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1910年代の彫刻 −ロダン受容の背景

毛利伊知郎

1907(明治40)年に開設された文展が、当時の美術界に大きな意味を持っていたことはいうまでもない。日本画、洋画と同様、彫刻の分野でも、美術団体や作家個人に文展が与えた影響はきわめて大きい。この年以降に起こるいくつかの出来事を考慮するならば、第1回文展が開催された1907年を一つの時代を画する年と見て、本展が主たる対象とする美術における1910年代が、この年から始まると考えて大きな誤りはないだろう。

 

まず、文展における彫刻の状況を概観してみよう。文展の彫刻は、絵画とはかなり異なる状況を示している。応募点数だけを見ても、第1回文展で日本画では600点以上、西洋画でも300点以上の応募作品があったのに対して、彫刻の応募点数はわずか44点という少なさであった。

 

彫刻の応募点数が100点を越えるのは1913年(大正2)の第7回展のことであったが、その時既に日本画の応募点数は1000点を超え、西洋画も800点を超える盛況ぶりであった。

 

単に応募点数を比較するだけでも、当時の彫刻がいかにきびしい状況にあったかは容易に推察することができよう。こうした文展の応募作品数に端的に現れた当時の彫刻界の状況は、もともとわが国に西洋的な意味での「彫刻」という概念がなかったことに起因する(1)。工部美術学校にイタリア人彫刻家ラグーザがまねかれ、西洋的な彫刻技法教授が始まったのは1876(明治9)年で、文展開設の30年ほど前のことであり、東京美術学校に塑造科が設置されたのは1899(明治32)年であった。明治政府が推し進めた銅像制作以外には、これといった仕事の場もなく、いまだ日本社会が近代的な彫刻や彫刻家について十分認識していなかった。そういう状況の中で文展はスタートしたのである。

 

文展開設当初の彫刻の審査員には、作家からは高村光雲、石川光明、竹内久一、長治守敬、白井雨山、新海竹太郎、新納忠之介、大熊氏廣が選ばれたが、江戸時代以来の木彫や牙彫出身者が目につく。これら審査員で第1回展に作品を出品したのは新海竹太郎一人であった。新海以外の一般人選者14名は、いずれも審査員たちよりも若い世代の作家たちであった。

 

第2回展以降もこの傾向に大きな変化はなく、第2回文展では前年に美術学校を卒業したばかりの朝倉文夫が二等賞を、美術学校在学中の建畠大夢も三等賞を受賞、同じく美術学校生北村西望も初入選を果たしている。そして、荻原守衛は、第2回文展に《文覚》を、第3回展に《北条虎吉肖像》を出品し、三等賞を受賞している。荻原守衛は、1910(明治43)年4月に32歳で早逝したが、この年開催の第4回展には《女》が遺作として出品されて三等賞を受賞した。また、第4回展以降、戸張弧雁や中原悌二郎、石井鶴三ら後に日本美術院で活躍する若い作家たちも出品するようになった。

 

最後に、展覧会を開催するに当たり、貴重な作品・資料をご出品いただきました美術館、図書館、所蔵家の方々、調査等にご協力いただきました皆様、ご協賛いただきました(財)岡田文化財団、その他関係各位にあつくお礼申し上げます。

 

ここで、この頃の文展彫刻のあり方について触れておこう。その際、第1回展から審査員中唯一の出品者でもあった新海竹太郎の仕事は、この頃日本の彫刻全般を考える上でも注目に価する。

 

新海竹太郎は、第1回展に彼の代表作として知られる《ゆあみ》を出品している。山形県の仏師の家に生まれた新海は、入隊した近衛騎兵大隊で馬の彫刻を始め、除隊後に渡仏、その後ベルリンに移って美術学校に入学、1902(明治35)年の帰国後は、太平洋画会を中心に活動していた。

 

《ゆあみ》は、両手を左肩にあげ、薄い手拭いを体の前に垂らし、首を少し傾けて立つ若い女性の像だが、明らかにここには西洋の古典的な人体プロポーションヘの意識が強く感じられる作品である。既に指摘されているように、アール・ヌーヴォーの影響が認められる制作当初の台座の存在を初めとして、新海の西洋彫刻理解が基礎にある作品といってもよいだろう。

