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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 2000 > 常設展示2000年度第1期(2000.3-6)

常設展示2000年度【第1期展示】2000年3月22日-2000年6月25日

第1室:19-20世紀西洋の美術より

作家名 生没年 作品名 制作年 材料
バルトロメー・エステバン・ムリーリョ (1617ー1682) アレクサンドリアの聖カタリナ 1645-50 油彩・キャンヴァス
スルバラン派の画家   聖ロクス 17世紀 油彩・キャンヴァス
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828) 旅団長アルベルト・フォラステール c.1804 油彩・キャンヴァス
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828) (1746-1828) 戦争の惨禍 c.1810-20 銅版画・紙
ウィリアム・ブレイク (1757-1827) ヨブ記 1825 銅版画・紙
オノレ・ドーミエ (1808-1879) 古代史 1841-43 石版画・紙
オーギュスト・ルノワール (1844ー1919) 青い服を着た若い女 1876 油彩・キャンヴァス
クロード・モネ (1840ー1926) ラ・ロシュブロンドの村 1889 油彩・キャンヴァス
アルフォンス・ミュシャ (1860-1939) ジョブ 1898 石版画・紙
オディロン・ルドン (1840ー1916)  アレゴリー 1905 油彩・キャンヴァス
アリスティード・マイヨール (1861-1944) 『ダフニスとクロエ』挿絵 1937 木版画・紙
サルバドール・ダリ (1904-1989) パッラーディオのタリア柱廊 1937-38 油彩・キャンヴァス
ラウル・デュフィ (1877-1953) 黒い貨物船と虹 c.1949 油彩・キャンヴァス
ジョルジュ・ブラック (1882-1963) 葉・色彩・光  1953 石版画・紙
リン・チャドウィック (1914ー  ) 三角 Ⅲ 1961 ブロンス
アルフォンソ・サンチェス・ルビオ (1959- ) エンジョイ・ゴルゴダ 1989 ミクスドメディア・布
アルフォンソ・サンチェス・ルビオ (1959- ) 無題 1991 ミクスドメディア・布
アルフォンソ・サンチェス・ルビオ (1959- ) 苦み 1989 ミクスドメディア・布
アルフォンソ・サンチェス・ルビオ (1959- ) DC Ⅲ 1990 ミクスドメディア・紙
ディート・ザイラー (1939- ) 無題 1991 コラージュ紙

 軽快な線が持ち味のラウル・デュフィは、色彩に関しても特筆に値する実践をおこなっている。彼の軽快な筆致を理論的に支えていたのが、化学者ジャック・マロジェによる絵画技法の研究であった。マロジェは溶き油やニスなど、油絵に使う材質を、ルーベンスなどいにしえの画家がどのように扱っていたかを究明し、その断絶していた秘伝の技術をデュフィに説明し、それをデュフィが実践していた。マロジェからデュフィに宛てた手紙の抜粋が1988年日本で開催されたデュフィ展図録で掲載されており、そのなかで二人が「色彩」について似通った結論に達していたことがわかる。その結論というのが、「色彩効果を望めば望むほど、できるだけそれを濫用しないこと」、「暖色と寒色、不透明と透明のコントラストをつけること」、「灰色、黒及び白といった無彩色の色を生かすこと」となっている。これは、デュフィの絵画を鑑賞する上で、きわめて重要なヒントとなっているに違いない。手始めにデュフィーの画集をめくって、「寒色と暖色」の使い方を注意深く観察してみると、寒色である青それに一部の紫や黄色と、暖色である赤やオレンジが、一見大胆で感覚的に塗られたかのごとく装いつつも、実際は計算づくめで画面上に振り分けられているのがわかる。そして、寒色と暖色のコントラストが強くなりすぎる部分には、緑色などの中間色がはさみ込まれ、コントラストを抑える役目を果たしている。一方、灰色や黒及び白といった「無彩色」の色を、デュフィはどのように生かしているかを観察してみると、黒は主にアウトライ・刀i輪郭線)で生かされ、灰色は単独で用いられることは少ないが彩度の高い絵具に混ぜ込み、その調節を効果的に行っている。そして特に注目したいのがデュフィの白である。彼は白色の油絵具を塗ることによる「白」と、キャンヴァスの地をそのまま残した「白」とを意図的に使い分けており、その絶妙なバランスがデュフィの持ち味のひとつとなっている。

