム・モリスの工芸運動の影響を受け、世界各地の工芸美術に普遍的な美を見いだす視点によって、1910年代の美術のさまざまな分野で多彩な活躍をした。早い時期にフランスに学んだ津田青楓は、新進洋画家としてだけではなく、図案や装幀など工芸部門でも啓蒙的役割を果たした。清水五条坂の京焼きの家に生まれた河合卯之助は、京都絵画専門学校で絵を学んで美学者の中井宗太郎に私淑し、反文展、反画壇を主張してカンディンスキーの版画を口絵に使ったりした同人雑誌『黙鐘』や『光茫』の編集を担当する、京都でもっとも前衛的な芸術家のひとりであった。藤井達吉も、村上華岳や野長瀬晩花らとともに、この雑誌の同人であった。工芸界に新しいタイプの個性的で近代的教養を身につけた芸術家が出現したのである。

生活の芸術化の一様相をさきに夢二の芸術に見たが、夢二と違ったかたちで、さらに徹底して実現したのは、文化学院創設者の西村伊作である。西村は、建築から室内装飾、家具、調度、食器、洋服、玩具にいたるまで、生活の細部にいたる一切をオリジナルなデザインによって、つまり一貫した芸術的理想のもとに統一しようとした。西村の最初の本格的住宅建築(大正4年)が、いまも和歌山県新宮市に西村記念館としてのこっている。西村と親交のあった富本にも、生活と芸術の理想を一致させる工芸への志向があり、リーチについてもそれが認められる。

工業社会に向かった1910年代の日本社会に、都市と公衆という新たな問題が浮上していた。呉服店は百貨店となり、「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチ・フレーズが示すように、百貨店は、単なる商業空間から「都市の文化装置」へ変身し、モダニズムの先端的機能を担った。その先兵となったのが三越であり、杉浦非水は明治44年から三越呉服店図案部主任として、広報誌やポスターなどグラフィック・デザインの分野で活躍した。杉浦のアール・ヌーボー様式のデザインは、1910年代の日本の「都市のイメージ」として、夢二の抒情画とともに、公衆の間に広まった。

当時もっとも有力なメディアは、印刷メディアであり、さまざまなレベルで公衆の間に拡大されようとしていた。『夢二画集』の爆発的ヒットという社会現象は、その一事例である。したがって本の装幀というものは、今日よりもはるかにその意味は大きかった。1910年代は、装幀美術の黄金時代であったといえる。橋口五葉の夏目漱石の著書のアール・ヌーボー風の装幀は有名であったが、1910年代には、夢二や青楓、富本、藤井らが、それぞれに個性的な装幀芸術の粋を示した。

写真史においても、1910年代は、写真が「応用美術」から「芸術写真」へ、すなわち独立した芸術表現の一ジャンルとして定立される重要な時期であった(飯沢耕太郎『芸術写真とその時代』筑摩書房 昭和61年)。

大正4年に東京美術学校に臨時写真科が設置された。写真業界の財政的支援に基づく変則的な形式ではあったが、写真が美術の一分野として公認されたことを示すものだった。第1回卒業生6人のなかに、1920年代に前衛的写真家として活躍する中山岩太がいた。

教育スタッフのひとりであり、『写真新報』の主筆として、アマチュア写真家たちにも大きな影響力をもった森芳太郎は、「芸術とは自己の表現である。箇性の発揮である。其表現の形式の何物たるかは問ふ所でない。唯其処に人を動かすに足るだけの魅力を具有して居なければならぬ。是が芸術である」と、その芸術観を明らかにした上で、次のような写真論を主張した(『写真新報』221号 大正5年4月)。

  西洋画家が画筆とパレットに依って箇性の存在を
  主張するのと同様に、写真家は写真機を媒体とし
  て自己を表現しつつあるのである。題材の選択の
  苦心、構図の研究、光の表現に対するデリケエト
  な努力、画家と写真家の間に、何の選ぶ所があら
  う。唯彼はカンバスの上に於てし、是は焦点硝子
  及至種板の上に於てするの差あるのみ。

こうして野島康三、平尾鮭爾、安井仲治らの写真が出現するのであった。また、野島は梅原龍三郎に洋画を学び、斎藤与里、富本意吉、中川一政、萬鐵五郎ら当時の前衛的な洋画家と交流し、大正8年に兜屋画堂という画廊を開設、村山槐多と関根正二の遺作展を開くなど、大正文化人の典型というべき存在であった。

1910年代は、文学者や芸術家が自己の内面に目を向け、自己主張した。それは文学や芸術とともに哲学の時代でもあった。当時流行したのはオイケン、ベルクソン、ニーチェ、ショーペンハウエルら機械論に対する生命諭の哲学であり、西田幾太郎の「善の研究」、朝永三十即「近世に於ける『我』の自覚史」、田辺元「科学概論」、阿部次郎「三太郎の日記」などの著作は、この時期である。阿部次郎、安部能成、小宮豊隆、和辻哲郎、中井宗太郎らケーベル門下の人々の、科学や技術のような「文明」に属するものよりも、文学や芸術、哲学などの「文化」を重んじる文化主義あるいは教養主義。真、善、美を最高の価値として、「文化」の超越性、至上性を基礎づけるリッケルトやビンデルバントら西南ドイツ学派の価値哲学の流行。世界文化のなかに日本文化を位置づける和辻、内藤湖南らの日本文化史研究。これらが大正の時代精神を特色づけるものであり、1910年代の美術はこういった時代の動向の一翼を担うものであった。

政治的に日本は、日露戦争勝利の後、明治43年に韓国併合、大正3年に第一次大戦に加わって戦勝国側に立ち、世界史的な時空でパワーゲームに参入する。経済的には重化学工業化をすすめ、その結果、都市の人口集中がはじまり、労働問題や公害問題がおこり、この国の社会構造が変わりはじめる。日比谷焼打ち事件、大逆事件、米騒動など社会不安は絶えない。というより深刻になっていったという方がいいだろう。やがて1920年代に関東大震災、世界恐慌などの破局的状況に逢着することになる。1910年代の日本美術は、国家の膨張とパラレルに「生の拡充」をめざし、この期間に「美術の近代」の正、負すべてのカードを手の内にそろえたといえよう。

(三重県立美術館長)


ページのトップへ戻る