 

新海は滞欧中にパリで開催されていたロダンの回顧展や万博を見学し、その他の美術館でも西洋彫刻に触れる機会は少なくなかったと思われる。彼自身の文章によれば、新海が意識していた西洋の彫刻は、ギリシア・ローマであり、ロダンの作品を見たときの第一印象は「変な彫刻もあるものだ位に思って」いたという。しかし二度目にロダンの作品を見た新海は、「ロダンの作品を解し得たような気がした」と述べ、さらに「ロダンの力といふものは実に非常なものである」と記している(2)

 

このように、新海はロダンに対して決して悪い印象を抱いていたわけではない。『白樺』「ロダン号」に掲載された文章を見る限り、むしろ新海は高く評価していたとさえ思えるのだが、新海の作品にロダンの影を見ることは不可能である。

 

《ゆあみ》において、新海の念頭にあったのはギリシア彫刻であったと思われる。また、《ゆあみ》はその後の新海作品の中で、むしろ特異な性格の像であった。文展出品作だけを見ても、第2回展以降、新海は自ら「浮世彫刻」と名付けた風俗的な彫刻の他、文学、宗教など広範な主題の作品を発表している。それらは技術的には高い完成度を示しているということはできても、その後の彫刻表現の新しい流れとはむしろ相容れない類の彫刻であったといわざるをえないだろう。

 

新海だけではなく、演出的なポーズのモデルを写した人物像、実社会にテーマを求めた風俗的な主題の像、文学的あるいは宗教的主題の彫刻、動物彫刻といった当時の文展入選作品の多くに共通するのは、写実的表現を基調としているということだろう。

 

こうした文展の中に荻原守衛や戸張弧雁、中原悌二郎、石井鶴三ら、ロダンを熱愛しながら自己の世界を築こうとした青年彫刻家たちは登場してきた。荻原守衛は1910(明治43)年に死去し、中原や戸張らは1915−16(大正4−5)年頃から、日本美術院彫刻部を主たる活動の場とするようになって、文展から離れることになる。

 

院展彫刻部には、平櫛田中、佐藤朝山、内藤伸のように後に木彫に専心し、日本東洋的な傾向を持つ作家も参画していたが、彼らも含めて院展彫刻部の若い作家たちに大きな影響を与えたのは、その頃盛んに紹介されるようになったロダンの作品であり、1910年代前半からロダンの感化を受けた若い作家たちの活動が、日本の彫刻界に一つの新しい流れを形成していくことになる。

 

現在から見ると極めて限られた情報しか得られなかったにもかかわらず、この時期にロダンがなぜ若き作家たちの理想となりえたのか、そこに1910年代の日本の彫刻界の問題は収斂していくといってもよいだろう。先ずロダンがわが国へ紹介されていくプロセスを点検しておこう(3)

 

ロダンの名がわが国へ初めて紹介されたのは、1890(明治23)年岡倉天心が東京美術学校で行った講義「泰西美術史」においてであったというが、本格的な紹介は1900年代以降のことであった。1900年のパリ万博のために渡仏した日本の美術関係者は、万博に際して開催されていたロダン展を目にし、1902(明治35)年には久米桂一郎執筆の「仏国現代の美術」を含む『千九百年巴里万国博覧会 臨時博覧会事務局報告』が発行され、この年の『美術新報』にもその抄録が掲載された(4)

 

1904(明治37)年は、その後のわが国の彫刻界に大きな位置を占める二人の作家−荻原守衛と高村光太郎にロダンの作品が強い刺激を与えた年となった。この年の春、パリで絵画修業に励んでいた荻原守衛は、サロンに出品されていた《考える人》を実見して、画家志望から彫刻家志望に転じ、また高村光太郎は、イギリスの美術雑誌『ステューディオ』(The Studio)2月号に掲載されていた《考える人》の写真を見て感動し、ロダンヘの想いをつのらせていった。

 

《考える人》から強い印象を受けたのは、この二人だけではない。同じ年の11月、パリでローランスに師事していた洋画家中村不折は、ロダンのアトリエを訪れ、《考える人》を目にして《傑作中の傑作》と称賛している(5)

 

