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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 1999 > 常設展示1999年度第1期(1999.3-6)

常設展示1999年度【第1期展示】 1999年3月25日(木)~6月27日(日)

第1室:明治・大正の洋画

 明治以降、欧米に対抗できる近代国家に脱皮するために、わが国は西洋の文化や科学技術を積極的に接取していったが、美術の分野もその例外ではなかった。絵画や彫刻、美術工芸などは、芸術表現としてよりもむしろその実用性が重視され、殖産興業の一翼を担うものとして、西洋美術の表現や技法の導入、普及が盛んに行われた。

 絵画の関係では、1860年(万延元)に「イラストレーティッド・ロンドンニュース」紙の特派員として来日したチャールズ・ワーグマンが、高橋由一、五姓田義松らに油彩画を指導したのが、日本人が直接西洋人から西洋画を学んだ最も早い例といえる。

 その後、1876年(明治9)に開校した工部美術学校の教師として画家のフォンタネージ、彫刻家ラグーザ、建築家カッペレッティがイタリアから招かれたのが、これに続く。工部美術学校画学科には、浅井忠、山本芳翠、小山正太郎、五姓田義松らが入学してフォンタネージの指導を受けたが、同校は1882年(明治15)に閉校となり、1896年(明治29)に東京美術学校に西洋画科が設置されるまでの間、1880年(明治13)創立の京都府画学校西宗科を除くと、わが国における西洋画の教育は画家たちの私塾を中心に行われた。

 こうした美術学校や私塾での教育以外に、明治前期の日本人が西洋絵画を本格的に学ぶ最も直接的な方法が留学だった。当時の海外渡航は、今日からは想像もできない大きな困難を伴ったが、1870年(明治3)に国沢新九郎が土佐藩からイギリスに派遣されて西洋画を学んだのが、西洋画研究を目的とした最も早い留学の例である。

 また、1873年(明治6)、ウィーンに渡った岩橋教章の留学目的は銅版石版画法の研究であったが、かれが本格的な西洋画法も習得したことは、帰国後描かれた《鴨の静物》に明らかである。

 明治10年代以降、山本芳翠、松岡壽、五姓田義松、原田直次郎、黒田清輝、久米桂一郎らが、フランス、イタリア、ドイツなどに留学し、帰国後わが国美術界で西洋画の創作、教育に大きな役割を果たすことになる。

 その後も欧米へ留学する画家の数は次第に増加し、日本画家で留学するものも現れたが、今世紀に入ると、フォーヴィスムやキュービスムなど新しい芸術運動の拠点であったパリが留学先としての比重を次第に増していく。

 こうした日本人画家の欧米留学がピークに達したのは、第一次世界大戦終結後の1920年代のことであった。大戦前には50人にも満たなかったパリの日本人画家が、20年代には500人にも上ったと藤田嗣治は伝えているが、金銭面、健康面の問題が解決されれば、シベリア鉄道や日本郵船の欧州航路などによって、多くの画家たちがパリをめざした。

 ヨーロッパに到着すると、ある者は基本的な絵画技術の習得に励み、またある者はギリシア、ローマやルネサンスの古典作品や、最先端の西洋美術に接するなど、全身に西洋文化を摂取して、留学の成果を滞欧作として帰国後発表する者も少なくなかった。

 しかし、帰国した日本で西洋画を描くことに伴う様々な間題、西洋と日本とのギャップに直面して悩む画家も少なくなく、こうした問題を解決して日本人固有の洋画をつくり出すことが大正末から昭和初期以降の画家たちにとって大きな課題となった。

