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美術館 > 刊行物 > 学芸室だより > 新聞連載 > 『神は細部に宿る』 井上隆邦 学芸室だより

“神は細部に宿る”

井上隆邦


操作しやすく、性能が良く、安全で、価格が適切なこと。新車購入に当たっての至極もっともな選定条件だが、こうした条件を備えていれば、新車が売れるとは限らない。少し前のことだが、日産マーチがよく売れた。無論、性能の良い車だが、消費者の関心を引きつけたのは寧ろ、そのデザインと色調であったという。町を走っている車の色調はマーチが登場する以前と以後とではだいぶ変わった。“地味系”で、くすんだ色調の車が主流の中、マーチが登場したものだから人々の注目を集めたのも頷ける。ちょっとラメの入った感じの、鮮やかな色調は、それまでの“常識”を覆した点で画期的だった。若い女性者の心を捉えたのではなかろうか。大いに売れたという。当時のフランス人CEOの旗振りもさる事ながら、こうした色調を生み出した日産デザインチームのセンスが光る。

今日上場企業には企業内デザイナーが500人位居ると言われている。製造メーカーであれば、大概は何人かは抱えているそうだ。また、こうしたデザイナーの役割も少しずつ変化している。昔は単に商品をデザインするだけだったが、最近は商品開発や販売戦略など企業の中枢部門の仕事にも携わる機会が増えている。まさにデザインや色調が売り上げを大きく左右する時代が到来したといっても良い。

自治体によって設立された美術館は全国各地に現在、200館前後存在する。こうした美術館では当然のことながら年間パンフレットや定期刊行物を発行しているが、そのデザインや色彩感覚となると、素晴らしいものばかりとは限らない。ぴかりと光るものもあるが、首を傾げたくなるものにも遭遇する。なぜだろうか。デザイナーの選定がしっかりと行われていれば、良いデザインや優れた色彩感覚の刊行物が出来る筈なのだが。

子細に調べて見ると、どうやら印刷物を作成する際の、公的機関独特の予算編成の仕方にその原因があるらしい。といっても、よほど内情に明るくなければ、一般の人にはピンと来ない。

美術館といえども公的な存在なので、その予算は、美術館の帰属する自治体の縛りを受ける。ここまでは何ら問題にすべき点はない。しかし問題はその先だ。自治体の中には、予算編成に際して、“デザイン”という仕事と、“印刷”という仕事を区別せず、或は区別の存在すら意識せずに予算編成してしまうケースがあるという。つまり、二つの仕事は本来、性格が全く異なるにも拘わらず、“印刷屋”さんであれば、両方ともこなせるという思い込みが最大の原因だ。良いデザインを期待するのであれば、その道のプロに頼むのが筋であろう。また当然のことながら、そのための予算措置も必要不可だ。

30年以上も前の日本であれば、当時の文化状況からして“印刷屋”さん任せも通用したかもしれない。また今でも、新聞の折り込み広告を作るのであれば、“印刷屋”さんでも良かろう。しかし、“美の殿堂”である筈の美術館で、くだんの様な状況が続いているとしたら、嘆かわしい。こうした状況が続けば、センスの面で企業を始めとする民間との“格差”は広がるばかりだ。無論、“見栄えのしない”パンフレットや定期刊行物が出回れば、人々の美術館への関心は削がれ、足は遠のくかもしれない。

“神は細部に宿る”。20世紀のドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエが好んで使ったことから有名になった表現だ。前述の“デザイン”問題も、予算編成に際してキチンと“細部”を詰めておけば、美の殿堂である美術館にも“女神が宿り”、一層輝きを増すのではないだろうか。そうした時代はとっくに来ている。


2008年9月1日

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