「鮑の片思い」どう通訳?
井上隆邦
過日、海の博物館の石原義剛館長から「目で見る、鳥羽・志摩の海女」と言うご本をちょうだいした。
本で初めて知ったのだが、「磯の鮑の片思い」という表現は千年以上も前から存在していたらしい。「伊勢の海人(海女)は朝な夕な海に潜り、鮑を採るという。かの鮑のように私の恋は片思い」(口語訳)という歌が万葉集に掲載されているというから、まず間違いないであろう。
鮑は学術的には巻き貝の仲間だが、一見したところ、「一枚貝」に思える。くだんの表現は「一枚貝」であることの欠落感、喪失感を巧みに表現していて可笑しい。寒い冬の海の中、潮の流れに抗いつつ、岩場でじっと「我慢の子」を決め込んでいる鮑の姿はどことなく孤独だ。
三十年以上も前のことだが、当時の園田直外務大臣が、日本訪問中の要人と会談した折、大臣の口から、「鮑の片思い」という言葉が飛び出したとのこと。二国間関係が上手く行かず、お互いの思いを共有できないジレンマをこの表現に託したのであろう。如何にも党人政治家らしい発言である。
気にかかるのは会談に同席した通訳のことだ。どのように通訳したのであろうか。字面通りに訳しても真意は伝わらない。当然意訳したであろうが、通訳の困った表情が目に浮かぶ。
昨今、鮑と云えば食べることに関心が向きがちだが、その文化史を紐解くと結構面白い話に出会う。またこうした話が契機となって、頭の「」引き出し」に眠っていた昔話が突然浮上したりする。
頂いたご本は判りやすく、人の想像力を刺激する一冊だった。
(朝日新聞・三重版、カフェ日和 2010年8月28日掲載)