(毛利伊知郎)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
チャールズ・ワーグマン (1832-1891) 風景 不詳 油彩・キャンバス 寄託品
五姓田芳柳 (1827-1892) 婦人像 不詳 水彩・絹 寄託品
五姓田義松 (1855-1915) 狩猟図 不詳 油彩・キャンバス 寄託品
岩橋  教章 (1835-1883) 鴨の静物 1875 水彩・紙  
高橋  由一 (1828-1894) 光安守道像 不詳 油彩・キャンバス 寄託品
山本  芳翠 (1850-1906) 風景(碓氷にて) 1892 油彩・板 寄託品
浅井   忠 (1856-1907) 小丹波村 1893 油彩・キャンバス  
浅井   忠 (1856-1907) フランス郊外 c.1901 油彩・板 寄託品
黒田  清輝 (1866-1924) 山荘 不詳 油彩・板 寄託品
黒田  清輝 (1866-1924) 夏の海 不詳 油彩・板 寺岡富士氏寄贈
黒田  清輝 (1866-1924) 雪景 1919 油彩・板  
久米桂一郎 (1866-1934) 秋景下図 1895 油彩・キャンバス  
藤島  武二 (1867-1943) セーヌ河畔 1906-07 油彩・キャンバス  
藤島  武二 (1867-1943) 裸婦 c.1906 油彩・キャンバス  
長原孝太郎 (1864-1930) 自画像 1900 油彩・キャンバス  
長原孝太郎 (1864-1930) 第6回白馬会展ポスター 1901 木版・紙 長原担氏寄贈
長原孝太郎 (1864-1930) 第9回白馬会展ポスター 1904 木版・紙 長原担氏寄贈
岡田三郎助 (1869-1939) 岡部次郎像 1898 油彩・キャンバス  
鹿子木孟郎 (1874-1941) 津の停車場(春子) 1898 油彩・キャンバス 鹿子木君子氏寄贈
鹿子木孟郎 (1874-1941) 京洛落葉 1904 油彩・キャンバス  
鹿子木孟郎 (1874-1941) 狐のショールをまとえる婦人 1902 油彩・キャンバス  
満谷国四郎 (1874-1936) 裸婦 c.1900 油彩・キャンバス  
中村  不折 (1866-1943) 裸婦立像 c.1903 油彩・キャンバス  
青木   繁 (1882-1911) 芙蓉図 1905 油彩・板 寄託品
青木   繁 (1882-1911) 自画像 1905 油彩・厚紙  
小出  楢重 (1887-1931) 秋の風景 1920 油彩・キャンバス 寄託品
小出  楢重 (1887-1931) パリ・ソンムラールの宿 1922 油彩・板  
小出  楢重 (1887-1931) 裸婦 1925 油彩・キャンバス  
萬  鐵五郎 (1885-1927) 庭の花 不詳 油彩・キャンバス 寄託品
萬  鐵五郎 (1885-1927) 1915 油彩・キャンバス  
萬  鐵五郎 (1885-1927) 木の間よりの風景 c.1918 油彩・キャンバス  
村山  槐多 (1896-1919) 自画像 c.1916 油彩・キャンバス  
岸田  劉生 (1891-1929) 麦二三寸 1920 油彩・キャンバス  
中川  一政 (1893-1991) 目黒風景 1923 油彩・キャンバス  
安井曾太郎 (1888-1955) 滞欧期デッサン c.1907 鉛筆・紙  
村山  槐多 (1896-1919) 信州風景 1917 木炭・紙  
関根  正二 (1899-1919) 群像 1916 木炭・紙  
関根  正二 (1899-1919) 自画像 1918 インク・紙  
中原悌二郎 (1888-1921) 若きカフカス人 1919 ブロンズ  
石井  鶴三 (1887-1973) 中原氏像 1916 ブロンズ  
戸張  孤雁 (1882-1927) 虚無 1920 ブロンズ  
 

第2室:宇田荻邨と京都の日本画+橋本平八の彫刻

 「私の生れた家は今の朝熊町のちょうど真中のあたりにある。私はそこで生れ、その家に十六歳になるまで住んでいた。その頃は朝熊村であって、村の人々は田と畑と山の仕事をしていた」。橋本平八は1897年、現在の伊勢市の東部に位置する朝熊村に生まれた。金剛証寺のある朝熊ヶ岳への登山口として近世以来栄えた村である。冒頭の文章は平八ではなく、5年後に生まれた弟橋本健吉、後の詩人北園克衛による。1930年代、最も過激な実験的詩を発表し続けた北園が、晩年に朝熊村を回想しているのである。北園はその中で当時の朝熊村の様子、父母や家業のことに触れ、兄平八について簡潔に「兄は彫刻家で日本美術院の同人であったが三十九歳で亡くなってしまった。私に芸術を吹きこんだのはこの兄であった」と語っている。

 一旦東京に出て彫刻を学んだものの、まもなく朝熊村に戻り、木彫の制作を続けた平八と、五十年以上ほとんど帰郷することなくモダニズム詩人として東京で活動を続けた北園克衛。言葉の意味を切り捨て、あくまでも詩の形式において新しさを追求した北園克衛に対し、平八は伝統的な木彫を近代彫刻として自立させることに力を尽くした。二人の軌跡は一見するところ遠く離れていたかにみえるが、北園自身も平八の影響を受けたことを素直に認めているように、平八の日記や北園の回想から窺われるのは、兄弟の深いつながりである。北園は1919年に上京した平八に続いて上京し、関東大震災の直後には奈良で、その後再び東京でも共同生活を送り、自らも絵を描いて二科展に出品している。1926年に平八は一人朝熊に戻ったが、その後も北園が帰郷した際には、夜中まで語り明かしたりしていた。