 今回展示している《黒い貨物船と虹》は、無彩色である黒が圧倒的な領域を占めており、デュフィの作品では特異な位置にあるように見える。港町ル・アーヴルに生まれ、青色にたいして特別な思い入れがあった彼が、晩年近くの1945年からはじめた<黒の貨物船>シリーズで、どのような心境の変化があったのだろうか。この「黒」は、まもなく彼を襲うことになる死の予感とも受け取れるが、驚いたことに、この時期の一連の作品でみられる、彼にとっての「黒」は、単に暗闇をあらわすものではなく、絶対的な輝きを一方で表しているといわれる。本当にそうだとすれば、溢れんばかりの色彩を追い続けた彼は、われわれの理解をはるかに越えた高い次元に到達したに違いない。

 色彩を大胆で情熱的に用いだしたのは19世紀の前半、ロマン主義の画家たち以降のことであろう。だが、ドラクロワらの作品にみられる情熱的な「赤」などは、たしかに特質のひとつではあるが、本質的な結果に行き着くための表現の選択肢の一部分にすぎなかった。色彩が「色彩」として重要視され、その可能性を引き出したのは、やはりデュフィを含めた20世紀の画家たちであろう。

(田中善明)

 

第2室:横山操の瀟湘八景

作家名 生没年 作品名 制作年 材料
横山  操 (1920-1973) 瀟湘八景 1963 紙本墨画
平沙落雁
遠浦帰帆
山市晴嵐
江天暮雪
洞庭秋月
瀟湘夜雨
烟寺晩鐘
漁村夕照
八木 一夫 (1918-1979) みんなさかさま 1968 陶磁器
ラモーン・デ・ソト (1942- ) 通行の階段 1997

 中国で成立した画題「瀟湘八景」の日本における変遷は、複雑であり簡単にまとめられるものではないが、非常に興味深いものである。中国湖南省の北を流れる湘水に瀟水が合流してそそぐ洞庭湖は、ふるくから景勝地として詩人や画家に詠まれ、描かれた。そして、八景をはじめてひとつの画題として描いたのは、北宋末の宋迪であると指摘されている。

 さて、室町時代に日本に輸入された牧谿、玉澗による瀟湘八景が、当時から非常に珍重されたらしいことは、諸資料から窺える。現在もなおあまりに有名なこれらの作品が、あとにつづく多くの画家たちに多大な影響を与えたことはしばしば指摘されており、今回常設展示室第2室に展示されている《瀟湘八景》の作者、横山操もその例外ではない。横山が《瀟湘八景》を制作する前年、伝牧谿筆《瀟湘八景》のうち《漁村夕照》を所蔵する根津美術館で「瀟湘八景展」が開催されており、横山がこれに刺激された可能性は高い。

 もちろん1963年の横山を待つまでもなく、室町時代以降、瀟湘八景を手がけた画家は枚挙にいとまがない。中世以降の水墨山水図に出会ったときに、まず八景を探してしまう人も少なくないほどだ。それほどまでに、八景は好まれ、求められ、そして描かれた。しかし、牧谿や玉澗が大きな影響を与えたとはいえ、瀟湘八景は何の変化もなく、ただ継承され続けたわけではない。ときには瀟湘八景の「山市晴嵐」「漁村夕照」「遠浦帰帆」「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「洞庭秋月」「平沙落雁」「江天暮雪」という8つの要素は、それぞれが水墨山水図を構成するひとつの点景として描かれた。また、ときには?風や襖という大画面に、日本の大画面構成の常套手段であった、右から左へと季節や時間を展開させる手法で、山市晴嵐を右隻右端に、江天暮雪を左隻左端に配し、八景すべて・ミとつの画面に描くことも行われた。当然のことながら、瀟湘八景すべての要素をひとつの大画面に収めようとすれば、複数の場面を同居させる方法をとらざるを得ない。ここにきて、時間や空間の統一性がなく、洞庭湖周辺の個別の理想的な風景としてとらえられていた8つの要素が、ひとつのまとまりある空間として再構成されてゆく。これらは、画巻に各場面を独立させて描いた牧谿、玉澗の瀟湘八景と根本的に異なるものであった。

