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偕楽公園と津倶楽部

井上隆邦


時は、今から120年程前の明治18年。津市偕楽公園内の社交場、津倶楽部で盛大な晩餐会(ソワレ)が開催された。この晩餐会が三重県内で最初に開催された洋式晩餐会で有ることは余り知られていない。

晩餐会では、洋風の正装が要求されたが、100名を超える出席者のうち、キチンとした正装で登場したのは、石井県令(当時の知事職)と銀行の支配人だけだったという。残りの人は、服装選びにさぞかし頭を悩ましたことであろう。また、当時の伊勢新聞によると、晩餐会では最後にコーヒーが供されたとのこと。コーヒーも文明開化の飲み物として珍重されたに違いない。

津倶楽部が特に力を入れたのが、“美味い洋食”の提供で、これは倶楽部創設に深く関わった石井県令の意向と推察される。倶楽部が開設された当初は、東京から料理人を呼び寄せる程だったという。

津倶楽部で洋食を食した人の中には福沢諭吉や渋沢栄一といった明治の偉人もいた。また、当時の津中学(現在の津高校)の図画の教師だった藤島武ニも津倶楽部を気に入った一人だった。

藤島は3年間の津滞在の後、東京美術学校(現在の東京芸大)に移り、晩年は日本洋画界の重鎮として活躍するのだが、津時代は一介の図画の教師に過ぎなかった。将来への野望を持ちながらも、芸術を語る仲間もなく、悶々とした日々を過ごしていたという。

そうした中、彼の心の支えだったのが、東京で活躍していた先輩格の画家仲間、黒田清輝や久米桂一郎との交流だった。彼等が来津した折には、わざわざ津倶楽部に招待し、一夕歓談している。黒田は津倶楽部の洋食を相当気に入ったらしく、「ここの西洋料理は美味い、日本風だから非常に美味い」と絶賛している。後日、藤島は津倶楽部での楽しい一時を嬉しそうに回想している。

全盛時代の津倶楽部は、和洋折衷の建物で、床は板張り。晩餐会やパーティーの為の大広間の他、玉突きなども出来る娯楽室があったという。椅子やテーブルは無論のこと、銀製のナイフやフォークなども揃っていたというから本格的だ。しかし、この社交場も先の大戦で灰燼に帰し、今はその跡形もない。津倶楽部はもはや、歴史資料の中にしか存在しない。

偕楽公園と津倶楽部。そして、そこを訪れた歴史上の人々。歴史を紐解くと、偕楽公園の、華やかな一時代が垣間見える。こうした歴史を振り返りつつ、偕楽公園を散策するのも一興ではないだろうか。お試しあれ。


(中日新聞、みえ随想2007年5月27日掲載)

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