 その北園が上京の直後に見た兄の作品が、兄が院展に初めて出品した《猫A》であったという。当時平八は佐藤朝山の内弟子となっていた。

「「猫」を制作するために、猫を解剖したのだと言って、それを埋めたところを見せたことがあった。アトリエの裏手の方に墓のようなものができていて、花がさしてあった。私はその「猫」がどうも好きになれなかった。それは当時の兄の心境が露骨に出ていてある不快な感じを起させた。それはデカダンな親方の無礼を耐えているピュウリタンの弟子の表情を思わせたからである」と当時を回想している。《猫A》のポーズは古代エジプト彫刻から取られているが、平八はただ単に外から借りた形式に頼って新しさを出そうとしたのではない。エジプト彫刻の明快な形式は魅力であったにちがいないが、一方で解剖まで行うほど平八は正確な写実的表現に固執していた。ただしそれは「本物そっくり」に表現するためではなく、猫の体を支える仕組みを研究するためであった。細部に拘泥することなく、鑿の跡を残した力強い彫りによって表現された猫の姿はわざとらしさがなく、自らの体を内からしっかりと支える緊張感に溢れている。同じ像は石膏でも制作された。平八には「木彫」という旧来の技法を近代的な表現手段として自立させたいという強い意志があった。「技巧」への依存から抜けきれない木彫の世界で、ただひとり禁欲的な姿勢で近代的「造形」とその拠って立つ所を求める兄の孤立を間近に見ていることが、北園には耐え難く思われたのかもしれない。《猫A》は平八自身が「自分の肖像」と呼んだ作品であった。

 伊勢神宮の北東に位置し、神宮鎮護の霊場とされる金剛証寺は、空海が開祖とされ、空海ゆかりの「雨宝童子像」という木彫の美しい神像も伝わっている。また斬熊山麓には中世の信仰形態を示す経塚群がある。その意味で地方の一寒村とは言い切れない朝熊村ははたして二人にどのように作用していたのか。一見この故郷と縁を切ったかに見える北園克衛でさえ、「私のすべての作品を着色している色彩は私の幼年期から少年期の眼に映った朝熊村の色であると思っている」という言葉とともに、モダニズム詩集に混じって郷土の風景を主題に2冊の全く異質な詩集を遺した。ただし「ふる里は私のものであって、神や仏のものではない」と言い切った北園に対し、近代的な「造形」と「神や仏の世界」がまさに共存しているのが平八の彫刻ではなかろうか。

(土田真紀)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
竹内 栖鳳 (1864-1942) 山村之春 c.1912 絹本著色 寺岡富士氏寄贈
堂本 印象 (1891-1975) 薫風晴■(そう) 不詳 絹本著色 寺岡富士氏寄贈
冨田 溪仙 (1879-1936) 梨郷晩春 c.1917 紙本淡彩 小西仁吉氏寄贈
入江 波光 (1887-1948) 五月の海 1935 紙本淡彩  
宇田 荻邨 (1896-1980) 祇園新橋 1919 絹本著色 川合東皐氏寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 祇園新橋(下絵) 1919 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 夜の一力(下絵) 1919 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 木陰 1922 絹本著色  
宇田 荻邨 (1896-1980) 木陰(下絵) 1922 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 花畑(下絵) 1923 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 淀の水車(下絵) 1926 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 吉野山(下絵) 1929 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 春の池 1931 絹本著色  
宇田 荻邨 (1896-1980) 春の池(下絵) 1931 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 田植(下絵) 1937 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
宇田 荻邨 (1896-1980) 寒汀宿雁 1939 絹本著色  
宇田 荻邨 (1896-1980) 寒汀宿雁(下絵) 1939 淡彩・紙 (財)岡田文化財団寄贈
伊藤 小坡 (1877-1968) ふたば 1918 絹本著色  
橋本 平八 (1897-1935) 猫A 1922  
橋本 平八 (1897-1935) 猫A 1922 ブロンズ 1991年鋳造
橋本 平八 (1897-1935) 馬鳴尊者 1925  
橋本 平八 (1897-1935) 成女身  1926 寄託品
橋本 平八 (1897-1935) 弁財天 1927  
橋本 平八 (1897-1935) 石に就て 1928 寄託品
橋本 平八 (1897-1935) 老子 1932  
橋本 平八 (1897-1935) 弱法師 1934  
橋本 平八 (1897-1935) 俳聖一茶 1935  
 