 南宋末の牧谿・玉澗から、明治以降では横山が尊敬していた横山大観が描いた瀟湘八景にいたるまで、すべての瀟湘八景を経験し得た横山は、横長の大きな8つの画面に、瀟湘八景の8つの要素を独立させて描くことを選んだ。それらは、銀座松屋で開催された「横山操?風絵展」に出品された。*墨が生み出す多様な表情に加え、横山の瀟湘八景には、強い膠をもちいたり、ペインティングナイフをもちいたり、あるいはたらしこみをもちいたり、さらには裏打ちの紙の継ぎ目を透かしてみえるように配慮したりと実にさまざまな水墨画研究のあとが窺える。横長の大きな画面にダイナミックに描き出される《瀟湘八景》は、いかにも現代的であり、伝統的瀟湘八景を見慣れたひとびとに新鮮な驚きを与えたことだろう。

 伝統的画題に現代的な水墨の技法をもちいて、新しい水墨の技法を追求することに横山の目的はあったのではないか、ということを、横山の選択した画題のみならず、画面の形式からも窺い知ることができるのではないだろうか。横山が見据えていたものが、一方では日本において瀟湘八景が描きはじめられた頃から他に類するもののないほどの評価を得てきた牧谿や玉澗筆の瀟湘八景であり、もう一方では不安をかかえた日本画の進むべき道であったことを、画題、技法、画面形式のすべてが語っている。

(佐藤美貴)

 

第3室:三重の作家-浅野弥衛と伊藤利彦

作家名 生没年 作品名 制作年 材料
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1975 油彩・キャンヴァス
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1975 油彩・キャンヴァス
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1975 油彩・キャンヴァス
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1979 油彩・キャンヴァス
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1982 鉛筆・紙
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1982 鉛筆・紙
浅野 弥衛 (1914-1996) 作品 1984 鉛筆・紙
浅野 弥衛 (1914-1996) 無題 1985 油彩・キャンヴァス
浅野 弥衛 (1914-1996) 無題 1986 木、オイルスティック
伊藤 利彦 (1928- ) 死衣(1) 1963 油彩、ガラス用パテ・キャンヴァス
伊藤 利彦 (1928- ) 幡 D 1964 油彩、塗装用パテ・キャンヴァス
伊藤 利彦 (1928- ) CUSTOM 6 1966 油彩、ガラス用パテ、エナメル・キャンヴァス
伊藤 利彦 (1928- ) 酸化・音・10 1969 油彩、銀の塗料・キャンヴァス
伊藤 利彦 (1928-  ) 視点・部屋 1984 木、ラッカー・コラージュ
伊藤 利彦 (1928- ) 窓の中の箱 B 1987 木、ラッカー・コラージュ
伊藤 利彦 (1928- ) 箱の中の空 No.7 1993 木、ラッカー、ひも・コラージュ

 軍務で中国他に駐留した時期をのぞけば、その一生を鈴鹿で暮らした浅野弥衛は、残された作品をざっと見わたしたかぎりでは、その作風を大きく変えることはなかったかのように映る;色彩を用いることが皆無ではないにせよ、その重点はあくまで、白と黒による表現におかれていること;面的な処理が皆無ではないにせよ、地を刻む線が多く主役をつとめること;具象的なイメージの登場が皆無ではないにせよ、抽象的な画面が大半をなすこと。もとより、1970年代前半あたりまでの画面にたたえられていた切迫感が、その頃を境に、より安定したものに移行するといった、ゆるやかな変化を認められないわけではない。また、白と黒に限定された中での線の走行といっても、何に縛られることもなく自由に走りまわるかのごとき作品もあれば、規則的な配列に則ったものもある。他方今回展示される1982年の紙の作品二点は、一見奔放に見えながら、いくつかの単位を組みあわせることで成立している。

 ここで、無理に変化なり一貫性をたぐりよせる必要はあるまい。ただ、画面が生成する磁場として、線の走り方とともに、線と地との関係をあげることはできるかもしれない。それはたとえば、鉛筆と油彩のちがいはあるにせよ、記号状のモティーフが規則正しくならぶ84年の紙の作品と、同じような記号の配列がしかし、かすれてしまっている85年の油彩とのずれから読みとることができよう。即物的な意味でも表現の上でも、地の上に線がのるのではなく、地の厚み・ひろがりの内に、線がくるみこまれているのだ。線の表情がどれだけ変化しても、地は、それを許容するだけの厚みとひろがりをはらんでおり、そんな地との、距離、圧力、角度、速度といったさまざまな関係によって、線はまた変化した、といえるだろうか。

