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曾我蕭白のこと

井上隆邦


5000点近い当館の所蔵品の中で独特な光芒を放っているのが、江戸期の画家、曾我蕭白の作品である。”咆哮”と言った形容詞が如何にも似つかわしい、自己主張の激しい画家である。

イギリスの歴史学者W.ディーキンによれば、人間の生き方には、三つのタイプがあるという。一つ目は、時代の流れに乗って生きるタイプ。二番目は時代の流れに逆行して生きるタイプ。三番目は、時代の流れに乗って生きながらも、”逆行”する素振りをするタイプだという。厄介なのは、二番目と三番目のタイプで、両者の区別は簡単ではない。歴史を振り返って初めて判断が下せるという。

上述の分類に従えば、蕭白はさしずめ2番目のタイプに属する画家ではないだろうか。

蕭白の生きた江戸中期は、応挙や大雅、芦雪、若冲など錚々たる逸材がアートシーンを賑わしたが、蕭白に関しては、その過激な作風、或いはその特異な言動故、当時の画壇での評価は必ずしも一定していない。無論、当時でも、そしてその後も、蕭白のファンは僅かに存在したが、その名が人口に膾炙することはなかったと聞く。蕭白が本格的に注目されるようになったのは、戦後も70年代以降のことだから没後200年以上も後の話である。

評価の先鞭を付けたのは、辻惟雄、狩野博幸、山口泰弘、マニー・ヒックマンといった方々であり、蕭白に関する歴史的資料が極めて少ない中、各氏の地道な調査研究で蕭白が”発掘”されたといってもよい。また、辻氏の調査によって京都に菩提寺が発見されたことで蕭白研究が大きく進展したことは言うまでもない。一方、蕭白を語る上で忘れてはならないのは、明治のはじめに日本に滞在したアメリカ人富豪、ビゲローの存在であろう。古美術の愛好家であったビゲローは当時、蕭白の作品を積極的に収集しており、こうした作品は現在、ボストン美術館に所蔵されている。ビゲローのお陰で蕭白の作品は散逸を免れたと言ってもよい。

蕭白の作品には、中国の説話などを下敷きにしたと思われる作品が少なくない。仙人や孔子、寒山拾得など様々な人物が登場する。その描写は時としてグロテスクであり、奇怪だが、その反面、愛嬌すら感じさせることがある。作品の多くは水墨画だが、彩色が施された作品もある。掲出した”雪山童子図”は、そうした作品の一つで、三重・松坂の継松寺が所蔵している。色遣いが脳裏を強く刺激する作品だ。

蕭白の出自に関してはこの画家についてのエピソードが伊勢地方に多いことから以前は伊勢出身説を唱える人がいた。しかし蕭白の菩提寺が京都に発見されて以降、京都出身説が有力となっている。ただ蕭白は少なくとも2回にわたって、それもかなり長期間伊勢地方を遊歴している。松坂周辺のお寺や旧家に蕭白が描いた作品が少なからず残っていたことはその証しでもある。木綿の生産と販売で殷賑を極めた当時の松坂には各地から歌人や画家が訪れている。蕭白もその一人だったのではないだろうか。伊勢地方と蕭白の関係については当館学芸員の毛利伊知郎さんや道田美貴さんが調査を進めているが、現在までのところ、裏付けとなる資料が乏しく全容を解明するには至ってない。両学芸員の今後の調査に期待したい。

現在、当館には44面の旧永島家の襖絵を含め17件の蕭白作品が所蔵されている。また、作品の中には劣化が激しいものもあり、六年計画で目下修復を進めて居る。いずれ完了の暁には、ボストン美術館あたりの協力を得て、蕭白の全貌を国際社会に提示出来ないものかと願っている。歴史の中に埋もれていた蕭白を、国際社会はどのように評価するのであろうか。


(美術館連絡協議会ニュース 2007年1月号)

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