第3室:闇、光、そして色19-20世紀西洋の美術より

 ルドンの『アレゴリー』-画面が放つ雰囲気は、明るく軽快なものとはいいがたく、むしろ、何か押しせまったかのような、翳りを宿している。そんな中、右手の木は甲高い朱に輝いているが、しかしそれは、画面の他の部分と調和の内に溶けいるとはいえないにしても、齟齬をきたすというにもいたらず、全体の温度を上昇させ、もって、決して騒々しくはない息苦しさを強めることになる。

 翳りの印象は、単一の色調に回収される暗さによってもたらされたものではない。肌の黄土、衣の紫、空の青、葉の緑など、それぞれ独立した色が、低めの明度に調節されることで生じたのだ。他方個々の色の性格は、木の朱を除けばやや濁っているとはいえ、基本的には弱められず、それらの並存と対比が、温度の高さと不安感を醸しだしたのだろう。

 インクの黒を、さまざまな表情にみちた闇に転じる版画から出発したルドンは、やがて、闇があらかじめ懐に匿していた色の重なりを開花させるかのようにして、油彩やパステルを制作するようになる。それはあたかも、中・近世の西洋における錬金術の〈大いなる作業〉-黒/白/赤の過程をなぞるかのようだった。その際黒は死、白は再生、赤は結晶に応じるという。ただルドンの色が、その土壌となった黒ないし闇と無縁でないのは、『アレゴリー』の放つ雰囲気にみるとおりだ。あるいは、『アレゴリー』とは対照的に明るく薄い黄、白、青でまとめられた『ベアトリーチェ』でも、その明るさ・希薄さは、遠さの印象、不在感をもたらしている。

 ところでルドンが歩んだ過程は、またある意味で、西欧近代の絵画が蒙った変容をなぞるものでもあった。概してルネサンス以来の西欧絵画は、理念の表現を最終審級にするという条件の範囲内でではあれ、地上の現実感の再現をめざし、その際、単一の色調の推移によって対象の立体感を表わす明暗法を採用した。そのため画面の基調は、褐色やグレーといった、モノトーンに還元される傾向が強くなる。もとよりそこで色が用いられないわけではなく、たとえばムリーリョの『アレクサンドリアの聖カタリナ』でも、黄褐色、白、肌色はそれぞれはっきり区別できる。しかしこれらの色は、背景のグレーとの明るさの関係、ひいては空間の前後関係にのっとって配置されてもいるのだ。

 色を明暗の函数と見なす空間把握はしかし、市民社会の到来がもたらしたそれまでの世界観の解体にともなって、失効せざるをえなかった。絵の世界では、とりわけ十九世紀後半の印象主義以降しばしば、単一の色調による明暗に還元されることのない、複数の色の対比による画面構成が用いられるようになる。地面に立つ人間の視点を軸にしたルネサンス以来の空間の崩壊が、画面の上下を天地と見なし、奥行きをうがつという前提を無効にしたことも、この点に関わってくる。

 とはいえ、キュビスムやポーリング期のポロックのような二十世紀における明暗法の活用はおくとしても、画面内の色が単なるなまの絵具で終わらないことを望むかぎり、色と光との関係は、より微妙なかたちをとらずにいないはずだ。色は明暗に解消されるのではなく、色の輝きという言いかたがすでにしめすように、色自体が光をはらもうとする。ブラックの『葉・色彩・光』において、白、くすんだ緑、明褐色、黒の関係は、それぞれに対する落差によって画面に内在する光の感覚を生みだし、しかも各色は、互いのいずれかに還元されてはいない。ザイラーの『無題』のシリーズでは、中央の小さな形の色が、画面の大半を占める紙の白に微妙に反映し、また各形の向きは、そこにかすかなゆらぎを生じさせてはいないだろうか。これらの事態は一方で、色の明暗からの開放でありつつ、同時に、ルドンの『アレゴリー』や『ベアトリーチェ』が暗示するように、寄る辺を失なった色の流謫でもあるのかもしれない。