 京都市立美術専門学校に学んだ時期をのぞけば、現在にいたるまで四日市で暮らしている伊藤利彦は、その作風を大きく変転させてきた。1960年代前半までの暗澹たる表情をたたえた画面は、徐々に整理され、観念的な作業の時期を経て、70年代末以降、晴朗な白に浸されたレリーフにいたる。伊藤と浅野は長年にわたって親交を結んできたが、ともに色彩があまり重視されない点をおけば、その作風の変遷は一見、きわめて対照的だ。もっともここでも、無理に一貫性なり変化をたぐりよせる必要も、浅野との共通項を設定する必要もあるまい。

 ところで、『死衣(1)』や『幡 D』の暗鬱な表情が、大ぶりな点の集積から生まれていることに注意してみよう。腫れものにさわるかのような、見かけ上の遅さをもって画布の表面に置かれていった点が、しかし堆積の末、コントロール不能な過剰さをたたえる。そうした点と表面との関係が、近年のレリーフでは、裏返しになったと見なすことはできないだろうか。白く塗られた表面は、無規定であるがゆえに、透視図法的な空間であれ飛行機の舞う大空であれ、いっさいを含みこむことができる。箱状の体裁は、白い表面の規定されないひろがりを、内側に閉じこめることで逆に、確認し保証するものにほかならない。

 もとより、ヴェクトルはことなるにせよ、地なり表面への働きかけに、浅野と伊藤の仕事が交差する点を認めることが仮に許されるとしても、それで二人の作品を同じ範疇に分類するのは、強弁というものだろう。ただそうした仮想上の接点を仮定してみた時、一つ一つの作品は、また別の表情を浮かべるかもしれない。

(石崎勝基・学芸員)

 

ギャラリー、ロビー

作家名 生没年 作品名 制作年 材料
柳原 義達 (1910-  ) 黒人の女 1956 ブロンス
辻  晉堂 (1910ー1981) ポケット地平線 1965
若林  奮 (1936ー  ) 中に犬 2 1968
若林  奮 (1936- ) ノート鮭の尾鰭 1978 銅版画・紙
向井 良吉 (1918ー  ) レクイエム 1987 白銅
鈴木 頼子 (1963- ) MEDITATE 1993 銅版画・紙
鈴木 道子 (1954- ) PLANT-C 1995 銅版画・紙
玉置 光恵 (1943- ) 風・扉 #2 1996 楮・雁皮・植物染料
ラモーン・デ・ソト (1942- ) 沈黙の建築 Ⅳ 1997
アンヘレス・マルコ (1947-  ) 高速道路(連作『通行』) 1997 鉄、脂
オシップ・ザッキン (1890ー1967) ヴィーナスの誕生 1930 ブロンズ
多田 美波 (1924- ) 1982 テラコッタ、ステンレススティール
飯田 善國 (1923-  ) Xのコンストラクション 1987 木・着色麻ロープ
江口  週 (1932-  ) ふたたび飛べるか?-柱上の鳥 1988
 

屋外彫刻

作家名 生没年 作品名 制作年 材料
ジャコモ・マンズー (1908ー1991) ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車  1973 ブロンズ
湯原 和夫 (1930- ) 無題 1982 鉄、ステンレススティール
田畑  進 (1944- ) NOKOSARETA-KATACHI 1982 ステンレススティール、黒御影石
井上 武吉 (1930-1997) my sky hole 82 1982   鉄、ステンレススティール
井上 武吉 (1930-1997) my sky hole 85-6 1985
梶   滋 (1951- ) 円柱とその周辺 1986 アルミニウム
八ツ木のぶ (1946- ) 象と人(異邦の夢) 1988 ステンレススティール、FRP、ウレタン彩色
番浦 有爾 (1935- ) 1990 ブロンズ
多田 美波 (1924- ) 作品 91 1991 ステンレススティール
松本  薫 (1952- ) Cycle-90° 1992 ステンレススティール
石原 秀雄 (1951- ) 暗室の王 1994 白御影石
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