100年後の“古典”
井上隆邦
今でこそ、エッフェル塔は世界中の人々を魅了しているが、この塔が出現した19世紀末には、フランス国内で非難轟々の嵐が巻き起こったという。
反対の急先鋒だったのは、かの有名なモーパッサン先生で、「エッフェル塔のレストランの中にいる時が一番心穏やかだ。なぜなら、あの“異物”を見なくとも済むから」と毒づき、今でも語り草になっている。パリの美しい町並みが、巨大な“構築物”の出現で台無しになることを恐れたのであろう。
こうした反対論にも拘らずエッフェル塔が今日まで生き延びたところをみると、時代を先取りする芸術作品だったに違いない。素材としての“鉄鋼”と、エッフェル塔の“垂直に伸びた”モチーフは、その後の近代文明を象徴しており、今や“古典”といっても良い作品だ。
どの芸術作品が後世に残るのか__。制作時に見極めることは殆ど不可能だ。ただ、どの時代にあっても、作家が新しい芸術表現を求めて呻吟し、格闘したからこそ、後世の我々がその果実を享受しているのも事実だ。裏返を返せば、今という時代の芸術表現を大切にし、充実させない限り、100年後のアート・シーンは不毛になりかねない。
世界の芸術表現は20世紀に入ってから大きな変遷を重ねてきた。“具象”から“抽象”へ、そして今では“現代美術”がその最先端を行く。“現代美術”は現在、国際的な広がりを見せており、作家の裾野も広い。ここ10年位は韓国、中国といった国々の躍進もめざましい。「“現代美術”は難解だ、訳が判らない」と敬遠せず、是非、その面白さを味わい、支援したいものだ。コレクターが増えれば、なおさら結構なことだ。
100年後には、ひょっとすると、今の“現代美術”から“古典”が誕生し、人々が絶賛しているかもしれない。気の遠くなる話かもしれないが、100年単位で考えなければならない事もある。
(MIE Topics 2007年4月号掲載)