また、年代は少し下るが、中村彝が伝えるところによると、1907(明治40)年かその翌年の春、画家を志して北海道から上京していた中原悌二郎は夜店のカタログの中から、《考える人》の写真を見出して深い感銘を受けていた(6)。また、この1907(明治40)年、荻原守衛はロダンを訪れ、翌年には高村光太郎、有島壬生馬がロダン邸を訪問している。

 

その後もロダンと日本の作家たちとの接触は急速に密度を増し、1910(明治43)年11月には雑誌『白樺』がロダン号として刊行され、翌年暮にはロダンから白樺同人に彫刻作品3点が贈られ、これらの彫刻は1912(明治45)年2月の白樺主催第4回展覧会で公開されるに至った。

 

このように1904年から1910年頃にかけて、ロダンの名は急速にわが国で知られるようになった。直接あるいは間接にロダンの作品に接した若い作家たちは、単にロダンの彫刻だけではなく、ロダンの人となり、人格に心酔傾倒していくことになる。

 

もっとも、この時期に《考える人》のようなロダンの本格的な彫刻作品を実見したのは、彫刻家では荻原守衛と高村光太郎の二人だけであった。中原悌二郎や戸張弧雁らにとっては、1912(明治45)年2月の白樺主催ロダン展がロダンの実作品に初めて触れた機会であったが、それまでは写真版等による間接的でかなり限られた情報しか入手できなかった。

 

それにもかかわらず画家志望であった若き中原悌二郎や戸張弧雁らは、ロダンを知って歓喜し彫刻家志望に転じていった。しかも、中原のロダン理解は、現在見てもかなり深くて的確である(7)。なぜロダンはそれほどの影響力を若い作家たちに持ち得たのか。それは、1910年代の彫刻に関わる大きな問題の一つだが、そこにはやはりこの頃日本に熱烈に受け入れられたゴッホの場合と相似た状況があるのかもしれない(8)

 

ここで、ロダン彫刻が「生」や「自然」という言葉で象徴され、ロダンの人格をも含めた一つの理想となり得た背景を、近年の大正思想史研究の成果を援用しながら検討してみよう。

 

鈴木貞美氏を中心に行われている「大正生命主義」研究によると、わが国が近代国家の基礎を固め、周辺諸地域への進出を開始した1910年代を中心とする大正期に「生命」という言葉が多用され、「生命」を世界観の基本原理とする「生命主義」的な傾向が思想や文化の各分野で見られるという(9)

 

鈴木氏によれば、たとえば中村彝、中原悌二郎、相馬黒光らも参加し、多くの知識人に流行していた岡田虎二郎主宰の「岡田式静座法」という独自の腹式呼吸による健康法の流行も、生命や身体への関心が高まっていた当時の社会状況を反映するものであるという。

 

明治政府が推進してきた国家主義的政策に対するアンチテーゼとして、様々な意味における「生命」の重視は、この時期の文学、宗教、思想など多方面に現れているというが、こうした文脈に立つと、ロダンが当時の若い作家たちに大きな影響力を与えたことも理解しやすい。

 

この時期ロダンから影響を受けたのは、彫刻家だけではなかった。おそらく『白樺』や『現代の洋画』などのロダン特集号や高村光太郎翻訳になる『ロダンの言葉』などを通じての間接的な情報によってのことと思われるが、村山槐多や村上華岳といった画家たちも、ロダンに関する肯定的な言説を残している(10)

 

さらに、当時の文学者たちにもロダンは強い影を落としていた。1906(明治39)年アメリカ留学の帰路、ヨーロッパに立ち寄った有島武郎は、パリで《考える人》《青鋼時代》などロダンの作品に接し、帰国後『白樺』「ロダン号」に「叛逆者」という一文を寄せるなど、ロダンに対する深い理解を示している。さらに、斎藤茂吉も1920(大正9)年4月から『アララギ』に発表した「短歌に於ける写生の説」において正岡子規の写生とロダンと「内面の真」とを同種のものとして扱うなど、ロダンの存在は造形世界にとどまらず、文学者たち、さらには平塚らいてうのような女性運動家にも影を落としているのである(11)

 