(石崎勝基)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
バルトロメー・エウテバン・ムリーリョ (1617-1682) アレクサンドリアの聖カタリナ c.1645-50 油彩・キャンバス  
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828) 戦争の惨禍 c.1810-20 銅版・紙  
オノレ・ドーミエ (1808-1879) 古代史 1841-43 リトグラフ・紙  
シャルル・メリヨン (1821-1868) プチ・ポン 1850 銅版・紙  
シャルル・メリヨン (1821-1868) ノートル=ダム橋のアーチ 1853 銅版・紙  
エドヴァルト・ムンク (1863-1944) マイアー・グレーフェ・ポートフェリオ 1895 銅版・紙  
オディロン・ルドン (1840-1916) ベアトリーチェ 1897 リトグラフ・紙  
オディロン・ルドン (1840-1916) ヨハネ黙示録 1899 リトグラフ・紙  
オディロン・ルドン (1840-1916) アレゴリー 1905 油彩・キャンヴァス  
エミール・ノルデ (1867-1956) ハンブルク港 1910 銅版・紙  
ワシリー・カンディンスキー (1866-1944) 小さな世界 1922 木版・リトグラフ・紙  
サルバドール・ダリ (1904-1989) パッラーディオのタリア柱廊 1937-38 油彩・キャンヴァス  
ジョルジュ・ルオー (1871-1958) 受難 1939 銅版・紙  
ジョルジュ・ブラック (1882-1963) 葉・色彩・光 1953 リトグラフ・紙  
ジェラール・ティテュス=カルメル (1942-   ) 四季・秋より Ⅳ 1989 アクリル・紙  
ジェラール・ティテュス=カルメル (1942-   ) 四季・秋より Ⅴ 1989 アクリル・紙  
ホセ・ルイス・アレクサンコ (1942-   ) ソルダイヴァー 1990 油彩ほか・キャンヴァス  
ディート・ザイラー (1939-   ) 無題 1991 コラージュ・紙 内藤二朗氏寄贈
 

ギャラリー、ロビー

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
湯原  和夫 (1930-   ) 無題81-4 1981 鉛筆・オイルパステル、アルミ箔、経木、紙  
浅野  弥衛 (1914-1996) 作品 1981 鉛筆・紙 作者寄贈
浅野  弥衛 (1914-1996) 作品 1981 鉛筆・紙 作者寄贈
菅井 汲 (1919-1996) 無題(6点) 1958-60 リトグラフ・紙  
村井  正誠 (1905-1999) 1973 コンテ・紙 作者寄贈
村井  正誠 (1905-1999) 作品 1974 水彩、コンテ・紙 作者寄贈
若林 奮 (1936-   ) ノート鮭の尾鰭 1978 エッチング、ドライポイント・紙  
佐藤  忠良 (1912-   ) 賢島の娘 1973 ブロンズ  
柳原  義達 (1910-   ) 黒人の女 1956 ブロンズ  
柳原  義達 (1910-   ) 赤毛の女 1956 ブロンズ  
イサム・ノグチ (1904-1988) スレート 1945 ブロンズ  
辻 晉堂 (1910-1981) ポケット地平線 1965  
清水九兵衞 (1922-   ) 作品A 1968 真鍮  
湯原  和夫 (1930-   ) 開かれた形 1975 真鍮、塗装  
江口   週 (1932-   ) 漂流と原形 1981  
オシップ・ザッキン (1890-1967) ヴィーナスの誕生 1930 ブロンズ 岡三証券寄贈
飯田  義國 (1923-   ) Xのコンストラクション 1987 木、着色麻ロープ  
多田  美波 (1924-   ) 1982 テラコッタ、ステンレススティール  
江口   週 (1932-   ) ふたたび翔べるか?柱上の鳥 1988  
 

屋外の彫刻

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
ジャコモ・マンズー (1908-1991) ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 1973 ブロンズ 百五銀行寄贈
番浦  有爾 (1935-   ) 1990 ブロンズ  
多田  美波 (1924-   ) 作品91 1991 ステンレススティール  
松本   薫 (1952-   ) Cycle-90° 1992 ステンレススティール  
湯原  和夫 (1930-   ) 無題 1982 鉄・ステンレススティール 井村屋製菓寄贈
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 82 1982 鉄・ステンレススティール  
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 85-6 1985  
田畑   進 (1944-   ) NOKOSARETA-KATACHI 1982 ステンレススティール・黒御影石  
八ツ木 のぶ (1946-   ) 象と人(異邦の夢) 1988 ステンレススティール・ウレタン塗装  
梶  滋 (1951-   ) 円柱とその周辺 1986 アルミニウム  
石原  秀雄 (1951-   ) 暗室の王 1994 白御影石  

(会期中、一部展示替えを行う場合があります)

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