このように、1910年代における美術の世界にとどまらない広い範囲でのロダンの深い影響を見てくると、ロダンの作品写真や荻原守衛、高村光太郎らのロダン紹介を通じて中原悌二郎や戸張弧雁が彫刻家志望へと転じていった経緯は決して突出したものでなかったことが了解される。人生の進路を変えたほどの中原や戸張らの熱烈なロダン思慕は、程度の差はあっても当時の文化人や作家たちのそれと共通するものであった。

 

そうした状況があったとすれば、前述した文展審査員新海竹太郎のロダンに対する肯定的な言葉や、さらに実作品を見たことのない朝倉文夫が『白樺』に寄せた「只手強い一種の〈カ〉から引きつけられるよふな、而して其力を透して美と云ふものがうかゞへる」というロダン評価も、『白樺』に掲載されることを意識した上でのリップサービスだけともいいきれないであろう。

 

当時のロダン紹介記事にしばしば見られるように、ロダンはミケランジェロに匹敵する天才として、また芸術家の理想像としてわが国へ紹介された。しかも、ロダン作品の特徴としてよく使われる「力強さ」、「生命感」といった言葉が、彫刻表現の問題だけではなく、当時の日本の文化や思想全体をおおう生命主義的傾向のキーワードであったならば、1910年代におけるロダンの熱烈な受容も、必然的な現象と思われるのである。

 

(三重県立美術館学芸課長)

 

註記

1.文展開設当時の彫刻界の状況については、以下の文献を参照

  『日展史 1 文展編一』1980年(社)日展

 

  『文展の名作 1907−1918』1990年 東京国立近代美術館

 

  田中修二『近代日本最初の彫刻家』1994年 吉川弘文館

 

 

 

2.新海竹太郎「ロダン様」『白樺』第1巻第8号 1910(明治43)年11月

 

  また、新海については次の文献を参照。

 

  中村傳三郎「新海竹太郎と日本彫刻に於ける印象主義」『明治の彫塑』233−250頁 1991年 文彩社

 

  前掲、田中修二著書、247−258頁

 

 

 

3.わが国へのロダンの紹介と受容については、主に以下を参照。

 

  高階秀爾「『白樺』と近代美術」『季刊芸術』21,22,25号 1972−73年(『日本近代の美意識』1993年 青土社)

 

  東珠樹『近代彫刻 生命の造形−ロダニズムの青春』1985年 美術公論社

 

  池上忠治「ロダンと日本」『ロダン展1985−86』1985年 読売新聞社、現代彫刻センター

 

  前川誠郎「日本とロダン」『ロダン「地獄の門」展』1989年 国立西洋美術館

 

  匠秀夫「日本とロダン−新資料、ロダン美術館所蔵書簡を主として−」 

 

  酒井哲朗「日本におけるロダン−その受容の特色について−」

 

  『生誕150年 ロダン展』1990年 読売新聞社、美術館連絡協議会、現代彫刻センター

 

 

 

4.ロダンに関する部分は、久米桂一郎「彿國現代の美術(八)」『美術新報』第1巻第13号 1902(明治35)年9月

 

 

 

5.中村不折「ロダン先生を訪ふ」『画界浸語』1906(明治39)年

 

 

 

6.中村彝「中原悌二郎君を憶ふ」『藝術の無限感』(新装版)66−67頁 1977年 中央公論美術出版

 

 

 

7.中原悌二郎「ロダンの展覧会を見て」「ロダンの彫刻に現はれたる思想」『彫刻の生命』(新装版)11−18頁 1978年 中央公論美術出版

 

 

 

8.こうした問題については、次の文献で触れられている。

 

  寺口淳治「生のゆくへ」『大正のまなざし−若き保田龍門とその時代−』1994年 和歌山県立近代美術館

 

 

 

9.鈴木貞美編『大正生命主義と現代』(1995年 河出書房新社)を初めとする一連の研究、本カタログ参考文献  の頁を参照。

 

 

 

10.村上華岳「日本画の絵具」『画論』(新装版)22−23頁 1977年 中央公論美術出版

 

  村山槐多「人の世界」『村山槐多全集』(増補版)293頁 1993年 弥生書房

 

 

 

11.中島国彦「ロダン・有島・茂吉」『現代文学にみる感受性』544−568頁1995年 筑摩書房

 

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